週報No.2199 涙の預言エレミヤ書(106)「悲しいかなモアブ」エレミヤ書48:1~10

2019年9月15日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

エレミヤ書48:1~10
48:1 モアブについて。イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。「ああ、悲しいかな、ネボ。これは荒らされた。キルヤタイムもはずかしめられ、攻め取られた。そのとりでは、はずかしめられて打ちのめされた。
48:2 もはやモアブの栄誉はない。ヘシュボンでは、これに悪事をたくらんでいる。『行って、あの国民を断ち滅ぼして無き者にしよう。』マデメンよ。おまえも黙る。剣がおまえのあとを追っている。」
48:3 聞け。ホロナイムからの悲鳴。「破壊だ。大破滅だ」と。
48:4 モアブは打ち破られた。その叫びはツォアルまで聞こえた。
48:5 ルヒテの坂を泣きながら嘆きが上る。敵はホロナイムの下り坂では、いたいたしい破滅の叫びを聞いた。
48:6 逃げて、おまえたちのいのちを救え。荒野の中の野ろばのようになれ。
48:7 おまえは自分の作った物や財宝に拠り頼んだので、おまえまで捕らえられ、ケモシュはその祭司や首長たちとともに、捕囚となって出て行く。
48:8 荒らす者がすべての町に入って来る。一つの町ものがれることができない。谷は滅びうせ、平地は根絶やしにされる。【主】が仰せられるからだ。
48:9 モアブに翼を与えて、飛び去らせよ。その町々は住む者もなくて荒れ果てる。
48:10 【主】のみわざをおろそかにする者は、のろわれよ。その剣をとどめて血を流さないようにする者は、のろわれよ。【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

 「霊のいのちを救う」ことができるのは、神以外にありません。バビロンの征服者がモアブを襲うと、モアブ全土には住む者もなく、荒れ果てる。このようなひどい荒廃の理由は、なぜか。

 その答えは、7節で指摘されています。「おまえは自分の作った物や財宝に拠り頼んだので、おまえまで捕えられ、ケモシュはその祭司や首長たちとともに、捕囚となって出て行く。」

 生けるまことの神、主に信頼せず、自分の手で作った偶像や富に拠り頼んだからです。

 モアブの民は、巧みな企てや同盟関係を結ぶことによって、繁栄に成功し、その財宝を誇り、それらに拠り頼み、安心していたことが滅びの原因です。今日の繁栄も、滅びのしるしです。このような自分の知恵と力で築いた富と繁栄に拠り頼み、誇ることによって、モアブは滅んだのです。モアブの高慢は、彼らの偶像礼拝に基づくものであり、モアブの祭司もともに捕囚になっています。ケモシュは、モアブの守護神とされていましたが、何の役にも立たずその祭司や首長たちも捕らわれの身となるのです。

 それとは対照的に、エレミヤは人々に、生ける神、主に信頼して、従うようにと、勧めているのです。

 8~9節は、バビロン軍の侵略と征服の全体を要約しています。モアブの首都も、大多数の町のある広大な高原も、全て破滅させられるのです。

 「主のみわざをおろそかにする者は、のろわれよ。その剣をとどめて血を流さないようにする者は、のろわれよ。」(エレミヤ書48:10)神のさばきの執行者たちへの、主の命じられた任務を滞らせないようにという任務の執行命令です。

 主の働き人も自分の考えで、神のさばきを割り引いて話したり、遅らせて話したりしてはなりません。もし、神が全面破壊を命じておられるのに、審判の執行者が少しでもあわれみや同情を示して、手控えるなら、その審判者ものろわれた者となるのです。

 さて今回は、何故私の罪のために、イエス・キリストの十字架が必要なのか。どうして他のものではだめなのか。何故、キリストの十字架に私の善行やどんな良いものも付け加えてはいけないのか。

 「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。」(ペテロ第一、2:24)

 私の罪を完全に赦し、きよめるために、完全な、罪も汚れもないいけにえとなるものは、キリスト以外に他にありません。

「また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返しささげますが、それは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげげて後、神の右の座に着き、それから、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」(へブル10:11~14)

 この天地宇宙で、きよく汚れなく、完全なものは、神ご自身以外にありません。その神であられる三位一体の第二位のお方、イエス・キリストが受肉降誕され、私たちと同じ人となってくださり、十字架にかかって、私の罪のために完全な身代わりのいけにえとなってくださったのです。「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血によったのです。」(ペテロ第一、1:19)それ故、私の罪の代価のいけにえは、イエス・キリストの十字架しかありません。

 次に、このことが分かっても、次のように言う人がいます。

「イエス・キリストの完全ないけにえに、更に私の良い行ない、善行を加えれば、更に良いのではないでしょうか。」この考えは、神から出た真理ではなく、人の知恵から出た悪賢さです。

 救いのいけにえに、自分の善行を加えれば、主の十字架に全く信頼している状態になりません。実際に、自分の熱心さ、正しさ、才能のよさなどを使って教会の奉仕をしている人がいます。それらの人々に、自分を誇る思いや、自慢がないと言えるでしようか。

 私たちは、少しでも自分に良いところがあるので救われたのではなく、全くイエス・キリストの十字架によってのみ、救われたのです。この真理から、右にも左にも曲かってはいけません。

<今週の活用聖句>

ペテロの手紙第一、2章24節
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。」

<集会案内>
         
◇「志道会」 毎聖日礼拝後30分くらい
  当分の間、牧師が当たります。目的は、本教会に出席して、救い、聖潔(きよめ)の信仰の確信を持ちたい人の徳を助けるためです。信仰の基本、活用の仕方を一緒に学びます。参加は自由ですが、本教会で信仰を確立されたい方は、ぜひご参加下さい。皆さんが、他の人を導くことのできる個人伝道者になることを目指しましょう。

◇9月18日(水)聖別会 午前10時半
 「近代の救済論の検証(2)」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421