週報No.2202 涙の預言エレミヤ書(109)「アモンへの宣告」エレミヤ書49:1~6 +信仰について

2019年10月6日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

エレミヤ書48:36~47
49:1 アモン人について。【主】はこう仰せられる。「イスラエルには子がないのか。世継ぎがないのか。なぜ、彼らの王がガドを所有し、その民が町々に住んだのか。
49:2 それゆえ、見よ、その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、アモン人のラバに戦いの雄たけびを聞かせる。そこは荒れ果てた廃墟となり、その娘たちは火で焼かれる。イスラエルがその跡を継ぐ」と【主】は仰せられる。
49:3 「ヘシュボンよ。泣きわめけ。アイが荒らされたから。ラバの娘たちよ。叫べ。荒布をまとえ。嘆いて囲い場の中を走り回れ。彼らの王が、その祭司や首長たちとともに、捕囚として連れて行かれるからだ。
49:4 裏切り娘よ。あなたの谷には水が流れているからといって、なぜ、その多くの谷を誇るのか。あなたは自分の財宝に拠り頼んで、言う。『だれが、私のところに来よう。』
49:5 見よ。わたしは四方からあなたに恐怖をもたらす。──万軍の神、主の御告げ──あなたがたはみな、散らされて、逃げる者を集める者もいない。
49:6 そうして後、わたしはアモン人の繁栄を元どおりにする。──【主】の御告げ──」【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

 「裏切り娘よ。あなたの谷には水が流れているからと言って、なぜ、その多くの谷を誇るのか。あなたは自分の財宝に拠り頼んで、言う。『だれが、私のところに来よう。』」(エレミヤ書49:4)

 ヨルダンの東のアモンの地域には、川もあって、水が豊かであって、特に、ヨルダン川の流域では果実と穀物を多く産出していました。それがアモンを豊かにしていたのです。それが彼らの誇りでした。アモンは、モアブに劣らず、産物に恵まれた国で、高慢になっていたのです。人の心は、目に見えない神よりも、富の豊かさに頼りやすい。誇りやすい。

 「見よ。わたしは四方からあなたに恐怖をもたらす。-万軍の神、主の御告げ-あなたがたはみな、散らされて、逃げる者を集める者もいない。」(エレミヤ書49:5)

 エレミヤの預言は、アモンに対する神のさばきは、アモン人が捕虜にされ、残りの民は離散させられ、集めて難民キャンプのように保護する者もいない、と言っています。

 アモン人は、イスラエルの民が神の懲らしめを受け、苦しんでいた時、そら見たことかと嘲笑っていました。隙を見つけては、略奪を繰り返し」自分を肥やしていました。

 私たちは、敵対者が神のさばきを受けていたり、苦しみに会っている時、「そら見たことか。」と冷淡に、嘲笑っていてはいけません。

今、小国が大国に向かって、ミサイルで威嚇行動をデモストレーションしていますが、これを続けていると、神のさばきを受けることになります。

 敵対者に対して、どういう態度を取るべきでしょうか。
 「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」、(ローマ12:20~21)

 どんな人に対しても、冷淡な心を持って接しないで、愛を持って接することは、私の決意ではできません。ただ主イエス・キリストの御霊が、私の内にいて下さる時にだけ、この奇蹟の働きができるのです。(コリント第一、13:1~8)

 しかしエレミヤは、5節と矛盾するかのように、6節で主のあわれみを示し、アモン人の未来における回復を預言しています。

 …アモン人は、捕囚から回復して後も、依然として、ユダヤ人に敵対し続けました。神のあわれみを受けたにも関わらず、それに応えなかったのです(ネヘミヤ記2:9~20、4:1~3)。私たちは、人を通して与えられる神のあわれみを仇で返してはなりません。そうでないと、神のあわれみが取り去られてしまいます(マタイ5:7)。

 今日は最後に、信仰についてお話します。

「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)

 信仰は、イエス・キリストのみことばを心に受け入れる時、信仰を賜物として与えて下さいます。それ故、信仰はみことばと聖霊の賜物です。この最初の時点で、人の知恵と知識に基づいていれば、キリストの信仰でないものを握ってしまいます。

 ただ、聖書のことばを聞くだけでなく自分のたましいに語りかけられるキリストのみことばとして受け止める時、信仰が与えられます。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(へブル12:2)

イエス・キリストが私の内にいてくださるようになる時、信仰を与えて下さいますから、イエス様ご自身が信仰の創始者です。

 そして、イエス様の御霊が私のたましいに満ちて下さる時、私の信仰は完成します。信仰は知識でも、感覚でも、儀式でもありません。主イエス様のご人格との交わりですから、「完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と言っているのです。ですから、いつどんな時でも、主イエス・キリストの血潮を仰いで、目を離さないで下さい(イザヤ書45:22)。

「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。」(ローマ10:11~13)

 私はこれらのみことばを読んだ時、すごい神様だなあーと仰天してしまいました。この朝、改めて、あなたの救い主イエス・キリストのみことばを聞いて下さい。主イエスの御顔を仰いで下さい。そして、主イエスから目を離さないで下さい。これが信仰です。

<今週の活用聖句>

ヘブル人への手紙12章2節
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

<集会案内>
         
◇「志道会」 毎聖目礼拝復後30分くらい

◇10月9日(水)聖別会 午前10時半
    「近代の救済論の検証(5)」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421