週報No.2203 涙の預言エレミヤ書(110)「エドムの預言」エレミヤ書49:7~22 +主から恵みを受ける信仰の手

2019年10月13日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

エレミヤ書49:7~22
49:7 エドムについて。万軍の【主】はこう仰せられた。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消えうせ、彼らの知恵は朽ちたのか。
49:8 デダンの住民よ。逃げよ、のがれよ。深く潜め。わたしがエサウの災難をもたらすからだ。彼を罰する時だ。
49:9 ぶどうを収穫する者たちが、あなたのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さない。盗人は、夜中に来るなら、彼らの気のすむまで荒らす。
49:10 わたしがエサウを裸にし、その隠し所をあらわにし、身を隠すこともできないようにするからだ。彼の子孫も兄弟も隣人も踏みにじられてひとりもいなくなる。
49:11 あなたのみなしごたちを見捨てよ。わたしが彼らを生きながらえさせる。あなたのやもめたちは、わたしに拠り頼まなければならない。」
49:12 まことに【主】はこう仰せられる。「見よ。あの杯を飲むように定められていない者も、それを飲まなければならない。あなただけが罰を免れることができようか。罰を受けずには済まない。いや、あなたは必ずそれを飲まなければならない。
49:13 わたしは自分にかけて誓ったからだ。──【主】の御告げ──必ずボツラは恐怖、そしりとなり、廃墟、ののしりとなる。そのすべての町々は、永遠の廃墟となる。」
49:14 私は【主】から知らせを聞いた。「使者が国々の間に送られた。『集まって、エドムに攻め入れ。戦いに立ち上がれ。』
49:15 見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、人にさげすまれる者とするからだ。
49:16 岩の住みかに住む者、丘の頂を占める者よ。あなたの脅かしが、あなた自身を欺いた。あなたの心は高慢だ。あなたが鷲のように巣を高くしても、わたしは、そこから引き降ろす。──【主】の御告げ──」
49:17 エドムは恐怖となり、そこを通り過ぎる者はみな、色を失い、そのすべての打ち傷を見てあざける。
49:18 ソドムとゴモラとその近隣の破滅のように、──【主】は仰せられる──そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。
49:19 「見よ。獅子がヨルダンの密林から水の絶えず流れる牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう。わたしは、選ばれた人をそこに置く。なぜなら、だれかわたしのような者があろうか。だれかわたしを呼びつける者があろうか。だれかわたしの前に立つことのできる牧者があろうか。」
49:20 それゆえ、エドムに対してめぐらされた【主】のはかりごとと、テマンの住民に対して立てられたご計画を聞け。必ず、群れの小さい者まで引きずって行かれ、必ず、彼らの牧場はそのことでおびえる。
49:21 彼らの倒れる音で地は震え、その叫び声が葦の海でも聞こえた。
49:22 見よ。彼は鷲のように舞い上がっては襲い、ボツラの上に翼を広げる。その日、エドムの勇士の心も、産みの苦しみをする女の心のようになる。
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

モアブに対する預言とエドムに対する預言の違うところは、エドムに対しては将来の回復と再興の希望のメッセージが語られていないことです。

それはエドム人がエサウの時代から、エドムの滅亡まで、終始、自分の兄弟に当たるユダの民と領地を侵害し続けたからです。

エドム人は、イサクの双子の兄弟エサウとヤコブのうち、兄のエサウの子孫です。エサウが、神の信仰を受け継ぐ家督の権(長子の権)を軽んじて、弟のヤコブに味豆スープと交換して、売ってしまったのです。エサウは後から後悔して、泣きわめいて、父イサクに訴えるのですが、神の霊的恵みを軽んじた、契約の譲渡はもとに戻されることはありませんでした。エサウとその子孫たちの神の信仰を求めることを軽んじる性質は変わることはありませんでした。

「というのは、肉の患いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8:7)

エサウとその子孫は、その民族が滅亡するまで、神の信仰を軽んじて、神の民ヤコブの子孫のイスラエルに敵対し、攻撃し続けたのです。

どんな理由があっても、主にある兄弟を欺いたり、ののしったり、侵害したり、傷付けたりしてはいけません。必ず神のさばきが下り、回復の道が閉ざされてしまいます。なんの審判もなく、済むことは絶対にありません。悪口、雑言、批判、侮辱、嘲笑などは、必ず、神のさばきを受けます。

このエドム人のユダの地への侵略は、残っていたユダの民を激怒させました。この侵略が今回のエドムへの刑罰の預言の引き金となったのです。

このエドム滅亡の預言は、三つの段階に分けることができます。

1、7-13節、エドムの国の滅亡の前兆、

2、14~18節、エドムの滅びる原因 この第二区分は、オバデヤ書1~4とほぼ同じです。それはエドムの高慢と神の民ユダに対する激しい敵意です。

3、19~22節、エドム人の攻撃の結果、

これらの三つの区分は、エドムに対する神のさばきの前兆と原因と結果を語っています。・・・

今日は、最後に、信仰についてお話します。

前回、信仰は聖霊の与えて下さる賜物であることをお話ししました。こうして与えられた信仰は、神の救いと、きよめと、全ての恵みを、主なる神から受け取る手です。

そこで、どんな事で受け取ることができるかを、お話しします。

ルカ18:11~14「…ところが取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

教会で熱心に教師や司会者や賛美の指導や奉仕に携わっている人の中に、他人と比べて自分の方が熱心で上手で正しいと自負している人がいるでしょうか。このような人の手は、信仰と認められたでしょうか。主から恵みを受ける信仰の手は、自分を低くする者でなければなりません(ヤコブ4:6)。

マルコ9:22~24、初めの父親の信仰は、控えめで、遠慮がちで、よさそうに見えますが、主イエスは「できるものなら、と言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです。」とお叱りになりました。この父親の状態では、主のみわざを成し遂げていただくレベルの信仰に届いていなかったのです。一応、信仰に見えてはいますが、しっかり握り締めることが出来ず、直ぐに落としてしまう状態です。この状態では、主はみわざを行なってくださいません。まだ信仰になりきっていません。「そうなればいいなあ」という期待は、まだ信仰ではありません。

マタイ8:8~10、「しかし、百人隊長は答えて言った。『主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。』イエスはこれを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』」

主イエスは、主のみことばの権威を握ることを、信仰と認められたのです。

<今週の活用聖句>

ヤコブの手紙4章6節
「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』」

<集会案内>

◇「志道会」 毎聖日礼拝後30分くらい

◇10月16日(水)聖別会 午前10時半
キリストの救いの計画(1)キリストはだれのために死なれたのか

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421