聖書の探求(055) 出エジプト記18章 モーセのしゅうとイテロの来訪と進言
この章はモーセのしゅうとイテロの来訪と、その時の進言が記されています。この時のイテロの進言は、その後のモーセの働きを大きく発展させました。また、モーセは神に立てられた指導者でありましたが、他人の忠告を聞き入れるだけのやわらかい心を持っていたことに深く教えられます。
Ⅰ.1~12節、イテロの来訪
出 18:1 さて、モーセのしゅうと、ミデヤンの祭司イテロは、神がモーセと御民イスラエルのためになさったすべてのこと、すなわち、どのようにして【主】がイスラエルをエジプトから連れ出されたかを聞いた。
18:2 それでモーセのしゅうとイテロは、先に送り返されていたモーセの妻チッポラと
18:3 そのふたりの息子を連れて行った。そのひとりの名はゲルショムであった。それは「私は外国にいる寄留者だ」という意味である。
18:4 もうひとりの名はエリエゼル。それは「私の父の神は私の助けであり、パロの剣から私を救われた」という意味である。
18:5 モーセのしゅうとイテロは、モーセの息子と妻といっしょに、荒野のモーセのところに行った。彼はそこの神の山に宿営していた。
18:6 イテロはモーセに伝えた。「あなたのしゅうとである私イテロは、あなたの妻とそのふたりの息子といっしょに、あなたのところに来ています。」
モーセはイスラエルの民をエジプトから引き出すという大事業のために妻子をイテロのもとに帰していたようです。しかしイテロは、モーセを通してなされた神のみわざを聞いて、モーセの妻チッポラと二人の息子を連れてやってきました。モーセにとって、この妻子との再会はどんなに望んでいたことでしょうか。これは神の人にとって、払わなければならない代価の一つです。
しゅうとイテロはミデヤンの祭司でした。彼はアブラハムの子孫で(創世記25:1~4)、主を知っていましたが、他の偶像も拝んでいたようです。
創 25:1 アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。
25:2 彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。
25:3 ヨクシャンはシェバとデダンを生んだ。デダンの子孫はアシュル人とレトシム人とレウミム人であった。
25:4 ミデヤンの子は、エファ、エフェル、エノク、アビダ、エルダアであって、これらはみな、ケトラの子孫であった。
しかし彼は主のみわざを聞いた時、老令にも拘らず神の山ホレプまで出向いて、モーセの妻子を届けました。それは、彼が、神の祝福を受けているモーセのもとにモーセの家族を帰すのが最も良いと考えたからでしょう。しかしイテロがこのように行動した背後には、モーセのあかしがあります。モーセの如く、神に忠実であり続けることは大きなあかしです。クリスチャンは先ず、みことばに忠実に立った生活をすべきです。そのあかしは遠くの人の耳にまで届きます。
出 18:7 モーセは、しゅうとを迎えに出て行き、身をかがめ、彼に口づけした。彼らは互いに安否を問い、天幕に入った。
7節、モーセはイテロの前に身をかがめています。これはイテロへの深い感謝の現われであるとともに、彼のへりくだりでもあります。今や、モーセは偉大な神の人であり、イスラエルの指導者でしたが、彼は礼を尽くしたのです。
出 18:8 モーセはしゅうとに、【主】がイスラエルのために、パロとエジプトとになさったすべてのこと、途中で彼らに降りかかったすべての困難、また【主】が彼らを救い出された次第を語った。
8節は、モーセのあかしです。彼は確かに妻や息子たちとの再会を喜んだでしょう。しかし聖書はそのことについて何も記していません。むしろ彼は、主がイスラエルのためにパロとエジプト人とになさったこと、紅海渡渉(としょう)、パロの軍隊の全滅、また途中で彼らに降りかかってきたすべての困難から主が救い出してくださったことを話しています。人間的ななつかしい語らいも幸いですが、神をあかしすることはもっと幸いです。そしてそれは他の人々に大きな影響と感化を与えることを忘れてはいけません。
出 18:9 イテロは、【主】がイスラエルのためにしてくださったすべての良いこと、エジプトの手から救い出してくださったことを喜んだ。
18:10 イテロは言った。「【主】はほむべきかな。主はあなたがたをエジプトの手と、パロの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。
18:11 今こそ私は【主】があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。実に彼らがこの民に対して不遜であったということにおいても。」
イテロはこの話を聞いた時、非常に感激し、喜び、主を賛美し、「今こそ私は主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。」(11節)と告白し、全焼のいけにえと神へのいけにえをささげています。
出 18:12 モーセのしゅうとイテロは、全焼のいけにえと神へのいけにえを持って来たので、アロンは、モーセのしゅうととともに神の前で食事をするために、イスラエルのすべての長老たちといっしょにやって来た。
ここでイテロがいけにえを持って来たのは彼がミデヤンの祭司であったからだと思われます。この当時、祭司というのは族長を意味していました。まだアロン系の祭司制度が確立していない時ですから、イテロは族長としての役目から、いけにえを用意したものと思われます。しかし、エジプトを脱出したばかりのイスラエル人にとって、この時のいけにえは大きな励ましになったに違いありません。それは、このいけにえの食事に、アロンとイスラエルのすべての長老たちも一緒に加わっているのを見てもわかります。
この時のイテロの突然の来訪は、荒野を旅するモーセとその民にとって、どんなに大きな励ましになったでしょうか。このことを私たちはモーセの側と、イテロの側の両方から考える必要があります。私たちがモーセの如く、神の御前をまっすぐに歩み続けているなら、神はこのような励ましを時に応じて与えてくださいます。また私たちは、ひたすら荒野の道を信仰によってたどっている同信の友に対して、神の恵みをもって大いなる慰めと励ましを与えるべきではないでしょうか。
Ⅱ.13~27節、イテロの進言
出 18:13 翌日、モーセは民をさばくためにさばきの座に着いた。民は朝から夕方まで、モーセのところに立っていた。
18:14 モーセのしゅうとは、モーセが民のためにしているすべてのことを見て、こう言った。「あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜあなたひとりだけがさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたのところに立っているのですか。」
18:15 モーセはしゅうとに答えた。「民は、神のみこころを求めて、私のところに来るのです。
18:16 彼らに何か事件があると、私のところに来ます。私は双方の間をさばいて、神のおきてとおしえを知らせるのです。」
18:17 するとモーセのしゅうとは言った。「あなたのしていることは良くありません。
18:18 あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。
18:19 さあ、私の言うことを聞いてください。私はあなたに助言をしましょう。どうか神があなたとともにおられるように。あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。
18:20 あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。
13,14節、モーセは神が立てられた立法者であり、また民のさばき手でもありました。イテロは翌日、一日中モーセのしている仕事を見ていました。そして彼はモーセに重大な進言をしたのです。その要点は次のようなものです。
1、これを続けていると、やがてモーセ自身が過労のために疲れ果ててしまうこと。
申命記34章7節に、「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」とあるのは、彼がイテロの助言に従ったからであると思われます。
2、モーセばかりでなく、長い間待たされている民も疲れてイライラし、不満を抱くようになること。
3、モーセ一人では重すぎて、することができないこと。いかにすぐれた人にも能力の限界があることを鋭く見抜いています。
4、モーセは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行くこと。これは、モーセが神の代理人であることを民の前にはっきりさせることです。
5、モーセを助けるべき民の長たちを任命すること。その資格も詳しく21節に記しています。
出 18:21 あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。
その資格は、
イ、人の顔を恐れず、神を恐れる者であること。
ロ、霊的に、信仰的に、人格的に力のあるすぐれた者であること。
ハ、不正の利を憎み、賄賂を受け取らない誠実な人であること。
このような条件は、指導者となる人には不可欠な条件です。(使徒6章3~15節で執事として選ばれた人々の資格と比べてみてください。)
使 6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
6:4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
6:5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
6:6 この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
二、モーセが大きい事件を扱い、民の長たちが小さい事件を扱うこと。そして民の長たちに階級制度を設けて、その秩序を保たせようとしています。これは各々の長の能力に応じたものと思われます。
出 18:22 いつもは彼らが民をさばくのです。大きい事件はすべてあなたのところに持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません。あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。
18:23 もしあなたがこのことを行えば、──神があなたに命じられるのですが──あなたはもちこたえることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができましょう。」
イテロは鋭い判断力をもって、非常に重要な助言をしました。多くの霊的指導者が雑事に追われて、その霊的力が枯渇しているのを見る時、イテロの助言がいかに重要なものであるかを悟らされます。
イテロの助言は、ただモーセの負担を軽くし、民の不満を取り除くためばかりでなく、民の中から指導者となる者の養成と訓練に非常に役立ったものと思われます。また神のみこころを推進するのにも有効です。モーセの仕事は、民に神のみこころを教えることであり、神のおきてとおしえを知らせることによって、民の間の問題を解決することでした。この仕事の本質は今日の牧師、伝道者、教師のする仕事と同じです。
それ故、イテロの助言は今日の私たちの教会にも大いに役立つはずです。先の資格のある信徒を訓練して神の働きに用いられるなら、大いなる効果を見ることができるでしょう。十八世紀の英国の神の指導者ジョン・ウェスレーは信徒を訓練して信徒説教者を育て、英国中に大リバイバルを実現したのです。もしこの日本でも、信徒が十分に訓練されて働き始めたら、やはり同じことが起きるでしょう。信徒がいつも恵みを受ける側に立っているなら、神の栄光を現わすことも、教会の成長もあり得ないのです。クリスチャンはみな、受ける側から与える側に移らなければなりません(使徒20:35)。
使 20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
出 18:24 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて言われたとおりにした。
18:25 モーセは、イスラエル全体の中から力のある人々を選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民のかしらに任じた。
18:26 いつもは彼らが民をさばき、むずかしい事件はモーセのところに持って来たが、小さい事件は、みな彼ら自身でさばいた。
18:27 それから、モーセはしゅうとを見送った。彼は自分の国へ帰って行った。
24節、モーセは当時、約二百万人の民の指導者でしたが、彼はすぐに賢明なイテロの忠告を受け入れて実行しました。彼は決して心の頑な人ではなく、柔軟な人でした。モーセは仕事の内容は変えませんでしたが、その方法、手段においては、事情によって良い方法が見つかればそれを採用していくだけの柔軟性を持っていました。指導者の中には仕事の内容が不明確なために失敗する人もいますが、事情に応じて方法や手段を変更することにおいて柔軟性を欠いているために失敗する人もいます。モーセは良い時期に、良い助言を得たものです。
教会員がふえればふえるほど、問題がふえるのは当然です。それ故、指導者は上からの知恵をいただき、賢明な方法を採らなければなりません。問題は方法や手段にあるのではなく、その方法や手段を使って働く人間の側にあることも、常に覚えておかなければなりません。
このイテロの助言は、モーセに対しては力を与え、民にも平安を与え、今日の私たちに対しても良い模範を与えています。
モーセにとって、これまで一人で背負ってきた荷物を他の人々に分かつということは大改革であったに違いありません。しかしこのことがスムーズに行なわれないために大失敗をすることも少なくありません。
教会はいつでも、信徒の訓練と後継者の養成を考えて奉仕をしなければなりません。
〔あとがき〕
私たちはこの十年、八月には二泊三日で山の中でCSの生徒たちとともにバイブル・キャンプを行なっています。一日三食、沢の水で米を洗い、山に落ちている枯れ木を拾ってきてご飯をたき、沢の水でみそ汁をつくって食べます。子どもたちのうち、だれ一人、テレビを見たいとか、テレビの話をする者はいません。みんな、真に生きる喜びを体験しているからです。そして初めて参加した生徒は「来年も必ず行く」と言います。
ところで私たちクリスチャンは信仰生活において、真に生きる喜びを体験しているでしょうか。賛美は心から喜んで歌っているでしょうか。神のみことばは実際生活の中で生き生きと活用されているでしょうか。豊かさと便利さの中で、新鮮ないのちの息吹を失っているのではないでしょうか。人は何もない所で様々な困難を乗り越え、上からの知恵を求め、知らず知らずのうちに訓練を受けて自ら成長していくのです。物の豊かさと便利さは、人の霊魂を死滅させるのかも知れません。
(まなべあきら 1988.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵画は、フランスの画家 James Tissot (1836-1902)が1896-1900年頃に描いた「Jethro and Moses(イテロとモーセ)」(Wikimedia Commonsより)
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