聖書の探求(054b) 出エジプト記17章 メリバの水とアマレクとの戦い

17章は、メリバの水とアマレクとの戦いを記しています。

Ⅰ.1~7節、メリバの水(レフィディムでの不平)

出 17:1 イスラエル人の全会衆は、【主】の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
17:2 それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ【主】を試みるのですか」と言った。
17:3 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」

先にマラで水がにがくてつぶやき、シンの荒野ではパンがないといってつぶやいたことは、記憶に新しいことです。そして今また、レフィディムで水がないといってつぶやきました。民は、紅海渡過の奇跡、マラの水の奇跡、そしてマナの奇跡と経験してきたにも拘らず、再び同じような飲食のことでつぶやきました。主イエスはマタイの福音書6章で、食べること、飲むこと、着ることで思いわずらわないようにと忠告されましたが、それは私たちにとっても、いかに重要であるかが思い知らされます。飲食は毎日のことですので、それだけ不満になることも多く、またそれが大きな問題に発展する危険も高いのです。

2節に、「民はモーセと争い」とありますが、民はまだ、16章6~8節の、つぶやきが神に対するつぶやきであることの学課を十分に理解していなかったものと思われます。

出 16:6 それでモーセとアロンは、すべてのイスラエル人に言った。「夕方には、あなたがたは、【主】がエジプトの地からあなたがたを連れ出されたことを知り、
16:7 朝には、【主】の栄光を見る。【主】に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれたのです。あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろう。」
16:8 モーセはまた言った。「夕方には、【主】があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを【主】が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、【主】に対してなのです。」

私たちは、一、二回教えられても、仲々、それが生活の中で実際に行なえるようになるほどには理解していないものです。
ジョン・ウェスレーの母スザンナは、天から「どうしてそんなに同じことを何度も子どもに言うのか。」と非難めいて一言われた時、「私は、子どもが十九回言われてわからなかったら、二十回言います。」と答えたそうです。私もこの意見に賛成です。私たちは同じことを百回も二百回も聞いて、やっと本当に自分のものにするほどに悟れるようになるのです。あなたがイエス・キリストを信じるようになるために、何度、キリストのお名前を聞いているでしょうか。それほどに人の心は鈍く、頑なだということになります。

出 17:4 そこでモーセは【主】に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」
17:5 【主】はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。
17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
17:7 それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、【主】を試みたからである。

この箇所における特長は、「試みる」(マサ)と「争い」(メリバ)です。この「試みる」には、不信仰が含まれています。7節の「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたのは、まさに不信仰です。私たちの信仰生活においても、主がともにおられるならば、何一つ問題が起きないと思うのは間違いです。飲み水やパンがなくなるようなことがあります。否、そのような経験は度々あると言っていいでしょう。しかし、主はご自分の民に、すべての問題を乗り越える力と恵みを備えてくださるのです。

今、世界で飢えている人々が急増しています。しかしこれは、地球が旱魃のために穀物を生産しなくなったからではありません。その原因は二つあります。一つは肉食を好むぜいたくな人の口を満たすために、人間に必要な分の三倍の穀物が家畜の飼料となっているからです。もう一つの理由は貧欲な人間によって穀物が握り締められているからです。神は地球上のすべての人に必要な穀物を生産する能力をこの地球に与えておられます。それなのになお、飢える人がいるのは人の罪の故です。

ところで、不信仰に陥りやすい人は、絶えず争いを起こします。他人を不信仰の中に巻き込んでしまうからです。このような争いは一、二度ではなかったようです。

ここで私たちが学んでおくべきもう一つの学課は、モーセの孤独と忍耐です。神のしもべとなり、指導者となる者は、たえず孤独と忍耐が試みられます。深められない民は、神がわからないために、指導者と争おうとします。4節で、モーセは苦しみと恐怖を告白しています。しかし、そういう指導者の気持ちは決して民には理解されないのです。

5,6節、そこで主はモーセを指導されました。
「民の前を通り」は、「民を恐れず」という意味でしょう。恐れていては神の働きをすることはできません。
「長老たちを幾人か連れ」は、リーダーを訓練する意図があったものと思われます。
「あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。」
「ナイルを打った杖」は、モーセにとっても、長老たちにとっても、民にとっても、心を神に向けさせる最も良い教材になります。この杖は神の権威を象徴しているからです。この枚を持って神のみわざを行なうように命じられました。
「さあ、わたしはあそこのホレプの岩の上で、あなたの前に立とう。」(6節)は、モーセが神のみわざを行なう時に、神の臨在の保証が与えられることの約束です。主の臨在は、いつでも神の人がみわざを行なう時の保証です(マタイ28:20、マルコ16:20)

マタ 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

マル 16:20 そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。

「あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」ここでは主が岩を打つように命じられています。これに対して、民数記20章8節では、「岩に命じれば、岩は水を出す。」と言われています。

民 20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」

それにも拘らず、モーセは岩を二度打って、主のご命令通りに従わなかったことの故に罪の責任が問われ、神の約束の地に入ることができませんでした(申命記32:51,52)。

申 32:51 あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現さなかったからである。
32:52 あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へ入って行くことはできない。」

このどちらの事件もメリバと呼ばれていますが、これらの二つの出来事は異なる時の出来事だと思われます。
民は何度も争ったので、あちこちにメリバという地名が付けられていたものと思われます。
しかし、この打たれた岩はキリストの十字架を表わす型です。キリストの十字架から、無数の人々がいのちの水を飲んできたのです(コリント第一10:4)。

Ⅰコリ 10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

Ⅱ.8~16節、レフィディムでの戦い

出 17:8 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。

ここに記されているイスラエルとアマレクは歴史を通じて戦い続けている二つの勢力です。イスラエルにとっては、宿敵となるものがいました。それは、このアマレク人、ペリシテ人、エドム人、モアブ人などです。特に、このアマレク人との戦いは長く続き、エステル記に出てくるアガグ人ハマンはアマレク人です。アガグとはアマレク人の王の称号でしたから、おそらくハマンはアマレクの王家の子孫であったと思われます。アマレク人ハマンはモルデカイがユダヤ人であると聞いた時、昔、敗北させられた恨みをはらそうとして、ユダヤ人全滅の謀略を企てたのです。このようにイスラエルとアマレクの戦いは千年以上にわたって続けられていたのです。
しかしこの二つの相争う勢力は、ただ二つの民族間のことではなく、それは神とサタンの争いであり、神の民と悪の勢力に属する民との戦いを示していると言ってもいいでしょう(エペソ6:10~18)。

エペ 6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

これは宿命的対決です。神の民がサタンの勢力に妥協すれば、それはもうサタンの勢力に組み込まれてしまいます。ですからパウロは「この世と調子を合わせてはいけません。」(ローマ12:2)と警告しました。

ロマ 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

しかし勝敗はすでに決定しています。
アマレクは見かけは強いように見えましたが彼らは滅亡しました。同じように、この世は大勢力を持っていて、ビクともしないように見えますが、必ず滅亡する運命にあるのです(ヨハネの黙示録20:7~10)。

黙 20:7 しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
20:8 地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
20:9 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

いつまでも残り続けるものは、神のことばと、神の国と、神の民です。しかしこの二大勢力の戦いは最後の時まで続くのです。
それ故、主イエスは、「最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ10:22、24:13)と言われたのです。

マタ 10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

マタ 24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

9節、モーセはヨシュアに、積極的にアマレクと戦うように命じました。信仰の戦いは積極的でなければなりません。信仰が消極的になって、いつも受身の生活になると苦しくなってきます。しかし積極的な信仰の戦いの背後には強力な祈りが必要です。

出 17:9 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
17:10 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。

10節、モーセとアロンとフルは丘の頂に登って祈りました。これはモーセが祈っている姿が、ヨシュアやイスラエル人によく見えるためです。祈りは隠れた密室の祈りも大切ですが、またよく見えるように高く挙げられた祈りの手も必要です。

11節は、祈りの内と外を表わしています。ヨシュアの戦いは祈りの外側です。祈りの戦いと、具体的な課題は別々ではあり得ないのです。内なる祈りと外なる戦いの勝敗が連動していることに注目しましょう。

出 17:11 モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。
17:12 しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。

11節でモーセの手が上下したり、12節でモーセの手が重くなったことは、熱心な祈りをいつも同じように続けていくことがいかに困難であるかを示しています。一時、熱心に燃えるような祈りをしていても、いつしか冷めて祈らなくなっていることが多いのです。それ故、主はゲッセマネの園で、「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイ26:41)と忠告されたのです。
祈りは一時的に熱心になるより、コンスタントに忍耐強く祈ることを主は求めておられます(ルカ11:8~10、18:1)。

ルカ 11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

ルカ 18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

出 17:12 しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。

12節、祈りの手が下がってくる時、それを支える一つの方法は仲間と一緒に祈ることです。それ故、定期的に教会の祈祷会やグループの祈り会に加わって一緒に祈ることが大切です。しかし初信者の方には、みんなと一緒に祈ることに困難を覚える方もおられるでしょう。しかし、祈りは祈ることによってしか深めることができません。まず、上手に祈ろうとする思いと努力を捨ててください。この思いが祈りを難しくします。また祈りは主に向かって祈るもので、他人に聞かせるためのものではありません。
また、何を祈ったらいいかわからないという人もいます。まず、祈りはお願い事をするだけではないことを覚えましょう。勿論、お願い事をしてもいいのですが、もっと神を賛美したり、日頃感謝していることを素直な気持ちで祈ればよいのです。祈りの中でしてはいけないことは三つだけです。
それは、神をのろうことと、人を批判や非難することと、祈りの中で説教することです。
これらのこと以外なら、順序が支離滅裂でも神はちゃんと喜んで聞いてくださいます。また、一緒に祈っている人々も心を合わせて「アーメン」と和してくれるはずです。
みんなと一緒に祈ることを恐れて後込みし、祈り会に参加しなければ、段々と祈りが怠慢になってきます。残念なことですが、日本の教会はずっと祈祷会が低調です。せめて礼拝に出席するのと同じだけの人が祈祷会に出席するようになれば、日本のクリスチャンも教会も変わるでしょう。

しかし、モーセすら、アロンとフルに支えられなかったら、イスラエルが勝利を得るまで祈り続けることが困難だったのです。それ故、祈りの訓練で最も重要なものは、忍耐強く、勝利を得るまで祈り続けることです。祈りが途中で止まっている人も、ぜひ再び祈ってください。何度挫折しても、こりずに再開して挑戦することが、祈りで勝利を得るための秘訣です。決してあきらめないことです。
モーセの手は、「日が沈むまで、しっかりそのままであった。」と記されていますから、モーセは朝から日没まで祈り続けたものと思われます。

出 17:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。

13節、ついにヨシュアは勝利を得ました。この節は、祈りがサタンとの真剣勝負であることを示しています。サタンは祈り手を次々と眠らせることによって勝利を得ようと必死になっています。それほどクリスチャンの祈りはサタンに脅威をもたらすものなのです。

出 17:14 【主】はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」

14節、主はモーセに、このことを書物に書きしるして、ヨシュアに読んで聞かせよ、と命じられました。モーセは自分の祈りの経験を通して、この勝利は主が与えてくださったものであることを知りました。
しかしヨシュア(外の戦いをする者)はとかく、その奥義を悟らず、自分の力で勝ったかの如く思い上がりやすいのです。そこでヨシュアがこの記録を何度も読んで、自らへりくだって、主の働き人になることを求めておられるのです。
14節の後半は、神に逆らうあらゆる勢力が完全に跡形もなく消し去られてしまうことの預言と見ることができるでしょう。

出 17:15 モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、
17:16 「それは『主の御座の上の手』のことで、【主】は代々にわたってアマレクと戦われる」と言った。

15,16節の「アドナイ・ニシ」(「主はわが旗」という意味)と呼ばれた祭壇は、主による勝利を示すとともに、主が逆らう勢力とあくまでも戦われることを示しています。神の民に対する攻撃は、神がそれに立ち向かってくださるのです。
「この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。」(歴代第二20:15)

Ⅱ歴代 20:15 彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。【主】はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。

今も、これは霊の戦いにおいて続けられています(エペソ6:11~18、前掲)。

これは祈りによらなければ勝つことができません。レフィディムにおける戦いにおいて、武器を持たない祈りの手が支配したことに注目しましょう。祈りは組織や団体の力よりも重要であり、軍隊よりも力があり、富よりも影響力があり、知識よりも力強いものです。祈りは人を無敵にします。すべての勝利はみことばと、聖霊と、祈りによって得られるのです。

(まなべあきら 1988.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵画は、イギリスの画家 John Everett Millais (1829–1896)が1871年頃に描いた「Victory O Lord!(勝利だ、おお主よ!)」(イギリスのManchester Art Gallery蔵、Wikimedia Commonsより)


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