聖書の探求(056) 出エジプト記19章 神の律法を受ける準備

出エジプト記の分解の項を見ていただくと、19章から新しい展開が始まることがわかります。これまでは神とモーセとの関係、また、出エジプト事件にまつわる様々な事件が記されていました。しかしこの章からは、神と民が正式に契約を結んで、神の民としての律法を持った国家が建設されようとしています。
それ故に、19章は、律法を受ける準備であるとともに、神との契約のための準備でもあります。

この章のいくつかの特長を紹介しておきますと、

(19章の要約)

1~2節、シナイ到着(神の地)
3~6節、モーセの登山(神のメッセンジャーとなる)
7~15節、神のことばの告知
16~25節、神の栄光の顕現

(モーセの会話について)

3~6節、主とモーセ
7節、モーセと民の長老たち
8節前半、民とモーセ
8節後半、モーセと主
9~13節、主とモーセ
14~15節、モーセと民

(19章から34章まで、モーセはシナイ山に登り下りを繰り返しています。)

一回目、19:3(上り)- 19:7(下り)
二回目、19:8(上り)- 19:14(下り)
三回目、19:20(上り)- 19:25(下り)
四回目、20:21(上り)- 24:3(下り)
五回目、24:9,13,15,18(上り)- 32:15(下り)(参考32:1)
六回目、32:31 (上り)-(33:4(下り))
七回目、34:4(上り)- 34:29(下り)

(律法が与えられた目的)

1、ローマ7:12,14,16‥‥律法によって神の聖を啓示するため。これによって罪人であることを悟る。
2、ローマ3:20、7:7‥‥律法によって神の義を啓示するため。これによって罪の意識を持つようになる。
3、ガラテヤ3:24‥‥キリストに導くための養育係。これによって信仰義認に導かれる。

(旧約の律法のもつ意味)

1、儀式的、霊的意味
イ、律法の多くは儀式に関わるもの。
ロ、神の性質(聖、義)を啓示するもの。
ハ、キリストによって既に成就している(ローマ10:4)

2、道徳的意味
イ、その中心は十戒である。
ロ、生活全般についての道徳的律法は、出エジプト記20:22~23,33に記されている。
ハ、道徳的な意味においては、新約のクリスチャンも守るべき義務がある。

3、社会的意味
イ、イスラエルの国家的存在に関わるもの。
ロ、家、土地、所有に関するもの。
ハ、現代には、そのまま適用するのが不可能なものが多い。

Ⅰ.1~9節 神のみもとに上るモーセ

出 19:1 エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野に入った。
19:2 彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。

1,2節は、シンの荒野に至るまでの日数(エジプトを出てから三月目であった)と、さらにシナイの荒野に至るまでの経路を記しています。ここでイスラエルはシナイ山のすぐ前に宿営して神の律法が与えられることを待ったのです。またモーセは足しげく、神のみもとに上ったり、民の所に降りてくることを繰り返しています。ここから私たちは二つのことが教えられます。

シナイ山の前に宿営して神のみことばを待つ民からは、主イエスの足もとにすわって、みことばに聞き入っていたマリヤの姿(ルカ10:39)を思い出します。

ルカ 10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

神のみことばを聞くためには、腰をしっかり据えて待ち望むことが大切です。つまみ食いや立ち食いのようなみことばの聞き方、学び方を続けているなら、やがて霊魂は栄養不良になり、やせ衰えていきます。

もう一方、
モーセからは、私たちが神のみことばを話したり、あかしをする前に、その三十倍も四十倍も神から聞かなければならないことを教えられます。神としげく交わることなしに、知ったかぶりや、他人の受け売りで話していると、取り返しのつかない誤ちを犯すことになります。二千年の歴史をもつキリスト教にとって、その霊的資産で全く新しい独自なものはほとんど何もないと言っていいでしょう。すべて先人たちが神と交わり、与えられたものを今日の私たちに霊的遺産として残してくださったものばかりです。聖書の釈義も、讃美歌も、信仰生活における敬虔な生き方も、すべてが遺産です。今日、私たちはそれらのものに説教を通し、人物を通し、書物を通し、その他の方法で接しています。私たちはこの霊的遺産を十分に活用する必要があります。しかしそれには一つの危険があります。すなわち、それらを十分に自分のものとしてしまわないで人に話す危険です。主とよく交わり、十分に体験されないで他人に伝える時、それが曲げて伝えられたり、表面的な形だけが伝えられて、真意が伝えられなかったりする危険があります。こうしてキリスト教の儀式化や空洞化現象が起きてくるのです。私たちはもっともっと先人が残してくださった霊的遺産を掘り起こし、新なものとして活用しなければなりません。現代は LOST ART(失われた霊的経験やわざ)がふえつつあります。目新しいものに心が奪われて、霊的奥義が失われていっているのです。しかしこれらは長い間培われてきたものであって、表面的なことを真似るのは簡単であっても、真意を伝えていくにはモーセのように根気よく神と交わることによる外はありません。

3~6節で、神はモーセに、民に語るべきメッセージを与えられました。その内容は大きく三つあります。

出 19:3 モーセは神のみもとに上って行った。【主】は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。
19:4 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。
19:5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」

一つは4節。過去になされた神のみわざを思い出させることです。ここでは特に、エジプト脱出の時になされた神のみわざを思い出させようとされています。クリスチャンもたえず自分が救いに与かった時の主の恵み深いみわざを新鮮に思い起こして、主に感謝し、信仰と献身を新にして従っていくべきです。パウロはいつもこのことを思い起こしていました。(コリント第一15:8~10、ガラテヤ1:13~17、ピリピ3:5~12、テモテ第一1:15)

Ⅰコリ 15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

・・・・・・

さらに神は、「あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来た」と言われました。これは神の、民に対する愛と思いやりを示しています。神は民を、敵たちの手が届かない方法で導かれたのです。私たちは神に忠実に歩んでいるなら、危い所を歩いているように思えても、わしの翼に載せられて導かれているのですから、安心してよいのです。このようなことを思い起こすことによって、私たちは神のみこころを知り、神に近づき、神を礼拝する者の敬虔さを身につけていくのです。

第二は、5節前半の民が守るべき条件です。

19:5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、・・・

それは神の御声に聞き従い、契約を守るべきことです。これには先ず、神の御声を聞く姿勢が必要です。次に、従うための従順が必要です。さらに、契約を守るための忠実さが必要です。
聖書の信仰は生ける人格神との契約の上に成り立っていますから、明確な契約の成立なしに祝福が与えられることはありません。これは日本のアニミズムとは全く異なります。守り袋をぶらさげておけば交通事故に会わないとか、手を合わせて拝めば試験に合格するとか、賽銭を投げ込めば商売が繁盛するとかいう宗教観とは全く異なるものです。主は私たちにみことばを聞くことを求め、それに従うことを求め、契約を忠実に守ることを求められるのです。

第三は5節後半から6節の、民に対する神の祝福です。

19:5 ・・・ あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」

「あなたがたはすべての国々の中にあって、わたしの宝となる。」神はイスラエルを保護することによって、イスラエルの働きから上がってくる収穫を求めておられるのではありません。イスラエル人そのものをご自分の宝とすると言われたのです。「わたしの宝となる。」とは、神の愛顧を全面的に受ける者となることを意味しています。これが神の宝です。私たちも自分が神の宝とされていることを自覚して、信仰を新にしたいものです。

次に「全世界はわたしのものであるから。」とあります。これはイスラエルの民が、神の宝となり、神から特別な祝福を受けることによって、全世界の国々の民にあかしすることを示しています。このことはキリスト教会に対しても言われています。(マタイ24:14、28:19、マルコ16:15)これが神の意図です。

マタ 24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

マタ 28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

マル 16:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

6節の「わたしにとって祭司の王国、聖なる民となる。」は「わたしの宝となる。」を更に具体的に説明しています。
これは一国家を指しているのではなく、むしろ神の恵みと特権が委ねられた民を意味しています。
「祭司の王国」とは、神制政治の営まれる民、神が支配される民、祭司が神と民との間で仲保となって、すべての導きを神に求め、神の御旨に従って生活する民を指しています。あるいはまた、神の民が祭司の役目を負って異邦人を神に導くという意味が含まれているのかもしれません。
「聖なる国民」とは、道徳的にきよいだけでなく、聖なる神に対して聖なる民であること。いつでも神を中心とし、忠実である個人、民を意味しています。(テトス2:14)

テトス 2:14 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

これらの言葉はクリスチャンと教会に対しても語られています。(ペテロ第一2:9)

Ⅰペテ 2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

まことにクリスチャンと教会は神によって支配され、満たされ、主をあかしする民でなければなりません。

出 19:7 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、【主】が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。
19:8 すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは【主】が仰せられたことを、みな行います。」それでモーセは民のことばを【主】に持って帰った。

7,8節で、モーセはこのことを民の長老たちに告げました。すると民は口をそろえて、「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」と答え、モーセは民のこの言葉を持って主のところに帰っています。ここに私たちは、神と民との間を執り成す祭司としての働きと神のみことばを伝える預言者としてのモーセの働きを見ます。

出 19:9 すると、【主】はモーセに仰せられた。「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」それからモーセは民のことばを【主】に告げた。

9節、神はモーセから民のことばを聞く前にモーセに語られました。そのみことばからすると、神はモーセの働きと民の答えに満足しておられるように思われます。9節の神のみことばの中に、神が濃い雲(神の臨在を現わす)の中からモーセに語られる目的が記されています。それは、これから語られる律法が直接、神が語られたものであることを民が知り、今後、モーセを通して語られる言葉が神のものであることを民が信じて厳粛に受けとめるためです。

Ⅱ.10~25節 神の律法を受ける準備

出 19:10 【主】はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。
19:11 彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、【主】が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。
19:12 あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。
19:13 それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される。獣でも、人でも、生かしておいてはならない。しかし雄羊の角が長く鳴り響くとき、彼らは山に登って来なければならない。」
19:14 それでモーセは山から民のところに降りて来た。そして、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせた。
19:15 モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」

ここでは、民が神の律法を受けるために、いかに身も心も潔めて備えるべきかを示しています。当時は、旧約時代ですから、着物を洗うとか、性的なこととか、シナイ山に触れないようにということが言われていますが、これは今日で言えば、義の衣を着、心を神に献げていることであるといってもよいでしょう。しかし私たちが聖書を読み、神のみことばを待ち望む時、こういう厳粛な心の態度をとっているでしょうか。教会で聖書を朗読する時、交読する時、もっと神のみことばに仕えているという厳粛な意識を持つべきではないでしょうか。

16~18節は、神の降臨の様子が記されています。この様子は9節で約束されたとおりです。

出 19:16 三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。
19:17 モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。
19:18 シナイ山は全山が煙っていた。それは【主】が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。

16節、民は神を恐れて宿営の中から出ようとせず、みな震えていました。私たちも、ややもすると、外面的な神の恵みだけで神を判断したり、恐れたり、あなどったり、あるいは満足して、直接、神の前に立とうとしないことがあります。
17節、しかしモーセは、民を宿営から連れ出して山のふもとに立たせ、神の降臨を迎えさせています。さすがにモーセは神のみこころも、ご目的もよく悟っていたので、大胆に民を神の前に立たせることができました。このように、人々を神の前に立たせ、みことばの前に立たせることほど困難な仕事はありません。人はみな、自分の偏見、先入観、自己満足、怠惰、罪の宿営の中にとどまっていて、仲々、神の前に出て来ようとはしないからです。

出 19:19 角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。

19節、モーセは個人的に神とお会いし、神はモーセの語りかけに御声を出して答えておられます。
今日、私たちはみことばと聖霊によって、個人的に神と交わることが可能です。しかしこのことを確立しているクリスチャンは多くありません。教会に行っているのが信仰ではありません。聖書を読んでいるだけで信仰なのではありません。洗礼を受けているというだけで、無条件に信仰が保たれていると思ってはいけません。みことばと聖霊によって日毎に、個人的に神と交わることが信仰の生命です。外側的な経験で満足せず、個人的に神とお会いし、神のみことばによって内なる命を戴く信仰に満たされなければなりません。

出 19:20 【主】がシナイ山の頂に降りて来られ、【主】がモーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。

20節、個人的に神と交わっていたモーセは神によって山頂に招かれています。私たちも、個人的に神と交わっているなら、恵みの高嶺に登らせてくださるのです。

出 19:21 【主】はモーセに仰せられた。「下って行って、民を戒めよ。【主】を見ようと、彼らが押し破って来て、多くの者が滅びるといけない。
19:22 【主】に近づく祭司たちもまた、その身をきよめなければならない。【主】が彼らに怒りを発しないために。」

しかし21節では、好奇心から神の臨在の場に近づこうとする者がいることへの警告がなされています。かつては自らへの神の裁きを恐れて宿営から出られなかった者も、モーセによって連れ出されて山のふもとに立ってみると、裁きも下らず、モーセが山に登って行くのを見た時、今度は好奇心を抱いて神の山の境を破って押し寄せそうな気配でした。
かつてモーセも好奇心から燃える柴に近づこうとしたことがあります。しかし主はその時も、そこが聖なる地なので、モーセの足のくつを脱がせました。(3:1~6)

出 3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
3:2 すると【主】の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
3:4 【主】は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。
3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

いかに多くの人々が神に対して定まった信仰を持たずに、ただ好奇心から神に近づこうとして失敗したことでしょうか。確かに最初は好奇心からであっても、神に近づくためには、好奇心が信仰に変わらなければなりません。

出 19:23 モーセは【主】に申し上げた。「民はシナイ山に登ることはできません。あなたが私たちを戒められて、『山の回りに境を設け、それを聖なる地とせよ』と仰せられたからです。」

23節、モーセは、「あなたが私たちを戒められて、『山の回りに境を設け、それを聖なる地とせよ。』と仰せられた」ので民はシナイ山に登ることはできませんと答えました。モーセは、「あれだけ、しっかり教え、山の回りに境を設けてきたのだから、まさか民が山に登ってくることはあるまい。」と考えたのです。しかしモーセの考えは甘かったようです。人は、二、三度警告されたくらいでは、仲々忠実に守るようにはなりません。守る人は一度の警告でもずっと守りますが、大抵の人は、しばらく守っていても、緊張がゆるんでしまうと守らなくなってしまいます。これは各々の教会で定められた取り決めがどれくらい守られているかを考えても分かります。守る人はよく守りますが、守らない人は何度言ってもすぐに守らなくなります。

出 19:24 【主】は彼に仰せられた。「降りて行け。そしてあなたはアロンといっしょに登れ。祭司たちと民とは、【主】のところに登ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発せられないために。」

24節、主はそのような人間の性質をよく知っておられますので、再びモーセに、降りて行って警告するように命じられました。ここに言われている「祭司たち」とは、おそらく長子たちのことでしょう。この時には、まだ祭司制度ははっきりと定められておらず、長子たちが各家の祭司の務めを果たしていたものと思われます。そして彼らの中には、自分のほうがモーセよりも潔いと考えていた高慢な者がいたようです。彼らがシナイ山に登ろうとしていたのでしょう。
ここで主はモーセに、「アロンといっしょに登れ。」と命じておられます。この時、主のみこころの中ではアロンを祭司として任命することが定められていたのかもしれません。

出 19:25 そこでモーセは民のところに降りて行き、彼らに告げた。

25節、モーセは自分の考えを捨てて、主のご命令に従っています。

〔あとがき〕

やっと晴天の秋を迎えました。いかがお過しですか。私共もバイブル・スペシャル、教会の運動会など、恵みの時、楽しい時を過させていただきました。さらにその上、読者の方々から信仰によって苦難を乗り越えられたお便りもいただき、ますます力づけられています。そして文書伝道の重要性を痛感させられています。しかしその文書伝道もあまり用いられていないのが現状です。アメリカで百万冊売れる本が日本では一万冊が精々です。私たちの所では一万冊を越えている本が何冊かありますが、キリスト教関係で一万冊を越える本は「奇跡の本」と、あまり有難くない名前をいただいています。
私共は、文書伝道部といっても狭い教会の敷地に小さい物置を建て、その中に本を置いてあるだけのものです。しかしあまりの狭さの故に、教会活動も文書伝道活動もままならなくなり、ついに場所を分離しなければならないところまで追いつめられています。これには高額の費用が必要です。お祈り下さい。
(まなべあきら 1988.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、MACCOUN, Townsend(1845-1932)が1899年に出版した「The Holy Land in Geography and in History」にあるシナイ山のスケッチ(Wikimedia Commonsより)


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