聖書の探求(079b) レビ記 13章 らい病の判定について

この章は、らい病の判定について記しています。

聖書中、らい病が罪の代名詞のように使われていることは、よく知られています。それは、らい病と罪が非常によく似た性質を持っており、恐ろしい結果をもたらすからです。今日、らい病は完治できる病気になりましたが、らい病に代わって、癌やエイズといった病気が現代人を恐怖のどん底に陥れています。

ここでは、らい病を病気という面からよりも、汚れという面から取り扱っています。それは信仰的意味を含んでいると思われます。
それ故、らい病を確認する方法や、まぎらわしい他の病気から区別するための詳しい規定が与えられているにもかかわらず、らい病の治療については何も語られていません。

また聖書中には、神の審判を受けて、らい病になった者もいます。

ミリヤム(民数記12:10~15)

民 12:10 雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリヤムはツァラアトになり、雪のようになっていた。アロンがミリヤムのほうを振り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。
12:11 アロンはモーセに言った。「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。
12:12 どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」
12:13 それで、モーセは【主】に叫んで言った。「神よ。どうか、彼女をいやしてください。」
12:14 しかし【主】はモーセに言われた。「彼女の父が、彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日間、恥をかかせられたことになるではないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後に彼女を連れ戻すことができる。」
12:15 それでミリヤムは七日間、宿営の外に締め出された。民はミリヤムが連れ戻されるまで、旅立たなかった。

ゲハジ(列王記第二5:27)

Ⅱ列王 5:27 ナアマンのツァラアトは、いつまでもあなたとあなたの子孫とにまといつく。」彼はツァラアトに冒され、雪のようになって、エリシャの前から出て来た。

ウジヤ王(歴代誌第二26:19~23)

Ⅱ歴代 26:19 ウジヤは激しく怒って、手に香炉を取って香をたこうとした。彼が祭司たちに対して激しい怒りをいだいたとき、その祭司たちの前、【主】の神殿の中、香の壇のかたわらで、突然、彼の額にツァラアトが現れた。
26:20 祭司のかしらアザルヤと祭司たち全員が彼のほうを見ると、なんと、彼の額はツァラアトに冒されていた。そこで彼らは急いで彼をそこから連れ出した。彼も自分から急いで出て行った。【主】が彼を打たれたからである。
26:21 ウジヤ王は死ぬ日までツァラアトに冒され、ツァラアトに冒された者として隔ての家に住んだ。彼は【主】の宮から絶たれたからである。その子ヨタムが王宮を管理し、この国の人々をさばいていた。
26:22 ウジヤのその他の業績は、最初から最後まで、アモツの子預言者イザヤが書きしるした。
26:23 ウジヤは彼の先祖たちとともに眠った。人々は彼を王たちの墓地の野に先祖たちとともに葬った。彼がツァラアトに冒された者だと言われていたからである。彼の子ヨタムが代わって王となった。

しかし普通の病気としてのらい病もあります。もし、すべてのらい病が神の審判によるものなら、このようならい病についての詳細な規定は必要がなくなるからです。

ここにしばしば出てくる「患部」という語は、直訳では「打つこと」、「打撃」です。すなわち、らい病の汚れはその人を宿営の外に締め出してしまわなければならないほど、重大な打撃を与えるものです。もしこのような霊的汚れをクリスチャンが持っているなら、それは本人ばかりでなく、神にとって大きな打撃であり、損失となります。すべてのクリスチャンは潔められるべきです。

「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(コリント第二7:1)

らい病を確認し、判定し、その汚れに対する取り扱い方法を教えるのは、祭司の務めでした。祭司の務めは幕屋で犠牲をささげるだけではなく、民の生活と深く関わっていました。特に、罪、汚れに対する処置の指導は重要な仕事でした。

1~46節、人のからだのらい病について、

47~59節、衣類のらい病について・・・おそらく、カビ類だったでしょう。

14:33~53節、家のらい病について、・・・おそらく材木や石に生じる地衣類であったと思われます。

まず、人のからだのらい病については、六つの異なる例が記されています。

1、かさぶた(2~8節)

レビ 13:1 ついで【主】はモーセとアロンに告げて仰せられた。
13:2 「ある人のからだの皮膚にはれもの、あるいはかさぶた、あるいは光る斑点ができ、からだの皮膚にツァラアトの患部が現れたときは、彼を、祭司アロンか、祭司であるその子らのひとりのところに連れて来る。
13:3 祭司はそのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えているなら、それはツァラアトの患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。
13:4 もしそのからだの皮膚の光る斑点が白くても、皮膚よりも深くは見えず、そこの毛も白く変わっていないなら、祭司はその患部を七日間隔離する。
13:5 祭司は七日目に彼を調べる。もしその患部が祭司の目に、そのままに見え、患部が皮膚に広がっていないなら、祭司は彼をさらに七日間隔離する。
13:6 祭司は七日目に再び彼を調べる。もし患部が薄れ、患部が皮膚に広がっていないなら、祭司は彼をきよいと宣言する。それはかさぶたにすぎない。彼は自分の衣服を洗う。彼はきよい。
13:7 もし、彼が祭司のところに現れ、きよいと宣言されて後、かさぶたが皮膚に広がってきたなら、再び祭司にその身を見せる。
13:8 祭司が調べて、かさぶたが皮膚に広がっているなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これはツァラアトである。

2、腫物のあとの斑点(18~23節)

レビ 13:18 また、人のからだの皮膚に腫物ができ、それがいやされたとき、
13:19 その腫物の局所に白色のはれもの、または赤みがかった白い光る斑点があれば、祭司に見せる。
13:20 祭司が調べて、もしそれが皮膚よりも低く見え、そこの毛が白く変わっていたなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。それはその腫物に吹き出たツァラアトの患部である。
13:21 もし祭司がこれを調べて、そこに白い毛がなく、それが皮膚より低くなっておらず、それが薄れているなら、祭司は彼を七日間隔離する。
13:22 もしそれが一段と皮膚に広がってくれば、祭司は彼を汚れていると宣言する。これは患部である。
13:23 もしその光る斑点がもとのままであり、広がっていなければ、それはただ、できもののあとである。祭司は彼をきよいと宣言する。

3、やけどのあとの斑点(24~28節)

レビ 13:24 あるいは、人のからだの皮膚にやけどがあって、そのやけどの生肉が赤みがかった白色、または白色の光る斑点であれば、
13:25 祭司はこれを調べる。もし光る斑点の上の毛が白く変わり、それが皮膚よりも深く見えるなら、これはやけどに出て来たツァラアトである。祭司は彼を汚れていると宣言する。それはツァラアトの患部である。
13:26 祭司がこれを調べて、その光る斑点に白い毛がなく、それが皮膚より低くなっておらず、それが薄れているなら、祭司は彼を七日間隔離する。
13:27 それから七日目に祭司が彼を調べる。もしそれが一段と皮膚に広がっていれば、祭司は彼を汚れていると宣言する。これはツァラアトの患部である。
13:28 もしその光る斑点がもとのままであり、その皮膚に広がっておらず、それが薄れているなら、それはやけどによるはれものである。祭司は彼をきよいと宣言する。これはやけどのあとであるから。

4、頭髪あるいはひげの疫病(29~37節)

レビ 13:29 男あるいは女で、頭か、ひげに疾患があるときは、
13:30 祭司はその患部を調べる。もしそれが皮膚よりも深く見え、そこに細い黄色の毛があるなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これはかいせんで、頭またはひげのツァラアトである。
13:31 祭司がかいせんの患部を調べ、もしそれが皮膚よりも深く見えず、そこに黒い毛がないなら、祭司はそのかいせんの患部を七日間隔離する。
13:32 七日目に祭司は患部を調べる。もしそのかいせんが広がらず、またそこに黄色い毛もなく、かいせんが皮膚よりも深く見えていないなら、
13:33 その人は毛をそり落とす。ただし、そのかいせんをそり落としてはならない。祭司はそのかいせんの患部をさらに七日間隔離する。
13:34 七日目に祭司がそのかいせんを調べる。もしかいせんが皮膚に広がっておらず、それが皮膚よりも深く見えていないなら、祭司は彼をきよいと宣言する。彼は自分の衣服を洗う。彼はきよい。
13:35 しかし、彼がきよいと宣言されて後に、もしも、そのかいせんが皮膚に広がったなら、
13:36 祭司は彼を調べる。もしそのかいせんが皮膚に広がっていれば、祭司は黄色の毛を捜す必要はない。彼は汚れている。
13:37 もし祭司が見て、そのかいせんがもとのままであり、黒い毛がそこに生えているなら、そのかいせんはいやされており、彼はきよい。祭司は彼をきよいと宣言する。

5、皮庸の斑点(38、39節)

レビ 13:38 男あるいは女で、そのからだの皮膚に光る斑点、すなわち白い光る斑点があるとき、
13:39 祭司はこれを調べる。もしそのからだの皮膚にある光る斑点が、淡い白色であるなら、これは皮膚に出て来た湿疹である。彼はきよい。

6、頭あるいは額のはげのはれ物(43、44節)

レビ 13:43 祭司は彼を調べる。もしその頭のはげ、あるいは額のはげにある患部のはれものが、からだの皮膚にあるツァラアトに見られるような赤みがかった白色であれば、
13:44 彼はツァラアトの者であって汚れている。祭司は彼を確かに汚れていると宣言する。その患部が頭にあるからである。

各々の判定の仕方については聖書に記されていますのでここに記すことを省略しますが、祭司は慎重に慎重を重ねて調べています。私たちは人を判断する時、良きも悪きも、外見だけで軽々しく判断せず、慎重に慎重を重ねて、その実質をよく調べる必要があります。

45,46節では、らい病に感染した人は、「汚れている、汚れている。」と大声で叫んで人を寄せつけず、宿営の外、すなわち、神の恵みの交わりの外に隔離されなければなりませんでした。

レビ 13:45 患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。
13:46 その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。

しかし当時であっても、らい病は不治の病気ではなく、しばしばいやされて、「きよい」とされています。

主イエスのみわざの中で、らい病をおいやしになることはしばしば行われており、ある時は、らい病人にさわられました(マタイ8:3)。

マタ 8:3 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。

主イエスはらい病の汚れからも超越しておられ、あらゆる汚れから超越しておられ、特に、罪を表すらい病のいやしは、基本的なみわざの一つとされていました。今は、心のらい病(高慢、ねたみ、怒り、憤り、食欲、自己中心など)がいやされなければなりません。主はそれを潔めてくださいます。

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネ第一1:7)

47~59節では、衣類のらい病について記していますが、ここでは羊毛、亜麻布、皮製品について語られています。

レビ 13:47 衣服にツァラアトの患部が生じたときは、羊毛の衣服でも、亜麻布の衣服でも、
13:48 亜麻または羊毛の織物でも、編物でも、皮でも、また皮で作ったどんなものでも、
13:49 その患部が緑がかっていたり、赤みを帯びたりしているなら、衣服でも、皮でも、織物でも、編物でも、またどんな皮製品でも、それはツァラアトの患部である。それを祭司に見せる。
13:50 祭司はその患部を調べる。そして、その患部のある物を七日間隔離する。
13:51 七日目に彼はその患部のある物を調べる。それが衣服でも、織物でも、編物でも、皮でも、また皮が何に用いられていても、それらにその患部が広がっているときは、その患部は悪性のツァラアトで、それは汚れている。
13:52 羊毛製であるにしても、亜麻製であるにしても、衣服、あるいは織物でも、編物でも、それがまたどんな皮製品でも、その患部のある物は焼く。これは悪性のツァラアトであるから、火で焼かなければならない。
13:53 もし、祭司が調べて、その患部がその衣服に、あるいは織物、編物、またすべての皮製品に広がっていなければ、
13:54 祭司は命じて、その患部のある物を洗わせ、さらに七日間それを隔離する。
13:55 祭司は、その患部のある物が洗われて後に、調べる。もし患部が変わったように見えなければ、その患部が広がっていなくても、それは汚れている。それは火で焼かなければならない。それが内側にあっても外側にあっても、それは腐食である。
13:56 祭司が調べて、もしそれが洗われて後、その患部が薄れていたならば、彼はそれを衣服から、あるいは皮から、織物、編物から、ちぎり取る。
13:57 もし再びその衣服に、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品にも、それが現れたなら、それは再発である。その患部のある物は火で焼かなければならない。
13:58 しかし、洗った衣服は、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品でも、それらから、もしその患部が消えていたら、再びこれを洗う。それはきよい。」
13:59 以上は、羊毛あるいは亜麻布の衣服、織物、編物、あるいはすべての皮製品のツァラアトの患部についてのおしえであり、それをきよい、あるいは汚れている、と宣言するためである。

普通、からだのらい病について詳しく、厳しく規定されるのは理解できますが、衣類にまで厳しい規定がされているのは、現代人には理解しにくいことかもしれません。しかし、考えてみると、人にとって、衣食住は生活の必需品であって、「食べ物」については、すでに11章で扱われており、ここでは「衣服」のことが語られており、14章において「家」のことが取り扱われています。イスラエル人にとって、衣食住は決して神から切り離されたものではありませんでした。旧約においては、それらは儀式的でありましたが、神にふさわしく重なるものでなければなりませんでした。主イエスは、飲むこと、食べること、着ることで思いわずらわないようにと、お命じになり(マタイ6:25~34)、

マタ 6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

パウロは「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(コリント第一10:31)と教えましたが、今日のクリスチャンにとっても、衣食住をどのようにするかは、霊的な生活に非常に大きな影響を与えます。クリスチャンは主の栄光を現わすため、極力簡素な生活をしたいものです。

ここでは衣服のことが取り扱われていますが、当時、衣服はすべての人にとって高価なものであり、重要なものでした。特に、そう富んでいない一般人にとっては、衣服は今日以上に深刻な問題でした。

ここに出てくる衣服のらい病は、カビ類だったのではないかと考えられています。

51,52節の「悪性」という語は、ヘブル語では「かじる」とか、「穴をあける」という意味があります。

レビ 13:51 七日目に彼はその患部のある物を調べる。それが衣服でも、織物でも、編物でも、皮でも、また皮が何に用いられていても、それらにその患部が広がっているときは、その患部は悪性のツァラアトで、それは汚れている。
13:52 羊毛製であるにしても、亜麻製であるにしても、衣服、あるいは織物でも、編物でも、それがまたどんな皮製品でも、その患部のある物は焼く。これは悪性のツァラアトであるから、火で焼かなければならない。

これを七十人訳聖書とラテン語訳聖書は「しつこい」と訳しています。すなわち、この意味は、菌の侵食が表面だけではなく、内部の奥深くまで食い込んでいることを示しています。こうなると、これらの衣服は火で焼かなければならなくなります。これは貧しい者たちにとって深刻な問題になってきますが、神の民が汚れた衣服を身にまとっているわけにはいきません。それを持ち続けていると、他のすべての物に感染してしまい、他人の所有物にも悪影響を及ぼしていきます。

56節で、患部が薄れている場合は、「ちぎり取る」ことが命じられています。これは貧しい者への配慮です。

レビ 13:56 祭司が調べて、もしそれが洗われて後、その患部が薄れていたならば、彼はそれを衣服から、あるいは皮から、織物、編物から、ちぎり取る。

この定めを今日のクリスチャンに適用するなら、まず、クリスチャンの衣服は質素であるべきですが、それは清潔でなければならないことです。さらにもっと霊的に考えるなら、クリスチャンの持ち物は、自分の見栄や誇り、貧欲によって汚染されていてはいけないことです。すべてがキリストの血によって洗われ、きよくされていなければならないことです。

あなたの持ち物や衣服には霊的らい病の患部がありませんか? たえず点検して、きよい状態に保っておきましょう。もし、患部があるのに、そのままにしていれば、それは自分の人格と生活のすべてを蝕んでしまい、また他人にも悪影響を与えることになります。

あとがき

神のみことばにしっかり立っていない信仰生活は、柱のない家のようなものです。いくら窓に美しいカーテンをつけても、壁の色を工夫しても、天井にシャンデリアをつけても、小さい地震で傾いてしまいます。そればかりでなく、何も起きなくても、傾いていくのです。
クリスチャンの中に救いの確信を持てない人が大勢います。たいていそういう人は信仰を持つ時に、はっきりした約束のみことばを握っていない人、感じだけで信じたことにしている人、その後も、聖書を読み続け、学び続けることを怠っている人です。また、教会に行った時だけ聖書を開く人がかなりいます。これでは確信も勝利も得られません。特別集会などで信仰に立つという経験をしましても、その後、日ごとにみことばによって養われることを続けなかったら、やがて急速に衰えていってしまいます。今日、日本のクリスチャンがこの世に対して力強いあかしができないのは、この点に原因があります。コツコツみことばを学び続ける人は必ず力を得ます。

(まなべあきら 1990.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、Phillip Medhurst Collection of Bible illustrationsより「Means of discerning leprosy(らい病の判定方法)」(Wikimedia Commonsより)


「聖書の探求」の目次


【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
創刊は1984年4月1日。2020年7月現在、通巻437号 歴代誌第二24章、まだまだ続きます。
お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
単月 一部 50円 送料82円
バックナンバーもあります。
(複数の送料) 3部まで94円、7部まで210円.多数の時はお問い合わせ下さい。
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」


発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
〒233-0012 横浜市港南区上永谷5-22-2
電話FAX共用 045(844)8421