聖書の探求(079a) レビ記 12章 女性の出産における潔めの定め

この章は、女性の出産における潔めの定めが記されています。

レビ 12:1 それから、【主】はモーセに告げて仰せられた。
12:2 「イスラエル人に告げて言え。女が身重になり、男の子を産んだときは、その女は七日の間汚れる。その女は月のさわりの不浄の期間のように、汚れる。
12:3 ──八日目には、その子の包皮の肉に割礼をしなければならない──
12:4 その女はさらに三十三日間、血のきよめのために、こもらなければならない。そのきよめの期間が満ちるまでは、聖なるものにいっさい触れてはならない。また聖所に入ってもならない。
12:5 もし、女の子を産めば、月のさわりのときと同じく、二週間汚れる。その女はさらに六十六日間、血のきよめのために、こもらなければならない。

神は人を創造された時、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」(創世記1:28)と仰せられました。それなのになぜ、ここに出産の汚れが記されているのでしょうか。それはアダムとエバの堕落以来、人は罪のうちにあって子を産み、子どもは罪の性質をもって産まれ、死と滅びの運命を背負って産まれるからです。

人はこの地上に産まれるだけでは真の祝福とは言えません。主イエスによって救われ、潔められることによって、真の祝福となるのです。それ故、すべての両親はこの章から、わが子の霊魂のあがないが必要であることを学ばなければなりません。この章の目的は、出産における母親の生理的、精神的な面での安全が配慮されていることもありますが、それとともに、両親に対して、子どもの霊魂のあがないの必要性を意識させることが目的です。もし私たちがこの章を読む時、この点に気づかなかったら、この章を読んだことにならないのです。さて、何人の人がこの真理に気づいていることでしょうか。ここに聖書はただ読むだけでなく、深く探求していく必要があるのです。

3節の男の子の場合の八日目の割礼は、コロサイ人への手紙2章11~14節によると、明らかにキリストによる救いの経験を示しています。

コロ 2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

これは非常に厳粛なことです。子どもの誕生はまことに喜ばしいことですが、それとともに、その子が必ず死ぬということもまた免れない事実です。以前、私たちの教会学校に一度だけ出席したことのある三才の男の子が交通事故でなくなってしまいました。幼い子はこれから長く生きるという保証はどこにもありません。様々な原因によって、幼い時に死亡してしまうことがあります。それ故、両親は子どもができるだけ早くキリストのみ救いに与かるように祈り、配慮し、育てなければなりません。それは親の責任です。このことをおろそかにしていると、その子が産まれたことは、かえってわざわいとなってしまいます。その子は両親から罪の性質を継承していますので、必ず罪を犯すようになります。

6節では、母親に外出の許可が出た時には、まず最初に会見の天幕の入口にいる祭司のところに行って、罪のためのいけにえをささげるように命じられています。

レビ 12:6 彼女のきよめの期間が満ちたなら、それが息子の場合であっても、娘の場合であっても、その女は全焼のいけにえとして一歳の子羊を一頭と、罪のためのいけにえとして家鳩のひなか、山鳩を一羽、会見の天幕の入口にいる祭司のところに持って来なければならない。
12:7 祭司はこれを【主】の前にささげ、彼女のために贖いをしなさい。彼女はその出血からきよめられる。これが男の子でも、女の子でも、子を産む女についてのおしえである。

今日で言うなら、まず教会に行って主に礼拝をささげ、キリストの血を新にいただき、信仰を新にすることです。これからは、その子の救いのためにも真剣に祈らなければならないからです。主イエスの母マリヤはこのことを忠実に守っています(ルカ2:21)。

ルカ 2:21 八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。

これはイエス様にあがないが必要であったからではなく(主イエスは罪なき神であり、あがないを必要としないお方です)、マリヤが神の定めを忠実に守ろうとしたからです。また、主イエスは受肉によって人としての道をたどられるためでした。それは主がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたのと同じです。主はバプテスマを授けるべきお方であって、バプテスマを受けるべきお方ではないのに、人としての道を歩まれるために、全人類の代表者としてお受けになられたのです。

8節、この罪のためのいけにえは、貧富の差を問わず、すべての人に必要であるため、羊を買う余裕のない貧しい人のために、山鳩や家鳩のひなで代えることができるように定められています。

レビ 12:8 しかし、もし彼女が羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のいけにえとし、もう一羽は罪のためのいけにえとしなさい。祭司は彼女のために贖いをする。彼女はきよめられる。」

ヨセフとマリヤは、この貧しい部類のいけにえをささげています(ルカ2:24)。

ルカ 2:24 また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。

それは主イエスが過ごされたご家庭の経済状態がどのようであったかを示しています。

しかし今日、私たちは富める者も貧しい者もイエス・キリストの十字架による信仰が求められています。これには貧富の区別はありません。

この章は、これだけでなく、さらに私たちに大切なことを教えています。

まず、結婚は軽々しく行われるべきではなく、産まれてくる子どもたちに祝福を約束できるような結婚でなければならないこと。

次に、この割礼やあがないに見られるように、産まれてきた子どもたちを、どのように育て、主のみ救いに導くかということは、親の大きな責任であること。これは、肉体的成長、健康管理、知能的発達以上に重要なことです。

出産に関して、聖書が先ずこのことを示していることに私たちが注目し、信仰的なしつけと、聖書による教育をもっと真剣に考え、取り組んでいかなければなりません。

(まなべあきら 1990.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、レビ記12章の分かりやすい図解説明。引用元は、「Doodle Through The Bible_ My Visual Bible Study – One Verse or Chapter at a Time! 」(http://www.doodlethroughthebible.com/)


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