聖書の探求(080a) レビ記 14章 「らい病のきよめの教え」と「家のらい病」

この章の前半は、「らい病のきよめの教え」(1~32節)を記しており、後半は「家のらい病」(33~57節)について記しています。

1~32節、らい病のきよめの教え

1~20節は、通常の場合の規定であり、21~31節は、特に貧しい者への配慮がなされた規定です。

この貧しい者への配慮はすでに5章7~13節に記されていますが、

レビ 5:7 しかし、もし彼に羊を買う余裕がなければ、自分が犯した罪の償いとして、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を【主】のところに持って来なさい。一羽は罪のためのいけにえ、他の一羽は全焼のいけにえとする。
5:8 彼はこれらを祭司のところに持って行き、祭司は罪のためのいけにえとなるものを、まずささげなさい。彼はその頭の首のところをひねり裂きなさい。それを切り離してはならない。
5:9 それから罪のためのいけにえの血を祭壇の側面に振りかけ、血の残りはその祭壇の土台のところに絞り出しなさい。これは罪のためのいけにえである。
5:10 祭司はもう一羽のほうも、定めに従って全焼のいけにえとしなければならない。祭司はその人のために、その人が犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される。
5:11 もしその人が山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽さえも手に入れることができなければ、その犯した罪のためのささげ物として、十分の一エパの小麦粉を罪のためのいけにえとして持って来なさい。その人はその上に油を加えたり、その上に乳香を添えたりしてはならない。これは罪のためのいけにえであるから。
5:12 彼はそれを祭司のところに持って行きなさい。祭司はそのひとつかみを記念の部分としてそれから取り出し、祭壇の上で、【主】への火によるささげ物といっしょにそれを焼いて煙にしなさい。これは罪のためのいけにえである。
5:13 祭司はその人のために、その人が犯したこれらの一つの罪の贖いをしなさい。その人は赦される。その残りは、穀物のささげ物と同じく、祭司のものとなる。」

ここで再び、貧しい者への配慮がされているのは、この世から価値なき者と思われている者をも、神は見捨てないことを示しています。
それ故、どんなに貧しく、能力のないと思っている人であっても、自ら自分を見捨てて、自暴自棄になってはいけないのです。

この規定は、ルカの福音書17章11~19節で主イエスが十人のらい病人をいやされた時、主は彼らに「自分を祭司に見せなさい。」と命じられていますから、イスラエル人の間では1400年から1500年間も守られていたことになります。

ルカ 17:11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
17:12 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
17:14 イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
17:15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
17:17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
17:18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
17:19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

3節、祭司は宿営の外に出て行って、らい病人と会い、調べています。

レビ14:1 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
14:2 「ツァラアトに冒された者がきよめられるときのおしえは次のとおりでなければならない。彼を祭司のところに連れて来る。
14:3 祭司は宿営の外に出て行き、調べて、もしツァラアトの者のツァラアトの患部がいやされているなら、

これは、汚れのある者は宿営の中に入って住むことが許されておらず、神の会衆とも、神ご自身とも交わることが禁じられていたことを示しています。
それ故、この「らい病のきよめの教え」は、単に、らい病がいやされたかどうかを判定するだけでなく、汚れた者がいかにして神との交わりを回復するかを明らかに示す重要なことなのです。

4~8節、最初のきよめの儀式は七日間かかっています。

レビ 14:4 祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるよう命じる。
14:5 祭司は、土の器に入れた湧き水の上で、その小鳥のうちの一羽をほふるよう命じる。
14:6 生きている小鳥を、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプといっしょに取り、湧き水の上でほふった小鳥の血の中に、その生きている小鳥といっしょにそれらを浸す。
14:7 それを、ツァラアトからきよめられる者の上に七たび振りかけて、彼をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す。
14:8 きよめられる者は、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びる。その者はきよい。そうして後、彼は宿営に入ることができる。しかし七日間は、自分の天幕の外にとどまる。

これには二羽のきよい小鳥と緋色の撚り糸とヒソプが用いられています。
一羽の小鳥の血の水が潔められるべき人の上に七たび振りかけられているのは(7節)、ナアマンがヨルダン川で七回、身を川の水に浸したのを思い起こさせます(列王記第二5章)。「七」は完全数であり、血はキリストの血を表しています。

さらに、「きよい」という宣言が記されています。これは、すでにキリストの血は備えられており、その備えはキリストのみことばの宣言を受けることによって自分のものとなることを示しています。すなわち、私たちが、キリストのみことばを信じて受け入れる時、主のみわざが自分のものとなるのです。

さらに、もう一羽の小鳥が、血の水に浸けられた後、野に放たれています。これはこの小鳥がこの人の汚れを代わりに背負ったことを意味するものと思われます。ここにも、イエス・キリストの身代わりの十字架の真理が示されています(ペテロ第一2:24)。

Ⅰペテ 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

8節、この儀式が終わると、衣服を洗い、毛をみなそり落し、水を浴びます。

レビ 14:8 きよめられる者は、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びる。その者はきよい。そうして後、彼は宿営に入ることができる。しかし七日間は、自分の天幕の外にとどまる。
14:9 七日目になって、彼はすべての毛、その髪の毛と口ひげとまゆ毛をそり落とす。そのすべての毛をそり落とし、自分の衣服を洗い、水をそのからだに浴びる。その者はきよい。

これはあらゆる汚れが徹底的に取り除かれ、残っていないことを示すためです。そしてその人は宿営に帰ることができますが、七日間は家族のもとに帰ることが許されず、自分の天幕の外にとどまらなければなりません。これは再発がないかどうかを確認するためです。そして七日目になって、再びすべての毛、すなわち、髪の毛、口ひげ、まゆ毛までもそり落し、衣服を洗い、水を浴びて、汚れのないことを確認します。この徹底ぶりを考えますと、私たちがいつまでも罪と汚れの生活に未練をもっている状態が、神に決して喜ばれるものでないことが教えられます。

10~20節、八日目に三つのいけにえをささげます。

レビ 14:10 八日目に彼は、傷のない雄の子羊二頭と傷のない一歳の雌の子羊一頭と、穀物のささげ物としての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来る。
14:11 きよめを宣言する祭司は、きよめられる者と、これらのものを【主】の前、会見の天幕の入口の所に置く。
14:12 祭司はその雄の子羊一頭を取り、それを油一ログといっしょにささげて罪過のためのいけにえとし、それを奉献物として【主】に向かって揺り動かす。
14:13 罪のためのいけにえと全焼のいけにえをほふった所、すなわち聖なる所で、その雄の子羊をほふる。罪のためのいけにえと同様に、罪過のためのいけにえも祭司のものとなるからである。これは最も聖なるものである。

このいけにえは、罪過のためのいけにえ、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえの順にささげられています。最初に罪過のためのいけにえが求められているのは、汚れた人が交わりから退けられていた間、十分の一のささげ物といけにえをささげていなかったからであると思われます。

14節、祭司はそのいけにえの血をとり、きよめられた人の右の耳たぶ(神のみことばをよく聞く)と、右手の親指(神のみこころを行う)と、右足の親指(神の道を歩む)に塗ります。

レビ 14:14 祭司は罪過のためのいけにえの血を取り、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつける。

これは全身がいけにえの血によって潔められたことを意味します(ヨハネの手紙第一1:7)。

Ⅰヨハ 1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

15~18節、その次に、油を用います。

16節、先ず油は主の前に七たび振りかけられます。尊い油は先ず、主にささげられるベきものだからです。

レビ 14:15 祭司は油一ログからいくらかを取って、自分の左の手のひらにそそぐ。
14:16 祭司は右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指で、油を七たび【主】の前に振りかける。

次に、17節で、先に血が塗られた右の耳たぶと、右の手の親指と、右足の親指に油が塗られています。

レビ 14:17 祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に、すなわち先の罪過のためのいけにえの血の上に塗る。

血と油とはキリストの血と聖霊と考えてよいでしょう。
今日も、私たちが潔められるためには、キリストの血と聖霊の油が必要です。
18節、その後で、残りの油が頭に塗られています。これは主に仕えるための聖別を示しています。

14:18 祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の頭に塗り、祭司は【主】の前で彼のために贖いをする。
14:19 祭司は罪のためのいけにえをささげ、汚れからきよめられる者のために贖いをする。そのあとで全焼のいけにえがほふられなければならない。
14:20 祭司は祭壇の上で、全焼のいけにえと穀物のささげ物をささげ、祭司は彼のために贖いをする。彼はきよい。

21節以後は、貧しい者に対するいけにえの定めです。

旧約時代でも、主は必ず、貧しい者、弱い者に対する配慮を示しておられます。ここで特に注目したいことは、罪のためのいけにえと、全焼のいけにえには、山鳩か家鳩のひな二羽を求められているのに対して、罪過のためのいけにえについては雄の子羊が要求されていることです(21節)。

レビ 14:21 その人が貧しくて、それを手に入れることができないなら、自分を贖(あがな)う奉献物とするために、雄の子羊一頭を罪過のためのいけにえとして取り、また穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の一エパと油一ログを取り、
14:22 また、手に入れることのできる山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取らなければならない。その一羽は罪のためのいけにえ、他の一羽は全焼のいけにえとする。
14:23 八日目に、彼のきよめのために、それらを【主】の前、すなわち会見の天幕の入口の祭司のところに持って来る。
14:24 祭司はその罪過のためのいけにえの子羊と油一ログを取って、これを奉献物として【主】に向かって揺り動かし、
14:25 罪過のためのいけにえの子羊をほふる。祭司はその罪過のためのいけにえの血を取って、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗る。
14:26 祭司はその油を自分の左の手のひらにそそぐ。
14:27 祭司は右手の指で、左の手のひらにある油を、【主】の前に七たび振りかける。
14:28 祭司はその手のひらにある油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に、すなわち罪過のためのいけにえの血と同じところにつける。
14:29 祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の頭の上に塗り、【主】の前で彼のために贖いをする。
14:30 彼は、手に入れることのできた山鳩か、家鳩のひなのうちから一羽をささげる。
14:31 すなわち、手に入れることのできたもののうち、一羽を罪のためのいけにえとして、他の一羽を全焼のいけにえとして、穀物のささげ物に添えてささげる。祭司は【主】の前で、きよめられる者のために贖いをする。」
14:32 以上は、ツァラアトの患部のある者で、きよめに要するものを手に入れることのできない者のためのおしえである。

これは、罪過をあがなうためのキリストの血に代わるものがないことを示すためです。私たちの努力や決心、功績、献身的生活すら罪をあがなうためのキリストの血に代えることができないのです。このことを私たちは十分に悟っておかなければなりません。

聖書中のらい病は、人の罪と汚れを表しています。これはあらゆる苦しみと死の原因となる内的罪の性質の型です。詩篇51篇7節の「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」ダビデの言葉は、ダビデが自分を霊的、道徳的らい病患
者であると自覚していたと思われます。潔められることは、神との交わりをするために不可欠な条件なのです。

33~57節、家のらい病

レビ 14:33 ついで【主】はモーセとアロンに告げて仰せられた。
14:34 「わたしがあなたがたに所有地として与えるカナンの地に、あなたがたが入り、わたしがその所有地にある家にツァラアトの患部を生じさせ、
14:35 その家の所有者が来て、祭司に、そのような患部が家に現れたと言って、報告するときは、
14:36 祭司はその患部を調べに入る前に、その家をあけるよう命じる。これはすべて家にあるものが汚れることのないためである。その後に、祭司はその家を調べに入る。
14:37 その患部を調べて、もしその患部がその家の壁に出ていて、それが緑がかったか、または赤みを帯びたくぼみであって、その壁よりも低く見えるならば、
14:38 祭司はその家から入口に出て来て、七日間その家を閉ざしておく。
14:39 七日目に祭司がまた来て、調べ、もしその患部がその家の壁に広がっているなら、
14:40 祭司はその患部のある石を取り出し、それらを町の外の汚れた場所に投げ捨てるよう命じる。
14:41 またその家の内側の回りを削り落とさせ、その削り落とした土は町の外の汚れた場所に捨てる。
14:42 人々は別の石を取って、前の石の代わりに入れ、また別の土を取って、その家を塗り直す。
14:43 もし彼が石を取り出し、家の壁を削り落とし、また塗り直して後に、再びその患部が家にできたなら、
14:44 祭司は入って来て調べ、そして、もしその患部が家に広がっているなら、それは家につく悪性のツァラアトであって、その家は汚れている。
14:45 その家、すなわち、その石と材木と家の土全部を取りこわす。またそれを町の外の汚れた場所に運び出す。
14:46 その家が閉ざされている期間中にその家に入る者は、夕方まで汚れる。
14:47 その家で寝る者は、その衣服を洗わなければならない。その家で食事をする者も、その衣服を洗わなければならない。
14:48 祭司が入って来て調べて、もしその家が塗り直されて後、その患部が家に広がっていないなら、祭司は、その家はきよいと宣言する。なぜなら、その患部が直ったからである。
14:49 祭司は、その家をきよめるために、小鳥二羽と杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り、
14:50 その小鳥のうちの一羽を土の器の中の湧き水の上でほふる。
14:51 杉の木とヒソプと緋色の撚り糸と、生きている小鳥を取って、ほふられた小鳥の血の中と湧き水の中にそれらを浸し、その家に七たび振りかける。
14:52 祭司は小鳥の血と湧き水と生きた小鳥と杉の木とヒソプと緋色の撚り糸とによって、その家をきよめ、
14:53 その生きている小鳥を町の外の野に放つ。こうして、その家のために贖いをする。その家はきよい。」
14:54 以上は、ツァラアトのあらゆる患部、かいせん、
14:55 衣服と家のツァラアト、
14:56 はれもの、かさぶた、光る斑点についてのおしえである。
14:57 これは、どんなときにそれが汚れているのか、またどんなときにそれがきよいのかを教えるためである。これがツァラアトについてのおしえである。

イスラエル人はこの時、まだ天幕に住んでおり、家には住んでいませんでした。石造りの家に住むのは、まだ将来のことでした。しかし神は、すでにここで相当くわしく家のらい病の規定を命じておられます。信仰には一面、行き当りばったり的に見える面がありますが、しかし将来のために十分な戒めを持って備えていく面も必要です。たとえば、いくら主のために献身して働きたいという意志を持っていても、しっかりとしつけられ、訓練を受けて来ないで、我侭と過保護の中で育てられていたなら主のために働くことは実際上、無理です。そこで最初のしつけと訓練から始めなければならなくなるのです。パウロは若いテモテに、彼が幼い頃から学んできた聖書が、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益であり、また神の人が、すべての良い働きをするためにふさわしい十分に整えられた者となるために必要であると教えています(テモテ第二3:15~17)。

Ⅱテモ 3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

「十分に備えられた将来は、確実な現在となる。」このことばをじっくりと考えてみてください。

さて、先には、個人のらい病について記されていましたが、ここでは家、すなわち、最少単位の社会である家族の生活の場が潔く保たれることの重要性を示しています。主が個人のことの次に、家族のことについて命じられたのは、当然のことと思われます。そして、家庭の潔めは、物質的、環境的、道徳的、霊的面と、あらゆる面に及んでいなければなりません。なぜなら、46,47節にあるように、汚れた家の中で生活する者は、必ず汚れた者となるからです。

レビ 14:46 その家が閉ざされている期間中にその家に入る者は、夕方まで汚れる。
14:47 その家で寝る者は、その衣服を洗わなければならない。その家で食事をする者も、その衣服を洗わなければならない。

それ故、特にクリスチャンは家庭建設が全く主のみこころにかなうように祈り深く営み、潔く保つように細心の配慮をすべきです。偶像を取り除き、みことばと祈りと霊の交わりで家族の心を満たしていかなければなりません。

家のらい病とは、カビ類か、こけなどの地衣類の一種であったと思われます。しかも34節では、「わたしが‥‥家にらい病の患部を生じさせ、」と、その原因が神にあるように記されています。

レビ 14:34 「わたしがあなたがたに所有地として与えるカナンの地に、あなたがたが入り、わたしがその所有地にある家にツァラアトの患部を生じさせ、

これは人の目には見えない原因や性質があっても、人はそれを知ることができないので、神はそれを人がはっきりと知ることができるように、カビや地衣類を生じさせると言われたのです。これは今日でも同じで、目に見えない細菌がある所にカビが生じてくると、私たちはそこに悪い菌が繁殖していることを知って、消毒するのです。

祭司がその患部を調べることは、前の場合と同じですが、40,41節では、その汚れた部分を削り取って、町の外の汚れた場所に捨てるようにと命じられています。

レビ 14:40 祭司はその患部のある石を取り出し、それらを町の外の汚れた場所に投げ捨てるよう命じる。
14:41 またその家の内側の回りを削り落とさせ、その削り落とした土は町の外の汚れた場所に捨てる。

汚れた部分を温存していれば、44節のように悪性のらい病になり、また45節のように家全体がこわされて、捨てなければならなくなります。

レビ 14:44 祭司は入って来て調べ、そして、もしその患部が家に広がっているなら、それは家につく悪性のツァラアトであって、その家は汚れている。
14:45 その家、すなわち、その石と材木と家の土全部を取りこわす。またそれを町の外の汚れた場所に運び出す。

汚れは、霊的なものでも、細菌的なものでも、必ず広がり、やがて必ず全体を滅ぼしてしまうようになることを知らなければなりません。
それ故、クリスチャンは、まず家庭が潔くあるように家庭建設に最善の注意をはらわなければなりません。現代、多くの家庭が霊的、道徳的らい病で病んでいます。家庭のきよめが必要です。

(まなべあきら 1990.11.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、オランダの画家、版画家、Simon Fokke (1712–1784)により描かれた「Melaatse op de dag van zijn reiniging(ツァラアトからきよめられる日)」(アムステルダム国立美術館蔵、Wikimedia Commonsより)


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