聖書の探求(103) 民数記 12章 姉と兄に非難され攻撃を受けるモーセ
この章で、モーセは最も苦しい経験をすることになります。すなわち、最も信頼している実姉ミリヤムと実兄アロンから非難と攻撃を受けたことです。
主イエスも血筋の上での弟たちから非難を受けたり、直弟子のイスカリオテのユダから攻撃を受けられましたが、これはどんなに主のみこころを苦しめたことでしょうか。愛と信頼を深く寄せていればいるほど、それらの人々の裏切りや非難は、苦しみを深いものにするのです。
1~3節、姉と兄に非難されるモーセ
宿営の片隅で始まった不平の呟き(つぶやき)は、宿営全体に広がり、ついに最高の指導者であるミリヤムとアロンにまで達しました。不信仰と高慢の伝染は早く、また人の心の深くにまで侵入するのです。
民 12:1 そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。
12:2 彼らは言った。「【主】はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」【主】はこれを聞かれた。
12:3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。
ここで、ミリヤムとアロンがモーセを非難するために問題にしている点は二点です。
一つは、モーセの妻がクシュ人(エチオピア人)であったことです。
ある人は、このクシュ人の妻はチッポラをさすと言っています。しかし、これはモーセの第二の結婚をさしているという人もいます。どちらであるかは判明しませんが、どちらにしても、ミリヤムは、モーセの妻に嫉妬したのです。
今日、教会の中ですら、ねたみや嫉妬心を抱いて、争いを起こしている人が沢山います。本当に霊魂が砕かれて、潔められなければ、同じような醜い姿をこの世の人々の前に、教会がさらけ出し続けることになるのです。これは主の聖名を汚すことになります。
第二は、弟のモーセだけが特に、トップに立って指導力を発揮していることへの不満です。11章でモーセが七十人の補佐役を選び、またうずらの出来事もあったので、民はより一層モーセを指導者として仰いだのは当然のことでしょう。しかしミリヤムとアロンがないがしろにされていたわけではありません。ミリヤムは紅海を渡った時、勝利の歌の指導をさせていただいています。これによって、リーダーとしての名誉と尊敬と地位を与えられました。
アロンもモーセの代弁者としてだけでなく、大祭司としての任命を受けていたのです。これらはある意味で、彼らには分を越えた用いられ方でした。彼らはモーセの働きによって、リーダーの地位を受けたのです。そうですから、彼らはモーセを助け、協力すべきであって、非難すべきではなかった。しかし彼らの心の中にあった高慢と嫉妬心がその罪を犯させたのです。お互いも十分、自己点検をして砕かれていなければなりません。モーセは考えてもみなかった自分の実姉と実兄からの非難に、ひどいショックを受けたに違いありません。
二人が取り上げた理由は、モーセを非難する根拠には当りません。むしろ二人は嫉妬と高慢の故に、モーセを非難したのです。相手が正当で正しいが故に、自分の心の中の高慢と嫉妬心が黙っていることができず、非難せずにはいられなくなることがないでしょうか(ダニエル書6章)。
先に、11章28節でヨシュアもねたみを起こしています。
民 11:28 若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」
主イエスを十字架につけたユダヤ人たちも、ねたみの故に罪を犯したのです。イスカリオテのユダの心にも、ねたみがあったでしょう。ねたみは小さくても、たちまち燃え上がって、大きな罪を犯させます。ねたみはこのような霊的リーダーの中にも見られる恐ろしい罪です。それ故、全く潔められなければならないことを痛切に感じます。
2節、まず主は、二人の非難のことばを聞かれました。
民 12:2 彼らは言った。「【主】はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」【主】はこれを聞かれた。
他人を非難する時、それが正当であれ、不当であれ、主が聞いておられることを自覚すべきです。大抵、自己主張をし、他人を非難し、問題を起こす人は、主が聞いておられることを忘れています。
3節については、これはモーセが自分のことを、このように書くはずはないと言って、後代の者が書き加えたものとする人がいます。
民 12:3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。
その理由として、モーセは自分のことを三人称で書かなかったであろうし、自分のことを「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」とは語らなかったであろうと思われるからと言うのです。
しかし、第一に、モーセは他の所でも、自分を三人称で述べています(出エジプト記6:26、7:1、20など)。
出 6:26 【主】が「イスラエル人を集団ごとにエジプトの地から連れ出せ」と仰せられたのは、このアロンとモーセにである。
出 7:1 【主】はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。
出 7:20 モーセとアロンは【主】が命じられたとおりに行った。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。
この三人称の使用は異例のことではありません。
第二に、モーセが自分のことを3節のように記したりはしない、と主張することもできません。モーセは聖霊の霊感のもとに、自分の弱さや罪さえも正直に、ためらわず記しています。それ故、モーセは自分にとって美事であっても、聖霊の霊感によって、ありのままを主の権威をもって記したのです。これは彼自身が自分で誇るためではありません。もしそうなら、3節の言葉自体と相矛盾してしまいます。モーセはミリヤムとアロンの辛辣な非難攻撃に対しても、自己弁護しようとしなかったのは、彼が神の経輪のもとにあって、霊的に非常に高い状態にあったからです。そこで主が突然介入され、モーセの弁護をされたのです。3節が真実でないなら、4節の主の介入は不可解なものとなってしまいます。
民 12:3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。
12:4 そこで、【主】は突然、モーセとアロンとミリヤムに、「あなたがた三人は会見の天幕の所へ出よ」と言われたので、彼ら三人は出て行った。
ここに 「謙遜」と訳されているへブル語「アナウ」は、自分の権勢を思わず、自分の利益を求めないことです。このことは、モーセが自分に対する非難の審判を主にまかせ、言い訳けをせず、攻撃をせず、辛抱強く耐え忍んだことを示しています。私たちは、自分に向かってなされる非難攻撃に対して、黙って口をつぐんでいることが非常に難しいものです。モーセもただ一度だけ怒りを発していますが、それ以外は、自分に対する攻撃に対しては、口をつぐみ、ただ神の栄光だけをひたすら求めています。
実際にモーセがこれまでにしてきたことは、他の人では誰もできないことです。エジプト脱出、紅海渡過、律法の授与、幕屋の建造、シナイの旅、どれ一つをとっても、超人的課題を乗り越えてきたことが分かります。このようなモーセに対して、人々から感謝のことばがかけられることは考えられても、非難される理由は全く見当りません。しかし指導者の苦労はねぎらわれることなく、失敗しても、成功しても非難されるのです。
しかしモーセが求めていたことは、彼の名誉が傷つけられないことではなく、神の民が約束の地に入ることでした。そして彼が民を神の約束の地に導き入れるその日は、それほど遠くないと、彼は確信していたのです。たとい一般会衆は目先の困難で約束の地に入るという目的を見失っていたとしても、リーダーであるミリヤムとアロンは十分に覚えておくべきでした。
この重大な目的を忘れる時、この地上の名誉や誇りを求めて、ねたんだり、非難したり、不平と呟きを言うようになるのです。私たちの最大の目的は、神の御国に入ることであり、この地上で名誉ある地位や評価を受けることではありません。この目的から目を離すと、ねたみや争いが生じるようになります。
それ故、この「アナウ」という語は、忍耐強いこと、自分の利益や評価に対して無関心であること、反逆者に対して絶えざる柔和を示すことなどを含んだ言葉だということが分かります。
モーセの性格と信仰については、以下の聖句を参考にしてください。出エジプト記2:11,12、4:13、32:10~14、32、ヘブル11:24~28。
出 2:11 こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。
2:12 あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。
出 4:13 すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」
出 32:10 今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」
32:11 しかしモーセは、彼の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。
32:12 また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。
32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる』と仰せられたのです。」
32:14 すると、【主】はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。
出 32:32 今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」
ヘブル 11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
11:27 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。
11:28 信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行いました。
4~8節、主の突然の介入と弁護
人のねたみや非難を受けた時、そのさばきを主に委ねることはよいことです。必ず、主は最善に計ってくださいます。しかし、それを主に委ねるには、霊的力を必要とします。自己中心の自尊心を持っていれば、自分で反論しないと気がすまなくなります。そのように、自分の思いと感情で解決しようとすると、更に激しい争いになるか、自分で悩んでノイローゼになるかになってしまいます。ミリヤムとアロンの反抗をモーセが主に委ねることによって、ますますモーセの指導性が認められることになったのです。クリスチャンにとって、主の弁護ほど強力に有効なものはありません。それ故、主に委ねることが最善の方法です。
モーセが非難された時、なぜ主が突然介入されたのか。それは、主の信任する者が非難されることは、主ご自身が非難されることであり、それによってモーセの指導性が破壊されるなら、主の働きが妨げられてしまうからです。かつて、サウロがクリスチャンを迫害していた時、主はサウロがダマスコヘ行く途中に現われて、サウロが迫害しているのは、主ご自身であることを告げられました(使徒9:4,5)。
使 9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
これも同じ意味です。主が突然、介入されたのは、このまま放っておけない緊急の重要事件だったからです。
4節、そこで主は、問題の三人の当事者を主の前に呼び出されました。
民 12:4 そこで、【主】は突然、モーセとアロンとミリヤムに、「あなたがた三人は会見の天幕の所へ出よ」と言われたので、彼ら三人は出て行った。
主は両者、別々に呼び出さずに、三人同時に呼び出されました。これは理想的な方法です。そして各々に言い分があるなら、主の前で堂々と言うべきでした。陰で人を非難してはいけない。
5節、主は非難者のアロンとミリヤムを呼び出されましたが、二人は主の前で一言の発言もしていません。
民 12:5 【主】は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入口に立って、アロンとミリヤムを呼ばれた。ふたりが出て行くと、
12:6 仰せられた。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、【主】であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。
恐らく、靂え戦いて、何も言えなかったのでしょう。たとい、彼らがモーセに対する非難を繰り返したとしても、主は人の心の中もすべてご存知であって、人の言い訳けや言い分によって、お考えを変更されるお方ではありません。恐らく、二人は主の前に呼び出された時、「しまった。」と思ったに違いありません。主を忘れて、自己中心の高慢な心を持っていると、しばしばこういう罪を犯して、厳しい刑罰を受けることになってしまうのです。
6節、主は、「わたしのことばを聞け。」と命じられました。これは仲裁ではなく、さばきの宣告を言い渡すことばです。
ここで主がモーセを弁護された点は、何でしょうか。
第一、だれが指導者になるのか、ということは、姉だ、兄だという人間的な取り決めによらず、主がお決めになっていることです。神の主権の領域に人間が介入することは許されません。
第二に、主との交わりの違いです。ここでは主は、モーセに交わりの上で、特別な特権を与えておられます。旧約のすぐれた指導者たちでも、幻や夢を通して主は語られました。これは人格的な交わりから言うなら、間接的な啓示でした。しかし8節では、モーセに対しては、「口と口で語り」、なぞや陰語で話されたのではなく、明らかに人のことばで語られています。
民 12:8 彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、【主】の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」
さらに「主の姿を仰ぎ見ている。」申命記34章10節では、「顔と顔とを合わせて」とあります。これは直接的な交わりを示しています。
申 34:10 モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を【主】は、顔と顔とを合わせて選び出された。
7節、なぜ、モーセはこのように主と親しく交わることができたのか。それはモーセが忠実な者であったからです。
民 12:7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。
彼は非常に謙遜であったばかりでなく、イスラエル全家の中で最も主に忠実であったのです。
私たちに対しても、どういう能力があるかということよりも、その前に主に忠実であることが求められています。主はモーセの例に見るように、主に忠実な者に特権を与えられます。
ヘブル人への手紙3章1~6節で、神のしもべとしてのモーセの忠実さと、御子としてのキリストの忠実さを述べています。
ヘブル 3:1 そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
3:2 モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。
3:3 家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。
3:4 家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。
3:5 モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。
3:6 しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。
このモーセの忠実は、さらにすぐれたキリストの忠実を示すものとして用いられています。この忠実さは、今日、私たちにも求められている重要なことです。私たちは自分のすべてを主に忠実なものとして用いていかなければなりません。この主に対する忠実さは、私たちに多くの特権を与えてくれるようになります。
特に、主との親しい交わり、更に、それから生じる指導力、そして謙遜などの品性的成長などです。しかしなんと言っても、主がこのような弁護者となってくださることは、すばらしいことです。
それまで、ミリヤムとアロンは、モーセを自分の弟として非難していたのでしょう。しかし主は、「なぜ、あなたがたは、わたしのしもベモーセを恐れずに非難するのか。」と言われました。もはやモーセはただのミリヤムとアロンの弟ではなく、主の忠実なしもべとなっていたのです。このことが、人間的な目でしか見ていなかった二人には見えなかったのです。しかし、主の忠実なしもべを非難する者は、主ご自身を非難することになり、主のさばきを免れることはできません。
9~16節、主の激しい怒り
この箇所を見ますと、罪に対しては、主のさばきが必ず下ることを明らかに示しています。主のさばきには、個人的な人情のようなものは一切含まれていません。たとい、今まで主の恩寵を受けていた者であっても、リーダーとして用いられていた者であっても、罪は大目に見逃されることはありません。この当りのことを私たちは甘く考えていないでしょうか。教会で一所懸命、奉仕していたから、牧師と仲良くしていたから、これくらいのことはいいだろうと、安易な気持ちから高慢をさらけ出すことが少なくないのです。
主はミリヤムをらい病で打たれました。これを見ると、この反逆の主犯者は姉のミリヤムであったことが分かります。もし私たちがミリヤムをさばく立場にあったなら、エジプト脱出からこれまでの旅の途中のミリヤムの働きやその苦労を思ったり、またモーセの姉であるという人間的関係で、今回の罪を大目に見るということをするかもしれません。しかし主は決してそういうことをしませんでした。人間的私情を差しはさむことは、良かれと思ってすることであっても、必ず罪を増長させてしまいます。
私たちは人であって、神ではありませんから、人をさばく立場にはありませんが、しかし神の道からはずれている人を悔い改めに導いたり、訓戒したり、矯正することはしなければなりません。その為に、相手の罪をはっきりと指摘することは、人間として言いにくいことではありますが、これがきちんと出来ないと霊的リーダーにはなることができません。説教はしているけれども、個人的にこういう指導がきちんと行われてきておりませんから、教会の中に高慢や横柄な態度が横行して、それが争いや分裂を起こす原因となっているのです。教会によっては、「人の嫌がることは言わない。」「みんな仲良くする。」ということをモットーにしている所もあるかもしれませんが、罪の性質を持っている限り、この問題は根本的には解決していないので、繰り返し起きてくるのです。
教会の中に、罪を真正面から解決していくことのできる霊的リーダーたちが育ってくる時、教会は真の成長を遂げていくことができます。
神のさばきは、ご自分の義の性質によって行われます。神の義が神のさばきの基準なのです。この基準は人間のどんな私情によっても変えることはできません。神がこの基準を変えるなら、神は義なる神ではなくなってしまいます。それ故、私たちもまた、神の義を第一に求め、神の義に従った行動をすべきです(マタイ6:33、ローマ1:17)。
マタ 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
ロマ 1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
9節に、「主は去って行かれた。」ことが記されています。
民 12:9 【主】の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。
罪はどんな小さいものでも、主を去らせてしまいます(エゼキエル書10:4、18,19、11:23、回復は43章)。
エゼ 10:4 【主】の栄光がケルブの上から上り、神殿の敷居に向かうと、神殿は雲で満たされ、また、庭は【主】の栄光の輝きで満たされた。
エゼ 10:18 【主】の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。
10:19 すると、ケルビムが翼を広げて、私の前で、地上から上って行った。彼らが出て行くと、輪もそのそばについて行った。彼らが【主】の宮の東の門の入口で立ち止まると、イスラエルの神の栄光がその上をおおった。
エゼ 11:23 【主】の栄光はその町の真ん中から上って、町の東にある山の上にとどまった。
アダムとエバは罪を犯すことによって、エデンの園から追い出されました。イスラエルの会衆は罪を犯すことによって、主を宿営から去らせてしまったのです。
私たちも、罪を犯し、心を頑なにすることによって、自分の霊魂の内から主を追い出していることに気づかなければなりません。「内なる主が分からない。」というのは、日常の罪によって、主を追い出しているからに外なりません。
ですから、パウロは、
「神の聖霊を悲しませてはいけません。」(エペソ4:30)
「御霊を消してはなりません。」(テサロニケ第一5:19)
と警告しているのです。
10節、主が離れると、ミリヤムはらい病にかかっていました。彼女の罪は具体的に外側に現われたのです。
民 12:10 雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリヤムはツァラアトになり、雪のようになっていた。アロンがミリヤムのほうを振り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。
私たちは内に主を宿している時だけ、罪から免れることができます。しかし「主から離れると、何もすることができない。」(ヨハネ15:5)と主が言われたように、罪は自分の身を破滅させるようになります。罪は必ず、具体的に外に出てくるものです。
11節は、アロンの罪の告白です。
民 12:11 アロンはモーセに言った。「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。
人はしばしば愚かにも、罪の刑罰を受けて初めて自分の愚かさと罪の恐ろしさとを知るのです。罪を犯す前にこのことを悟り、主に従っている人が賢いのです。アロンは、「私たちが愚かで犯しました罪」と告白しています。この愚かとは、神を畏れないことを示す霊的愚かです。この世には、多くの知識と権力を持った愚かな人が多い。
12節は、アロンの、ミリヤムのための執り成しです。
民 12:12 どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」
しかし主は、アロンの祈りと執り成しには応えておられません。
13節は、モーセの執り成しです。
民 12:13 それで、モーセは【主】に叫んで言った。「神よ。どうか、彼女をいやしてください。」
モーセはアロンの祈る姿を見て、彼が罪を悔い改めたと思ったのです。それで主に叫びました。モーセはここで主に、ミリヤムとアロンに対して何の刑罰も要求していません。ののしられても、ののしり返さなかったのです(ペテロ第一2:23)。
Ⅰペテ 2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
むしろ、そしる者のために祈ったのです。これは主イエスの姿、そっくりだと言ってもいいでしょう。
しかし主は、このモーセの執り成しに対しても、ミリヤムの罪をなかったことにはしてくださらなかったのです。罪に対しては、必ずそれにふさわしい刑罰が加えられるべきだからです。
私たちは罪を告白して、主に赦しを求めるなら、刑罰はないのだと思い込んでいるらしい。しかし主イエスがその刑罰を受けて下さったことを忘れてはなりません。また、主の赦しと潔めの故に滅亡から救われるにしても、この地上生涯にあっては、罪の結果としての苦痛を背負わなければならないことがあります。さらに、自分の罪のために他人に迷惑や損失を与えている時には、お詫びをしたり、賠償したりする責任があります。時に、主に祈るだけで、あるいは告白するだけで、これらの個人的責任を果たさない人を見かけます。このままだと、どんなに自分の罪は赦されたと言っていても、他の人との人間関係は回復してきません。詫びるべき人にはお詫びし、賠償すべき人には賠償することによって、悔い改めは成立するのです。
14節、モーセの執り成しによって、ミリヤムのらい病はいやされたようです。
民 12:14 しかし【主】はモーセに言われた。「彼女の父が、彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日間、恥をかかせられたことになるではないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後に彼女を連れ戻すことができる。」
しかしらい病の潔めの後の七日間の隔離の期間を守るように命じられています(レビ14:8)。
レビ 14:8 きよめられる者は、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びる。その者はきよい。そうして後、彼は宿営に入ることができる。しかし七日間は、自分の天幕の外にとどまる。
この命令は、ミリヤムが罪を犯し、主の刑罰を受けたことを民全体がよく知り、警告として受けとめるためです。なぜなら、民全体が主に対して呟いていたからです。
15節、こうして、今度はミリヤムが七日間、宿営の外に締め出されました。
民 12:15 それでミリヤムは七日間、宿営の外に締め出された。民はミリヤムが連れ戻されるまで、旅立たなかった。
こうしなければ、宿営は主の臨在を回復することができなかったのです。私たちが内住のキリストを知り、聖霊に満たされることを求めるなら、それを妨げている罪が取り除かれる必要があります。罪が全く取り除かれるなら、堰を切ったようにあなたの内に御霊は満ちてくださいます。
ミリヤムの罪が解決するまで、民は旅立つことができませんでした。罪が残っていれば、進歩も、成長もないのです。罪は人生を、荒野の徘徊にしたり、停滞させたり、そのまま滅ぼしてしまったりする、恐ろしいものです。
16節の旅立ちは、罪の解決によって、主の臨在が回復したことを意味しています。
民 12:16 その後、民はハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した。
あとがき
今月は、過労のため一週間寝込んでしまうという出発でしたが、それでも主に支えられて、主のご用はほとんど滞ることなく、続けることが許されました。改めて、主の召命の確かさと、あわれみ深さを覚えました。そんなこともあって、今月、聖書の探求が皆様のお手元に届くのが少し遅れてしまいましたが、お休みすることなく、お届けできましたことを、主に感謝致します。
私たちが主をあかしするためには、みことばについて学んで、幾分か理屈が言えるようになるだけでは十分ではありません。みことばを信じて、実際に実行に移した生活をすることこそ肝要なことです。普段、信仰を標傍している人が、私的には肉的虚栄の生活をしていたり、主の日に町内や学校行事があると、礼拝を欠席する人が沢山います。パウロは「この世と調子を合わせてはいけません。」(ローマ12:2)、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(コリント第二6:14)と言いました。
(まなべあきら 1992.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵は、James Tissot (1836–1902) により描かれた「Miriam Shut Out from the Camp (宿営の外に締め出されたミリアム)」(Wikimedia Commonsより)
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