聖書の探求(102) 民数記 11章 不平と呟き(つぶやき)の始まり

11章では、不平と呟き(つぶやき)が始まります。1節の終わりをみますと、この呟きは宿営の端から起きているようですが、それはたちまち宿営の中全体に広がり、12章では、ミリヤムとアロンの指導者たちに及び、そしてついに13章でカデシュ・バルネアの危機に至っています。

1~15節、不平と呟きの始まり

まず、宿営の端で始まった小さい呟きが、イスラエルの民全体を不信仰に陥れ、滅びに至らせるほどに広がったことを重視しなければなりません。小さい呟きがいかに大きな害をもたらすか。この小さい呟きを大目に見て、どこにでもあることとして見逃してはいけません。

また、神の臨在を現わす雲と火の柱を見つつ、さらに戒めも受けて、整然とした出発をしたにもかかわらず、足が痛いことや食物のことで、すぐに呟きを始めるという人間の罪深さも知らなければなりません。何事も起きない時、立派な信仰告白をしている人が、少しの家族の反対で信仰を失ってしまう人が沢山います。これでは信仰者とは言えないでしょう。

さらに、どんな戒めも、祝福も、訓練も、外面的で物質的なものであれば、それはすぐに不平や呟きに変わります。霊魂が潔められていなければなりません。潔められていない人の態度は変わりやすいのです。朝に熱心なクリスチャンが、夕べには不信仰な、神に敵対する者になり得るのです。主イエスの時にも、エルサレム入城の時、「ダビデの子にホサナ」と叫んでいた群衆が、過越の日には「十字架につけよ。」と叫んだのです。あなたは、いつでも、どんな状況の中でも、主に対して同じ信仰の態度をとっているでしょうか。

1~3節、宿営の端で始まった不平と呟きに対して、すぐに神の怒りの火が下りました。

民 11:1 さて、民はひどく不平を鳴らして【主】につぶやいた。【主】はこれを聞いて怒りを燃やし、【主】の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。
11:2 すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセが【主】に祈ると、その火は消えた。
11:3 【主】の火が、彼らに向かって燃え上がったので、その場所の名をタブエラと呼んだ。

「主はこれを聞いて怒りを燃やし、」
呟きは大声でなされるものではありません。しかし主はそれを聞かれました。主は、まだ言葉になっていない、私たちの内にある不平、不満の思いをも聞かれるのです。呟いた者たちは、2節で、神の怒りを受けた時、今度はモーセに向かってわめいています。

自分勝手なことをしておいて、わざわいが下されると、わめき出すのは、大方の人がとる態度です。ただモーセ一人だけが主に祈っています。なぜ、民は神の怒りの火を受けた時、罪を悔い改めて、祈らなかったのでしょうか。それが不信仰です。こういう時、すぐに何をするかによって、私たちの信仰の実質がテストされるのです。これはウソがつけません。信仰の祈りは主の怒りの火を消すことができます。また、信仰の盾はサタンの火矢を消すことができます(エペソ6:16)。

エペ 6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

民は主の火が下った所をタブエラと呼んでいます。これは主の審判の火を意味しています。これは地獄の火を思い起こさせる恐るべき火です(ルカ16:24、ヨハネの黙示録20:15)。

ルカ 16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

黙 20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

4~15節、この不平と呟きは、それでおさまらず、宿営の中全体に広がって行きました。

民 11:4 また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。
11:5 エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。

まず、この呟きはエジプトを出る時にイスラエル人のうちに混じって来た者たちにうつりました。恐らく彼らはエジプト人であったと思われます。彼らはエジプトでの十の災いを経験して、イスラエル人と行動を共にするようになったのでしょう。こうして呟きは先ず、信仰が不確かで、不安定な者へと飛火して伝わっていきます。それはまたたく間に、全イスラエルに及んでいったのです。彼らは激しい欲望にかられて、大声で泣き始めました。これはもはや呟きではなく、あからさまな反抗です。最初は小さい呟きでも、心の中の不満は必ず、あからさまな反抗の態度となって現われてきます。これが潔められないクリスチャンの恐ろしい点です。

彼らは少し不自由な荒野の生活が始まると、先にシナイ山のふもとで学んだ戒めは何の役にも立たず、目先の困難に心が奪われて、エジプトのひどい奴隷だった苦しみも忘れ、主によってそこから救い出されたことも忘れ、ただ食欲だけにかられて、「肉が食べたい。魚が食べたい。野菜が食べたい。」と泣き叫んだのです。彼らはあたかも、エジプトの奴隷時代にこれらのものを腹一杯食べたかのように言っています。しかしそんなことはあり得なかった。彼らは不平を大げさにするために、ありもしなかったことを叫んだのです。
今でも、具体的な問題にぶつかると、教会で聞いたり、学んだりしたみことばを全く役に立てず、不信仰になってわめいている人を見ます。全く残念なことです。

彼らは、主が備えてくださったマナに満足しなくなりました(6節)。

民 11:6 だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」

現代のクリスチャンの中にも、主のマナであるみことばに満足せず、この世の楽しみを求めて走りまわっている人がいます。彼らは信仰者ではなく、快楽主義者なのです。

7~8節は、マナの調理法が挿入されています。

民 11:7 マナは、コエンドロの種のようで、その色はベドラハのようであった。
11:8 人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。

その味わいは「おいしいクリームの味のようであった。」とあります。この中に、人間に必要なすべての栄養素が含まれていたのです。あなたは主のマナであるみことばの味わいが、このようにおいしいものになりつつあるでしょうか。みことばには私たちに必要なすべての霊的栄養素が含まれているのです。

9節、マナは、夜、露とともに降りてきました。これは民が早朝、拾い集めるためです。

民 11:9 夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。

現代人は夜遅くまで起きていて、早朝の時間を大切にしなくなっています。クリスチャンは早朝、マナを集めることに心がけなければなりません。

再び、10節で、民は家族ごとに天幕の入口に立って泣いていました。

民 11:10 モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。【主】の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。

これは明らかにモーセヘの抗議を意味しています。これに対して主の怒りはますます激しく燃え上がり、主を怒らせたのです。またモーセも非常に悩み、とても耐えられそうになかったのです。そこでモーセは主に祈っています。祈らなかったなら、モーセとて、パニック状態に陥ったでしょう。
クリスチャンなのに、よく落ち込んでいるという相談を受けますが、紋切形の形式的な祈りは意味をなしません。主と直接お会いし、交わり、物語る祈りでなければ、精神的行き詰りを打開することはできません。

モーセの祈りには二つの要素があります。

第一、11~12節、イスラエルの民を導くのは、モーセには重過ぎる重荷であると、主に訴えています。

民 11:11 モーセは【主】に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。
11:12 私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け』と言われるのでしょう。

彼は11節で、「なぜ、なぜ、なぜ、」と三回、繰り返しています。
私たちも同じことを考える必要があります。なぜ、クリスチャンである自分は日本の国民の救いを祈り、世界の人々の救いのためになぜ、自分が重荷を背負わなければならないのだろうか。このことを真剣に考えていただきたいのです。モーセは、このすべての民を自分が生んだのでもないのに、なぜ主は、「あなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け。」と言われるのかと、訴えています。ここでモーセは再び、召命感が試めされたのです。なぜ、モーセがこの重い責任を背負わなければならないのか。

あなたは、自分の息子や娘のためなら、苦しむことも仕方がないと思うでしょう。しかしそれと同じように、神と神の民のために苦しむことを甘んじて受けるでしょうか。
モーセの苦しみは息子や娘のためではありませんでした。それは神の召命によったのです。ヘブル人への手紙はこう言っています。
「信仰によって、モーセは‥‥‥はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」(ヘブル11:24~26)

今日、私たちクリスチャンは、今なお、滅びつつある人々に福音を伝えるべく、召命を受けなければなりません。福音宣教は牧師や伝道者のすることと考えてはいけません。クリスチャン全員が一丸となって、福音宣教に携る熱い召命を受けなければなりません。

もう一つの問題点は、13、14節、民全体に肉を与えることですが、それは不可能に見えます。

民 11:13 どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。
11:14 私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。

しかし主は、モーセが肉を準備するようにとは言っておられません。しかし、マタイ14章16節では、主は弟子たちに「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と言われています。この時も、弟子たちはあわてて、とまどっています。これは、どちらも、主に信頼することを忘れて、自分の力と努力でなんとかしなければならないとあせったからです。

15節で、「どうか私を殺してください。」と言ったのは、モーセがどれほど追いつめられていたかを表しています。

民 11:15 私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」

自分の力でなんとかしなければならないと思っている人は必ず、追いつめられて、行き詰ってしまいます。
しかし16節以後の神のみことばを聞くなら、本当に主が頼りになるお方であることが分かります。

しかしこれらのことを聖書を学んで知っているだけでなく、実際に自分の生活で実行して、体験として知っておく必要があります。私も開拓伝道を何回もしてきましたが、真実に祈って、みことばを真直に伝えるなら、主は必ず救われる人を起こして下さいました。

16,17、24~30節、モーセの補佐役

16,17節では、主はモーセの補佐をする者を七十人選ぶように命じています。

民11:16 【主】はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。
11:17 わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。

モーセは毎日つぶやく民と、反逆する者たちのために、その心労はいかほど重いものであったでしょうか。私も牧師の働きをさせていただいて思うことは、よくもまあ、信者の人々は、こちらの心労も考えないで、イザコザを起こしたり、自分勝手な行動が平気でできるものだと思うことです。クリスチャンは本当に潔められないと、一生涯、こういうことを繰り返して滅びてしまいます。高慢、見栄、野心、ネタミなどが心にあると、必ず教会の中にゴタゴタをひき起こします。

モーセの補佐をつとめる者は、モーセ自身がよく知っている民の長老でなければなりませんでした。すなわち、モーセがその人物の性質をよく知っており、補佐役としてふさわしい性質の持ち主でなければなりませんでした。

クリスチャンの中には聖書の知識があれば教会のり-ダーになれると思っている者もおり、また音楽やその他の技能があれば、リーダーになれると思っている人がいます。勿論、聖書の知識や様々な技能は、潔められた、へりくだった人が用いれば、有益に用いられるでしょう。しかし霊魂が打ち砕かれていない人が知識や技能を身につけると、本人をますます高慢にするだけで、教会の益となるどころか、むしろ教会の中に騒ぎと争いを撒き散らす張本人となるのです。

それ故、教会にとって最も重要な問題は人選なのです。初代エルサレム教会は施しの問題が生じた時、すぐに御霊と知恵に満ちた、よいあかしの立っている七人の補佐役を選ぶことができました。
これが初代教会が迫害の中でも成長していった秘訣です。今日、教会の中にこのような補佐役にふさわしい人物が育ってきているでしょうか。
モーセは補佐役に選ぶ者の知識や技能を見ず、霊的資質を見なければならなかったのです。

また、モーセの補佐役はすでに長老として、つかさとして幾分か、人を指導する経験を積んでいる人でなければなりませんでした。おそらく、この七十人の長老たちはこれまでも献身的にモーセの労苦をともに担い、助けてきた人々であったと思います。

私の所にも、アレをさせてくれ、コレをさせてくれと言って来る人がいますが、教会のリーダーとなる者は、リーダーに任命される前から、服従する者であり、人のしもべとなって身を粉にして献身的に奉仕している者でなければなりません。自分の得意なことだけを、人前で得意気に行うことは、霊的リーダーのあるべき姿ではありません。

次に、「わたしのために集め、‥‥‥あなたのそばに立たせよ。」
これは会衆全体に彼らの召命を明らかにするための任命式です。
「わたしのために」とは、明らかに主に仕えることを意味しています。補佐役たちは各々の思いと考えで働いてはならないのです。モーセのそばに立つことは、彼らがモーセを補佐するためであって、モーセの権威を越えず、モーセの指揮、指導のもとに働くべきことを意味しています。これは補佐役たちが高ぶって、民の中に混乱を起こさないためにも必要なのです。

第三に、補佐役たちは奉仕のために、モーセに与えられていた神の御霊のいくらかを分け与えられています。補佐役となる者が指導者と同じ御霊をいくらかでも分け与えられることは、忠実な奉仕をする上で不可欠な要素です。これは今日、教会の後継者となる者がぜひとも求めて欲しいものです。

ここでは旧約の特長がよく表れています。
御霊は、満たされるのではなく、いくらかを分け与えられるだけであり、それは働きのために与えられるのであって、人の内的性質を潔め、変貌させるためであるとは言われていません。
しかし、主のための奉仕には、人の知恵と力では十分でなく、神の御霊が必要であることは明らかに示されています。今日、私たちは主のために働く前に、先ず聖霊に満たされ、潔められて、力が与えられなければなりません。

「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」(ゼカリヤ書四・六)

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、・・・わたしの証人となります。」(使徒1:8)

もし、聖霊を宿していない人が主の働きに加われば、却ってわざわいをもたらすことになります。

24~25節で、モーセは主のご命令通りに従いました。

民 11:24 ここでモーセは出て行って、【主】のことばを民に告げた。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。
11:25 すると【主】は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは預言した。しかし、それを重ねることはなかった。

主は約束によって七十人の長老たちにその御霊を与えられ、その証拠として、彼らは一度だけ恍惚状態になって預言しました。しかしそれは一度だけで、重ねて起きませんでした。

26節、七十人の長老のうち、エルダデとメダデは何らかの理由で宿営の中に残っていましたが、この二人にも神の御霊がとどまり、彼らも預言しました。

民 11:26 そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。ひとりの名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。──彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった──彼らは宿営の中で預言した。

この二人がどんな理由があって、主のご命令通りに天幕に出て行かず、宿営にとどまっていたのかは分かりませんが、これはあまり良い態度とは言えません。

今も、自分を特別な存在と思い上がって、皆んなと同じように行動せず、別行動する者が、時にいますが、しばらくは神の恵みをいただいていても、やがて神の御霊を失ってしまうことになるのです。へりくだりこそ、恵みを受け続ける条件です。

27~30節、エルダデとメダデが宿営で預言していることが、ひとりの若者によってモーセに知らされました。

民 11:27 それで、ひとりの若者が走って来て、モーセに知らせて言った。「エルダデとメダデが宿営の中で預言しています。」

すると、モーセのそばにいたモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「これは、ご主人モーセの威光にかかわる一大事」と思って、「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」と進言しました。

民 11:28 若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」

彼は、モーセの指導者としての地位が危くなると心配したのでしょう。

これはちょうどマタイ16章21,22節で、主イエスがご自分の十字架と復活の預言をされた時、弟子のペテロが主に対する肉的人情から、「そんなことが、あなたに起こるはずがありません。」と言ったのと、よく似ています。

マタ 16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

従者であったヨシュアもペテロも、まだ肉的性質を持っており、未熟であったことをよく示しています。

しかし29節のモーセの答えは、モーセの偉大さをよく表しています。

民 11:29 しかしモーセは彼に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。【主】の民がみな、預言者となればよいのに。【主】が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」
11:30 それからモーセとイスラエルの長老たちは、宿営に戻った。

第一に、モーセはヨシュアがモーセに対して、人間的思いをもってねたみを起こしていると、叱責しました。ヨシュアはモーセの従者ではありましたが、まだ非常に肉的信仰しか持っておらず、自己中心のねたみ心が満ちていたのです。これが取り除かれないと、神のしもべになること、霊的リーダーになることができません。ねたみは神のみわざを最も妨げます。イエス・キリストを十字架につけたのも、直接的にはユダヤ人のねたみによったのです(マタイ27:18)。

マタ 27:18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。

さらに、モーセはすべての民が神の御霊を受けて、預言することを期待しています。今日、すべてのクリスチャンが聖霊に満たされて、神のみことばを語る者となることが求められています。

「その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」(使徒2:18)

使徒時代のクリスチャンがみんな神のみことばを力強く伝えたのは、彼らが聖霊に満たされていたからです。聖霊に満たされるなら、すべてのクリスチャンは神のみことばを力強く伝えるようになるのです。

18~23、31~35節、うずらが与えられた意味

主はここで、モーセの訴えのもう一つの部分、すなわち、民に肉を食べさせる問題について答えておられます。

民 11:18 あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった』と、【主】につぶやいて言ったからだ。【主】が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。
11:19 あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、
11:20 一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる【主】をないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう』と言ったからだ。」

ここに、私たちは、主が人間の霊的必要と肉体的必要の両方に解決をもっておられることを知ることができます。そして、これは今日のクリスチャンをも含めて、すべての人が直面する問題です。

しかしここでは残念なことに、感謝ではなく、不平と呟きの故に肉が与えられています。このことは、物質的豊かさは必ずしも祝福であるとは言えない一つの実例です。

このうずらの肉が与えられることにおいて、主は二つのことをなされました。

一つは、主が全能の神であることを示されたことです。主は民に、一か月間、肉が鼻から出てきて、吐き気をもよおすほど与えられると言われました。

しかしモーセの試算によると(21,22節)、民が持っている羊や牛の群れを全部ほふっても、それは不可能だし、また海の魚(おそらく、モーセの頭の中では、その地域の海の魚を考えていたと思われます)を全部集めても、十分ではないという結論でした。

民 11:21 しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。
11:22 彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」

これもマタイ14章やヨハネ6章に記されている、五千人以上の群衆にパンを与えるように主が弟子たちに命じられたこととよく似ています。これらのことは自然的常識では、とても考えられないことですが、このうずらの肉の答えは、人間の不信仰な主張に対する全能の神の挑戦であると言えるでしょう。不信仰な人は、自分のもっている能力や手元にある経済力や材料で計算しやすいのです。

モーセですら、一度はこういう計算をしたのです。彼の考えの中には、大人の男子だけで六十万人という莫大な必要と、手元にあるわずかの材料だけしかありませんでした。全能の神が計算に入っていなかったのです。

これに対して、主は次のように挑戦されました。

民 11:23 【主】はモーセに答えられた。「【主】の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」

「主の手は短いのだろうか。」(23節)
これは、主の力は人が考えている程度のものだろうか、という挑戦です。

「わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」
これは、主のみことばを疑う者への、主のみことばの真実性をもっての挑戦なのです。これは主ご自身の挑戦であることをみれば、実に恐ろしいほどの挑戦です。
あなたは自分の不信仰な考えの故に、主を小さくあなどって見ていないでしょうか。

主は「今わかる。」と言われましたが、その日のうちに、うずらが集められました。このうずらは大風によって、海の向こうから運ばれて来ました(31節)。

民 11:31 さて、【主】のほうから風が吹き、海の向こうからうずらを運んで来て、宿営の上に落とした。それは宿営の回りに、こちら側に約一日の道のり、あちら側にも約一日の道のり、地上に約二キュビトの高さになった。

このうずらは恐らく、地中海を渡って来たものと思われます。地中海沿岸や島々には、三月ごろになると、無数のうずらが飛んできたことがありました(出エジプト記16:13)。

出 16:13 それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。

主がみわざをなさる時は、前日まで何のしるしがなくても、一日のうちに偉大なみわざを行われることがあります。そのうずらがどんなに多かったかは、31節の記録からも明らかです。

33,34節、民がこれらの肉を食べている間、主は民に激しい怒りを表され、疫病で打たれました。

民 11:33 肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、【主】の怒りが民に向かって燃え上がり、【主】は非常に激しい疫病で民を打った。
11:34 こうして、欲望にかられた民を、彼らがそこに埋めたので、その場所の名をキブロテ・ハタアワと呼んだ。
11:35 キブロテ・ハタアワから、民はハツェロテに進み、ハツェロテにとどまった。

これは民が不平不満で肉を求め、その肉が与えられると、民はさらにますます食欲を現わしたからです。32節では、うずらを宿営の回りに広く広げたとありますから、食べ切れない肉をさらに貧欲になって集めたのでしょう。

民 11:32 民はその日は、終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、──最も少なく集めた者でも、十ホメルほど集めた──彼らはそれらを、宿営の回りに広く広げた。

主の怒りは、このような人の貧欲さの故に下りました。今も人には、必要以上のものを求める貪欲の性質があります。イスラエルの民の場合は、疫病でありましたが、今日はもっとひどい霊的疫病が起きており、みんな快楽に溺れ、むなしい人生を送り、精神的に病み、自殺する者もいます。詩篇78:26~31は、この時のことを記しています。

詩 78:26 神は、東風を天に起こし、御力をもって、南風を吹かせられた。
78:27 神は彼らの上に肉をちりのように、翼のある鳥をも海辺の砂のように降らせた。
78:28 それを宿営の中、住まいの回りに落とした。
78:29 そこで彼らは食べ、十分に満ち足りた。こうして彼らの欲望を、かなえてくださった。
78:30 彼らがその欲望から離れず、まだ、その食べ物が口にあるうちに、
78:31 神の怒りは彼らに向かって燃え上がり、彼らのうちの最もがんじょうな者たちを殺し、イスラエルの若い男たちを打ちのめされた。

34節では、自分の貪欲の故に滅ぼされた人々を葬った所をキブロテ・ハタアワ(欲望の墓)と呼んでいます。人はみな、自分の貧欲のために罪を犯し、滅びると言ってもよいでしょう。私たちは、自分の願いや欲望を求めることによって滅びに至り、主のみこころを求めることによっていのちに至るのです(詩篇106:13~15)。

詩 106:13 しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。
106:14 彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。
106:15 そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた。

イスラエルの民にとって、肉は必要なかったのです。主のみこころはマナによって生活することでした。マナをもって満足し、感謝していたなら、もっと大いなる祝福を受けたでしょう。彼らは不必要な肉を求めて、滅びたのです。この教訓を私たちは十分に覚え、また活かさなければなりません。

あとがき

教会にとって、夏は本当にあつい時、霊魂が燃やされる時ですが、今回も百二号をお送りできることを感謝します。

読者の皆様の中には、熱心に聖書を探求しておられる方が多いと思います。バックナンバーのお申し込みも続いており、欠号にしてしまわないで、増刷させられて、うれしい悲鳴を上げています。

聖書を読み、信じ、探求し、実行し、宣べ伝える。この五つのことがリバイバルを招くのです。それはこの二千年間の教会の歴史が証明しています。初代教会は福音書や使徒たちの手紙を迫害の中で筆写し、各教会に回して読むことでリバイバルが起きていました。次の教会教父時代は護教家たちによって聖書の真理が異端に対して強調されることによって。しかしローマ教会時代になると、人々は聖書よりも富と権力を求めて霊的力を失いました。宗教改革時代は再び聖書の翻訳を、そして一八~二十世紀初頭は、聖書の説教と世界宣教が盛んになり、リバイバルが起きたのです。リバイバルはいつでもみことばから起きていることは歴史が証明している事実です。

(まなべあきら 1992.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、the Providence Lithograph Companyにより出版された Bible cardの一枚「The Giving of Quail (うずらが与えられる)」(Wikimedia Commonsより)


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