聖書の探求(104) 民数記 13章 カナンの偵察と報告

民数記13章は、「カデシュ・バルネアの危機」とも言うべき、イスラエルの民の旅の転換点となっています。この時点までは、イスラエルの民は目的地を目指した旅をしてきました。しかしこの後は目的地を見失った放浪の旅となり、カレブとヨシュア以外、成人だった者はみな、このシナイの荒野で死んでしまうのです。実に悲惨な旅と変わってしまったのです。

内容としては、この13章では、カナンの偵察と報告が行われています。

1~20節、カナン偵察の命令

民 13:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
13:2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」
13:3 モーセは【主】の命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。
13:4 彼らの名は次のとおりであった。ルベン部族からはザクルの子シャムア。
13:5 シメオン部族からはホリの子シャファテ。
13:6 ユダ部族からはエフネの子カレブ。
13:7 イッサカル部族からはヨセフの子イグアル。
13:8 エフライム部族からはヌンの子ホセア。
13:9 ベニヤミン部族からはラフの子パルティ。
13:10 ゼブルン部族からはソディの子ガディエル。
13:11 ヨセフ部族、すなわちマナセ部族からはスシの子ガディ。
13:12 ダン部族からはゲマリの子アミエル。
13:13 アシェル部族からはミカエルの子セトル。
13:14 ナフタリ部族からはボフシの子ナフビ。
13:15 ガド部族からはマキの子ゲウエル。
13:16 以上は、モーセがその地を探らせるために遣わした者の名であった。そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。

主はここで偵察をさせずに、そのままカナンに導き入れることができたでしょう。しかしカナンの地に入ってから、いきなりイスラエル人がカナンの巨人と出会って、恐れて不信仰にならないために、偵察隊を派遣されたのです。

主は私たちに、無条件に主を信じて従うことを求めておられます。しかしそれは、無知と無謀のままで従えばいいと言っておられるのではありません。各々の知性を十分に働かせて、考え、計画し、検討した上で、主の導きに従うことを求めておられます。勿論、時には、アブラハムのように、「どこに行くのかを知らないで」(ヘブル11:8)従うことが必要な時もあります。

ヘブル 11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

しかしその時でも、アブラハムは、行く所は知りませんでしたが、だれの命令によって、だれに従って行くのかは十分に知っていました。これは決して、無知と無謀ではありません。

さて、自分の知性を十分に働かせるといっても、ここに一つの危険があります。それは、私たちが自分の知性を働かせて考え、検討し、計画を立てる時、不信仰に陥って、神のみ旨を拒否して結論を出す危険です。私たちが自分の知性で考える時、それは潔められた知性で、信仰的に、建設的に考えなければなりません。そうでなければ、自分の知性で考える意味がなくなってしまいます。

イスラエルの場合、すでにカナンの地に入ることは決まっていることでしたから、偵察の結果、カナンの地に入らないという結論は出せるはずがありません。信仰的な考察をするなら、決してそういう結論は出てこないはずです。私たちが自分の知性で考えることを求められていることは、私たちが潔められた知性で考え、不信仰にならないようにする責任も求められているのです。それ故、ここでは偵察員には、各部族から各々の族長、すなわち、リーダーが選ばれたのです。彼らは少なくとも、そういう信仰の弁(わきま)えがあってしかるべき人物たちでした。

教会は、集会の出席者が増えること、教会員の数が増えることも大切ですが、その前に、どんな状況の中でも健全な信仰の指導が強力にできるリーダーを訓練し、育てていくことが必要です。そうでないと、集まった人々も散ってしまいます。

16節で、モーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけたと記されています。

ヨシュアは出エジプト記で、すでにモーセの側近の従者として、またリーダーとしてアマレクとの戦いで働いています(出エジプト記17:8~16、32:17、33:11)。

出 17:8 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
17:9 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
17:10 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
17:11 モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。
17:12 しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。
17:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。
17:14 【主】はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」
17:15 モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、
17:16 「それは『主の御座の上の手』のことで、【主】は代々にわたってアマレクと戦われる」と言った。

出 32:17 ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中にいくさの声がします。」

出 33:11 【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。

それ故、もっと前に、ホセアはヨシュアと呼ばれるようになっていたと思われます。しかしここで、族長の一人としてリストに記すためには、元の名前のほうがいいと思って、元の名前のホセアを記した後に、ヨシュアと改名したことを改めて記したものと思われます。

聖書中、名前が変えられた人物は何人もいますが、みな信仰の転機を経験した人たちです。たとえば、アブラムがアブラハムに、サライがサラに、ヤコブがイスラエルに、シモンがペテロに、サウロがパウロに。ヨシュアもその一人です。モーセ自身は名前は変えられませんでしたが、彼もホレブの山で燃える柴の経験をして、信仰の転機を経験しています。神に用いられる人は信仰の転機、すなわち、潔められる経験をしていることが、旧約の人物を見ても分かります。

17節から20節は、カナン偵察のためのモーセの命令です。

民 13:17 モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。「あちらに上って行ってネゲブに入り、山地に行って、
13:18 その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。
13:19 また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか。彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。
13:20 土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。

17節、彼らの偵察の範囲は、ネゲブ地方からへブロンの山地あたりまでです。

偵察の目的は、大きく三つあります。

1、土地が良いか悪いか、肥えているか、やせているか。木があるか、ないか。これは その地が実り豊かな地であるかどうかを調べることです。その証拠として、その地の果物を取ってくるように命じています。彼らが偵察に入って行ったのは、初ぶどうの熟すころで、初夏を迎えるころでした。

2、町の様子。宿営(天幕生活)か、城壁の町か。これは攻略するための戦略を立てるのに必要だったのです。エリコは堅固な城壁のある町でした。

3、住民。強いか弱いか。少ないか多いか。

後に、偵察員のうち十人は、第二と第三の事項で不信仰になってしまいました。ここで大切なことは、偵察隊に命じられたことは、「調べなさい。」であって、「入るか、入らないか、判断しなさい。」ではなかったことです。彼らは綿密に調べるだけでよかったのです。それ以上の判断を下すべきではありませんでした。その決定を下すのは神です。しかし神はすでに、その地を与えると約束されていたのですから、決定はすでに下っていたのです。このあたりが、私たちも陥りやすい落し穴です。それ故、調査したり、検討したり、計画を立てる立場にある者は、よほど信仰が明確で、潔められており、不信仰な自己判断に陥らないように細心の注意を払わなければなりません。

21~33節、不信仰な推測の報告

21~24節は、偵察した地の範囲を示しています。

民 13:21 そこで、彼らは上って行き、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまで、その地を探った。
13:22 彼らは上って行ってネゲブに入り、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられた。
13:23 彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。
13:24 イスラエル人がそこで切り取ったぶどうのふさのことから、その場所はエシュコルの谷と呼ばれた。

地図帳を見て、その足跡の地図を作ると、理解が深まるでしょう。面倒くさがらずに作ってみてください。

22節は、そこに住んでいた住民を記しています。

ヘブロンはエジプトのツォアンより7年前に建てられていたということは、ヘブロンがいかに早くから繁栄し、堅固な城塞であったかを示しています。

23,24節は、その地がいかに恵みに満ちた地であるかを示しています。

この巨大なぶどうは今も収穫されています。その外に、ざくろ、いちじくも豊富です。彼らはその証拠の品を持ち帰りました。私たちはこのような神の恵みを手に入れようとするなら、この世と戦わなければなりません。この世に対して、信仰の戦いをしないで勝利を得ようとするのは、熱狂主義です。主イエスは何もしないで得ようとする御利益宗教を約束されませんでした。神の恵みは信仰によって戦って勝ち取るべきものです。

「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(マタイ11:12)

私たちは、信仰を安住するためのものと、思い違いしてしまいやすい危険があります。信仰は、天の御国を勝ち取るための戦いです。クリスチャンになることは、この戦いに加わることを意味するのです。しかし多くのクリスチャンは信仰の戦いを戦わないで、天の御国を得ようとしています。これは不可能です。

主イエスは、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と言われ、
パウロも、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言っており、その生涯の終わりの時には、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(テモテ第二4:7)とあかししています。クリスチャンの生涯は信仰の戦いの生涯でなければなりません。

しかし、主がこの恵みの地を与えると約束されたことは、そのための戦いがどんなに厳しくても、必ず勝たせてくださることを意味しています。主が勝つ力を与えてくださるのです。私たちはこのことを信じて、勝利を得るまで最後まで戦いを続けたいものです。これを信仰生活と言います。子どもを信仰に導き育てることも、仕事をすることにおいても、教会の幻を実現することも、信仰の戦いであり、全き信仰が必要です。

25節以後は、族長たちの報告です。

民 13:25 四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。
13:26 そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。
13:27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。
13:28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。
13:29 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」
13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
13:31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
13:32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。
13:33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

28節と31節の「しかし」は不信仰の「しかし」です。

私たちもしばしば、この不信仰の「しかし」を使いやすいのではないでしょうか。

四十日間の偵察の結果、その地がいかに恵みに満ちているか、実に、乳と蜜が流れている地であることを、持ち帰った果物を見せながら報告をしました。これには、果物という確かな証拠がありました。

しかし不信仰に陥ったのは、確かな証拠を無視して、推測によるものであることに注目しなければなりません。

28,29節、その地にアナクの子孫やアマレク人、ヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでいたことは事実です。しかし族長たちは、彼らと力くらべをしてきたわけではありません。ただ見て、「あの民は私たちより強いから。」と思い込んだだけです。彼らは勝手に、神が自分たちと一緒にいても、彼らと、あの大きな城壁には勝つことができないと推測しただけです。彼らはあたかも確かな証拠をもっているかのように、確信あり気に話していますが、不信仰な者の発言はいつも、このようなものです。

彼らが繰り返している言葉は、「見た」で、33節では、「彼らにもそう見えただろう。」と、全く当てにならない、ひとりよがりの推測を話しています。しかしこの不信仰な思いは、推測で話している間に、全会衆を嘆きのドン底に落とすほどの確信にまでふくれあがってしまいました。

32節、こうして彼らは民衆の間に、不信仰な思いを言いふらして歩いたのです。

こうなってしまっては、30節のカレブの信仰の発言も効果がなくなってしまいます。

しかし少数意見で、大衆的には効果がなくても、クリスチャンはこの世に対して、また不信仰なクリスチャンの間で、真理をはっきりと強調して発言していかなければなりません。

カレブとヨシュアは、それによって大衆を変えることができませんでしたが、自分自身を救うことができたのです。

ここで、大事なことについて、お話しておきましょう。

モーセの命令は、三つでした。
1、「調べなさい。」(18~20節)

民 13:18 その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。
13:19 また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか。彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。
13:20 土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。

これに対して偵察員はみな、従いました(25、28節)

民 13:25 四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。
13:26 そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。
13:27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。
13:28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。

2、「勇気を出し」(20節)

民 13:20 土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。

これに対しては、彼らは勇気(信仰)が欠如していました(31~33節)。

民 13:31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
13:32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。
13:33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

3、「取って来なさい。」(20節)

民 13:20 土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。

これに対しては、みな従いました(23、26節)。

民 13:23 彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。
13:26 そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。

問題は、信仰と勇気の欠如だったのです。

その勇気はどのようにしたら、持てるのでしょうか。それはカレブとヨシュアの姿の中に見られます。
それは、神のみ旨を遂行していることをたえず自覚することから生まれます(14:8,9)。

民 14:8 もし、私たちが【主】の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。
14:9 ただ、【主】にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし【主】が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

1、神との関係、主の御心にかなうこと(14;8)
2、主のみ旨の自覚(14:9)
3、神の臨在の自覚(14:9)

あとがき

神のみことばの会得は、学歴や教養や教会出席の年数、大人と子どもの差も関係がないように思われます。どれくらい神のみことばの奥深くにとどくことができるかは、私たちがどれくらいキリストに近くなっているかによるように思われます。とかく、信仰の理屈を言う人が、みことばの理解は浅く、主から遠去かっていることがあります。信仰もみことばも、理屈として知るのではなくて、いのちとして分かる必要があります。

みことばは学んで知ること以上に、体験して知ることが大切です。そのためには、みことばを実際の生活に適用して使う以外に方法がありません。これを実行することによってのみ、私たちは本当に神のみことばを知ったということができます。体験されていない、生活の中で実行されていないみことばは、どんなに神学的説明が加えられても、いのちがありません。聖書のことばは、私たちが体験し、実行することによってのみ、生きたことばとなるのです。

(まなべあきら 1992.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、アメリカのthe Providence Lithograph Companyによって1907年に出版されたBible cardのイラスト「The Two Reports of the Spies(偵察隊の二つの報告)」 (Wikimedia Commonsより)


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