聖書の探求(144) 申命記9章 勝利は神の恩寵による、主に対する反逆事件の再述、モーセのとりなし
この章では、何度も「聞きなさい。」「きょう、知りなさい。」と、これから約束の地に入って行こうとしている民に、信仰の自覚を呼び起こそうとしています。主はここで、イスラエルの民に良い地が与えられるのは、彼らの正しさの故ではないことを語られた。彼らはこれまで、主を怒らせた反逆の民であったからです。それでも、この良い地を約束どおりに与えてくださる主のあわれみを深く覚えるべきだったのです。
今日、私たちも、主に反逆し続けてきたのに、なお滅びずに、主のあわれみを受けていることを深く覚えて感謝すべきではないでしょうか。
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」(哀歌3:22)
9章の分解
1~6節、勝利は神の恩寵による(ヨルダンを渡って攻進すること)
・ (1)巨人のアナク人に立ち向かう
・ (2)主ご自身が滅ほされる
・ (3)滅ぼす理由
・ a、イスラエルが正しいからではない
・ b、アナク人の悪のため
・ C、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のため
7~24節、主に対する反逆事件の再述
・ a、7節、荒野において(エジプトを出た日から、この所に来るまで)
・ b、8~21節、ホレブにおいて(特に金の子牛事件)
・ C、タブエラ、マサ、キブロテ・ハタアワにおいて
25~29節、モーセのとりなし
1~6節、勝利は神の恩寵による
先にモーセは、神の律法を守り行なうように強く教えてきました。しかしここでは、これから経験する勝利は、イスラエルの民が正しかったからではなく、神の恩寵によることを強調しています。モーセはたえず、主の律法を守り行なうべきことと、主の恩寵とを、ともに強調しています。
これは今日も健全な信仰生活を営む上で重要なことです。主のみことばを行なうことと、主の恵みを単純に信仰によって受けることとの二面は、ともにバランスよく保たなければなりません。
1節、「聞きなさい。」
申 9:1 聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえている。
モーセは聴衆に注意深く聞くことを求めました。深く心にとめて聞くことを求めたのです。たいていの会衆はこのようには聞いていません。すぐに忘れてしまって、心が空しくなり、実らなくなってしまっています。
「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺(あざむ)いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」(ヤコブ1:22~24)
3,6節、「知りなさい。」
申 9:3 きょう、知りなさい。あなたの神、【主】ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。あなたは、【主】が約束されたように、彼らをただちに追い払って、滅ぼすのだ。
申 9:6 知りなさい。あなたの神、【主】は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。
一般論としてでなく、抽象論としてでもなく、具体的に自分のこととして、深く心にとめて自覚することを求めました。
「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」(ペテロ第二3:18)
まずモーセは、これからのカナンでの戦いのために恐れおののいているイスラエルの民に、主による勝利の保証を与えました。
「あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえている。その民は大きくて背が高く、あなたの知っているアナク人である。」(1,2節)
それはかつて、カデシュ・バルネアで父たちが不信仰に陥った、あの巨人たちでした。さらにモーセは、あなたは「だれがアナク人に立ち向かうことができようか。」という噂を聞いていると、付け加えました。これは明らかに、イスラエル人が恐れおののいている状態にあったことを示しています。いつでも戦いに出て行こうとする時、不信仰になったり、傍観者になって敗北をもたらそうとする者が起きます。それは自分の力と敵とを比べるからです。しかし戦いは、主の力によるのです。これは本当に信仰のある人でなければ分かりません。
「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。」(歴代誌第二20:15)
3節、この勝利は、明らかに不可能に見えた勝利です。
申 9:3 きょう、知りなさい。あなたの神、【主】ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。あなたは、【主】が約束されたように、彼らをただちに追い払って、滅ぼすのだ。
それ故、これは圧倒的に主の働きによる勝利です。
「あなたの神、主ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。」
ここに使われている主語はみな、「主」です。私たちは主の約束に従って戦えば、必ず主が先頭に立って戦ってくださるので、必ず勝つことができるのです。
「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:37)
しかしここでモーセは、勝利を経験した時に陥(おちい)りやすい危険について、はっきりと警告しました。モーセは民が、「自分たちに勇気があったから勝てた」と考えることはないと思ったようです。しかしもっと恐ろしいことを考える危険がありました。それは、「私が正しかったからこの勝利が与えられたのだ」と。
申 9:4 あなたの神、【主】が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、【主】が私にこの地を得させてくださったのだ」と言ってはならない。これらの国々が悪いために、【主】はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。
このように思い上がることが、クリスチャンにとって最も危険なことです。しばしばクリスチャンは、「自分が熱心だったから」とか、「一所懸命したから」だとか考えやすいのです。エリヤもこの誘惑に陥っています。彼はカルメル山での大勝利の後、イゼベルの言葉を恐れて逃げ出しました。彼はホレブのほら穴の中から主にこう言いました。
「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」(列王記第一19:10,14)
彼は二度も、こう言ったのです これは、高慢以外の何ものでもありませんでした。しかし主は、「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(18節)と言われました。
モーセは、はっきりと勝利の理由を教えました。「これらの国々が悪いために」(5節)です。
申 9:5 あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、【主】が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、【主】があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。
この勝利はアナク人には審判となり、イスラエル人には恩寵となったのです。この勝利はあくまでも、主のあわれみによるものです。
モーセは5,6節と、三回も、この勝利がイスラエル人の正しさによらないことを強調しました。
申 9:6 知りなさい。あなたの神、【主】は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。
私たち人間は、自己義を主張しやすいのです。それによって、神に捨てられてしまうのです。私たちはどこまで行っても、罪から贖(あがな)われた者でしかなく、キリストの十字架なしには、神の御前に立つことのできない者であることを深く自覚しなければなりません。
「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。『ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』」(ルカ18:9~14)
私たちは、キリストの十字架に立ち続けることによって、不可能と思える大いなる勝利も成し遂げることができるのです。
5節の 「正しい」は、ヘブル語の「ツェデカー」で、行ないの正しさを意味しており、「心がまっすぐ」(ヨシュール)は、動機や目的が正しいことを意味しています。しかし6節で、モーセは、イスラエルが決して、そういう民でないことを示しています。「あなたはうなじのこわい民であるからだ」これは潔められないと、必ず、滅亡をもたらします。
私たちも新しい戦いに踏み出そうとする時、主のあわれみによって勝利が与えられるでしょうが、一人一人が「うなじのこわい民」であることをはっきり自覚して、潔められなければ、イスラエルの民と同じことを繰り返してしまうことになります。ついには不信仰になって、神の群れから離れ去って、滅びの道を歩むようになってしまうのです。このようになってしまった人が沢山いるではありませんか。彼らは潔められなかった人々です。
「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(ヨハネ15:2)
7~24節、主に対する反逆事件の再述
7節の「覚えていなさい。」という語は、申命記中に繰り返されている、もう一つの命令です。
申 9:7 あなたは荒野で、どんなにあなたの神、【主】を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは【主】に逆らいどおしであった。
ここでは、主を怒らせた事を言っていますが、主から受けた恵みも忘れないようにしたいものです。受けた恵みを忘れる時、高慢になり、忘恩の民となり、不信仰、不服従、反逆の民となっていくのです。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな(主は、あなたのすべての咎(とが)を赦し、あなたのすべての病いをいやし、あなたのいのちを穴から贖(あがな)い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」(詩篇103:2~5)
私たちは、どのようなことをした時、主からどのように扱われたかを覚えておくことは大切です。そのことを規範の一つとして生活する必要があります。イスラエルの民は、エジプトを出てから四十年間、主に逆らいどおしだったと言われています。神の民でありながら、不信仰と不服従の生活を、ずっと続けていたのです。これは今日のクリスチャンの姿ではないでしょうか。これは全くあるまじき姿であり、主を怒らせています。ヘブル人への手紙でもこのことが警告されています。
「『きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。』と言われているからです。聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが、安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」(ヘブル3:15~19)
特に、ここでは、ホレブでの金の子牛の事件を取り上げています。8節の「ホレブで」は、「ホレブにおいてさえ」と訳するほうがよいでしょう。
申 9:8 あなたがたはホレブで、【主】を怒らせたので、【主】は怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた。
ホレブにおいて、イスラエルの民は主の顕現を受け、律法が与えられ、主の民としての編成が行なわれ、幕屋も建造されました。そのホレブにおいてさえ、イスラエルの民は主を怒らせる偶像を作り、拝んだのです。この時の主の怒りが、イスラエルの民を根絶やしにされようとするほどであったとありますから、主を怒らせる罪がいかに恐ろしいかを物語っています。実に、罪の支払う報酬は死であり(ローマ6:23)、イエス・キリストを十字架にかけるほどのものなのです。
ロマ 6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
イエス様は、「私たちの罪のための -- 慣用句 私たちの罪だけでなく全世界のための、 -- なだめの供え物」(ヨハネ第一2:2)となってくださったのです。
モーセは、二度、四十日四十夜、断食をしたようです。9節の最初の時は、十戒を受けるためであり、18節の二回目は、民の犯した罪のためであったようです。
申 9:9 私が石の板、【主】があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために、山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず、水も飲まなかった。
申 9:18 そして私は、前のように四十日四十夜、【主】の前にひれ伏して、パンも食べず、水も飲まなかった。あなたがたが【主】の目の前に悪を行い、御怒りを引き起こした、その犯したすべての罪のためであり、
10節の「集まり」(ヘブル語のqahal、10:4、18:16)は、ギリシャ語の七十人訳では、エクレシア(教会)と訳されており、どちらも、「呼び出す」と「寄せ集める」を意味しています。
申 9:10 その後、【主】は神の指で書きしるされた石の板二枚を私に授けられた。その上には、あの集まりの日に【主】が山で火の中から、あなたがたに告げられたことばが、ことごとく、そのまま書かれてあった。
申 10:4 【主】は、その板に、あの集まりの日に山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書きしるされた。【主】はそれを私に授けた。
申 18:16 これはあなたが、ホレブであの集まりの日に、あなたの神、【主】に求めたそのことによるものである。あなたは、「私の神、【主】の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません」と言った。
イスラエルの民がエジプトから召し出されたように、クリスチャンはこの世から呼び出され、教会として寄せ集められているのです。
ここでは石の板が与えられたことだけが語られていて、その内容は記されていません。
申 9:11 こうして四十日四十夜の終わりに、【主】がその二枚の石の板、契約の板を私に授けられた。
それは後に、罪のために二枚の石の板が打ち砕かれたことを述べるためだからです。
12節、イスラエルの民の罪は、モーセが主から契約の坂を受けている間に行なわれていました。
申 9:12 そして【主】は私に仰せられた。「さあ、急いでここから下れ。あなたがエジプトから連れ出したあなたの民が、堕落してしまった。彼らはわたしが命じておいた道から早くもそれて、自分たちのために鋳物の像を造った。」
私たちは怠慢の罪、聖書を読むべき時、祈るべき時に、それをしていないことによって、行動的罪に陥る危険があります。
12節で主はイスラエルの民を「わたしの民」と言わず、モーセに「あなたがエジプトから連れ出したあなたの民」と言われました。
13,14節では、さらに主は、この性質の悪い、うなじのこわい民を滅ばして、モーセから新しい主の民を造ろうと言われました。
申 9:13 さらに【主】は私にこう言われた。「わたしがこの民を見るのに、この民は実にうなじのこわい民だ。
9:14 わたしのするがままにさせよ。わたしは彼らを根絶やしにし、その名を天の下から消し去ろう。しかし、わたしはあなたを、彼らよりも強い、人数の多い国民としよう。」
果たしてこれは、モーセにとって名誉なことだったでしょうか。モーセが少しでも自分の名誉や利得を考える人であったなら、喜んで、この主のお言葉に賛成したことでしょう。
15節、しかしモーセは急いで山をかけ下りました。
申 9:15 私は向き直って山から降りた。山は火で燃えていた。二枚の契約の板は、私の両手にあった。
モーセは罪に対する主の激しい怒りを直接感じ取ったのです。私たちも罪に対する主の怒りに、畏れおののいて、とりなしのために山を下るほど、主の近くに生活しているなら、私たちのとりなしの祈りは力あるものとなるでしょう。
16,17節、モーセは鋳物の子牛の偶像礼拝を見た時、二枚の石の板を打ち砕きました。
申 9:16 私が見ると、見よ、あなたがたはあなたがたの神、【主】に罪を犯して、自分たちのために鋳物の子牛を造り、【主】があなたがたに命じられた道から早くもそれてしまっていた。
9:17 それで私はその二枚の板をつかみ、両手でそれを投げつけ、あなたがたの目の前でこれを打ち砕いた。
これは勿論、モーセに怒りがあったからだと思いますが、それ以上に、この罪によってせっかく主と結んだ契約が破棄されてしまったからです。モーセは再び最初からやり直さなければなりませんでした。しかし群衆とは、いつでも無責任にこういうことを平気で行なう者です。教会の中で、いつも問題を起こしている人は、こういう無責任な人たちではないでしょうか。
18節、モーセは再び、主の御前にひれ伏し、四十日四十夜断食して、とりなしの祈りを始めました。
申 9:18 そして私は、前のように四十日四十夜、【主】の前にひれ伏して、パンも食べず、水も飲まなかった。あなたがたが【主】の目の前に悪を行い、御怒りを引き起こした、その犯したすべての罪のためであり、
パウロもすぐに異なる福音に迷わされていってしまっているガラテヤのクリスチャンのために、こう言っています。
「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(ガラテヤ4:19)
19節の「激しい憤りを私が恐れたから」と言っている「恐れ」とは、恐怖のことではありません。これは「畏れおののく」ことです。
申 9:19 【主】が怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた激しい憤りを私が恐れたからだった。そのときも、【主】は私の願いを聞き入れられた。
モーセはかつて、出エジプト記3章6節で、燃える柴の中から主の御声を聞いた時に、この畏れを経験しました。
出 3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
今度は、その時以来の経験です。モーセは主の前で、深い敬虔と畏れを抱きました。それ以後、彼の主に対する敬虔と畏れは、モーセの説教中に度々、出てきます(申命記4:10,24、5:29、9:3、28:58)。
申 4:10 あなたがホレブで、あなたの神、【主】の前に立った日に、【主】は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」
申 4:24 あなたの神、【主】は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。
申 5:29 どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。
申 9:3 きょう、知りなさい。あなたの神、【主】ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。あなたは、【主】が約束されたように、彼らをただちに追い払って、滅ぼすのだ。
申 28:58 もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、【主】を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行わないなら、
このモーセの敬虔な思いは、主への単純な信頼と結びついていきました。
20節、モーセは兄アロンのためにも、とりなしています。これができるのは、モーセ以外にいません。
申 9:20 【主】は、激しくアロンを怒り、彼を滅ぼそうとされたが、そのとき、私はアロンのためにも、とりなしをした。
21節、そして子牛の偶像はその形をとどめないほど粉々にされ、そのちりを川に投げ捨てました。
申 9:21 私はあなたがたが作った罪、その子牛を取って、火で焼き、打ち砕き、ちりになるまでよくすりつぶした。そして私は、そのちりを山から流れ下る川に投げ捨てた。
19節、こうして、主はモーセのとりなしを聞き入れられたのです。
申 9:19 【主】が怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた激しい憤りを私が恐れたからだった。そのときも、【主】は私の願いを聞き入れられた。
今日、イエス・キリストはモーセのとりなし以上に、日夜私たちのためにとりなしてくださっていますので、私たちの信仰は保たれているのです。
「モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。しかしキリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」(ヘブル3:5,6)
「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:24,25)
22~24節は、イスラエルの民がいかに主に逆らったかを、再び語っています。
申 9:22 あなたがたはまた、タブエラでも、マサでも、キブロテ・ハタアワでも、【主】を怒らせた。
9:23 【主】があなたがたをカデシュ・バルネアから送り出されるとき、「上って行って、わたしがあなたがたに与えている地を占領せよ」と言われたが、あなたがたは、あなたがたの神、【主】の命令に逆らい、主を信ぜず、その御声にも聞き従わなかった。
9:24 私があなたがたを知った日から、あなたがたはいつも、【主】にそむき逆らってきた。
このことは、成人した男子だけで、主の民が六十万人以上もいたにも拘らず、本当に主が分かっていた者が、ほとんどいなかったということになります。なぜ、こんなにも大多数の者が主を知ることができなかったのかというなら、それは彼らがたえず主に呟(つぶや)き、逆らう生活を続けていたからです。このことは今日でも同じです。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩くことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
「神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊」(使徒5:32)
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネ第一1:7)
私たちはイエス様のみことばに従って歩む時、ますます主と深く交わるようになり、ますます主を知るようになり、ますます主を愛するようになります。しかし主のみことばを聞き流して忘れ、この世と妥協して、この世にならい、自己中心の生活をして、主に逆らった生活を続けているなら、どんなに大勢の教会員がいても、みんな、主を知らない者となってしまうのです。主を知る道は一つしかありません。主のみことばを信じ、生涯を通してみことばに忠実に生きることです。これによってだけ、主を体験的に知ることができるようになるのです。イスラエルの民が主から多くの教えを受け、訓練を受けていたにも拘らず、心の底にたえず主に逆らう思いを持っており、心から主に忠実でなかったことによって、いつまでも主を霊的に体験することができず、いつも肉的にしか、この世的にしか、宗教を見ることができなかったのです。
22節の三箇所の反逆
タブエラ(民数記11:1~3)
民 11:1 さて、民はひどく不平を鳴らして【主】につぶやいた。【主】はこれを聞いて怒りを燃やし、【主】の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。
11:2 すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセが【主】に祈ると、その火は消えた。
11:3 【主】の火が、彼らに向かって燃え上がったので、その場所の名をタブエラと呼んだ。
マサ(出エジプト記17:7)
出 17:7 それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、【主】を試みたからである。
キブロテ・ハタアワ(民数記11:34)
民 11:34 こうして、欲望にかられた民を、彼らがそこに埋めたので、その場所の名をキブロテ・ハタアワと呼んだ。
これらは不平や呟(つぶや)きによるもので、激しい主の怒りを引き起こしました。不平や呟(つぶや)きは、盗みや殺人のような罪ではありませんが、主に対して不信仰な態度で、滅ぼされるのに十分な罪なのです。心にわずかでも不平不満を抱いて生活している人は、主を知ることができません。
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)
23節の反逆は、神の約束の地を攻め取らないという臆病と不信仰、不服従の罪です。
申 9:23 【主】があなたがたをカデシュ・バルネアから送り出されるとき、「上って行って、わたしがあなたがたに与えている地を占領せよ」と言われたが、あなたがたは、あなたがたの神、【主】の命令に逆らい、主を信ぜず、その御声にも聞き従わなかった。
主の約束のみことばを信じ切らない罪、さらにそれを実行しない罪です。多くのクリスチャンと言われている人々が、再びキリストと教会から離れてしまうのは、感情的経験しかしておらず、みことばに根ざし、みことばを実行する信仰生活をしていないからです。岩の上に家を建てた人とは、みことばを信じて実行する人のことです(マタイ7:24,25)。
マタ 7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
このことを毎日実行し続けることによってのみ、実を結んでいくのです。
「‥‥心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」(ヤコブ1:21~25)
24節によると、イスラエル人はモーセがエジプトに帰った日から、ずっと四十年間、主にそむき、逆らい続けてきたのです。
申 9:24 私があなたがたを知った日から、あなたがたはいつも、【主】にそむき逆らってきた。
信仰生活は長いだけではいけません。信仰の内容が問題なのです。
25~29節、モーセのとりなし
25節、このような民のためにモーセは四十日四十夜、主の前にひれ伏して祈りました。
申 9:25 それで、私は、その四十日四十夜、【主】の前にひれ伏していた。それは【主】があなたがたを根絶やしにすると言われたからである。
「それは主があなたがたを根絶やしにすると言われたからである。」これは私たちのためにとりなしていてくださるイエス様のお姿です。いつも、主に逆らい続けている愚かな私たちのために、主は十字架にかかり、今もとりなしていてくださるのです。イエス様のとりなしがなければ、私たちも滅びてしまうのです。
「シモン、シモン。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)
「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)
「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)
26~29節は、モーセのとりなしの祈りの内容です。
26節、「あなたの所有の民」モーセはイスラエルの民を「主の所有の民」と言っています。
申 9:26 私は【主】に祈って言った。「神、主よ。あなたの所有の民を滅ぼさないでください。彼らは、あなたが偉大な力をもって贖い出し、力強い御手をもってエジプトから連れ出された民です。
すなわち、主が偉大な力をもって贖(あがな)い出し、力強い御手をもって奴隷の地から救い出された民です。イエス様はすでに私たちのために十字架の代価を払っておられますから、私たちはこの愛にお応えしなければなりません。すでに私の贖(あがな)いの代価を払ってくださっているのですから。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一6:20)
27節、モーセはこのとりなしの中に、主のしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を持ち込んでいます。
申 9:27 あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。そしてこの民の強情と、その悪と、その罪とに目を留めないでください。
これは主のみことばの真実さが保証されることを訴えているのです。モーセもまた主の約束のみことばを握って祈ったのです。主のご真実は主のみことばの成就によって現わされるからです。
「この民の強情と、その悪と、その罪とに目を留めないでください。」
モーセのこのとりなしは、主に受け入れられませんでした。それはイスラエルの民が罪を悔い改めなかったことと、罪は必ず処罰されなければならないからです。今日、私たちはすでにイエス様が十字架の上で、私の罪の刑罰を受けて下さったので、私たちは罪が赦され、潔められるのです。この大いなる恵みを決して忘れてはいけません。これを忘れると、イスラエルの民と同じように忘恩の民となって、滅びることになってしまうのです。
28節、モーセは、異教の民が、イスラエルが滅んでいくのを見て、主はご自分の民を約束の地に導き入れるのに矢敗したと言って、主の御名が汚されることを恐れました。
申 9:28 そうでないと、あなたがそこから私たちを連れ出されたあの国では、『【主】は、約束した地に彼らを導き入れることができないので、また彼らを憎んだので、彼らを荒野で死なせるために連れ出したのだ』と言うでしょう。
29節で、モーセは再び、26節の「あなたの所有の民です。」を繰り返しています。
申 9:29 しかし彼らは、あなたの所有の民です。あなたがその大いなる力と伸べられた腕とをもって連れ出された民です。」
私たちが本当に主の民なら、主のみことばに忠実でありたいと思います。不平、不満、呟(つぶや)き、反逆、不服従をやめて、みことばに従順に従い続けたいものです。これ以外に、主を知ることはできないし、神の国に入ることもできないのです。
(まなべあきら 1995.11.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵画は、フランスの画家 Nicolas Poussin (ニコラ・プッサン、1594–1665)によって1633-1637年頃に描かれた「The Adoration of the Golden Calf(金の子牛礼拝)」(ロンドンのNational Gallery蔵、Wikimedia Commonsより)
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