聖書の探求(175) 申命記32章48~52節 モーセの死の宣告とその理由

モーセのように、主から重大な使命を受けた人であっても、人はみな、仕事半ばで地上を去って行くのです。私たちの働きはすべて未完成で、この世を去って行くことになります。心残りがあるかもしれません。また周りの者は、「この仕事をぜひともやらせてあげたかった。」と言うかもしれません。モーセに対してなら、「せめて、カナンの地を踏ませてあげたかった。」と。それが人情でしょう。

ところが、人の目に未完成に見えていても、神の目には、そこでその人の仕事は完成しているのです。ここに人の思いと神のご計画の違いがはっきりしています。この世に対する人の未練は限りがありません。しかし神は私たちに対して、御自分の仕事をどこまでさせるかのご計画も持っておられるのです。そしてその後をどのようにしていくかも、主は御自分でご計画をしておられるのです。

たとえば、イスカリオテのユダが主を裏切って、首を吊って死んだ後、ペテロはユダの代わりになる「イエスの復活の証人」をひとり選ばなければならないと提案しました。そしてバルサバとマッテヤの二人を立てて、くじを引くとマッテヤが当たり、彼は十一人の使徒に加えられました。しかし主のご計画は別にありました。主は迫害者サウロを選んで、使徒パウロとされたのです。

神のご計画は神御自身がお決めになられます。これは人類史上、ずっと行なわれて来たことですから、私たちが心配することはありません。しかし神の民はいつでも、だれでも主のために有効に奉仕できるように学び、訓練を受け、成長した信仰者となっている必要があります。「自分はリーダーではないから」という考えを持っているなら、その人は信仰から脱落していく危険があります。

カレブはヨシュアのように指導者には選ばれませんでしたが、カレブの信仰は年老いても衰えることはありませんでした。しかしイスカリオテのユダは十二弟子に選ばれていながら、弟子の仲間の中で中心人物になれなかったためか、差別を受けていると思ったためか、金銭欲に捕われて、裏切り者へと落ちていったのです。教会の中でも、みんなの前で中心的に働いていると気分をよくし、司会や教師の働きからはずされると、批判者になったり、教会に来なくなる人がいます。こういう人が教会の中で中心になって働いていること自体、問題なのです。

48節、「この同じ日に」モーセがイスラエルの民に戒めのすべてのみことばを語り終えた日に、主はモーセに死の宣告をされました。

申 32:48 この同じ日に、【主】はモーセに告げて仰せられた。

すなわち、主はモーセがこれらの戒めのみことばを教え終わることによって、モーセの地上での働きは完了したと、お決めになられたのです。それはモーセにとっても、民にとっても、予想はしていたものの、あまりにも突然のことに思えたことでしょう。そのように死は突然にやって来るのです。心づもりはしているものの、まだ少しは余裕があって一息つけるだろうと思っているうちに、死は突然にやって来るのです。

49節、モーセは、死を迎えるために、モアブの地のアバリム高地のネボ山に登るように命じられています。

申 32:49 「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。


一番上の写真は、ヨルダンにあるネボ山の写真、東側はヨルダンの緩やかな丘陵だが、西側は急な険しい下りになっていて、当時のカナンの地、現在のイスラエルとパレスチナ地方が見渡せる。

下の写真は、ネボ山の頂から西方の景色。はるか遠くの下方に、現在の国境であるヨルダン川があり、川沿いの木々が薄い緑の線として見られる。その向こう側(ネボ山から約27Km)にエリコの町がある。(2016年の訪問時に撮影)

モーセの生涯はエジプトで始まり、最初の四十年をエジプトで過し、次の四十年をミデヤンの荒野で過ごし、最後の四十年はシナイの荒野で過ごし、その生涯の最後をモアブの地で迎えたのです。彼はイスラエルの指導者でありながら、イスラエルの地で過ごしたことがなかったのです。実にモーセの生涯は異教の地を旅する人の生涯でした。その苦難は筆舌に表わせないものがあります。彼は兄のアロンや姉のミリヤム、それにイスラエルのつかさたちからも数々の非難を受けましたが、彼の苦難と忍耐を知る者は少ないでしょう。見栄や高慢から他人を非難することは容易(たやす)いことです。しかし、同じようにリーダーの重荷を負って、民を導くことができる人は稀(まれ)です。

「アバリム」とは、「国境線の山」という意味があるらしく、ネボ山はその山並みの中で最も高い頂上の地を指していたと思われます。

モーセはこの山に登って、主がイスラエル人に与えて所有させようとしておられるカナンの地を見た後に死ぬことが告げられています。モーセは百二十才であっても、ネボ山に登ることができたのですから、その体力は非常にすぐれていたことは間違いありません。それ故、モーセの死は病死ではなく、明らかに主が取り去られたのです(申命記34:5,6、ユダの手紙9)。

申 34:5 こうして、【主】の命令によって、【主】のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。
34:6 主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。

ユダ 1:9 御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。

ところで、主はなぜ、モーセにカナンの地を見せられたのでしょうか。それはモーセがこれまで果たしてきた奉仕が、すべて無駄でないこと、確かにイスラエルは神の約束どおり、カナンの地を相続することを、モーセに確信させるためであったと思われます。モーセにとっては、実際にカナンの地に入って相続するという経験は与えられなかったけれど、彼は神の約束の地を見渡すことによって、すでに十分に法的に所有するに至っていることを確信することができました。これによってモーセは自分の働きが完了したことを自覚することができたでしょう。

50節、モーセの兄アロンがカナンの地に入ることなく、ホル山で死んだように(民数記33:38~39)、モーセもカナンの地に入ることなく、死ななければなりませんでした。

申 32:50 あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。

民 33:38 祭司アロンは【主】の命令によってホル山に登り、そこで死んだ。それはイスラエル人がエジプトの国を出てから四十年目の第五月の一日であった。
33:39 アロンはホル山で死んだとき、百二十三歳であった。

その理由は51節で、「あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現わさなかったからである。」と言われています。

ここで主が「あなたがた」と言われたのは、民数記20章10~12節を見ると、おそらくモーセとアロンを指していたと思われます。

民 20:10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
20:12 しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

モーセのように温順で、謙遜で、忍耐深い神のしもべであっても、あまりの民の不信仰と心頑(かたくな)な態度の故に、主の聖を現わさないということに陥ってしまうことがあるのです。この時、モーセとアロンは「逆らう者よ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」(民数記20:10)と言って、怒りを現わしています。

主の奉仕を怒りによって行なったということも、主の聖を現わさなかったことですが、それとともに、主は「岩に命じれば、岩は水を出す。」(民数記20:8)と命じられていたのに、モーセは岩を二度打っています。(同11節)

民 20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」

民 20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。

主のみことば通りに行なわなかったことも、主の聖を現わさないことであり、さらに、モーセとアロンは、自分たちが水を出すように言っています(同10節)。

民 20:10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」

主が水を与えて下さることをあかしすべきだったのです。私たちも、主がして下さったことを、自分の努力の手柄にしてしまいやすい危険があります。主に栄光を帰さないとき、主の聖を現わさないことになります。こうしてモーセも、アロンもカナンの地に入ることが許されませんでした。

しかし、ここには記されていない理由もあったのではないかと思われます。

その一つは、さらにモーセがカナン地に入って長年の戦いを続けることは、年老いたモーセにとって過重な働きと主が思われたからでしょう。

もう一つは、次のリーダーになるヨシュアにとっても、モーセにカナンの戦いをしてもらって、平穏な時だけ民のリーダーになるのは、いいことではなかったでしょう。その実例として、ダビデは、息子のソロモンにはほとんど苦難を経験させないで、ソロモンが建てるはずの神殿の建築材料まで準備をしてやりました。ソロモンの名前は、安息、平和、平穏を意味しています(歴代誌第一 22:9)。

Ⅰ歴代 22:9 見よ。あなたにひとりの子が生まれる。彼は穏やかな人になり、わたしは、彼に安息を与えて、回りのすべての敵に煩わされないようにする。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与えよう。

その名が示す通り、彼は見かけ上は、政略結婚を利用して平穏な時を過しました。しかしソロモンは高慢になり、民に重税を課し、国を分裂させる原因をつくり、周辺諸国から偶像を取り入れることをしてしまったのです。このことは後々のアッシリアとバビロン捕囚の原因となっていったのです。苦難を十分に経験していないリーダーは高慢になりやすいのです。親は、「苦労は自分がして、息子、娘には苦労させたくない。」と思うのが人情かも知れませんが、それが今日の混乱と堕落の社会を造ってしまったのです。

それ故、モーセがネボ山から主のみもとに帰り、ヨシュアがカナンでの戦いに従事したことは、リーダーとなるヨシュアにも、イスラエルの民にとっても必要であったことは事実です。

52節、私たちは、自分に与えられた働きの将来を見つめつつ、この地上を去って、主のみもとに行くことになるのです。

申 32:52 あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へ入って行くことはできない。」

主のご計画は永遠であり、私たちの生涯は限りがあるからです。しかしモーセは地上のカナンの地には入れませんでしたが、彼はさらにすぐれた神の約束の都に招かれたのです。後に彼はエリヤとともに、旧約の代表者として変貌の山に現われて、主イエス様とお会いしています。私たちもまた、地上での働きは残して去ることになりますが、やがて神が堅い基礎の上に建てられた都において、その完成を見ることができるのです。

あ と が き

今朝、洗面所で顔を洗っている時、突然、腰がギクッとなり、ギックリ腰になってしまいました。経験された方はお分かりのことと思いますが、身動きが非常につらくなります(そのとき思ったことは、創世記32章のペヌエルで、もものつがいがはずされ、歩くのが不自由になったのも、このようなものかと。もしそうであれば、これもまた主の恵みに違いありません。しかし、じっと坐っているのもつらいし、横になれば起き上がるのが、これまたつらい。こんな具合で今日、一日を過して、この聖書の探求を書いているわけです。本当に皆様のお祈りの支えがあって、この聖書の探求を書くことができているのだと、感謝しております。今後とも、お祈りとご支援をいただければ幸いです。

(まなべあきら 1998.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)


 

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