聖書の探求(174) 申命記32章36~47節 主のあわれみの約束、モーセの勧告

36~43節、主のあわれみの約束

これまでの矛先は敵に向けられていましたが、ここからは直接イスラエルに御旨(みむね)が向けられています。

36節、イスラエルは、力を完全に失ってしまい、奴隷も、自由人もいなくなってしまうほどの、完全に荒廃してしまう、イスラエル滅亡の瀬戸際に立たされていました。

申 32:36 【主】は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。彼らの力が去って行き、奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに。

そういう、今にも息の根が絶えそうな、きわどい瞬間に、潮流は変わった。主が御民をかばい、主のしもべらをあわれまれたからです。これは今日の日本のキリスト教会に対して言われているような気がします。

イスラエルが罪の故に、今、まさに完全に滅びてしまおうとしている、その瞬間に、主はご自分の民を見捨てず、保護し、同情を示されるのです。民はこの時、主の愛とあわれみと、主の力強い御手の救出を知るのです。そしてそれ以後、決してニ度と偶像礼拝を行なわなくなるのです。

イスラエルが浅はかにも頼りにしていたカナンの偶像の神々は、いったいどこにいるのか。主は皮肉って、ご自分と同じように「岩」と呼んでいます(37節)。

申 32:37 主は言われる。「彼らの神々は、どこにいるのか。彼らが頼みとした岩はどこにあるのか。
32:38 彼らのいけにえの脂肪を食らい、彼らの注ぎのぶどう酒を飲んだ者はどこにいるのか。彼らを立たせて、あなたがたを助けさせ、あなたがたの盾とならせよ。

これらの神々が、イスラエル人のいけにえの脂肪を食らい、注ぎのぶどう酒を飲んでいたのだから、それらの神々に盾となってもらって、助けてもらえばいいのだと、偶像に従って行ったイスラエルの愚かさを辱(はずかし)めているのです。

39節、本当に救うことのできるお方は、主以外にない。

申 32:39 今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。

それ故、主は「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。」と言われる。イスラエルは滅亡寸前で救われることによって、主以外に生ける神、救い主はいないことを知るようになるのです。

私たちも、自分の生甲斐(いきがい)を見つけるため、救いを求め、助けを求めて、この世の神々や、哲学、思想、富や地位、人の助けを求めて、さまよい歩いた者です。そして、ますます傷ついた末に、イエス様のもとにたどりついたのです。このことを決して忘れてはなりません。

主以外に神はいない。ただ、主おひとりだけが生命を与えて生かし、また死の力を持つ神なのです。主の御手の中から逃げ出すことができる者は誰もいない。主が怒られたら、その罪の刑罰から抜け出すことのできる者は誰もいないのです。しかし御子イエス・キリストの十字架の贖罪(しょくざい)だけが、それを可能にしたのです。

40,41節、

申 32:40 まことに、わたしは誓って言う。『わたしは永遠に生きる。
32:41 わたしがきらめく剣をとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは仇に復讐をし、わたしを憎む者たちに報いよう。

「わたしは永遠に生きる」(40節)と主が宣告されていることは、主の義なるご性質も永遠であり、その御手のみわざも永遠であることを誓われたことを意味しています。

そして主は、ご自身の「きらめく剣をとぎ」、主を憎み、敵対する高慢な者に対しては、復讐し、彼らにふさわしい報いを与えられる。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ14:4)

「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。」(箴言3:34)

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(第一ペテロ5:5)

42節では、実際に剣がふるわれることが記されています。

申 32:42 わたしの矢を血に酔わせ、わたしの剣に肉を食わせよう。刺し殺された者や捕らわれた者の血を飲ませ、髪を乱している敵の頭を食わせよう。』」

これは敵対者に対する主の審判が容赦のない徹底したものであることを生々しく描写しています。「髪を乱している敵の頭」とは、敵対者たちが髪を長くのばし、乱れている姿を言ったものか、あるいは、彼らが、戦争に対して宗教的誓願をかけている姿を示していたのか、いずれかであると思われます。

43節、主の宣告は37~42節で終わったが、モーセは43節で、諸国の民に呼びかける歌をもって閉じています。

申 32:43 諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖(あがな)いをされるから。

イスラエルが敵の手から救い出されることの故に、喜び歌えと言われているのは、イスラエルを通して、地上のすべての国民が祝福を受けるようになるからです。

「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)

この預言は、イエス・キリストがアブラハムの子孫として降誕されたことによって、永遠に実現されたのです。

喜びと讃美はまず、主がご自分のしもべの血のかたきを打ち、ご自分の仇に復讐を行なって、ご自身の正義を示すことによって始められました。

次に、主はご自分の民の地を贖(あがな)う(買い戻す)ことによって、ご自身のあわれみを実際に、具体的に示されました。主のあわれみ深いご性質は、いつも「贖(あがな)い」のみわざによって表わされているのです。贖(あがな)いのみわざのない、あわれみは存在しないのです。ですから、どんなに罪深い者でも、主のあわれみにより頼むなら、救われない者は一人もいないのです。

「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」(エペソ2:5)

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)

「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)

主は罪を罰しなさる神であるとともに、信じる者の罪を赦し、潔めてくださる神でもあられるのです。

「わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。」(イザヤ45:21)

「それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:26)

旧約においても、新約においても、主は正義の神であり、また同時に、あわれみ深い救い主であられます。

44~47節、モーセの勧告

モーセは、契約の歌を書き記し、それをイスラエルの民に読み聞かせる時にホセア(ヨシュア)を一緒に連れて行きました。

申 32:44 モーセはヌンの子ホセアといっしょに行って、この歌のすべてのことばを、民に聞こえるように唱えた。

それは民の前に、ホセアが次の時代の民の指導者となることを示すためであり、またホセアにも指導者となる自覚を持たせるためであったと思われます。
ホセアは彼の最初の名前で、その意味は「救い」です。それをモーセがヨシュアに変えました(民数記13:8,16)。その意味は「主は救い」です。

民 13:8 エフライム部族からはヌンの子ホセア。

民 13:16 以上は、モーセがその地を探らせるために遣わした者の名であった。そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。

モーセは、イスラエルのすべての人々に、契約の歌のすぺてのことばを、教え聞かせました。

申 32:45 モーセはイスラエルのすべての人々に、このことばをみな唱え終えてから、

それはモーセが地上を去った後の世代の人々が、心に深く留めて、守り行なうためです。これを守り行なえば、イスラエルの後の世代は、主の祝福を受けて、主の栄光を現わす民族となるからです。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:7,8)

46節は、これらのみことばを聞いた民たちが、いかにすべきかを教えています。

申 32:46 彼らに言った。「あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行わせなさい。

その要求は二つです。

一つは、聞いた人、ひとり一人、すべての者が、この戒めのみことばのすべてを深く心に納めるようにと命じています。
すなわち、「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺(あざむ)いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブの手紙1:21,22)ということです。

「みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(使徒の働き20:32)

モーセは神のみことばの力を信じていました。みことばが民のひとり一人の内に力となって働くためには、ひとり一人が主を信じて、御霊が働いて下さることが不可欠ですが、モーセは、自分が地上を去って行く時、この神のみことばにすべての民をゆだねたのです。

パウロも、エペソの教会を去って、二度と会えないだろうと思われた時、彼もまた神と神のみことばにエペソのクリスチャンたちを委ねたのです。みことばは私たちの霊魂を育成し、聖なる神の家族をつくり、御国を受け継がせてくださるのです。私たちはもっと、聖霊と主のみことばに信頼し、みことばに従った生活を営むぺきです。これ以外に、私たちの霊魂が成長し、御国を受け継ぐ道はないのですから。

もう一つは、このみことばを次の世代の子どもたちに伝え、守り行なうように教え、導くことです。これは神の民が存続するために不可欠です。しかもこのみことばの継承は家庭で、親子の間で、みことばの信仰を生活の中で活用することによって行なうべきなのです。

しかしこの日本のクリスチャンの家庭を見ていると、決してこのことが十分に行なわれているとは言えません。大抵のクリスチャンの親たちは、子どもが主の日の教会学校に出席していると安心し、洗礼を受けると喜ぶのです。子どもが受洗するのを喜ぶのはいいのですが、もっと大事なみことばの信仰が子どもたちの心の中に根ざしていく、継承が全く行なわれていない状態にあります。

親は子どもの信仰については、教会にまかせっきりです。しかしほとんどの教会では、一週間に一、二時間しか子どもと接していないのですから、子どもの心に、みことばの信仰を植えつけるのは不可能に近いくらい困難です。

これを実現するためには、まず親自身がみことばに根ざした信仰を持ち、それを実際に生活の中で活用して、子どもたちに見せることです。

第二に、いかにすれば、子どもの心にみことばの信仰を植えつけることができるか、その教育法について学ぶ必要があります。何も知らないで、無理矢理、強制的にみことばを行なうように命じても、一時的には従っていても、また小学生の間は喜んでやっているように見えても、中学生も後半になると、その反動が明らかに現われてきて、却(かえ)って信仰に反発するようになるのです。

また、聖句を暗誦(あんしょう)することは幸いなことですが、聖句を沢山暗誦(あんしょう)できても、みことばの信仰が根ざしているわけではありません。子どもがみことばを暗誦(あんしょう)できると、親も牧師も非常に喜びますが、まだみことばの信仰が根ざしているのではないのです。みことばの信仰が根ざしているかどうかは、みことばに従って、自己否定や自己犠牲が自発的に喜んでとれるようになるか、どうかで分かるのです。

親や教会員のすべて、牧師も、子どもたちが、みことばの信仰に根ざすように指導できるために、真剣に学ぶ必要があります。これこそが、教会の未来の成長と、神の国の拡大を約束するのです。そのため私たちの教会では、プリ・スクール(未就学児の教育法)、CS教授法、中学科教授法、聖書の教え方(大人のクラスのため)、クリスチャンのカウンセリング、児童人格教育学習会など、多年にわたって学びを続けてきました。これらの内容はテープに収録されており、多くの人に再度用いられていますから、その効果はやがて現われて来ると信じています。

みことばの信仰は楽しいものであるとともに、人格的に、そして生活的にも実を結んでくるものでなければなりません。健全な指導をしていけば、必ず実を結んでくるはずです。子どもを怒鳴りつけたり、強制的にやらせても、心には根ざしていかないのです。

信仰の継承とは何か。聖書が言っているところは、洗礼を受けることでも、牧師にならせることでも、神学的知識を覚えさせることでもありません。それらを全部しても、なお信仰は継承されていません。それはうわべを継承しただけです。聖書が言うところは、みことばに根ざした人格を持つことと、生活の営みです。

47節は、みことばの本質を示しています。

申 32:47 これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」

契約のみことばは、決してむなしいことばではありません。クリスチャンの多くの人はどれほど、みことばの価値を体験しているでしょうか。聖書を大切なものとは思っているでしょうか。それだけではみことばの価値を知っているとは言えません。大抵の人がみことばを聞いては忘れてしまう、よくても、覚えては忘れてしまう、むなしいことばになってしまっていないでしょうか。

みことばを聞くことは大事です。みことばを覚えることも大事です。しかしみことばは聞くため、覚えておしまいにしてしまうために与えられているのではありません。信じて行ない、実を結んで主の栄光を現わすために与えられているのです。

みことばを信じて行なわない人の心の中には、たえず、信仰に対する無力やむなしさが漂っています。「結局は信じても何の役にも立たない。気休めなんだ」という気分に浸っているのです。ここから抜け出さなければなりません。そのためにはみことばだけをあてにして、幾重もの困難を乗り越えて行く経験をしていく必要があります。アブラハムは主のみことばのご命令だけをあてにして生れ故郷を旅立ったのです。行く先も分からないままに。

「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」(ヘブル11:8)

モーセとイスラエルの民は、主のご命令に従って紅海の海の底を渡って行ったのです。
ヨシュアとイスラエルの民はヨルダンの川底を、主のご命令だけに従って渡って行ったのです。

あなたも本当にこれと似たような経験をすることなしには、みことばの権威と力を知ることはできないでしょう。たといあなたが聖書学者であっても、この経験なしには、聖書をも、神の力をも知らない律法学者やパリサイ人と同じなのです。学者にはこういう人が多いのではありませんか。私たちは学者の言うことに従うのではなくて、主のお命じになる、主のみことばに従うべきなのです。

クリスチャンの心の中で、主のみことばがむなしくなっていることは、まことに残念なことです。ぜひとも私たちの心の中でみことばが力となり、いのちとなって燃え上がってくるまで、主を信じたいものです。

「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24:32)

「私は、『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。』と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」(エレミヤ書20:9)

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)

あなたの心の中でみことばが赤々と燃えて輝く灯となるまで、主と交わり、主に信頼して下さい。そして主のいのちとエネルギーに満たされて一日を始めて下さい。その時には神の知恵も力も与えられています。困難や失敗をも乗り越えて行くことができるようになります。とにかく、みことばを体験しなければ、むなしさを吹き払い去ることはできません。

次に 「あなたがたのいのちであるからだ。」は、すでにお話してきた通りです。人が肉体のいのちのためにどんなことでもするなら、自分の霊魂のいのちのためには、どんなことをすべきなのでしょうか。これまで歴史の中で、多くの聖徒たちが主のみことばのために殉教の死を遂げてきました。それは、みことばが彼らひとり一人のいのちとなっていたからです。みことばを重視しない人は、自分の霊魂のいのちを死なせている人です。主が、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マタイ16:26)と言われたのは、人の肉体のいのちのことではなくて、霊魂のいのちのことです。

また主は次のようにも語っておられます。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」 (マタイ10:28)

パウロが、「いのちのことばをしっかり握って、彼らの闇で世の光として輝くためです。」(ピリピ2:16)と言ったのは、このことです。

最後に、このいのちのことばをしっかり握って生活をすることによって、信仰をさまよう放浪の生活を終わらせて、神の約束の地、乳と蜜の流れる祝福の地を所有するようになり、実り多い信仰生活を営むことができるようになると約束されています。

たとい、あなたがこれまで、長い間、不毛の地をさまよい歩く生活をたどっていた人であったとしても、今日から、みことばに信頼して、従順にみことばに従い、行なう生活を始めるなら、あなたはこれまでの信仰と不信仰の間をさまよい歩く放浪の生活を終えて、神の約束された生活へと入って行くことができます。そして多くの実を結ぶようになり、そのあかしによって主の栄光を現わすようになるのです。

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(第一コリント16:20)

教会は、集会を開いているだけではなく、行事や儀式を行なっているだけではなく、もっともっと、みことばを宣べ伝え、教会員がみことばに根ざした生活ができるように指導すべきです。これをしなければ、信仰の実質のない、骨抜きの、形だけの教会になってしまいます。もうすでにそのようになってしまっていると言っても過言ではないでしょう。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(テモテ第二4:2)

さて、イスラエルの民は、このモーセの歌をどのように行なってきたでしょうか。イスラエルの歴史は、主が民との契約をどのように守られてきたかを示す記録であり、神の審判の教えの注解であると言ってもいいでしょう。主が現実に生きておられ、祝福も、刑罰も実際に行なわれるお方であることは歴史が証明しています。主は従順な信仰者に対して祝福を与える手段も持っておられるし、罪と反逆に対して審判を下される手段をも持っておられるのです。

主は、何もしないで天に坐っておられるお方ではありません。一見、神の義が侮(あなど)られ、無視され、偽りやののしり、悪が罰せられず、大手を振って歩いているように見え、社会で正当化されていくように見えます。またそういう時代や国の中で、神のみこころを行なうことは困難に思えます。それは社会で正当に受け入れられないように見えています。しかし神が何もなさっていないのではないのです。神のみわざは誰の手によっても変えることができないほど確実に、しかも永遠に行なわれ続けているのです。それによって、滅びる者は確かに滅び、祝福を受ける者は、キリストの救いを受けて、必ず祝福を受けるのです。このことを保証しているのが御子イエス・キリストの十字架なのです。

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐を持って見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:21~26)

あ と が き

梅雨が明けたのか、明けないのか、分からないような毎日です。また日本の各地でも集中豪雨、冷害などの被害が出てきています。皆様の所ではいかがでしょうか。

さらに日本全体が政治、経済、社会状態においても急速に衰退沈没しています。このことは日本に、すぐれた力あるリーダーシップを持ったリーダーがいないことをあからさまに示しています。

家族ぐるみで遊ぶだけの家庭生活と、就職のためだけの学校教育からは、たとい成績がどんなによくても、すぐれたリーダーは育って来ないことが実証されました。

それでは教会はリーダーを育ててきているでしょうか。みことばによって裏打ちされた、神の愛と創造力に富んだリーダーが大勢育ってほしいものです。そのために何をなすべきか。

(まなべあきら 1998.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、アメリカのthe Providence Lithograph Companyによって1907年に出版されたBible cardのイラスト「Moses Pleading with Israel」 (Wikimedia Commonsより)


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