聖書の探求(176) 申命記33章 モーセの祝福のことば
この章は、モーセの祝福のことばです。
33章の分解
1~3節、主への讃美
4~25節、十二部族への個別的祝福
26~29節、イスラエル全体に対する祝福
. 26節、唯一、威光に満ちておられる神
. 27節、永遠の神
. 27,28節、住み家なる神
. 26,29節、助ける盾なる神
. 28節、祝福をもたらす神
. 27,29節、勝利(栄光)の剣なる神
1~3節、主への讃美
自分の死を直前にして、残る者たちを祝福できる人は、それまでどのように生きてきた人であるかを物語っています。特に、モーセのように、主と主の民のために生涯をささげて働いて来た人の、死を直前にして語られた祝福のことばには遺言として、また最後の契約として効力があり、拘束力がありました。特に旧約時代においては、より重要なものでした。
イサクの場合 創世記27章27~40節
ヤコブの場合 創世記49章全体
1節と4節は、モーセ以外の人物によって書き加えられたものと考えられますが、祝福のことば自体は、モーセのものであるしるしを多く持っています。
申 33:1 これは神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばである。
33:4 モーセは、みおしえを私たちに命じ、ヤコブの会衆の所有とした。
モーセの時代の出来事を示しています(33:8,9,21)。
申 33:8 レビについて言った。「あなたのトンミムとウリムとを、あなたの聖徒のものとしてください。あなたはマサで、彼を試み、メリバの水のほとりで、彼と争われました。
33:9 彼は、自分の父と母とについて、『私は、彼らを顧みない』と言いました。また彼は自分の兄弟をも認めず、その子どもをさえ無視し、ただ、あなたの仰せに従ってあなたの契約を守りました。
申 33:21 彼は自分のために最良の地を見つけた。そこには、指導者の分が割り当てられていたからだ。彼は民の先頭に立ち、【主】の正義と主の公正をイスラエルのために行った。」
また詩的語句の使い方や構造は、モーセの時代を示すものです。個人的祝福のことばの多くのものは、モーセの時代よりも後の事を言っているようですが、それはモーセの祝福には預言的要素が含まれているからです。幼子イエス様に対するシメオンの祝福も預言的でした(ルカ2:28~32)。
ルカ 2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
2,3節は、主(ヤーウェ)の偉大さと善のご性質を、みおしえ(神の律法)を与えられたということを通して、ほめたたえています。
申 33:2 彼は言った。「【主】はシナイから来られ、セイルから彼らを照らし、パランの山から光を放ち、メリバテ・カデシュから近づかれた。その右の手からは、彼らにいなずまがきらめいていた。
私たちが今、聖書という神のみことばを与えられていることは、大いなる神の賜物であり、心から主をほめたたえるべきことなのです。私たちはこのみことばを通して、主を知り、主を信じ、永遠のいのちを受けて、神の御国を目指す者とされたのですから。私たちはみことばの真価を知る者となっているでしょうか。
主はシナイ山の火のような光として描かれていますが、このような表現は旧約聖書によく見られます(士師記5:4、ハバクク書3:3,4)。これは主が栄光の神であり、そのご威光を表わしています。
士 5:4 【主】よ。あなたがセイルを出て、エドムの野を進み行かれたとき、大地は揺れ、天もまた、したたり、雲は水をしたたらせた。
ハバ 3:3 神はテマンから来られ、聖なる方はパランの山から来られる。セラその尊厳は天をおおい、その賛美は地に満ちている。
3:4 輝きは光のよう。ひらめきはその手から放たれ、そこに力が隠されている。
この神のご威光に続いて、「すべての聖徒たちが」(3節)伴っています。
申 33:3 まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける。
3節では、突然「あなた」という二人称の代名詞が出てきますが、これはモーセの時代から見て、未来のメシヤである王を指しているのかもしれません。3節の意味は次のようになります。
「主の力強い権威ある御手のうちに、すべての聖徒たちがいます。彼らは主から力を受けた者たちで、民を守る者たちです。彼らはあなた(主)の足もとに集められて、ひれ伏しており、あなた(主)のみことばを告げ知らせ、主の決定されたみこころを成し遂げるのです。」
4~25節、十二部族への個別的祝福
4,5節、モーセを通して与えられたみおしえ(律法=契約)をヤコブ(イスラエル)の会衆のものとして受け入れることは、主をエシュルン(イスラエル)の王とすることを意味していました。
申 33:4 モーセは、みおしえを私たちに命じ、ヤコブの会衆の所有とした。
33:5 民のかしらたちが、イスラエルの部族とともに集まったとき、主はエシュルンで王となられた。」
このモーセの祝福の内容は、ヤコブの祝福(創世記49章)が一般に世俗的であったのに対して、神政政治的要素を含んでいます。
この個別的祝福では、シメオン族がやがてユダ族に吸収されてしまうことから(ヨシュア記19:1~9)、シメオン族の祝福は省略されていますが、その他の部族については、各々の祝福が各部族の上にあるように祈られています。
ヨシ 19:1 第二番目のくじは、シメオン、すなわちシメオン部族の諸氏族に当たった。彼らの相続地は、ユダ族の相続地の中にあった。
19:2 彼らの相続地は、ベエル・シェバ、シェバ、モラダ、
19:3 ハツァル・シュアル、バラ、エツェム、
19:4 エルトラデ、ベトル、ホルマ、
19:5 ツィケラグ、ベテ・マルカボテ、ハツァル・スサ、
19:6 ベテ・レバオテ、シャルヘンで、十三の町と、それらに属する村々。
19:7 アイン、リモン、エテル、アシャン。四つの町と、それらに属する村々、
19:8 および、これらの町々の周囲にあって、バアラテ・ベエル、南のラマまでのすべての村々であった。これがシメオン部族の諸氏族の相続地であった。
19:9 シメオン族の相続地は、ユダ族の割り当て地から取られた。それは、ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎたので、シメオン族は彼らの相続地の中に割り当て地を持ったのである。
個々の人が祝福されることは、その部族が祝福されることであり、各部族が祝福されることは、各個人の祝福へとつながっていかなければなりません。この日本においては長い間、企業が大繁栄してきましたが、そこで働く従業員とその家族にはその繁栄は分け与えられていませんでした。その結果、企業そのものが高慢経営になり、今日、自ら崩壊しているのです。
もし、今日、教会が祝福を受けているなら、そこに集うすべての人にその祝福は及んでいなければならないし、教会員のひとり一人が祝福を受けているなら、その教会も成長していくはずです。そうならないなら、その繁栄はやがてわざわいをもたらすことになるでしょう。
「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中には、ひとりも貧しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。」(使徒4:32~35)
シメオン族がユダ族に吸収されたのに、なお十二部族と数えられているのは、ヨセフの部族がエフライム族とマナセ族の二つに分けられたからです(33:17)。
申 33:17 彼の牛の初子には威厳があり、その角は野牛の角。これをもって地の果て果てまで、国々の民をことごとく突き倒して行く。このような者がエフライムに幾万、このような者がマナセに幾千もいる。」
モーセの祝福の順序を見ると、最初のルベンとユダとレビはヤコブの妻レアの産んだ息子たちの子孫であり、第二のグループのベニヤミンとヨセフはヤコブの妻ラケルの産んだ息子たちの子孫です。第三のグループのゼブルン、イッサカルはヤコブの妻レアの息子たちの子孫です。最後のグループのガド、ダン、ナフタリ、アシェルは侍女たちが産んだ息子たちの子孫になっています。この順序は、おそらく旧約の家督を受け継ぐ順序に従っているものと思われます。しかし祝福の内容はこの順序とは関係がありません。それは各々の主に対する信仰の態度によるものだからです。
モーセも、ヤコブがしたのと同じように、ヤコブの長子だったルベンから祝福を始めています(6節)。
申 33:6 「ルベンは生きて、死なないように。その人数は少なくても。」
ルベンへの祝福のことばは短く、しかも消極的です。それは、「ルベンは生きて、死なないように。その人数は少なくても。」です。ヤコブのルベンに対する祝福も消極的でしたが(創世記49:4)、
創 49:3 ルベンよ。あなたはわが長子。わが力、わが力の初めの実。すぐれた威厳とすぐれた力のある者。
49:4 だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことがない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ。──彼は私の寝床に上った──
モーセの祈りはルベン族が消滅してしまわないようにという、きわめて消極的祈りになっています。ペテロもイエス様に、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と言われています。ペテロの場合、後半は積極的になっていますが、神の民の中でも、その存続が危うくなってくるものも出てくるのだということを心に留めて信仰に励んで頂きたいものです。
7節のユダ族についての祝福は、明白ではありませんが、おそらくユダと北王国イスラエルの諸部族間との争いと断絶を主が解決してくださることの預言的な祈りであると思われます。
(列王記第一 12章は二つの王国の分裂、その完全な回復はなお未来に残されています。ヨハネの黙示録7章)
申 33:7 ユダについては、こう言った。「【主】よ。ユダの声を聞き、その民に、彼を連れ返してください。彼は自分の手で戦っています。あなたが彼を、敵から助けてください。」
8~11節は、レビ族の祝福です。
申 33:8 レビについて言った。「あなたのトンミムとウリムとを、あなたの聖徒のものとしてください。あなたはマサで、彼を試み、メリバの水のほとりで、彼と争われました。
33:9 彼は、自分の父と母とについて、『私は、彼らを顧みない』と言いました。また彼は自分の兄弟をも認めず、その子どもをさえ無視し、ただ、あなたの仰せに従ってあなたの契約を守りました。
33:10 彼らは、あなたの定めをヤコブに教え、あなたのみおしえをイスラエルに教えます。彼らはあなたの御前で、かおりの良い香をたき、全焼のささげ物を、あなたの祭壇にささげます。
33:11 【主】よ。彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。彼の敵の腰を打ち、彼を憎む者たちが、二度と立てないようにしてください。」
これはすでに与えられているレビ族としての役割の確認をしています。
レビ人はヤコブによって、「私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。」(創世記49:7)と預言されたことによって、イスラエルの間に分散して住むことになりましたが、彼らは祭司とそれを補佐する役割に任じられました。
彼らには、神のみこころが表わされる神聖な胸当てのトンミムとウリムが与えられていました。トンミムとウリムについては、今は確かなことは分かりませんが、多分、神のみこころによるさばきを表わす石で、大祭司の胸当ての上に置かれていたと思われます。大祭司は民をさばく時には、これらの石を用いて判断したものと思われます。少なくとも、トンミムとウリムは大祭司が決断するための能力と知者を象徴していたと考えられます。
8節、マサとメリバにおいては、レビ人はレフィディムで宿営していた時、飲み水がなくて、モーセと争い、主を試み、失敗したのです(出エジプト記17:1~7、申命記6:16)。
申 33:8 レビについて言った。「あなたのトンミムとウリムとを、あなたの聖徒のものとしてください。あなたはマサで、彼を試み、メリバの水のほとりで、彼と争われました。
出 17:1 イスラエル人の全会衆は、【主】の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
17:2 それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ【主】を試みるのですか」と言った。
17:3 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」
17:4 そこでモーセは【主】に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」
17:5 【主】はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。
17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
17:7 それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、【主】を試みたからである。
この出来事を申命記33章8節でレビ人に対して言われているのは、この不信仰な行動について、レビ人が扇動していたからかも知れません。それでその責任が問われているのでしょう。彼らが、主が任命した指導者と争ったことは、主ご自身を試みたことになり、それは彼らの肉的な不信仰の表われであり、それ故、主もまた彼らを試みられることになるのです。私たちは毎日、必要なものが与えられていても、なお不平不満をもらしやすいものです。それは、神の国と神の義を第一に求め続けている者には、すべての必要なものを与えて下さる神を信じていないことになってしまいます。
9節、しかし金の子牛の事件の時には(出エジプト記32章)、レビ人は自分の兄弟たちとの関係をも認めず、犠牲を払って、神のご命令に従い、神との契約を守る方を選び、忠誠の態度を取ったのです。
申 33:9 彼は、自分の父と母とについて、『私は、彼らを顧みない』と言いました。また彼は自分の兄弟をも認めず、その子どもをさえ無視し、ただ、あなたの仰せに従ってあなたの契約を守りました。
「そこでモーセは宿営の入口に立って、『だれでも、主につく者は、私のところに。』と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。そこで、モーセは彼らに言った。『イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。』レビ族は、モーセのことばどおりに行なった。その日、民のうち、およそ三千人が倒れた。そこで、モーセは言った。『あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」(出エジプト記32:26~29)
こうしてレビ族は祭司の働きを果たしながら、主の定めとみおしえ(律法といけにえに関する教え)をヤコブ(イスラエルの民)に教えるように言われています。
申 33:10 彼らは、あなたの定めをヤコブに教え、あなたのみおしえをイスラエルに教えます。彼らはあなたの御前で、かおりの良い香をたき、全焼のささげ物を、あなたの祭壇にささげます。
11節では、レビ族の資産はイスラエルの献げ物によるものでしたが、それが祝福されるように。また、レビ人の働きに主の恵みが伴うように。さらに、レビ族に敵対する者、彼らを憎む者たちが二度と立てないまでに滅ぼされることを祈っています。
申 33:11 【主】よ。彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。彼の敵の腰を打ち、彼を憎む者たちが、二度と立てないようにしてください。」
特に祭司の務めを果たすレビ族は主の任命を受けた者たちですから、彼らに敵対する者は、主に敵対することになります。このことはモーセをねたんで非難した姉のミリアムが主によって打たれたり(民数記12章)、モーセに逆らったコラとダタンとアピラムが主によって滅ぼされたことでも警告されています(民数記16章)。
次に、モーセは、ラケルの子どもたちの部族を取り上げています。
12節のベニヤミンは、ヤコブが年老いて与えられた子で、父の愛情の中で育てられたように、それに相応しい言葉で祝福されています。
申 33:12 ベニヤミンについて言った。「【主】に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。」
ベニヤミンは安全に守られ、主によって保護されます。それだけでなく、「主のそばに住まい、」「彼が主の肩の間に住むかのように。」と言われています。「住む」という語は、主がご自分の民の中にご臨在を現わすことを意味しています。「肩」は、将来、神殿が建てられるエルサレムにある丘を指すのに使われています。「エブス人のいる傾斜地(エブス人の南の肩)」(ヨシュア記15:8)「南のほうのエブス人のいる傾斜地(エブス人の肩の南)」(ヨシュア記18:16、英訳のリバイズド・スタンダード・バージョン)
この意味するところはべニヤミンの境界線の内側に神殿が建てられるという預言です。
13~17節は、ヨセフに対する祝福で、最も長いものです。その大部分(13~16節)は、物質的繁栄です。
申 33:13 ヨセフについて言った。「【主】の祝福が、彼の地にあるように。天の賜物の露、下に横たわる大いなる水の賜物、
33:14 太陽がもたらす賜物、月が生み出す賜物、
33:15 昔の山々からの最上のもの、太古の丘からの賜物、
33:16 地とそれを満たすものの賜物、柴の中におられた方の恵み、これらがヨセフの頭の上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭の頂の上にあるように。
33:17 彼の牛の初子には威厳があり、その角は野牛の角。これをもって地の果て果てまで、国々の民をことごとく突き倒して行く。このような者がエフライムに幾万、このような者がマナセに幾千もいる。」
それらはすべて、主の祝福として与えられます。それらは上なる天の賜物と、下に横たわる水の賜物にニ分されています。天の賜物はさらに、太陽がもたらす賜物と月が生み出す賜物に区分しています。「月」は、当時の人々には、植物の成長をうながしていると考えられていました。今日でも、植物の成長に月が影響していると言う人もいます。下の水の賜物は15節と16節で、「昔の山々からの最上のもの、太古の丘からの賜物、地とそれを満たすものの賜物」と言われています。これは山々に降った雨や雪が平地をうるおし、作物を成育させる恵みを歌ったものでしょう。
16節、それは「柴の中におられる方の恵み」であると言われています。
申 33:16 地とそれを満たすものの賜物、柴の中におられた方の恵み、これらがヨセフの頭の上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭の頂の上にあるように。
「柴の中におられる方」とは、燃える柴の中からモーセを呼ばれた主の顕現を指していると思われます(出エジプト記3:2~12)。
出 3:2 すると【主】の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
3:4 【主】は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。
3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
3:7 【主】は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
3:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」
17節は軍事力を示しています。
申 33:17 彼の牛の初子には威厳があり、その角は野牛の角。これをもって地の果て果てまで、国々の民をことごとく突き倒して行く。このような者がエフライムに幾万、このような者がマナセに幾千もいる。」
「角」は力を象徴しています。ヨセフの息子たちのエフライムとマナセは強力な力を持つようになることが預言されています。彼らは、ルベンから取られた二倍の相続分の受取人になっています。それはヤコブの第一子のルベンに受け継がれるはずのものでしたが、ルベンが父の床を汚したことによって(創世記35:22、創世記49:1~7)、ルベンは長子の特権を失い、それはヨセフの子孫に与えられることになったのです(創世記48:22)
創 35:22 イスラエルがその地に住んでいたころ、ルベンは父のそばめビルハのところに行って、これと寝た。イスラエルはこのことを聞いた。さて、ヤコブの子は十二人であった。
創 49:1 ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。
49:2 ヤコブの子らよ。集まって聞け。あなたがたの父イスラエルに聞け。
49:3 ルベンよ。あなたはわが長子。わが力、わが力の初めの実。すぐれた威厳とすぐれた力のある者。
49:4 だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことがない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ。──彼は私の寝床に上った──
49:5 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。
49:6 わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。
49:7 のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。
創 48:21 イスラエルはヨセフに言った。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に帰してくださる。
48:22 私は、あなたの兄弟よりも、むしろあなたに、私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケムを与えよう。」
18、19節はゼプルンとイッサカルへの祝福です。
申 33:18 ゼブルンについて言った。「ゼブルンよ。喜べ。あなたは外に出て行って。イッサカルよ。あなたは天幕の中にいて。
33:19 彼らは民を山に招き、そこで義のいけにえをささげよう。彼らが海の富と、砂に隠されている宝とを、吸い取るからである。」
創世記49章13節では、ゼブルンは海辺に住んで、海に出て行く船乗りの部族として記されており、
創 49:13 ゼブルンは海辺に住み、そこは船の着く岸辺。その背中はシドンにまで至る。
申命記33章19節では海の富を吸い取るとされており、イッサカルは天幕に住み、農業にたずさわる者として描かれており、
申 33:19 彼らは民を山に招き、そこで義のいけにえをささげよう。彼らが海の富と、砂に隠されている宝とを、吸い取るからである。」
「砂に隠されている宝」とは、ガラスの製造をすることに言及しているものと思われます。ちなみに、ガラスの製造はアコ(あるいはアッコ)(アシェル人の住むフェニキヤの町、士師記1:31)で始まったと言われています。
士 1:31 アシェルはアコの住民や、シドンの住民や、またマハレブ、アクジブ、ヘルバ、アフェク、レホブの住民を追い払わなかった。
イッサカルはその近くに住んでいましたから、ガラスの製造にたずさわった可能性は十分にあります。
ゼプルンとイッサカルの二つの部族は「彼らは民を山に招き、そこで義のいけにえをささげよう。」と言われています。彼らは 他の部族を宗教的祭りに招き、その時に貿易のことも話されたものと思われます。
20,21節、ガドは戦いにおける勇敢さの故に祝福されています。
申 33:20 ガドについて言った。「ガドを大きくする方は、ほむべきかな。ガドは雌獅子のように伏し、腕や頭の頂をかき裂く。
33:21 彼は自分のために最良の地を見つけた。そこには、指導者の分が割り当てられていたからだ。彼は民の先頭に立ち、【主】の正義と主の公正をイスラエルのために行った。」
彼らは相続地を選ぶ時に、すべての部族の中で、真っ先に、ヨルダンの東の地、ヤゼルとギルアデの地を選びました。これはヨルダン川を渡って、カナンの地に入って行こうとしているイスラエル人の意気をくじく心配がありましたが、イスラエルがカナンで各々の相続地を得るまで、ともに戦うことを約束した上で、ヨルダンの東の地を相続しました(民数記32章)。彼らは非常に多くの家畜を持っていたので、家畜に適した場所を選んだのです。「そこには指導者の分が割り当てられていたからだ。」は、分捕品の主要な部分として、彼らはその地を受け取ったという意味に思われます。
「彼は民の先頭に立ち、主の正義と主の公正をイスラエルのために行なった。」は、カナン攻略の時、ガド族は約束通りに、ヨルダンの西側の部族を助けて戦い、主の正義と公正を行なったということです。
22節、ダンは、ここでは獅子の子にたとえられていますが、
申 33:22 ダンについて言った。「ダンは獅子の子、バシャンからおどり出る。」
創世記49章17節では、まむしにたとえられています。
創 49:17 ダンは、道のかたわらの蛇、小道のほとりのまむしとなって、馬のかかとをかむ。それゆえ、乗る者はうしろに落ちる。
ダンはバシャンにおいてライシュを打ち破ったように、不意を突いて攻撃をする能力を持っていることを言っているようです。彼らは、その地域に定住することになった(ヨシュア記19:47、士師記18:27~29)。
ヨシ 19:47 ダン族の地域は、さらに広げられた。ダン族は上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ。
士 18:27 彼らは、ミカが造った物と、ミカの祭司とを取って、ライシュに行き、平穏で安心しきっている民を襲い、剣の刃で彼らを打ち、火でその町を焼いた。
18:28 その町はシドンから遠く離れており、そのうえ、だれとも交渉がなかったので、救い出す者がいなかった。その町はベテ・レホブの近くの谷にあった。彼らは町を建てて、そこに住んだ。
18:29 そして、彼らはイスラエルに生まれた自分たちの先祖ダンの名にちなんで、その町にダンという名をつけた。その町のもとの名はライシュであった。
ヨハネの黙示録7章5~8節には、ダンの部族の名が記されていませんが、ユダヤの伝統では、ダン部族が背教したからであると言われています。
黙 7:5 ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、
7:6 アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、
7:7 シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、
7:8 ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。
23節、ナフタリは、ガリラヤ湖西南の美しい豊かな土地が与えられ、主の祝福と自然にも恵まれていました。
申 33:23 ナフタリについて言った。「ナフタリは恵みに満ち足り、【主】の祝福に満たされている。西と南を所有せよ。」
「西と南を所有せよ。」の「西」は誤りです。その語は「湖」を意味しているのです。すなわち、「湖(ガリラヤ湖)と南を所有せよ。」となります。
24,25節、最後の祝福は、アシェルに対するものです。
申 33:24 アシェルについて言った。「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。
アシェルはイスラエルの北西の国境に住むことになります。彼らはイスラエルの子らの中で最も祝福されるように祈られています。「足を油の中に浸す」は豊かさのしるしです。足に油を使うのは特別な豊かさを示しています。アシェルの領地ではオリーブが取れるのが有名で、自然の富の豊かさで知られていました(創世記49:20)。
創 49:20 アシェルには、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作り出す。
しかし彼らの地は地理的に国境沿いにあり、敵の危険にさらされていました。それで「かんぬき(貫の木)」が約束されています。これはアシェルが北方の敵から保護されることを言っています。
25節、「あなたの力があなたの生きるかぎり続くように。」
申 33:25 あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」
この美しい約束は代々に慰めをもたらし続けている普遍的約束です。「あなたの生きるかぎり」、命のある限り、我々の日という日、そのすべての日、私たちの生涯の日、一日一日、日ごとに最後まで神は私たちを顧み、力を与え続けて下さるのです。なんという慰めとあわれみに満ちた特別な約束でしょうか。
この約束は、臨機応変の約束でもあります。一日一日のその日に相応しい、いかなる日にも、明るい日にも、暗い日にも、得意の日にも、失意の日にも、幸福の日にも、悲惨な日にも、神は必要とするところに従って、神の力を与えて下さるのです。それ故、これは光栄に輝く約束です。
この約束をされた主は、どのようなお方でしょうか。
詩篇139篇1~6節、私たちの日のすべてをことごとく知っておられる主、
詩 139:1 【主】よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
139:2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
139:3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
139:4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと【主】よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
139:5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
139:6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
詩篇37篇18,23節、全き人の日々を知っておられ、私たちの歩みを確かにされる主、
詩 37:18 【主】は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは永遠に残る。
詩 37:23 人の歩みは【主】によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。
詩篇31篇15節、私の時を御手の中に握っていてくださる主、
詩 31:15 私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。
エレミヤ書31章3節、毎日、永遠の愛を持って私を愛してくださる主、
エレ 31:3 【主】は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
マタイ28章20節、世の終わりの日まで、すべての日を通じて、いつも私たちと共にいて力づけ、ともに働いてくださる主、
マタ 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
このような主が、私たちの命の続く限り、力を与えて下さるのです。
これまでの部族ごとの個別的祝福は創世記49章1~27節の祝福に比べてみると、より意味深いことが分かります。
まず、ルベン族のように、ヤコブの時からモーセの時代まで、依然として、弱さや悪の中にとどまっている部族もありますが、レビ族のように変貌を経験した部族もあることが分かります。
次に、各々の祝福はそれ自体意義深いものであり、その祝福が示しているものは、神がその民の必要に相応しく、その民のために願っておられる特質を示しています。すなわち、レビには礼拝を、ゼブルンとイッサカルには正直な働きを、ガドには自己犠牲を、ベニヤミンには安全を、アシェルには力を与えたり、求めたりしておられます。各々の部族の必要はそれぞれ異なっており、神はその必要に応じて満たすことがお出来になるのです。
最後に、申命記のモーセの祝福は、全体として、創世記のヤコブの祝福の中に見られた厳しさや呪いの調子が全くないことは意義深い点です。申命記はそれまでの諸章において警告を続けていた故に、最後の祝福の章においては呪いや警告の全くない祝福だけが約束されています。ここに深い主のあわれみを感じ取らなければなりません。
「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、公義を勝利に導くまでは。」(マタイ12:20、イザヤ42:3)
イザ 42:3 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。
26~29節、イスラエル全体に対する祝福
申 33:26 「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。
33:27 昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じた。
33:28 こうして、イスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉は、穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。天もまた、露をしたたらす。
33:29 しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。【主】に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」
ここでは、33章の解説の最初にも書いた通り、
26節、唯一、威光に満ちておられる神、
27節、永遠の神、
27,28節、住み家なる神、
28節、祝福をもたらす神、
27,29節、勝利(栄光)の剣なる神、が示されています。
33章1~5節の祝福の導入の部分は、シナイにおけるイスラエル国家の創造を思い出させるものがありますが、27~28節の結びの部分は、すでにこの祝福の預言が成就していることを示すかのように、確信を持ってヘブル語の過去形が用いられています。イスラエルがカナンの地を所有することはもうすでに確認済のこととして記されています。
この確信の根拠は、イスラエルを助けるために天に乗り、威光のうちに雲に乗って来られるイスラエルの唯一の、比ぶぺきもののない神ご自身にあります。ここでは、主をイスラエルの神として賛美しています。
27節、主は「住む家」(詩篇90:1)であり、ご自分の民の上下、前後、その内にその周りにあられて、守り、助ける神です。
詩 90:1 主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。
主の臨在が永遠であるように、主の助けも、永遠の御腕によって支えられて永遠であり、神の御腕は決して萎(な)えることがありません。
その救い主なるただおひとりの神はご自分の民の安全と繁栄のために、敵を追い払われ、「根絶やしにせよ。」と命じられます。
こうしてイスラエルには平和が訪れ、ヤコブの民はいつまでもいのちの水を楽しむようになり、豊かな繁栄を味わうことができるのです。「ヤコブの泉」はイスラエル人を意味しています。
29節、「盾」は主の保護、「勝利の剣」はカナン征服を意味しているのでしょう。
申 33:29 しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。【主】に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」
「これらすべてのものの上に、信仰の大盾(おおだて)を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6:16,17)
「あなたの敵はあなたにへつらい」は、ギブオン人のように、イスラエルに偽りの服従を誓うことを意味したのでしょう(ヨシュア記9章)。
「あなたは彼らの背を踏みつける。」
「背」は「高い所」(ヘブル語の「bamoth」)で、列王記や歴代誌では偶像礼拝や変則的な礼拝を行なっていた場所に用いられています(例、列王記第一 12:31)。
Ⅰ列王 12:31 それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。
ヘブル語の文字通りの意味では「すばらしく高い所」となります。ここでは、イスラエルが敵の領地の中心部を占領することを言っていると思われます。
主は、比ぶべきもののない唯一の神であるとともに、私たちの永遠の避け所、保護者であり、最も頼りになる支えであり、私たちのあらゆる必要を豊かに満たして下さる源なるお方です。
「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)
あとがき
やっと、あと一章で申命記が終わるところまで来ました。約一四年かかりました。思い返せば、この一四年間も結構大変なことが続きました。今も大変な状態の中にありますが、そういう中でも「よく聖書の探求を書き続けることができたな」と自分ながらに驚いています。主の助けがあったからにほかなりませんが、読者の皆様が熱心に学んでいて下さったことも大きな力となってきました。最初の号から、ずっと学んでいて下さる方もおられまます。教会の歴史を通して、みことばの宣教以外にリバイバルはなかったことです。私たちの望んでいることは騒ぎとしてのリバイバルではなく、人格と生活の中に浸透していくリバイバルです。それは私たちの働きの延長線上に必ず来ると信じています。
(まなべあきら 1998.11.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵は、アメリカのthe Providence Lithograph Companyによって1907年に出版されたBible cardのイラスト「Moses Pleading with Israel」 (Wikimedia Commonsより)
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