聖書の探求(310) サムエル記第二 2章 ダビデとイシュ・ボシェテ、ヨアブとアブネルの争い

フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「The Valiant of Gibeon(ギブオンの勇士たち)」(New YorkのJewish Museum蔵)


2章は、ユダの王となったダビデを描いていますが、ここでの最大の問題点は、ヨアブとアブネルの争いです。

2章の分解

1~7節、ユダの王ダビデ
8~11節、イスラエルの王イシュ・ボシェテ
12~32節、ヨアブとアブネルの争い

1~7節、ユダの王ダビデ

ダビデに新しい時代が来たのです。サウル王がいなくなった今、主から次の王として油注がれていたダビデは、行動を取るべき時が来たのです。それは先ず、自分の部族の町ユダの地に帰ることでしたが、そのことについても、ダビデは主に導きを求めて伺っています。彼の変わらない忠実な信仰です。

Ⅱサム 2:1 この後、ダビデは【主】に伺って言った。「ユダの一つの町へ上って行くべきでしょうか。」すると【主】は彼に、「上って行け」と仰せられた。ダビデが、「どこへ上るのでしょうか」と聞くと、主は、「ヘブロンへ」と仰せられた。

主は「上って行け。」と仰せられましたが、ダビデは更に具体的に「どこへ上るのでしょうか。」と尋ねています。ダビデはあくまでも自分の知恵による判断に頼らず(箴言3:5)、自分の前に主を置き続けたのです(詩篇16:8)。

箴 3:5 心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

詩 16:8 私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

主のお答えはエブス人の都エルサレムではなく、エルサレムより南西30.4kmのヘブロンに行くように命じておられます。人の知恵で考えれば、王位に着くために行くのですから、一番大きな都エルサレムに行くことを考えるでしょう。しかし主は、先ずヘブロンに行って、そこでユダの王となり、ダビデの態勢を整えて後、エルサレムを攻略して全イスラエルの王となるように導かれたのです。ここに主の慎重かつ、確実な導きを見ることができます。当時のダビデの一隊ではエブス人の要塞のエルサレムを攻めることは難しかったでしょう。ダビデは思い上がった思いを持たず、ヘブロンに上っています。

ここでダビデがしたことは、神のみこころを知り、確かめたことと、神のみ旨が示されたら、従って実行したことです。

ダビデのように状況が変わった時、行動を起こさなければならなくなります。その時、自分の希望や思いを優先させずに、神が進ませようとしている道へと、心を向けることが大切です。

神の導きは、時として、明確でなく、私たちの信仰の選択が試みられることもありますが、この場合のように非常に明確な時もあります。

そして人が神の指示と導きに従う時、祝福はその服従とともについて来るのです。
ダビデの二人の妻、アヒノアムとアビガイルと、彼の従者たちとその家族を連れて、ヘブロンの町々に上って行って住んでいます。

Ⅱサム 2:2 そこでダビデは、ふたりの妻、イズレエル人アヒノアムと、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルといっしょに、そこへ上って行った。
2:3 ダビデは、自分とともにいた人々を、その家族といっしょに連れて上った。こうして彼らはヘブロンの町々に住んだ。

3節に「ヘブロンの町々」と複数形で言われているのは、その近くにあった四つの町々を含んで「ヘブロン」と呼んでいたからです。この町々は以前はキルヤテ・アルバ(ヨシュア記20:7)と呼ばれていました。その意味は「テトロポリス(四重の町)」です。

ヨシ20:7 それで彼らは、ナフタリの山地にあるガリラヤのケデシュと、エフライムの山地にあるシェケムと、ユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンとを聖別した。

4節、ダビデの一隊がヘブロンに着くと、すぐに同族のユダの人々がやって来て、ダビデに油を注いで、同族のユダの王としています。王がいない国は、最も危険な状態に置かれているからです。

Ⅱサム 2:4 そこへユダの人々がやって来て、ダビデに油をそそいでユダの家の王とした。ヤベシュ・ギルアデの人々がサウルを葬った、ということがダビデに知らされたとき、
2:5 ダビデはヤベシュ・ギルアデの人々に使いを送り、彼らに言った。「あなたがたの主君サウルに、このような真実を尽くして、彼を葬ったあなたがたに、【主】の祝福があるように。
2:6 今、【主】があなたがたに恵みとまことを施してくださるように。この私も、あなたがたがこのようなことをしたので、善をもって報いよう。

ヤベシュ・ギルアデの人々がサウルとその息子たちを、ペリシテのベテ・シャンの城壁から取り戻して埋葬したという英雄的な行為がダビデに知らされると、ユダの王となったダビデはすぐにヤベシュ・ギルアデに使いを送って、彼らの英雄的行為をほめたたえ、その真実な行為に感謝し、「主の祝福があるように」と祝福しています。

更にダビデは、ユダの人々が彼をユダの王としたことを告げて、彼らの主君だったサウルが死んだ今、十分考慮するようにと提案しています。

2:6 今、【主】があなたがたに恵みとまことを施してくださるように。この私も、あなたがたがこのようなことをしたので、善をもって報いよう。
2:7 さあ、強くあれ。勇気のある者となれ。あなたがたの主君サウルは死んだが、ユダの家は私に油をそそいで、彼らの王としたのだ。」

勇気をもって、ダビデと共に歩む決断をするなら、「今、主があなたがたに恵みとまことを施してくださるように、この私も、あなたがたがこのようなことをしたので、善をもって報いよう。」と約束しています。

しかしダビデのこの提案に対しては、ヤベシュ・ギルアデの人々からは何の返事もなかったようです。その原因は、8節以後に記されているサウル軍の将軍アブネルとダビデと同地位で軍を指揮していたヨアブの間に、根深い憎悪の争いがあったからだと思われます。

8~11節、イスラエルの王イシュ・ボシェテ

サウル王の死後、将軍だったネルの子アブネルがイスラエルの実権を握り、サウルの四番目の息子イシュ・ボシェテをユダを除く、全イスラエルの王としていました。

Ⅱサム 2:8 一方、サウルの将軍であったネルの子アブネルは、サウルの子イシュ・ボシェテをマハナイムに連れて行き、
2:9 彼をギルアデ、アシュル人、イズレエル、エフライム、ベニヤミン、全イスラエルの王とした。

9節のギルアデ、アシュル人、イズレエル、エフライム、ベニヤミンと名の挙げられている人々が、イシュ・ボシェテを王とすることに積極的に賛成したものと思われます。アブネルはイシュ・ボシェテをペリシテ人の手の届かない所である、ヨルダン川の東のマハナイムに連れて行って、そこで王の即位式を行なっています。

このイシュ・ボシェテは、歴代誌第一 8章33節と9章39節では、「エシュバアル」と呼ばれています。「イシュ」は人、「ボシェテ」は恥を意味しますから、イシュ・ボシェテは「恥の人」という意味になります。「バアル」は固有名ではなく、称号で「主人」を意味します。士師の時代や異教の地カナンの勢力下では、ヤーウェに対して「バアル」を用いていました。彼らは偶像の神々も、真の神ヤーウェも区別がつかなかったのです。この習慣は特にサウルの家で盛んだったようです。それで「エシュバアル」と呼ばれたのです。しかし後に、イスラエルでのバアル礼拝が偶像礼拝として禁じられるようになって、エシュバアルがイシュ・ボシェテと変えられたのです。この変名には霊的重要な意味はないにしても、その当時の人々の、特にサウル家の人々の信仰がいかに好い加減であったかを示しており、また時代の変化の激しさを示しています。

イシュ・ボシェテは、明らかにサムエル記第一 31章1節でのペリシテとイスラエルとのギルボア山での戦いには加わっていませんでした。彼は生き残っていたのですから。イシュ・ボシェテは、建前上、王の地位に着けられていますが、実質上はアブネルに従っており、その従属関係は明らかです。彼の性格は弱くて、消極的だったに違いありません。ですから、アブネルの言い成りになっています。イシュ・ボシェテの王国の領土は、彼を王とした人々の地が中心でした。ヨルダン川の東のギルアデ、アシュル人の地、北方のギルボア山の近くのイズレエル周辺の地、そしてエフライムとベニヤミンの地です。おそらくこれらの地名は東、北、南の境界地を示しているものと思われます。

10節、イシュ・ボシェテは、四〇才でイスラエルの王となり、二年間、治めています。

Ⅱサム 2:10 サウルの子イシュ・ボシェテは、四十歳でイスラエルの王となり、二年間、王であった。ただ、ユダの家だけはダビデに従った。

11節、ダビデがヘブロンでユダの王であった期間は七年半と記されています。

Ⅱサム 2:11 ダビデがヘブロンでユダの家の王であった期間は、七年六か月であった。

この二つの王国が同時に始まったとして、イシュ・ボシェテの二年間の治世は、サムエル記第二 4章7節で、レカブとバアナに刺し殺されることによって終っています。

それ故、イシュ・ボシェテの死後五年半、ダビデはヘブロンでユダの王を続けて後、エルサレムに移ったことになります。

ところが、サムエル記第二 4章では、レカブとバアナがイシュ・ボシェテの首をダビデの所に持って来た時、二人は良い知らせを持って来たつもりでいましたが、ダビデは二人を処刑し、イシュ・ボシェテの首をヘブロンのアブネルの墓に葬った後、5章ですぐに全イスラエルの王となっています。

とすると、イシュ・ボシェテの死の直後に、ダビデによる全イスラエルの統治が始まったことになります。それではダビデの五年半はどう解釈すればよいのでしょうか。

これは、おそらく、二つの王国が同時に始まったのではないのでしょう。つまり、サウルの死後、生き残っていたイシュ・ボシェテは、マハナイムで五年半、亡命政権を率いて、部分的にイスラエルの支配を続けていたと考えられています。そして彼が四〇才の時、アブネルの力で、イスラエルの王となり、暗殺されるまで二年間統治したと考えられます。

12~32節、ヨアブとアブネルの争い

この箇所の争いは、サウルの子イシュ・ボシェテ軍の将軍であったネルの子アブネルによって始められています。彼らはギルアデの地のマハナイムを出て、ユダの都、ダビデが根拠地としていたへブロンのかなり北で、エルサレムのすぐ北にあるギブオンに向かっています。

Ⅱサム 2:12 ネルの子アブネルは、サウルの子イシュ・ボシェテの家来たちといっしょにマハナイムを出て、ギブオンへ向かった。

13節、これを知ったダビデ側の将軍ツェルヤの子ヨアブも軍事行動を起こしています。

Ⅱサム 2:13 一方、ツェルヤの子ヨアブも、ダビデの家来たちといっしょに出て行った。こうして彼らはギブオンの池のそばで出会った。一方は池のこちら側に、他方は池の向こう側にとどまった。

13節の「出て行った。」は、戦争に出かける時に使うへブル語の軍事用語です。

両方の軍隊は、ギブオンの池のそばで出会っています。この池は、大きな貯水池の遺跡として発見されています。

14節、アブネルはヨアブに提案しました。両方の側から若者の代表戦士を十二人選んで闘技をさせるというものでした。

Ⅱサム 2:14 アブネルはヨアブに言った。「さあ、若い者たちを出して、われわれの前で闘技をさせよう。」ヨアブは言った。「出そう。」
2:15 そこで、ベニヤミンとサウルの子イシュ・ボシェテの側から十二人、ダビデの家来たちから十二人が順番に出て行った。

当時、このように代表戦士が選ばれて戦うということは、よくあることでした。ペリシテ人ゴリヤテがイスラエルに代表戦士を求めて、少年ダビデと戦った時も同じです。

これは本格的に武装した代表戦士による決闘でしたから、どちらかが死ぬまで戦うものでした。その決闘の凄絶さを簡単にではありますが、16節に記しています。

Ⅱサム 2:16 彼らは互いに相手の頭をつかみ、相手のわき腹に剣を刺し、一つになって倒れた。それでその所はヘルカテ・ハツリムと呼ばれた。それはギブオンにある。
2:17 その日、戦いは激しさをきわめ、アブネルとイスラエルの兵士たちは、ダビデの家来たちに打ち負かされた。

「彼らは互いに相手の頭をつかみ、相手のわき腹に剣を刺し、一つになって倒れた。」と。つまり、参加した十二組、二四人の戦士たちはみんな死んでしまったのです。これでは戦いは引き分けのはずですが、引き分けにならず、その直後から全面戦争になってしまい、その結果は、アブネルとイスラエルの兵士たちの大敗北に終わったのです。愚かな争いは、愚かな結果しかもたらしません。

代表戦士たちの戦った場所を「ヘルカテ・ハツリム」(「鋭い剣の野」という意味)と呼んでいます。その名はその凄絶さを表わしています。

この戦いの記録の中で明らかになって来たことは、ダビデとイシュ・ボシェテの反目ではなくて、ヨアブとアブネルが激しく反目していたことです。

18節、そのダビデ軍の勝利の場に、ツェルヤの三人の息子、ヨアブ、アビシャイ、アサエルが居合わせたと記されています。

Ⅱサム 2:18 そこに、ツェルヤの三人の息子、ヨアブ、アビシャイ、アサエルが居合わせた。アサエルは野にいるかもしかのように、足が早かった。

このヨアブが後々、ダビデの障害になってくることを暗示しています。
ヨアブはダビデの甥にあたる人です(歴代誌第一 2:16)。彼ら三人はダビデの姉妹ツェルヤの子たちです。アビシャイはダビデがサウルから逃げていた時、ダビデの側近としていつも行動を共にしていた勇敢な人でした(サムエル記第一 26:6)。アサエルは「野にいるかもしかのように、足が早かった。」と記されています。

19~20節、アサエルは逃走しているアブネルを倒そうと考えて、アブネルの後を追い始めたのです。

Ⅱサム 2:19 アサエルはアブネルのあとを追った。右にも左にもそれずに、アブネルを追った。
2:20 アブネルは振り向いて言った。「おまえはアサエルか。」彼は答えた。「そうだ。」

至近距離での直接の戦いではアサエルはアブネルに勝てなかったでしょうが、逃走しているアブネルを見た時、アサエルは勝てると思ったのです。彼はイスラエルの他の兵士たちには目もくれず、まっすぐアブネルを追ったのです。そしてついに追いつき、アブネルもアサエルが追いついたことに気づき、アサエルであることを確かめています。

21~22節、アブネルはヨアブの兄弟アサエルを打つことをためらっています。ますますヨアブの反感と怒りを買うことになるからです。

Ⅱサム 2:21 アブネルは彼に言った。「右か左にそれて、若者のひとりを捕らえ、その者からはぎ取れ。」しかしアサエルは、アブネルを追うのをやめず、ほかへ行こうともしなかった。
2:22 アブネルはもう一度アサエルに言った。「私を追うのをやめて、ほかへ行け。なんでおまえを地に打ち倒すことができよう。どうしておまえの兄弟ヨアブに顔向けができよう。」

それでアブネルはアサエルに「右か左にそれて、若者のひとりを捕え、その者からはぎ取って手柄にするようにと勧めたのです。しかし彼は聞き入れませんでした。アブネルは再度、アサエルに言っています。「私を追うのをやめて、ほかへ行け。なんでおまえを地に打ち倒すことができよう。どうしておまえの兄弟ヨアブに顔向けができよう。」アブネルは困ってしまったのです。

23節、それでもアサエルはアブネルを追い続け、ほかへ行こうとしなかったのです。

Ⅱサム 2:23 それでもアサエルは、ほかへ行こうとはしなかった。それでアブネルは、槍の石突きで彼の下腹を突き刺した。槍はアサエルを突き抜けた。アサエルはその場に倒れて、そこで死んだ。アサエルが倒れて死んだ場所に来た者はみな、立ち止まった。

確かにアサエルにとってアブネルは敵の将軍だし、逃走中です。しかしアブネルはアサエルとは比べものにならないほどの戦士です。自分の力量を弁(わきま)えない者、他人の心中を思いやることをせず、自分の考えや執念だけで突っ走る人は、自ら災いを招きます。時として命を落とすことにもなるのです。アサエルは浅薄だった故に、彼の足が早かったことは彼の命取りとなってしまったのです。浅薄な高慢と、自分の才能に溺れる人は、その才能が命取りになってしまいます。

アブネルは槍の石突き(槍の柄の端を包んだ金物部分のこと)でアサエルの下腹を突き刺し、槍はアサエルを突き抜けています。アサエルはその場に倒れて即死です。

あとから追跡して来た者たちは、アサエルが倒れて死んでいる場所に来た時、みな立ち止まっているのに、彼の兄弟ヨアブとアビシャイは、アブネルを追い続けています。

Ⅱサム 2:24 しかしヨアブとアビシャイは、アブネルのあとを追った。彼らがアマの丘に来たとき太陽が沈んだ。アマはギブオンの荒野の道沿いにあるギアハの手前にあった。

彼らはアサエルの死を見た時、ますます怒りに燃えて追いかけたのです。しかしギブオンの荒野の道沿いにあるギアハの手前にあるアマの丘に来た時、太陽が沈み、追跡ができなくなったのです。

25節を見ると、アブネルに従っていた兵士たちはサウルの出身部族のベニヤミン人だけであったことを明らかにしています。他のイスラエルの部族は、もうとっくに、ヨアブとアブネルの争いからは離れ去ってしまっていたのです。ですから、この争いは国家的争いというより、ヨアブとアブネルの個人的争いに近かったのです。アマの丘で夕日が沈んだように、サウル王の支配力も完全に消えかかり、その軍隊の力も、アブネルの指揮権も沈みかかっていたのです。

Ⅱサム 2:25 ベニヤミン人はアブネルに従って集まり、一団となって、そこの丘の頂上に立った。

25節の「一団となって」は、アブネルに従っていた残りわずかの兵士たちが、日没になって九死に一生を得て、休息をとった後、再び、軍を再編成して、ヨアブの軍に反撃しようとしていたのです。

26節、しかしアブネルは、もはや自分たちに勝目がないことを悟っていたのです。

Ⅱサム 2:26 アブネルはヨアブに呼びかけて言った。「いつまでも剣が人を滅ぼしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。いつになったら、兵士たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。」

もし、このまま戦いを続けるなら、両方の側に死者が増えるだけだと悟ったのです。このまま戦いを続ければ、最後の一人の兵士が殺されるまで戦いが続くことは、ヨアブの性格から読み取れたのです。そこでアブネルはヨアブに哀訴して、これ以上、戦いを続ければ、その果ては、ひどいことになることを訴えたのです。そしてヨアブに「いつになったら、兵士たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。」と訴えています。これは多分に、この惨事はヨアブが執拗に追跡させたことに責任があると言っているようです。

27節、これに対してヨアブの返事は、アブネルが十二人の代表戦士の決闘を言い出さなかったら、と言って、このイスラエル人同志の戦いを始めたのは、アブネルであったことを非難しています。

Ⅱサム 2:27 ヨアブは言った。「神は生きておられる。もし、おまえが言いださなかったなら、確かに兵士たちは、あしたの朝まで、自分の兄弟たちを追うのをやめなかっただろう。」

そして「確かに兵士たちは、あしたの朝まで、自分の兄弟たちを追うのをやめなかっただろう。」と言って、アブネルの兵士を全滅させることを目的にしていたことを語っています。もし、この時アブネルの哀訴の提案がなされなかったら、ベニヤミンの兵士たちは一人残らず殺されていたことでしょう。

27節のヨアブの言葉の意味は明瞭でない部分があります。その意味は二つに解釈されるでしょう。一つは、「もしアブネルが自分の敗北を認めて、休戦を哀訴しなければ、追撃と虐殺は夜通し続いて、翌朝までにアブネルの兵士は全滅していたことでしょう。」もう一つは、「アブネルがもっと早く休戦を求めていれば、戦いは起きなかったか、もっと早く中止していただろう。」という意味か、どちらかだと思います。どちらにしても、この戦いはアブネルの方が仕掛けたので、アブネルに責任があるという言い分になっています。

28節、ヨアブは、アブネルの休戦に同意して、角笛を吹き、無用な虐殺の争いは終わりました。

Ⅱサム 2:28 ヨアブが角笛を吹いたので、兵士たちはみな、立ち止まり、もうイスラエルのあとを追わず、戦いもしなかった。

29節、敵対していた二つの軍は別れ、アブネルとその部下たちは、エリコの近くの、ヨルダン川が死海に注ぐ河口近くにあるアラバを通り、ヨルダン川を東に渡って、北上し、多くの峡谷を歩いて越えて行ってマハナイムに着いています。

Ⅱサム 2:29 アブネルとその部下たちは、一晩中アラバを通って行き、ヨルダン川を渡り、午前中、歩き続けて、マハナイムに着いた。

29節の「午前中」は「あらゆる峡谷」と考える方が正しいと思われます。なぜなら、アラバからマハナイムまでは、どんなに健脚でも午前中に歩ける距離ではないからです。またこのビテロン地方は峡谷が多いので、多くの峡谷を越えてマハナイムに着いたことは事実です。

31節を見ると、アブネルは部下のベニヤミン人三百六十人を失っています。ダビデの家来たちに殺されたのです。

Ⅱサム 2:31 ダビデの家来たちは、アブネルの部下であるベニヤミン人のうち三百六十人を打ち殺していた。

30節、一方、ヨアブは弟のアサエルとダビデの家来十九人を失いました。

Ⅱサム 2:30 一方、ヨアブはアブネルを追うのをやめて帰った。兵士たちを全部集めてみると、ダビデの家来十九人とアサエルがいなかった。

失った人数からすれば、ヨアブの方が少なかったのですが、戦争の悲劇は、失った人の人数にはよらないのです。多くの人々が愛する家族を失い、悲しみのドン底に落とされるのです。

32節、ヨアブたちはヘブロンに帰る途中、アサエルの死体をベツレヘムにある彼の父の墓に埋葬しています。彼らは、ベツレヘムから更に南下して一晩中歩いて、夜明けごろヘブロンに帰りついています。

Ⅱサム 2:32 彼らはアサエルを運んで、ベツレヘムにある彼の父の墓に葬った。ヨアブとその部下たちは、一晩中歩いて、夜明けごろ、ヘブロンに着いた。

あとがき

読者の皆様には、この聖書の探求からイエス様の御声を聞いていただきたいと思います。主はヨハネ十章三節で「羊はその声を聞き分けます。」と言われました。キリストの羊となっている人は、自分の内にキリストの御声の経験と、人の知恵から出た、知性だけを納得させる知識との違いを区別することができます。パウロは「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(コリント第一、二・四~五)と言っています。説教の内容が間違っていないだけでなく、だれの力で語られているかが、聞く人の信仰の質に影響を与えるのです。

(まなべあきら 2010.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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