聖書の探求(316a) サムエル記第二 7章 ダビデによる神殿建設の申し出、主のお答えとダビデの祈り

エルサレムのダビデの塔の中にはエルサレム歴史博物館があり、ダビデ王朝のエルサレムの想像図が展示されている。ダビデの宮殿は城壁で囲まれた一番高いところにあり、ダビデが神殿建設を考えたアラウナの麦打ち場は、その上方にあったと思われる。
この7章と8章は、実質上、歴代誌第一17章と18章と全く同じ内容です。この7章では、ダビデが主から安息をいただいた後、自分が王宮に住んでいるのを申し訳なく思うようになり、主のために神殿を建てたいという計画を主に申し出ております。しかし主は、ダビデの王国を確立することを約束してくださいましたが、神殿を建てることは許されませんでした。
この記事がこの箇所に記されているのは、年代的にこの時期にダビデが神殿建設を申し出たことではなく、主の契約の箱がエルサレムに運び込まれ、そこに天幕を設営した後だったので、この箇所にダビデの神殿建設の構想を書き記しておくことが適当だと記者は考えたのです。
7章の分解
1~3節、ダビデ、ナタンに語る
4~17節、主のお答え
18~29節、ダビデの祈り
1~3節、ダビデ、ナタンに語る
Ⅱサム 7:1 王が自分の家に住み、【主】が周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられたとき、
7:2 王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」
ダビデは、主が周囲の敵から守ってくださり、王国が安定してきて、安息が与えられた時、自分が立派な杉材の宮殿に住んでおり、その自分の王宮の壮大さに比べると、主の契約の箱はなお、天幕の中にとどまっていることに、申し訳なさを感じて、心打たれたのです。天幕はなめした獣の皮でおおわれていたので、外見は杉材の宮殿に比べると、みすぼらしく見えたのです。
そこでダビデは預言者ナタンに、自分の心の中の思いを打ち明け、相談を持ちかけたのです。預言者ナタンはここに初めて登場してきます。後にナタンはダビデに罪を示す大役を果たしていますが、ダビデの霊的良き指導者となったと思われます。
3節、ナタンはダビデの話を聞いて、「さあ、あなたの心にあることをみな行ないなさい。主があなたとともにおられるのですから。」と言って、ダビデの話に賛成しています。
Ⅱサム 7:3 すると、ナタンは王に言った。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。【主】があなたとともにおられるのですから。
しかし、後の主ご自身のお答えを見ると、このナタンの言葉は、主にお伺いして、主からいただいたメッセージではなかったことが分かります。ナタンは自分の考えを話したのです。預言者であっても、自分の知恵に頼ると、良さそうな助言ですが、主ご自身のお答えとにズレが出てきてしまっているのを見ます。ですから以前、ダビデがいつもしていたように、毎回、主に伺って事を行なうことが大切です。
4~17節、主のお答え
4節、ダビデとナタンが話し合った日の夜、主のことばがナタンに与えられています。
Ⅱサム 7:4 その夜のことである。次のような【主】のことばがナタンにあった。
これは、主のみこころがナタンの考えた助言と異なっています。ですから、自分で「良かれ」と思って話したり、考えたりすることは危険なのです。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。-主の御告げ-。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55:8~9)
5節、主はダビデの神殿建設の計画をとどめるように「わたしのしもべダビデに言え。」とナタンに命じておられます。
Ⅱサム 7:5 「行って、わたしのしもべダビデに言え。【主】はこう仰せられる。あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか。
人間的には、ナタンは先に自分が勧めたことと反対のことを主のご命令によってダビデに告げなければならなかったので、やりにくかったと思われますが、主のご命令には、忠実に従わないと、ナタン自身が主に反逆することになり、預言者の使命を失ってしまいます。ですから、自分の知恵で考えたことを、早まって話さないことです。いつでも「主に伺ってみましょう。」と言って下さい。みことばと聖霊に導かれ、悟らされ、主の御声を聞くことによって、判断することが大切です。人の知恵や正義感で判断すると、人の目にまっすぐで正しいように見えていても、主の道でない道に迷い込んでしまう危険があります。また正しいことを言っているようでも、自分の考えで教えている人も少なくありませんから、気をつけなければなりません。いつもみことばに触れて、主と交わり、聖霊の光に従って歩んでいるなら、容易に、主のみこころと、人の考えの違いが分かるようになります。
ダビデが神殿を建てさせてもらえなかった理由は、二つあります。
5節では、「あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか。」となっていますが、歴代誌第一 17章4節では、「あなたはわたしのために住む家を建ててはならない。」と、はっきりと禁じられています。なぜなら、主の臨在は、ずっと神の民の移動とともに導いて来られたからです。これから先も、神の臨在は個人的にも、また神の民としての集団に対しても、どこにでもともにいてくださいます。主の臨在は固定した住居も持っていなかったし、また一度も主は固定した神殿を建てるように命じられたことはありませんでした。主の臨在は一箇所に固定することができないからです。ですから、神殿建設は、そういう主の臨在の真理をよく弁(わきま)えていなかったダビデの人間的な考えから思いついたものだったのです。これについてソロモンは次のように祈っています。
「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの家など、なおさらのことです。」(列王記第一 8:27)
主は「エジプトからイスラエル人を導き上った日以来、今日まで、家に住んだことはなく、天幕すなわち幕屋にいて、歩んで来た。」と、歴史的事例を挙げて、主の臨在は一箇所に固定されないことを教えておられます。
Ⅱサム 7:6 わたしは、エジプトからイスラエル人を導き上った日以来、今日まで、家に住んだことはなく、天幕、すなわち幕屋にいて、歩んできた。
更に7節で、「わたしがイスラエル人のすべてと歩んできたどんな所ででも、わたしが、民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか。』と、一度でも、言ったことがあろうか。」と言っています。
Ⅱサム 7:7 わたしがイスラエル人のすべてと歩んできたどんな所ででも、わたしが、民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか』と、一度でも、言ったことがあろうか。
この句の中の「イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも」については、歴代誌第一 17章6節では「わたしの民を牧せよとわたしが命じたイスラエルのさばきつかさのひとりにでも、」となっていて、より明確な表現になっています。この「さばきつかさ」は士師記の時代のさばきつかさだけでなく、ダビデ以前のすべての、イスラエルの民の指導者と任命された者を指していると思われます。
ダビデが神殿建設を禁じられたもう一つの理由は、ダビデが戦士として戦い、多くの血を流してきたからです。それ故、ダビデは平和の神の神殿を建てるには、ふさわしくないとされたのです。
「あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。」(歴代誌第一 22:8)
8節、主はダビデをベツレヘムの牧場から取り出して、神の民イスラエルの君主とされ、
Ⅱサム 7:8 今、わたしのしもべダビデにこう言え。万軍の【主】はこう仰せられる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。
9節、ダビデがどこに行っても、主は彼とともにおられ、すべての敵を断ち滅ぼして勝利を与え、大いなる名を与えられ、
Ⅱサム 7:9 そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにおり、あなたの前であなたのすべての敵を断ち滅ぼした。わたしは地上の大いなる者の名に等しい大いなる名をあなたに与える。
10節、主の民に住む所を与え、平和な暮らしを与え、
Ⅱサム 7:10 わたしが、わたしの民イスラエルのために一つの場所を定め、民を住みつかせ、民がその所に住むなら、もはや民は恐れおののくことはない。不正な者たちも、初めのころのように重ねて民を苦しめることはない。
11節、これまでの過去において、そうであっただけでなく、これから後においても、ダビデをその子孫の王朝が永く続くことを保証してくださいました。
Ⅱサム 7:11 それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。さらに【主】はあなたに告げる。『【主】はあなたのために一つの家を造る。』
12節、ダビデの死後、まだ生まれていないダビデの息子ソロモンが王位を継承し、王国を確立することを含んでいるでしょうが、本当に王国を確立されるのは「ダビデの子」と呼ばれたイエス・キリストによるのです。
Ⅱサム 7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
13節、ソロモンが神殿を建設し、その王国はイエス・キリストに受け継がれ、神の王国として、とこしえに堅く立てられるのです。
Ⅱサム 7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
14~16節、ダビデの王朝は、ダビデの息子たちによって代々継承されていくはずでした。
Ⅱサム 7:14 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。
15節にあるように、サウル家の王朝が、サウル家から取り除かれてしまったように、ダビデの王朝はダビデの家から取り去ることはないと言われています。
Ⅱサム 7:15 しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。
また14節のみことばを曲解して、神の子どもになれば決してその恵みは失われないし、またその人物が罪を犯した時にも、その人は懲らしめられるけれども、罪に定められることはないという論理の証拠として、この聖句が引用されてきました。それはソロモンが後に偶像礼拝に陥ったことに対して、ソロモンの救いを強調したことと関係しています。しかしそのことを主張するなら、すべての信仰者が一度救われた後、再び罪に陥った時でも、イエス様の十字架を必要としないことにしてしまいます。確かに、一度救われた後、ほとんどの人々が再び、何らかの罪に陥っているでしょう。その時でも、イエス様の十字架を信じれば、救いは回復します。このことは真実ですが、神の子どもになれば、罪を犯しても神の懲らしめだけで、罪に定められることはないということはありません。このような解釈は、聖書全体から全く不可能な解釈です。
「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、-私たちの罪だけでなく全世界のための- なだめの供え物なのです。」(ヨハネ第一 2:1,2)
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1,2)
14~15節は、ソロモンの個人的な救いのことを言っているのではなくて、ダビデ王朝全体の状態のことを約束されているのです。
14節の「もし彼が罪を犯すときは、」を、ホースレー監督やニコルソン監督は、「とがが彼の上に置かれるなら、」と訳しています。そうするなら、それに続く「わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」は、非常に重要な意味をもってきます。先の二人の監督は、「これは全部イエス・キリストによって成就した。」と言っています。
この意味は、私の罪が「彼の上」、すなわちイエス・キリストの上に置かれるなら、キリストの贖いの十字架の故に救いは成就していることです。
これらのダビデ王国に関する預言は、ソロモンにおいてすべてが成就されたのではなく、偉大なダビデの子、主イエス・キリストにおいて完成しているのです。この偉大な契約は、イエス・キリストがダビデの子孫であることが、その基礎となっているのです。
「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」(マタイ1:1)
「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」(ルカ1:31~33)
「兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨て置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。」(使徒2:29~31)
「神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主をお送りになりました。」(使徒13:23)
ダビデの王国でも、地上的な王国は、「とこしえまで」(13,16節)存続することはできないのです。
Ⅱサム 7:16 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」
17節、今度は、ナタンは忠実に主のみことばと、主のすべての幻とをダビデに語っています。これが預言者の本質的使命なのです。
Ⅱサム 7:17 ナタンはこれらすべてのことばと、これらすべての幻とを、そのままダビデに告げた。
18~29節、ダビデの祈り
Ⅱサム 7:18 ダビデ王は行って【主】の前に座し、そして言った。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。
18節、「ダビデ王は行って主の前に座し」ダビデは神の幕屋に行って、祈りと黙想の中で主の前に座したのです。彼の祈りは、神が自分を羊飼いの中から選び出してくださり、この日まで、多くの戦いと、サウル王からの逃亡中の苦難の日々も守り、導いてくださったこと、そして更に、将来のダビデの王国の永遠のために約束してくださったことに対する驚きを素直に、また強く表わしています。ダビデは、サウルの家から王位が取り去られたことを見ていましたので、ダビデの家に対するこの約束には、非常に驚いたのです。こうしてダビデは主に対して、謙遜に感謝と、主の御旨に対して従順に服従することを表わしています。
Ⅱサム 7:19 神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ。これが人の定めでしょうか。
19節の「神、主よ。これが人の定めでしょうか。」は、メシヤに関することを言っており、七十人訳聖書では、「神、主よ。しかしこれは人の法(のり)ですか。」と訳されています。その意味は、「これは人についての法(のり)です。」と説明されており、「人」とは、ダビデの子であって、主なるキリストを指しているとされています。
これと並行する記事の歴代誌第一 17章17節では、「神、主よ。あなたは私を、高い者として見ておられます。」となっています。これはメシヤの預言と見ても間違いではないでしょう。とにかく、ダビデは人間が予見することができる能力をはるかに越えた約束を聞かされたのです。
20節、ダビデは、もはや主に祈って申し上げるべき言葉を失ってしまったのです。
Ⅱサム 7:20 神、主よ。このダビデは、このうえ、あなたに何をつけ加えて申し上げることができましょう。あなたはこのしもべをよくご存じです。
主はダビデの心の中の言い尽くせない感謝の思いのすべてを知っていてくださったのです。
21,22節、主はご自分の約束を必ず成し遂げられ、ご自分のご目的を必ず完成され、みこころのままにすべてのことを行なわれるお方です。
Ⅱサム 7:21 あなたは、ご自分の約束のために、あなたのみこころのままに、この大いなることのすべてを行い、このしもべにそれを知らせてくださいました。
7:22 それゆえ、神、主よ。あなたは大いなる方です。私たちの耳に入るすべてについて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はありません。
主のみことばには主権があることをダビデは祈りの中で主に申し上げています。
22節の「神、主よ。あなたは大いなる方」は、神の偉大なる主権を示しています。
「私たちの耳にはいるすべて」とは、神のみことばのことです。語られた言葉をすべて成し遂げられてきたお方は、主なる神以外にはありません。
23,24節、前には、みことばの主権によって主なる神をほめたたえましたが、ここでは、神の民イスラエルを贖われ、ご自分の民としてご自身の御名を置かれて、エジプトから、その苦役とエジプトの偶像から贖い出してくださった神をほめたたえています。
Ⅱサム 7:23 また、地上のどの国民があなたの民のよう、イスラエルのようでしょう。神ご自身が来られて、この民を贖い、これをご自身の民とし、これにご自身の名を置かれました。あなたは、ご自身の国のために、あなたの民の前で、大いなる恐るべきことを行い、この民をあなたのためにエジプトから、そして国々とその神々から贖ってくださいました。
7:24 こうして、あなたの民イスラエルをとこしえまでもあなたの民として立てられました。【主】よ。あなたは彼らの神となられました。
このエジプトからの贖いは、旧約聖書の中で最も偉大で、中心的な歴史的出来事として扱われています。これは新約におけるイエス・キリストの十字架の贖いを予表しているものですから、新約における私たちにとっては、イエス・キリストの十字架の贖いこそ、永遠に不朽の中心的真理なのです。そのことの故に、主を賛美させていただきましょう。
この贖いの結果、イスラエルは神の民として選ばれ、主は彼らの神となってくださったのです。主イエス様もまた「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。」(ヨハネ20:17)と言ってくださったのです。
25節では、主のしもべダビデとその王家について約束されたことを、とこしえまでも守り、約束通りに行なってくださいと祈っています。
Ⅱサム 7:25 どうか、神、【主】よ。あなたが、このしもべとその家について約束されたことを、とこしえまでも守り、あなたの約束どおりに行ってください。
主なる神は契約の主です。主の約束は必ず成就されます。
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:45)
26節、主の御名がとこしえまでもあがめられますように。
Ⅱサム 7:26 あなたの御名がとこしえまでもあがめられ、『万軍の【主】はイスラエルの神』と言われますように。あなたのしもべダビデの家が御前に堅く立つことができますように。
『万軍の主はイスラエルの神。』と賛美されますように。主のしもべダビデの王朝が主の御前に堅く立てられることによって、それがあかしとなり、イスラエルの神、万軍の主の御名が異邦人の人々にまで拡大していくようにと祈ったのです。
27節、先にダビデは主から神殿を建てることを禁じられたので、非常に失望し、気落ちしていたのです。
Ⅱサム 7:27 イスラエルの神、万軍の【主】よ。あなたは、このしもべの耳にはっきり、『わたしが、あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、このしもべは、この祈りをあなたに祈る勇気を得たのです。
しかし主の、この大いなる約束をいただいて、主に祈る勇気を得たと告白の祈りをしています。口先だけの祈りをするには、勇気も、力も必要ないでしょう。しかし主と交わり、主にみわざを行なっていただく祈りをささげるには、ダビデの言うように、本当に勇気を必要とするのです。主のみことばは、人の知恵で受け止めると、禁じられたり、拒絶されたりしたかに見えることもあり、厳し過ぎるように見えたりして、失望や不信仰に陥ってしまう危険もあります。
主がみわざを行なわれるには、私たちの信仰も試みられるのです。アブラハムにはモリヤの山でイサクを全焼のいけにえにするようにと、アブラハムの信仰を試みられ、スロ・フェニキヤ生まれのギリシャ人の女の人には、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」(マルコ7:27)と試みられておられます。
ダビデも神殿建設が禁じられて、かなり落胆していたものと思われます。しかしここで不信仰になってはいけません。神の御手を動かす祈りには信仰の勇気が必要なのです。
28節、「今」ダビデはこの祈りをささげたことによって、力強い信仰が甦ったのです。
Ⅱサム 7:28 今、神、主よ。あなたこそ神であられます。あなたのおことばはまことです。あなたは、このしもべに、この良いことを約束してくださいました。
主の約束を信じて確信したことによって、今一度、「神、主よ。あなたこそ神であられます。」と賛美しています。「あなたのおことばはまことです。」と主のみことばの真実さと確かさを確認しています。
29節も、「今」という言葉を使っています。これはダビデの信仰が刷新されていることを表わしています。
Ⅱサム 7:29 今、どうぞあなたのしもべの家を祝福して、とこしえに御前に続くようにしてください。神、主よ。あなたが、約束されました。あなたの祝福によって、あなたのしもべの家はとこしえに祝福されるのです。」
この節には「祝福」が三回記されています。この祝福は一時的な、地上的な祝福ではなく、とこしえの祝福です。ダビデの王朝の祝福は、キリストの王国の永遠の祝福を表わすものとして、この祈りは締め括られています。
この7章は、ダビデにとって失望から始まっています。しかしそれは、人間の働きに対する失望であって、それは神が働き始められる時でもあったのです。
ダビデは主の神殿を建てたいと願いましたが、神は彼の願いを拒絶されました。しかしそれは人の願いを拒絶されたのであって、主は別に、ご自身のご計画を持っておられたのです。それはダビデにとっても、また全人類にとっても、そして私たちにとってもずっとずっとすばらしいご計画だったのです。それを聞かされた時、ダビデは主に対する苦々しい心や反抗心を全く示さず、謙遜と感謝と従順な服従をもって応えたのです。
あとがき
聖書の探求を通して、知識が増えただけでなく、実際の苦難を乗り越えておられる証しのお手紙をいただいています。
私もお手紙をいただいたり、お話をうかがったりした方のためには、毎日、お祈りさせていただいております。本当にキリストのからだとして、ともに苦しみ、ともに喜ばせていただける恵みを味わっております。
私自身、こうして証しを聞かせていただく度に、生ける神を慕わしく思い、ますます信頼し、主の真理の深みをのぞかせていただいている思いがします。
人は愚かな生き方しかできないように見えますが、神のみかたちに似せて人格が造られていますから、自分の人格の内に神のみすがたを映し出すことができるのです。自分の人格の尊厳に気づく時、神に近く生きているのです。
(まなべあきら 2010.7.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)