聖書の探求(315) サムエル記第二 6章12~23節 神の箱をダビデの町へ、ミカルの軽蔑とダビデの応答

フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「David Dancing Before the Ark(神の箱の前で踊るダビデ)」(New YorkのJewish Museum蔵)


12~15節、神の箱、ダビデの町へ

真実な信仰を持って主に従う生活をしている人の所に、主の臨在が留まって下さるなら、必ず祝福が伴います。これは主なる神のルールなのです。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

これはクリスチャンのあかしの生活のために、主の臨在の同行と祝福のお約束です。

「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(マルコ16:20)

これは主の臨在の同行の結果を記しています。みことばの確かな成就も、祝福も、結果も、主のご同行があって初めて実現するのです。

ダビデは先のウザが打たれた事件で、すっかり恐れて、神の契約の箱をダビデの町に運び入れるのを止めていましたが、それはウザたちの不信仰によったものでした。不信仰に対しては、主の臨在はさばきをもたらします。しかし、オベデ・エドムの人々の信仰に対しては、大きな祝福をもたらしたのです。

このことがダビデの所に知らされました。そこでダビデは再び、神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上ったのです。

Ⅱサム 6:12 【主】が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された、ということがダビデ王に知らされた。そこでダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上った。

ダビデもまた私たちと同じ人です。わざわいを見て、恐れ、不安になり、信仰が鈍り、神の箱を運び上るのを止め、また主が祝福されているのを見て、信仰を取り戻し、決意を新たにして、神の箱を運び上ったのです。このように、私たちも周囲で起きることによって動揺してしまいやすいのです。しかも周りで起きることは、不信仰な影響を与えるものが多いので注意しなければなりません。

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(コリント第二 5:7)

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11:1)

13節を見ると、主の箱は人にかつがれています。かついだ者は聖別された祭司たちとレビ人たちで、主の規定に従って運ばれています(歴代誌第一 15章)。人の知恵に頼る不信仰が取り除かれていることが分かります。

Ⅱサム 6:13 【主】の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた。

「六歩進んだとき」が、どのようなことを意味しているのか分かりませんが、推測するに、主の箱がかつがれて運び始められた時、ダビデは一旦、それを止めて、肥えた牛をいけにえとしてささげて、主に信仰と献身と、感謝を表わしたのです。何の感謝もしないで、事を進めるのはよくありません。機会あるごとに、感謝のささげものをすることは大切なことです。このあたりにダビデの信仰の忠実さ、主に対する愛の深さが表わされています。

14節、ダビデはその時の心の中の喜びを精一杯表わすために、力の限り踊っています。

Ⅱサム 6:14 ダビデは、【主】の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。

ダビデが「亜麻布のエポデをまとっていた。」のは、この主の箱をダビデの町に運び上げることは、民にとっても大切な宗教的祝い事であることを表わしています。ダビデは王であって、祭司ではなくても、主に仕える者として特別に亜麻布のエポデを着ることが許されたのです。

15節、契約の箱がかつがれてダビデの町に近づくにつれて、ダビデもイスラエルの全家も、喜びに満ち溢れて歌声をあげ、角笛を吹き鳴らしています。

Ⅱサム 6:15 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、【主】の箱を運び上った。

こうして、主の箱をエルサレムに運ぶことによって国民の心に主を喜ぶ信仰が甦ったことを表わしています。この点でも、ダビデは民のよき霊的指導者であったのです。サウル王は民を苦しめ、悩ませ、ダビデとの間に争いを起こし、イスラエルを分裂させる根を造ってしまいましたが、ダビデは民の心を主にあって一つにし、共に喜ぶ信仰を回復したのです。

16節、ミカル、ダビデをさげすむ

主の箱がダビデの町にはいった時、サウルの娘ミカルは窓から見下ろしていました。ダビデ王も民もみんな主を喜び、賛美し、感謝をささげていた時、ミカルはその行進に加わらず、窓から見下ろしていたのです。

Ⅱサム 6:16 【主】の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカルは窓から見おろし、ダビデ王が【主】の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。

サムエル記の記者はミカルを「ダビデの妻」と言わず、「サウルの娘」と言っています。ミカルは明らかにダビデによるこの信仰的喜びの行事に批判的になり、共感していなかったのです。「窓から見下ろし」ていたとは、道端で見ている傍観者よりも、いかにもダビデを見下げている高慢な心が態度に表われています。

ミカルは「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣く」(ローマ12:15)ことが出来ない、ひねくれた、心の頑なな人だったのです。このように心を一つに出来ない人は、自分自身を不愉快にし、周りの人々にも不愉快さを与えるのです。

ミカルはダビデが主の前で、はねたり、踊ったりして、力を尽くして主を賛美している姿を見て、「心の中で彼をさげすんだ。」と記されているのは、ミカルには、みんなと共に主を喜ぶことのできない、冷淡で頑なな心があったのです。そのような心の態度を取れば、必ず、主の懲らしめを受けることになります。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)

どんな宗教儀式や行事も、外見的に華やかに行なっても、心が頑なであったり、高慢だったり、心から主を喜ぶ信仰がなかったり、泣く者とともに泣き、喜ぶ者と一緒に喜ぶ心がなければ、その儀式や行事はわざわいになります。主に喜んでいただくことができません。信仰で一番大切なことは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:37,39)です。この愛がある時、いつもイエス様は私たちとともにいてくださいます。

また、自分の知恵に頼ることの愚かさも十分に注意する必要があります。宗教活動にはしばしば自分の知恵による熱心さが混入しやすいからです。

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(箴言3:5)

そして自分の内に神を宿す神の宮となっていることです。礼拝は主の日に、週に一度、ささげるだけでなく、毎日の生活が主にささげる礼拝となることです。主に仕える信仰で、毎日の生活を営むことです。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(コリント第一 3:16)

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものでないことを知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一 6:19,20)

これらのことが信仰には不可欠な重要なものなのです。

17~19節、ダビデ、いけにえをささげ、民を祝す

17節、ダビデは神の箱をエルサレムに運ぶに先立って、箱を安置するための天幕を備え、その真中に至聖所を造ったのです。

Ⅱサム 6:17 こうして彼らは、【主】の箱を運び込み、ダビデがそのために張った天幕の真ん中の場所に安置した。それから、ダビデは【主】の前に、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげた。

おそらく、この天幕は、出エジプト記25~31章の、モーセの時の幕屋建造の記録を参考にして造ったものと思われます。ダビデはその天幕の至聖所に主の契約の箱を安置したのです。

ダビデはレビ人たちとともに、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげました(歴代誌第一 16章)。そして主の名によって民を祝し、主を賛美し、感謝をささげたのです。

全焼のいけにえは、全き献身と全き信仰を表わし、主を全身全霊をもって愛しているということを表わしています。

和解のいけにえは、罪の贖いに対する感謝を表わしています(レビ記1~7章)。

18節、主に対する献身と信仰は、必ず、民を祝することに現わされます。心を尽くして主を愛することは必ず人に現わされてくるからです。

Ⅱサム 6:18 ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、万軍の【主】の御名によって民を祝福した。

19節、民の一人一人に祭りの食べ物が分け与えられています。祭りの時は貧しい者も祝福にもれる人はいなかったのです。

Ⅱサム 6:19 そして民全部、イスラエルの群集全部に、男にも女にも、それぞれ、輪型のパン一個、なつめやしの菓子一個、干しぶどうの菓子一個を分け与えた。こうして民はみな、それぞれ自分の家に帰った。

彼らは大きな喜びを持って各々自分の家に帰って行ったのです。今日、クリスチャンたちが、教会から家に帰る時、喜びを持って帰っているなら幸いです。

20~23節、ミカルの軽蔑とダビデの応答

20節、ダビデは民を祝福した後に、自分の家族を祝福するために戻っています。彼は国民を祝福することを先にした、すぐれた王でした。ところがそのダビデを迎えたのは、予想もしなかったサウルの娘ミカルの軽蔑の言葉と態度でした。

Ⅱサム 6:20 ダビデが自分の家族を祝福するために戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。「イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって。」

ミカルは「イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。」と、嫌味たっぷりの言葉で迎えています。ダビデは心を尽くし、力を尽くして主を賛美し、感謝をささげ、民とともに喜んで帰って来た時、嫌味たっぷりの冷水を浴びせかけられたのです。このようなことは、よくあることです。特に、意地の悪い冷淡で、心頑なな人がよくやることです。これによってその人の本当の性質が現わされます。

ダビデが威厳のある王服を脱いで、自分の家来の前で裸になって踊ったことを「ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように」と口汚くののしっています。言葉は丁寧でも、その心は軽蔑に満ちています。ミカルにはダビデの主に対する気持ちが分からなかったのです。信仰が表面的な人にはダビデのしたことは恥ずかしい、愚かな人のすることのように思えたのです。無作法に裸になってからだを露出することは、罪に近いと感じたのです。これは、いたって常識的で、道徳的で、ダビデの心が分からない人には、正しい考えに聞こえるでしょう。

21節、ダビデはミカルに、「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前に喜び踊るのだ。」と答えています。ダビデは自分を王に選んで任じて下さった主の前に踊らないではいられなかったのです。

Ⅱサム 6:21 ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで【主】の民イスラエルの君主に任じられた【主】の前なのだ。私はその【主】の前で喜び踊るのだ。

22節、「私はこれより、もっと卑しめられよう。」

Ⅱサム 6:22 私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」

ダビデを更に卑しめる者がいるなら、それをも甘んじて受けるという、ダビデのへりくだりです。指導者になればなるほど、多くの批判を受け、軽蔑や攻撃を受けるものです。

「あなたの目」はギリシャ語訳の七十人訳聖書によっています。へブル語聖書は「私の目」となっていますが、この「私」はミカル自身のことを指しています。恐らくミカルが「私の目にあなたがごろつきの裸踊りのように見えた」と言ったのを、そのままダビデが使って「私の目」と言ったのでしょう。七十人訳はその意味を分かりやすくしたのでしょう。ミカルがダビデを軽蔑しても、ミカルが皮肉って言っている、そのはしためたちに「敬われたいのだ。」と、ダビデははっきりと本心を語ったのです。ダビデは宮廷の王ではなく、はしためと軽蔑されている人々と共に喜びを分かち合う王となることを決意していたのです。

23節、ミカルのとった、この高慢で、王を見下げた態度は、主に喜ばれなかったのです。

Ⅱサム 6:23 サウルの娘ミカルには死ぬまで子どもがなかった。

ミカルに死ぬまで子どもがなかったことは、このダビデを軽蔑し、見下げた態度をとったことが原因であると、聖書は言っています。他人を、特に主が油注がれた人を軽蔑したり、見下したり、ののしったりするなら、何の懲らしめもなしにすまされることは決してないのです。

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2:3)

あとがき

最近、聖句の引照を挙げられて、「このみことばを感謝します。」というお便りをよくいただきます。これはすばらしいことです。主がみわざを行なって下さることも感謝なことですが、みことばをいただいて感謝することは、それ以上に主を喜ばせます。
マタイ8章8節に「主よ。あなたに私の屋根の下まで来ていただく資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」と言った百人隊長の記事があります。彼に対して、「イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」(10節)と言われています。

(まなべあきら 2010.6.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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