聖書の探求(316b) サムエル記第二 8章 ダビデによる周囲の諸国の征服、ダビデの政治と高官たち

ダビデ王国の最盛期の勢力図(エルサレムのダビデの塔の中にあるエルサレム歴史博物館にて)


8~10章の三つの章は、明確ではありませんが、相当の年数の期間を扱っていると思います。この期間はダビデの軍事的征服と関係があり、8章はダビデの勝利と支配、9章はヨナタンの息子メフィボシェテに対するダビデの親切、10章はダビデの使者がアモンの王の子ハヌンから侮辱を受けたことを扱っています。

8章の分解

8:1~14、ダビデによる周囲の諸国の征服
8:15~18、ダビデの政治と高官たち

8:1~14、ダビデによる周囲の諸国の征服

8章は、近隣諸国に対するダビデの驚くべき勝利を示して、その全体を要約して記しています。

Ⅱサム 8:1 その後、ダビデはペリシテ人を打って、これを屈服させた。ダビデはメテグ・ハアマをペリシテ人の手から奪った。

1節、ペリシテ人は半世紀以上もの間、イスラエルを圧迫していた最も強力な敵対者でした。ダビデにとって、先ず果たさなければならない仕事は、この地中海沿岸地帯に住む、ペリシテ人の脅威を取り除くことでした。ダビデはこの強力なペリシテ人を打ち破って、「メテグ・ハアマ」を占領しています。その町の名前は「母なる町」あるいは「首都の手綱」を意味する複合語です。この町はおそらく、ペリシテの主要都市のガテとその周辺の町々のことを言っているのでしょう。ガテはいつもイスラエル人の平和な生活を脅かしてきたペリシテ人の主要都市でした。並行記事の歴代誌第一18章1節には、次のように記されています。

「その後、ダビデはペリシテ人を打って、これを屈服させ、ガテとそれに属する村落をペリシテ人の手から奪った。」

2節、次にダビデは西のペリシテ人とは反対方向の東に向かい、モアブを打っています。

Ⅱサム 8:2 彼はモアブを打ったとき、彼らを地面に伏させて、なわで彼らを測った。なわ二本を伸ばして測った者を殺し、なわ一本を伸ばして測った者を生かしておいた。こうしてモアブはダビデのしもべとなり、みつぎものを納める者となった。

サムエル記第一22章3,4節を見ると、ダビデはモアブの王に大変世話になっており、自分の両親をもあずけたほどの信頼関係にあり、ダビデの先祖のルツの出身地でもあったのに、なぜ、ダビデがモアブを打ったのか、その理由は何も記されていません。また、モアブ人がどのようにしてダビデの敵となったのかも、記されていません。

「なわ二本を伸ばして測った者を殺し、なわ一本を伸ばして測った者を生かしておいた。」とは、モアブ人の三分の二を処刑したことを意味しています。

「彼らを地面に伏させて、なわで彼らを測った。」について、モファットは次のように訳しています。「住民を並ばせ、地面に横たわらせた。それらのうち二列は殺され、一列はいのちを助けられた。」

ダビデは、その生かして残しておいた者たちを奴隷にし、彼らから貢物を取り立てたのです。モアブ人がこのような扱いを受けたのには、特別な反逆があったからに違いありません。

3節、北部では、ダビデは、ツォバの王ハダデエゼルを打っています。

Ⅱサム 8:3 ダビデは、ツォバの王レホブの子ハダデエゼルが、ユーフラテス川流域にその勢力を回復しようと出て来たとき、彼を打った。

ハダデエゼルがユーフラテス川の流域の東の国境の戦いに専念していた間に、ダビデはハダデエゼルの軍を攻撃し、騎兵千七百、歩兵二万人を取ったとありますから、大規模な騎兵隊と歩兵を弱体化させたのです。

ハダデエゼルとの戦いは、サムエル記第二10章16~19節と、歴代誌第一18章3~10節に記されています。

ハダデはシリヤ(アラム)の太陽神でした。ツォバはツォバのアラムとも呼ばれ、ダマスコの北東、ユーフラテス川の西でオロンテスとの間にありました。ツォバは、当時、相当重要なアラム人の王国でした。

4節、「その戦車全部の馬の足の筋を切った。」馬の足の筋を切れば、軍馬として使うことができなくなり、敵は騎兵力を失うことになります。わずかに「戦車の馬百頭を残した」だけで、徹底的な敗北を与えたのです。

Ⅱサム 8:4 ダビデは、彼から騎兵千七百、歩兵二万を取った。ダビデは、その戦車全部の馬の足の筋を切った。ただし、戦車の馬百頭を残した。

3節の「ユーフラテス川流域にその勢力を回復しようと出て」行ったのは、ダビデであったと解釈する人もいます。その時、ハダデエゼルの領土を通らなければならなかったので争いになったというのです。しかしこの解釈でなければならないという根拠はありません。

5節、ダマスコ王国はツォバのハダデエゼルと同盟を結んでいたので、ハダデエゼルを助けようとして出て来ましたが、ダビデはダマスコのアラム軍を二万二千人打っています。

Ⅱサム 8:5 ダマスコのアラムがツォバの王ハダデエゼルを助けに来たが、ダビデはアラムの二万二千人を打った。

6節、こうしてダビデはダマスコを占領し、アラムに守備隊を置き、アラム人はダビデのしもべとなり、「みつぎを納める者となった。」

Ⅱサム 8:6 ダビデはダマスコのアラムに守備隊を置いた。アラムはダビデのしもべとなり、みつぎものを納める者となった。こうして【主】は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。

その勝利の秘訣は、「こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」この連続の大勝利は、ダビデがいかに主に用いられ、力を受けていたかを示しています。どこに行っても敵対する者はいるし、困難はあります。しかし主がともにあって戦ってくだされば、行く先々で勝利が与えられます。

「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア記1:5)

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)

7,8節、ダビデはハダデエゼルの家来たちの持っていた金の丸い小盾を奪い取っています。

Ⅱサム 8:7 ダビデはハダデエゼルの家来たちの持っていた金の丸い小盾を奪い取り、エルサレムに持ち帰った。
8:8 ダビデ王は、ハダデエゼルの町ベタフとベロタイから、非常に多くの青銅を奪い取った。

金で小盾を造っていたことは彼らが非常に富んでいたことを示しています。

またハダデエゼルの町ベタフとベロタイから、非常に多くの青銅を奪い取っています。一般民衆が多くの青銅の器を使っていたことも、その民が富んでいたことを示しています。金も青銅も共に貴重な金属です。これらの貴金属を戦利品にしたのです。

9~12節、更に、ダビデのもとに集められ、蓄積していく金銀の富が記されています。

Ⅱサム 8:9 ハマテの王トイは、ダビデがハダデエゼルの全軍勢を打ち破ったことを聞いた。
8:10 そこでトイは、その子ヨラムをダビデ王のもとにやって、安否を尋ねさせ、ダビデがハダデエゼルと戦ってこれを打ち破ったことについて、祝福のことばを述べさせた。ハダデエゼルがトイに戦いをいどんでいたからである。ヨラムは銀の器、金の器、青銅の器を手にして来た。
8:11 ダビデ王は、それをもまた、彼の征服したすべての国々から取って聖別する銀や金とともに【主】に聖別してささげた。

ハマテの王トイ(歴代誌第一18:9では「トウ」となっています。)は長年、ツォバの王ハダデエゼルの攻撃を受けて敵対関係にありました。その宿敵をダビデが打ち破ってくれたことを聞いて、トイの息子ヨラム(歴代誌第一18:10では「ハドラム」となっています。)をダビデのもとに送って祝福のことばを述べさせ、金、銀、青銅の器を贈り物として運ばせています。ハマテはダマスコよりずっと北のオロンテス川沿いにあり、シリヤ(アラム)王国ツォバに属し、ハマテ・ツォバとも呼ばれ、ハマテ王国の首都であった可能性があります。後に、ソロモンが攻略しています(歴代誌第二8:3)。

ダビデは、彼が征服した全ての国々から取った戦利品の内から金と銀を、トイが送って来た贈り物とともに聖別して、主にささげています。ここにもダビデの勝利と繁栄の秘訣が記されています。それはダビデが最も良き物を主にささげていたことです。

12節には、ダビデが分捕り物を得た諸国のリストを記しています。

8:12 それらは、アラム、モアブ、アモン人、ペリシテ人、アマレクから取った物、およびツォバの王レホブの子ハダデエゼルからの分捕り物であった。

アラム、モアブ、アモン人、ペリシテ人、アマレク人、ツォバの王レホブの子ハダデエゼルです。ほとんど周辺諸国のすべてに勝利を収めていたのです。

13~14節は、南の塩の谷での戦いを記しています。

Ⅱサム 8:13 ダビデが塩の谷でエドム人一万八千を打ち殺して帰って来たとき、彼は名をあげた。
8:14 彼はエドムに守備隊を、すなわち、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、エドムの全部がダビデのしもべとなった。このように【主】は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。

13節の「エドム人」は七十人訳によるもので、へブル語では「アラム人」となっています。歴代誌第一18章12節も七十人訳を採用して「エドム人」となっています。ここではダビデの甥のアブシャイが将軍として頭角を現わしてきていることを記しています。しかし歴代誌第一18章12節の時の戦いは、別の時のことだと考える人もいます。

おそらくダビデは、今回は一連の長期間の戦いを続けていたので、敵対する者たちを、ひとまとめにしてへブル語で「アラム人」と記したのでしょうが、塩の谷の地域に住んでいた住民はエドム人だったので、七十人訳はその実情にそって「エドム人」と訳したのでしょう。

14節の終わりには、再び、「このように主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」(6節)と繰り返しています。これはダビデの勝利の秘訣を強調しているのです。こうして今や、ダビデは周辺諸国の中ですべての王となったのです。

8:15~18、ダビデの政治と高官たち

Ⅱサム 8:15 ダビデはイスラエルの全部を治め、その民のすべての者に正しいさばきを行った。
8:16 ツェルヤの子ヨアブは軍団長、アヒルデの子ヨシャパテは参議、
8:17 アヒトブの子ツァドクとエブヤタルの子アヒメレクは祭司、セラヤは書記、
8:18 エホヤダの子ベナヤはケレテ人とペレテ人の上に立つ者、ダビデの子らは祭司であった

15節、「ダビデはイスラエルの全部を治め、その民のすべての者に正しいさばきを行なった。」は、「さばきと公正をもって治めた。」ことを要約して、ダビデの施政を記しています。

「さばき」はへブル語でミシュパテで、律法、公正、司法裁判を意味しています。
「公正」はへブル語では、ツェデカアで、正義、公正、公平を意味しています。

16節、ダビデの甥であり、ツェルヤの子ヨアブは、長い間、ダビデの軍隊の将軍を務めてきましたが、ここではイスラエルの全軍を支配する軍団長に就いています。

アヒルデの子ヨシャパテは参議を務めています。参議は王の相談役のような立場ですが、通常は出来事や歴史などを記録する記録者、また歴史家の働きもしていたと思われます。

17節、サウルがノブで祭司アヒメレクと祭司たちを殺した時(サムエル記第一22章)、サウルはツァドクを大祭司に任命していたようです。その後、ダビデは亡命時代にアヒメレクの子エブヤタルを大祭司に任命していました。ここではその子のアヒメレク(歴代誌第一18:16では「アビメレク」)になっていますが、これは明らかに写本を書き移す時に起きた間違いで、「アヒメレク」が正しい名前です。そこでダビデは異例ではありますが、ツァドクとアヒメレクを祭司に任じて、共同で大祭司の働きをさせています。このアヒメレク(列王記ではエブヤタルと記されています。)はダビデの晩年に、ダビデの息子アドニヤがソロモンから王位を奪おうと試みた時、アドニヤの側について支援したため(列王記第一1:7,25)、ソロモンはアヒメレクを祭司の職から罷免しています(列王記第一2:27)。列王記のほうでは「エブヤタル」と呼ばれていますが、これは父の名前で呼ばれていますが、エブヤタルの子アヒメレクであったことはほぼ間違いありません。エブヤタルは彼の別名であったかもしれません。

「セラヤ」は歴代誌第一18章16節では「シャウシャ」と呼ばれています。書記は王の助力者であるとともに、内政的行政の責任者であったと思われます。

18節、エホヤダの子ベナヤはケレテ人とペレテ人を指揮していました。彼らはダビデ王の個人的な護衛隊を務めていました。

ケレテ人はペリシテの部族であり、ユダの国境に住んでいました。あるいはサムエル記第一30章14節に「ケレテ人のネゲブ」とありますから、南部パレスチナの一民族であった可能性もあります。

エゼキエル書25章16節では、「見よ。わたしは、ペリシテ人に手を伸ばし、ケレテ人を断ち滅ぼし、海辺の残った者を消えうせさせる。」と言って、ペリシテ人とケレテ人を同一視しています。

ゼパニヤ書2章5節、「ああ、海辺に住む者たち。ケレテ人の国。主のことばはおまえたちに向けられている。ペリシテ人の国カナン。わたしはおまえたちを消し去って、住む者がいないようにする。」ここではペリシテ人によく使われる「海辺に住む者」が使われています。

七十人訳聖書では先に引用しましたエゼキエル書とゼパニヤ書の箇所では、ケレテ人を「クレテ人」と訳しています。これはペリシテ人がごく初期の頃に、クレテ島からパレスチナに移住して来たから、こういう訳にしたのだと思われます。

以上のようなことから、ケレテ人がペリシテ人の一部族であったことはほぼ間違いないことです。

ペレテ人もペリシテ人の一部族の雇い兵であったと思われます。ペレテはペリシテの省略形であるという人もいます。またサムエル記第二15章18節には、ケレテ人とペレテ人とガテ人が並んで記されています。ケレテ人もガテ人もペリシテの一部族であるなら、ペレテ人もペリシテ人の一部族である可能性は大です。

「ペリシテ人」とは、「流浪者」とか、「他国人」を意味していますので、ケレテ人とペレテ人をその語根から「亡命者」とか「逃亡者」と訳す人もいます。ゲシニウスという人はケレテ人とペレテ人を「死刑執行人と伝令あるいは競争者」と訳しています。これは部族名というより、一般名詞として、その語根の意味から訳したのです。

ダビデは彼らの中から最も信用できる者たちを自分の護衛兵に雇ったのです。イスラエルの軍の内部では、まだまだ謀反の気運が多かったので、彼らはダビデにとって重要な存在だったのです。

「ダビデの子らは祭司であった。」ここで「祭司」と訳されているのは不適当で、へブル語の意味は「腹心の顧問」です。キング・ジェームズ訳は「首長たち」と訳しており、バークレーは「副首長たち」と訳しています。

あとがき

 今回は、ダビデの軍とアラムを中心とした列強国の連合軍との戦いの箇所を記しました。
私たちも日々、同じような戦いをしています。神のみことばに無関心、無反応な人々との戦いです。しかし人間との戦いではありません。人々の心にキリストの福音の光が届かないように、おおいをかけているこの世の神との戦いです(コリント第二4:3,4)。このお
おいは、肉の欲というおおいです。このおおいを打ち破り、取り除くなら、福音の光は多くの人々の心に輝くようになります。
そのために先に福音の光を受けている私たちが、祈り、聖霊に働いていただき、光の種を人々の心に蒔き続けていかなければなりません。そのために、私たちが地の塩、世の光となって人々の前に光を輝かせましょう。

(まなべあきら 2010.7.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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