週報No.2143 涙の預言エレミヤ書(53)「あわれみが取り去られたら」エレミヤ書25:30~33

2018年8月26日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

エレミヤ書25章30~33節
25:30 あなたは彼らにこのすべてのことばを預言して、言え。『【主】は高い所から叫び、その聖なる御住まいから声をあげられる。その牧場に向かって大声で叫び、酒ぶねを踏む者のように、地の全住民に向かって叫び声をあげられる。
25:31 その騒ぎは地の果てまでも響き渡る。【主】が諸国の民と争い、すべての者をさばき、悪者どもを剣に渡されるからだ。──【主】の御告げ──
25:32 万軍の【主】はこう仰せられる。見よ。わざわいが国から国へと移り行き、大暴風が地の果てから起こる。
25:33 その日、【主】に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らはいたみ悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。』」
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

紀元前六世紀は、バビロン軍の攻略と戦いの世紀です。

多くの国々が、バビロン軍の攻撃を受けて、征服され、最後には、バビロン自身がメディヤとペルシャの攻撃によって、滅んでしまったのです。

この戦争の世紀の出来事を、エレミヤは「神の怒りの杯を飲むことによって、酔っている」姿で描写したのです。

「彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる。わたしが彼らの間に送る剣のためである。」(エレミヤ25:16)

戦争は、あらゆる恐怖をつくり出し、国々を酔った人のように、ふらつかせ、人のたましいと、精神を狂わせ、悪魔の狂信者を生み出します。ついには、破滅の中に陥れるのです。

戦争には国を高揚させるキャンペーンが張られますが、国を高揚させることはありません。

戦争は、いつの時代でも、常に個人的、社会的、霊的、道徳的、生活的、食料的、生命的悲惨さをもたらします。

神が杯を取り、すべての国々に飲ませたことは、神があわれみや聖霊のブレーキや、人の心への関心を全く取り去ってしまうこと、悪魔が支配権を全く握ってしまうことです。これが、「わたしが彼らの間に送る剣」です。即ち、戦争と同じです。

エレミヤの職務は、戦争は、神のあわれみが取り去られる、神のさばきであることを示し、世界の日常、日々の生活、出来事の中に、神がご支配しておられることを、知らせることでした。

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(蔵言3:6)

「そこで、私は主の御手からその杯を取り、主が私を遣わされたすべての国々に飲ませた。」(エレミヤ25:17)

「エルサレムとユダの町々とその王たち、つかさたちに。-彼らを今日のように廃墟とし、恐怖とし、あざけりとし、のろいとするためであった。-」(エレミヤ25:18)

最初に、杯を飲まされるのは、エルサレムとユダの人々でした。神のさばきは、神の民から始まり、続いて周辺の国々に広がるのです。常日頃、神のあわれみを受け、みことばを教えられている者から、神のさばきが始まるのです。

「彼らを今日のように廃墟とし、」と言ったのは、エレミヤが紀元前605年に語った彼のメッセージ、即ち、エルサレムとユダの崩壊のメッセージを覚えていたからです。

こうしてエルサレムとユダについての、エレミヤの預言は、エレミヤの目の前で、文字通り、実現していったのです。

<今週の活用聖句>

エペソ人への手紙2章8節
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」

<集会案内>

◇8月29日(水)聖別会 午前10時半
聖潔とは何か(16)
「聖潔の道を歩む(4)」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421