週報No.2257 希望の預言エゼキエル書(41)「ネゲブの象徴」 20:45~21:7

2020年10月18日(日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

エゼキエル書 20:45~21:7
20:45 さらに、私に次のような【主】のことばがあった。
20:46 「人の子よ。顔を右のほうに向け、南に向かって語りかけ、ネゲブの野の森に向かって預言し、
20:47 ネゲブの森に言え。『【主】のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしはおまえのうちに火をつける。その火はおまえのうち、すべての緑の木と、すべての枯れ木を焼き尽くす。その燃える炎は消されず、ネゲブから北まですべての地面は焼かれてしまう。
20:48 そのとき、すべての者は、【主】であるわたしが燃やしたことを見るであろう。その火は消されない。』」
20:49 そこで、私は叫んだ。「ああ、神、主よ。彼らは私について、『彼はたとえ話をくり返している者ではないか』と言っています。」
21:1 次のような【主】のことばが私にあった。
21:2 「人の子よ。顔をエルサレムに向け、聖所に向かって語りかけよ。イスラエルの地に向かって預言せよ。
21:3 イスラエルの地に言え。『【主】はこう仰せられる。今、わたしはあなたに立ち向かう。わたしは剣をさやから抜き、あなたのうちから、正しい者も悪者も断ち滅ぼす。
21:4 わたしがあなたのうちから、正しい者も悪者も断ち滅ぼすために、わたしの剣はさやを離れて、ネゲブから北まですべての者に立ち向かう。
21:5 このとき、すべての者は、【主】であるわたしが剣をさやから抜いたことを知ろう。剣はもう、さやに納められない。』
21:6 人の子よ。嘆け。彼らが見ているところで腰が砕けるほど激しく嘆け。
21:7 彼らがあなたに、『なぜあなたは嘆くのか』と言うなら、そのとき、あなたは言え。『この知らせのためだ。それが来ると、すべての者は心がしなえ、すべての者は気力を失い、みな意気消沈し、だれのひざも震える。今、それが来る。それは実現する。──神である主の御告げ──』」
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージ>(一部分)

21:1~7、エルサレムに対する預言

この部分は、前の部分の象徴的預言の解説をしています。
20:46の「南」は、神殿のあるエルサレムの都を指しています。
「人の子よ。顔をエルサレムに向け、聖所に向かって語りかけよ。イスラエルの地に向かって預言せよ。」(エゼキエル書21:2)

神の審判の日は、殆ど足もとにまで迫って来ています。神は間もなく、ご自分の剣をさやから抜かれます。即ちバビロンの王ネブカデネザルは、神の民の罪を罰するために、神の審判の剣として、エルサレムの攻撃を始めます。ネブカデネザルとその軍隊は、神の剣、神のさばきの道具として使われたからです。

前の部分の緑の木と枯れ木は、正しい者と悪人の象徴でしたが、このエルサレムの崩壊とユダの民の捕囚においては、悪人だけでなく正しい人にも禍が及び、都を失い、捕囚に巻き込まれることを言っています。エレミヤも同時代の預言者たちも、ダニエルやその友人たちも、バビロン捕囚の災いに巻き込まれ、バビロンに連れ去られています。20:47の最後の部分の「ネゲブから北まで」は、パレスチナ周辺の諸国民が含まれています。

「このとき、すべての者は、主であるわたしが剣をさやから抜いたことを知ろう。剣はもう、さやに納められない。」(エゼキエル書21:5)

このみことばは、恐るべき神のさばきが行なわれることを示しています。このさばきは、「主であるわたしが言ったとおり」神ご自身の直接のみわざです。このみことばは、神の峻厳さ(非常に厳しいこと)を示しています。

主なる神は、神に逆らう「罪の性質」「肉の性質」「自己中心の自我の性質」には、容赦なく徹底的に敵対されます。取り除かれます。

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:5~8)

聖書が言う「肉」とは、アダムとエバの時以来、人間が受け継いでいる「生まれながらの神に反逆する性質」です。

この内の性質は、様々な姿や、状態で、私に現われて来ます。自分のほうが正しいと思い上がる自己義の思いを持つとか、思い上がった高慢さとか、隣人への冷淡さとかです。この生まれながらに持っている肉の性質は、自己中心的に働きます。これはごく普通の生活のやり方の中に現われて来ます。愛は冷めやすく、隣人に冷淡になりやすく、自分の評判がよくなるために、他人からよく言われたくて、熱心に働きやすいのです。しかしどのように見せかけようとも、私たちはみな、神に反逆する性質を持っているのです。…

パウロは、次のように言っています。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですからそれを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」(ローマ7:15~17)

この肉の性質を持っている者は、神に反抗し、神を喜ばせることが出来ません。聖なる神は、その罪の性質を取り除こうとしておられるのです。パウロはその体験の証しを、次のように言いました。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)そして、御霊による思いは、いのちと平安です。

このエゼキエルの預言は、苦痛に満ちたうめき、それも腰が砕けるような激しい苦痛の中にある人のうめきで現わされています。

「人の子よ。嘆け。彼らが見ているところで腰が砕けるほど激しく嘆け。なぜ、苦痛の中にあるのかと、聞かれたなら、次のように答えなければならない。彼らがあなたに、『なぜあなたは嘆くのか。』と言うなら、そのとき、あなたは言え。『この知らせのためだ。それが来ると、すべての者の心がしなえ、すべての者は気力を失い、みな意気消沈し、だれのひざも震える。今、それが来る。それは実現する。-神である主の御告げ。-』」(エゼキエル21:6~7)

これはバビロン軍による、ユダの攻略とエルサレムの都の包囲の事を言っています。ユダとエルサレムの民は、神の摂理によって、これだけは避けてほしいと望んでいたことが、直ぐ、目の前に近づいていたのです。それ故、エゼキエルは捕囚の民に、この重要な緊急事態を伝えたので、すべてのユダヤ人は、まさに神の審判が下されようとするときに、非常な緊張感を感じていたのです。

<今週の活用聖句>

ローマ人への手紙8章6節
「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」

<集会案内>

◇10月21日(水)聖別会(10) 午前10時半
「贖いの計画」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421

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