JESUS LOVES YOU!

私が父に最後に会ったのは、父の死の半年前でした。
父は病気で寝ていました。
私は自分にできることなら何でもしてあげたい気持ちで、「何かしてもらいたいことはないか」と尋ねました。
すると、父は病床から目を開いて、「愛してもらいたい。」と訴えました。
私は頑固な父からこのような言葉を聞くとは思ってもみませんでしたから、一瞬驚きました。

しかし、人はみな愛を求めています。
この求めは年令、地位、学問のあるなしに拘わらず、強烈です。
私たちはいつも周囲の人から愛されることを求めていますが、めったにそれが満たされることはありません。
なぜなら、みんな愛を求めていて、愛を与える人がいないからです。
むしろ、ネタミ、高慢、優越感、劣等感、孤独、悩み、憎しみ、冷淡などの渦の中で生活しています。


かつての時代は、母は愛を与える人と誰もが思っていました。
しかし今や必ずしもそうではないようです。
母もまた愛を求めている人です。
それなのに私たちは絶えず、誰かに愛してもらおうと求めています。
愛を人に求めたら、必ず失望します。
なぜなら、人はだれも、他人に与えるほどの愛を持っていないからです。


しかし、私たちは誰からも愛されないでは、生きていくことができません。
私たちは、どこに、誰に、この愛を求めたらいいのでしょうか。
聖書に、
『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子(注、キリストの十字架のこと)を遣わされました。
ここに愛があるのです。』(ヨハネの手紙第一4:10)
とあります。


私が大分県に住んでいたA君に会ったのは、彼が十八才の時でした。
彼は生まれた時から心臓に穴があいているという、日本にも数十人しかいない苦しみを背負っていました。
彼は私と最初に会ってから三ケ月後に天に凱旋しましたが、彼はこう言いました。
「ボクの心臓に穴があいていなかったら、これほど真剣にイエス様を求めなかったでしょう。
ボクはこの手術で死んでもいいのです。
イエス様のところに行くのですから・・・・・・。」


彼は最後の数カ月を最も充実して生きていました。
彼は手術の日の前日まで入院中の友達を見舞い、励まし、神の愛を話しました。
彼は愛を知ったのです。
後に、彼の友だちは彼の愛の行ないについて多くを話してくださいました。
私はA君の生涯から、この世で何不自由なく暮すことだけが幸福なのではなく、真の幸福はキリストに愛されていることを知ることなのだと悟らされました。


ある時、教会の婦人会に出席された方が、「私の友だちに、思い病気をもった赤ちゃんが生まれました。
それでも神は愛なのですか。」とつめ寄られました。
そのお気持ちはわかります。
しかし、神が愛であることに変わりはありません。


私たちの教会に全盲の方が出席しています。
様々な苦しみを通られたようですが、とても明るく生きておられます。
ヨハネの福音書九章二、三節に、キリストの弟子が、
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。
その両親ですか。」
と尋ねた時、キリストは
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現れるためです。」
と答えられました。

あなたも教会においでになり、この神の愛を求めませんか。

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