こどく

ふと、「自分は、だれからも愛されていない。」と思ったことがありませんか。
そんな時、心に深いさびしさを覚えてしまいます。
これが孤独の始まりです。
孤独は、思いつめると、限りがなくなります。


家族や友達が近くにいても、言いようのない寂しさに襲われます。
このさびしさの解決を人との交わりの中に求めていくと、ますます孤独を味わうようになります。
しかしこのいやしがたい孤独感こそ、私たちが神によって造られていることの証拠です。
この孤独は、私たちの心が神とつながる時にいやされます。
それ以外は、音楽を聴いても、テレビを見ても、大勢の友だちと楽しく過ごしていても、それは一時だけで終わってしまい、再び心はさびしさに襲われます。
消えたように思っていた孤独が、まだ心の中にいて、以前よりももっと孤独な自分を見出すことになります。


旧約聖書に出てくるヨブという人を知っていますか。
ヨブの息子たちは死んでしまい、財産は奪われ、自分もひどい病気になり、そんな姿を見た彼の奥さんは、
「神をのろって死になさい。」と、ひどい言葉を投げかけたのです。


見舞いに来た友達からは、さんざん悪口を浴びせ掛けられ、こうしてヨブは、ある日突然、全くの孤独に陥ったのです。自分の気持ちを分かってくれる人が、ひとりもおらず、使用人もみんな去っていってしまったのです。
その時、ヨブは何と言ったでしょうか。
「私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1:21)


孤独を覚える時は、何をするべき時でしょうか。
自分を慰めてくれる人を、捜しまわる時でしょうか。
決してそうではありません。
みんな、だれかに慰めてもらいたい人間なんです。
そこへあなたが慰めを求めていっても、慰めを得ることはできません。


イエス様は「あなたがたはわたしの友です。」と言ってくださいました。
また「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言ってくださいました。


イエス様は私たちの慰め主です。
ぜひ、イエス様をあなたの心の友にしませんか。
私たちの教会に来て話してみませんか。
きっと心の友が見つかるはずです。

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