聖書の探求(204) ヨシュア記15章 ユダ族の相続地

この章は、中間にカレブとオテニエルの相続地をはさんでいますが、それもユダの相続地の中で受けていますので、全般的にユダ族の相続地を記しています。


上の絵は、アメリカの画家 Caroline Innisにより1827年に描かれた「 “Caleb, Achsah and Othniel” (カレブとアクサとオテニエル)」(ニューヨークのThe Jewish Museumより)

15章の分解

1~12節、ユダ族の相続地の境界線
13~19節、カレブの話の続き(カレブとオテニエルの相続地)
20~62節、ユダ族が相続した町と村のリスト
63節、ユダ族はエブス人を追い払うことができなかった(ダビデが追放する)

1~12節、ユダ族の相続地の境界線

ヨシ 15:1 ユダ族の諸氏族が、くじで割り当てられた地は、エドムの国境に至り、その南端は、南のほうのツィンの荒野であった。
15:2 その南の境界線は、塩の海の端、南に面する入江から、
15:3 アクラビムの坂の南に出て、ツィンに進み、カデシュ・バルネアの南から上って、ヘツロンに進み、さらにアダルに上って、カルカに回り、
15:4 アツモンに進んで、エジプト川に出て、その境界線の終わりは海である。これが、あなたがたの南の境界線である。
15:5 東の境界線は、塩の海であって、ヨルダン川の川口までで、北側の境界線は、ヨルダン川の川口の湖の入江から始まり、
15:6 境界線は、ベテ・ホグラに上り、ベテ・ハアラバの北に進み、境界線は、ルベンの子ボハンの石に上って行き、
15:7 境界線はまた、アコルの谷からデビルに上り、川の南側のアドミムの坂の反対側にあるギルガルに向かって北に向かう。また境界線はエン・シェメシュの水に進み、その終わりはエン・ロゲルであった。
15:8 またその境界線は、ベン・ヒノムの谷を上って、南のほう、エブス人のいる傾斜地、すなわちエルサレムに至る。また境界線は、西のほうヒノムの谷を見おろす山の頂に上る。この谷はレファイムの谷の北のほうの端にある。
15:9 それからその境界線は、この山の頂から、メ・ネフトアハの泉のほうに折れ、エフロン山の町々に出て、それから境界線は、バアラ、すなわちキルヤテ・エアリムのほうに折れる。
15:10 またその境界線は、バアラから西に回って、セイル山に至り、エアリム山の北側、すなわちケサロンに進み、ベテ・シェメシュに下り、さらにティムナに進み、
15:11 その境界線は、エクロンの北側に出て、それから境界線は、シカロンのほうに折れ、バアラ山に進み、ヤブネエルに出て、その境界線の終わりは海であった。
15:12 また西の境界線は、大海とその沿岸であった。これが、ユダ族の諸氏族の周囲の境界線であった。

この境界線が定められていることは、霊的に二つの重要な意味を示していると思われます。

一つは、自分の力で獲得したものではなく(確かに、イスラエル人は、これを戦って勝ち取ったのではありますが、それを意識させず)、神が、約束の地として、信じて従う者に与えられた神の国であることです。

主は、私たちに、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい(求め続けなさい)。」(マタイ6:33)と命じられましたが、私たちは、今、与えられている恵みを、神の約束の地、神の国として受け取る必要があります。

もう一つは、自分の肉の欲によって、この境界線を越えて、異なる福音に移って行くなら、異端になり、神に敵する者になっていくのです(ガラテヤ1:6~9)。

この境界線は、お互いの成長、発展を妨げるものではありません。また、互いの主にある信仰の交わりを妨げるものではありません。しかし、この境界線は、各々の思い上がり、高慢、自己中心の欲、野心、そして自分の知恵と力に依り頼むことの愚かさから起こす行動を防ぐものです。それらは、神に敵する危険な行動です。

ここに記されている町々の地名と境界線は古くて、特に地名は変わってしまっているものが多くて、確定することが困難です。いくつかの町は、おそらく、廃墟となって埋められてしまっており、今では全く忘れ去られています。しかし、そのような事情は、この記録の確かさを無効にするものではありません。

またこの地域の自然の地形は、ユダ族の相続地を考える上で、助けとなっています。塩の海、死海から、レホボテの南のツィンの荒野、そしてアカバ湾に至るまでに広がっている大きな山の壁によって、ユダ族の相続地は自然に形造られていたことは、あり得ることです。

1節、ユダ族から相続地となるくじが始められています。

ヨシ 15:1 ユダ族の諸氏族が、くじで割り当てられた地は、エドムの国境に至り、その南端は、南のほうのツィンの荒野であった。

神の救いのご計画からすれば、ユダ族は、イスラエルの十二部族の中で、最も重要な部族であると言うことができるでしょう。それは、ユダ族からメシヤが来られるからです。これは人間的な優劣のことではなく、キリストがユダの獅子として来られたからです。「ユダは獅子の子」(創世記49:9)

「見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得た」(ヨハネの黙示録5:5)

それ故、ユダ族は、イスラエル人の中でも、真実に神を礼拝することを忠実に継承していく責任があった。

私たちの信仰も、他の人間の知恵や教え、この世の道徳観や倫理観から出発せず、イエス・キリストから出発し、イエス・キリストにとどまり、イエス・キリストによって完成すべきではないでしょうか。神の国の相続がイエス・キリスト以外から始まることは、考えられないことです。あなたの信仰は、何から出発し、何を土台としていますか。イエス・キリスト以外であってはならないのです。

「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、はかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」(コリント第一3:11)

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

ヨシュアは、ユダ族にカナンの南部のほとんど半分を割り当てています。後に、シメオンとダンの地が、ユダの相続地の中から取り分けられています(ヨシュア記19:1、41~46)

このユダ族に与えられた優位性は、ユダ族が、イスラエルの十ニ部族の中で一番大きかったということもあるでしょうが、それ以上に、創世記49章8~12節で、族長ヤコブによって語られた預言によっていると思われます。神によって語られた約束のみことばは、時が過ぎていても、必ず実現するのです。みことばを信じて従っている者は幸いです。

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:45)

こうして、ユダ族は、自分の相続地内にシメオンとダンを持ち、さらにイスラエル全体の繁栄の中心となり、メシヤ降誕を通して、すべて信じる人々の祝福の源となっていったのです。

もし、あなたの信仰が、真実にイエス・キリストから出発し、イエス・キリストを土台とし、イエス・キリストにとどまり続けているなら、あなたから回りの人々に及んでいく神の祝福はいかに大いなるものとなっていくことでしょうか。それは、アブラハムの信仰の服従によって、すべての国民、部族が神の祝福を受けるに至ったのと同じです。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1~3)

この聖句を知っている人は沢山いるでしょう。しかしアブラハムのように、この世を離れて、主に徹底して従い、祝福の基となることを目指して信仰生活を営んでいる人は、何人いるでしょうか。私たちの信仰は、目的においても、動機においても、行動においても、実際的でなければならないのです。

12節、文語訳、「ユダの子孫がその宗族にしたがいて獲たる地」

ヨシ 15:12 また西の境界線は、大海とその沿岸であった。これが、ユダ族の諸氏族の周囲の境界線であった。

主は、各々の部族の大きさや働きの種類など、各部族の実際の必要に応じて、その相続地の境界線を定められたのです。このことは、神はご自分の民の必要をすべて知っておられて、その供給を行なわれることを示しています。

私たちが主に従い、主に仕えて奉仕する時、自分を見て、「私には力がないから、できない。」と言ってはいけません。主はあなたに必要なすべての恵みを与えて下さるのです。主は、今、あなたが必要でないものを、今、あなたに与えません。あなたが実際に働こうと、取りかからなければ、あなたに力が与えられることはありません。

モーセが祈っているだけでは紅海の水は分かれなかったのです。民が紅海に入って行く行動を起こした時、水は二つに壁のごとく分かれて、突っ立っていたのです。ヨシュアの時代に、ヨルダン川の満水の時期に渡る時も、祭司の足の裏が川の水面に浸るまで、水は分かれなかったのです。

「主が力を与えてくださったら、従おう。」と言っている人よ。このことに目覚めなさい。あなたがそう言い続けて、待っている限り、主はあなたに必要な力を与えてくださらないでしょう。あなたが実際に従い始める時、神は力を与えて下さるのです。

「主が召命を与えてくださったら、従います。」と言っている人よ。あなたが従うまで、主の召命の御声は聞こえてこないでしょう。今の、毎日の生活で忠実に主に従いなさい。主はすでに召命の御声を発せられているのです。ただ、あなたが主に従うまで、その御声は、あなたに聞こえてこないだけなのです。

「聖霊が与えられたら、従います。」と言っている人よ。主はあなたが従うまでは、聖霊を与えられないのです。

主に従うのに、主が必要な恵みと力と、働きのための賜物を与えて下さるか、どうか、不安になってはいけません。疑ってはいけません。躊躇してはいけません。主はご自分の民に、ましてご自身のしもべに必要な恵みと力と、賜物とを与えないはずがないのです。

もしあなたが、主が力の供給者、与え主であることを思わず、自分の無力さだけを見つめて躊躇したり、不服従になるなら、主は喜ばれず、あなたを見捨てられるでしょう。

主が民の必要に応じて与えられることは、マナが与えられた時にも、「彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。」(出エジプト記16:18)

主が五千人以上の人々に、パンを食べさせた時も、「人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。」(ヨハネ6:13)のです。

この原理は、今も働いています。神の恵みと力は、必要にふさわしく与えられるのです。パウロも「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(コリント第二12:9)と言われて、主の恵みと力が、必要に応じて十分に与えられていることを確信させられたのです。ですから、恐れず、疑わず、主を信じて、主の働きに立って下さい。主は必ず、あなたを用いて、恵みのみわざを行なって下さいます。

13~19節、カレブの話の続き(カレブとオテニエルの相続地)

ヨシ 15:13 ヨシュアは、【主】の命令で、エフネの子カレブに、ユダ族の中で、キルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを割り当て地として与えた。アルバはアナクの父であった。

ケナズ人はイスラエル人ではなく、エサウの長子エリファズから出たエドムの家系に属していることは、前にもお話した通りです。(創世記36:11,15,42)カレブは、その一族の出身であり、エジプト脱出前にユダの部族に加わっていたものと思われます。

それ故、13節で、「ヨシュアは、主の命令で、エフネの子カレブに、ユダ族の中で、‥‥ヘブロンを割り当て地として与えた。」と言われているのです。ここで注自しなければならないことは、イスラエルの「部族がみな、くじによって割り当て地を受けているのに、カレブはくじではなく、直接、「主の命令」によって、ヘブロンを相続地として与えられているのです。このことは、主がカレブの信仰をどんなに高く値積っていて下さったかを証明しています。彼はエドム人の子孫であったのに、その信仰の故に、主から高い評価を受けたのです。これを見ても、主が信仰の服従をいかに喜ばれるかがよく分かります。

「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」(マタイ8:10)

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11:6)

「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっばなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。‥たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:19,20,26)

このことは、主の御前では、信仰以外には、民族的なことも、家系的なことも、何ら特権にはならないということです。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12,13)

主は、民族、人種を問わず、信仰を持って従って来る者を、喜んで受け入れてくださることを明確に示しているのです。

ここで、カレブとオテニエルの関係をさぐっておきましょう。

ヨシュア記15章13節では、「(ケナズ人)エフネの子カレブ」となっており、アクサはカレブの娘(17節)です。17節では、「ケナズの子で、カレブの兄弟オテニエル」と記されています。

ヨシ 15:17 ケナズの子で、カレブの兄弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを、彼に妻として与えた。

士師記1章13節では、「ケナズの子で、カレブの弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えた。」と記されています。

(ヨシュア記15:13)
エフネの子—–カレブ—–娘アクサ
(ヨシュア記15:17兄弟) ||  結婚
.     ケナズの子—–オテニエル(士師記1:13弟)

これらから推測すると、おそらくオテニエルは、カレブの甥であったと思われます。

14,15節、カレブは、自分の手で巨人のアナクの三人の息子を追い払った後、デビル(キルヤテ・セフェル)に攻め上りました。

ヨシ 15:14 カレブは、その所からアナクの三人の息子、シェシャイ、アヒマン、タルマイを追い払った。これらはアナクの子どもである。
15:15 その後、その所から彼は、デビルの住民のところに攻め上った。デビルの名は、以前はキルヤテ・セフェルであった。

16節、そして、キルヤテ・セフェルに攻め上ったところで、カレブは、「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」と公表しました。

ヨシ 15:16 そのとき、カレブは言った。「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」

この公表の中には、カレブの心の中に一つの思いがあったものと思われます。それは、オテニエルがカレブの娘アクサを愛しているのを、カレブが知っていたと思われることと、この公表によってオテニエルの勇気を奮い興させたことです。

もう一つは、カレブ自身がキルヤテ・セフェルを攻め取って、オテニエルに与えたのでは、オテニエルがこの町の権威ある指導者になることができないので、オテニエル自身に攻め取らせるように配慮したことです。

カレブは、ほとんど勝つことができる状態にまでしておいて、オテニエルに攻め取らせたのです。勿論、オテニエルも愛するアクサのために命がけで戦い、信頼と敬意も勝ち取ったのです。

ヨシ 15:17 ケナズの子で、カレブの兄弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを、彼に妻として与えた。

カレブは、娘アクサを嫁がせる時、土地を与える約束をしなかったようです。

そこでオテニエルは自分たちのこれからの生活を考えてか、アクサにそっと耳打ちしたのでしょう。父カレブに畑を求めてくれるように頼んだのです。アクサがろばから降りてカレブの所に来た時、カレブはすぐに「何がほしいのか。」と尋ねています。

ヨシ 15:18 彼女がとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めることにした。彼女がろばから降りたので、カレブは彼女に、「何がほしいのか」と尋ねた。

カレブは二人が何かを求めて来るのを待っていたかのように、応対しています。カレブの信仰は積極的に主に求める信仰でした。ですから、オテニエルとアクサが積極的に求めるまで何も与えることを約束しなかったのでしょう。

「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)

私たちの天の父も、積極的に求めることを望んでおられるのです。信仰は積極的に働かせたいものです。

アクサは畑のことを一言も言っていません。彼女は、結婚の祝の品として、水の泉をカレブに求めています。

15:19 彼女は言った。「私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」そこで彼は、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。

南のネゲブの地では、泉は命に関わる最も大切なものでしたから、泉があれば、人も家畜も安全に生きることができます。アクサは一つの泉だけを求めたのですが、カレブは、上の泉と下の泉の二つを与えています。カレブは娘が求めたもの以上のものを与えたのです。主は、「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」(エペソ3:20)なのです。

どんな困難がやって来ても、いのちの泉があれば大丈夫です。

「そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主に呼び求めて言った。『あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。』すると、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれ、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返った。それゆえその名は、エン・ハコレと呼ばれた。それは今日もレヒにある。」(士師記15:18~19)

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)

〔神の家族が健全に成長していくためのいくつかの要素〕

1、先に信仰で歩んでいる者が、後から歩んでくる若い人々に勝利が得られるように、チャンスを与え、訓練し、配慮する必要があること。

2、互いに希望や必要としているものが何であるかを分ち合う自由を持って、実践することは、だれか一人だけ苦しんでいることがないようにするために必要である。

3、愛する者のために戦い、愛する者に従うことは、最もよい信仰を保つために大切であること。

4、愛と寛容を持って、必要なものを与えることは、神の家族をさらに豊かにする。

20~62節、ユダ族が相続した町と村のリスト

ヨシ 15:20 ユダ部族の諸氏族の相続地は次のとおり。
15:21 ユダ部族が、エドムの国境のほうに持っていた最南端の町々は、カブツェエル、エデル、ヤグル、
15:22 キナ、ディモナ、アデアダ、
15:23 ケデシュ、ハツォル、イテナン、
15:24 ジフ、テレム、ベアロテ、
15:25 ハツォル・ハダタ、ケリヨテ・ヘツロンすなわちハツォル、
15:26 アマム、シェマ、モラダ、
15:27 ハツァル・ガダ、ヘシュモン、ベテ・ペレテ、
15:28 ハツァル・シュアル、ベエル・シェバ、ビズヨテヤ、
15:29 バアラ、イイム、エツェム、
15:30 エルトラデ、ケシル、ホルマ、
15:31 ツィケラグ、マデマナ、サヌサナ、
15:32 レバオテ、シルヒム、アイン、リモンであり、二十九の町と、それらに属する村々の全部である。
15:33 低地では、エシュタオル、ツォルア、アシュナ、
15:34 ザノアハ、エン・ガニム、タプアハ、エナム、
15:35 ヤルムテ、アドラム、ソコ、アゼカ、
15:36 シャアライム、アディタイム、ゲデラとゲデロタイム。すなわち、十四の町と、それらに属する村々。
15:37 ツェナン、ハダシャ、ミグダル・ガド、
15:38 ディルアン、ミツパ、ヨクテエル、
15:39 ラキシュ、ボツカテ、エグロン、
15:40 カボン、ラフマス、キテリシュ、
15:41 ゲデロテ、ベテ・ダゴン、ナアマ、マケダ。すなわち、十六の町と、それらに属する村々。
15:42 リブナ、エテル、アシャン、
15:43 エフタ、アシュナ、ネツィブ、
15:44 ケイラ、アクジブ、マレシャ。すなわち、九つの町と、それらに属する村々。
15:45 エクロンと、それに属する村落、すなわち、村々。
15:46 エクロンから海まで、すべてアシュドデのほとりにある町々と、それらに属する村々。
15:47 アシュドデと、それに属する村落、すなわち、村々。ガザと、それに属する村落、すなわち、村々。エジプト川と大海までとその沿岸。
15:48 山地では、シャミル、ヤティル、ソコ、
15:49 ダナ、キルヤテ・サナ、すなわちデビル、
15:50 アナブ、エシュテモア、アニム、
15:51 ゴシェン、ホロン、ギロ。すなわち、十一の町と、それらに属する村々。
15:52 アラブ、ドマ、エシュアン、
15:53 ヤニム、ベテ・タプアハ、アフェカ、
15:54 フムタ、キルヤテ・アルバ、すなわちヘブロン、ツィオル。すなわち、九つの町と、それらに属する村々。55 マオン、カルメル、ジフ、ユタ、
15:56 イズレエル、ヨクデアム、ザノアハ、
15:57 カイン、ギブア、ティムナ。すなわち、十の町と、それらに属する村々。
15:58 ハルフル、ベテ・ツル、ゲドル、
15:59 マアラテ、ベテ・アノテ、エルテコン。すなわち、六つの町と、それらに属する村々。
15:60 キルヤテ・バアルすなわちキルヤテ・エアリムと、ラバ。すなわち、二つの町と、それらに属する村々。
15:61 荒野では、ベテ・ハアラバ、ミディン、セカカ、
15:62 ニブシャン、塩の町、エン・ゲディ。すなわち、六つの町と、それらに属する村々である。

この町々のリストは、十二の区分に分けられています。そして、それらは四つの特徴ある地域にありました。すなわち、エドムの国境のほうに持っていた最南端の町々、地中海に近い低地、山地、ユダの荒野の地域です。

これらの地のいくつかは、小さく、恒久的にあまり重要な地であるとは思われませんが、20節にある、ユダ部族の諸民族の相続地のリストとして使われたことを表わしています。

63節、「ユダ族は、エルサレムの住民エブス人を追い払うことができなかった。それで、エブス人はユダ族とともにエルサレムに住んでいた。今日もそうである。」

ヨシュアは、先に、「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。」(ヨシュア記3:10)と確信を持って語っていた。しかし、イスラエルの十ニ部族のうち、中心的な部族であるユダ族が、エブス人を残したままにしておいて、追い払うことをしていなかったのです。そして、その状態が長く続くと、その状態に慣れてしまって、それでヨシとしてしまっていました。こんな状態が、神が最初にご計画された状態ではなかったはずです。

これは、新生経験をしただけで、まだ霊魂の内側に罪の根(罪の性質)を残している状態で、そのまま放っておくと、再び、罪は芽を出し、根を張っていくのです。罪の根は根絶しきよめの信仰は日々に更新しなければなりません。

ユダ族は、なぜ、エブス人を追い払うことが出来なかったのか。それは彼らの内に不信仰があって、主が彼らの内にとどまっていることができなかったからです。それ以外には原因を考えることができません。私たちは99%、主を信じて従っていても、1%の不信仰が残っていれば、ユダ族と同じことをしてしまうのです。

「イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。」(マタイ13:58)

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14:31)

「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」(マルコ6:6)

どんなに神の民であっても、不信仰の罪が取り除かれなければ、決して、神は働いてくださらないし、決して強くなることはできないし、敵に打ち勝つこともできません。

しかし、エブス人は、その後もずっとエルサレムに住むことは許されませんでした。ダビデがエブス人を完全に征服したのです。

「王とその部下がエルサレムに来て、その地の住民エブス人のところに行ったとき、彼らはダビデに言った。『あなたはここに来ることはできない。めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる。』彼らは、ダビデがここに来ることができない、と考えていたからであった。しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これが、ダビデの町である。その日ダビデは、『だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて、ダビデが憎む足なえとめしいを打て。』と言った。・・・ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼とともにおられた。」(サムエル第二5:6~10)

こうしてエルサレムは、ダビデによって完全に征服されたのです。

こうして、人の不信仰によって、神のみわざが遅らされたかに見えますが、神の国は、「永遠にわたる国、その主権は代々限りなく続く。」(ダニエル書4:3)

悪魔とその手下どもは、なおしばらく、この世にとどまり、悪を働くけれども、永久に持ちこたえることはできません。遅かれ、早かれ、間もなく、滅び去る運命に定められているのです。

それ故、私たちは、この世の権力や勢力を恐れることなく、キリストの福音を真っ直ぐ、大胆に語ろうではありませんか。この日本列島にキリストの福音を満たそうではありませんか。今は、教会で、キリストの福音がはっきりと大胆に語られなくなってしまっています。しかし私たちは、そうであってはいけません。不信仰は必ず、滅びる時が来るのです。キリストの福音こそ、最後の勝利をもたらすものなのです。このことを確信して、日本中にキリストの福音を満たそうではありませんか。

(まなべあきら 2001.3.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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