聖書の探求(203) ヨシュア記14章 カレブの信仰的態度

この章は、主にカレブの信仰的態度を記しています。


上の絵は、ヨシュア記14章6~15節に関して描かれた「 “Joshua and Caleb” (ヨシュアとカレブ)」(1901年にProvidence Lithograph Companyから出版されたバイブルカード)(Wikimedia Commonsより)


1~5節、相続地の利り当ての繰り返し

これは、ヘブル人の文献の特長です。ヘブル人は、内容を繰り返すことによって、周知徹底させることを目的としていました。

1節、割り当てに当たった人々が、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアと各部族のかしらたちであったこと。

ヨシ 14:1イスラエルの人々が、カナンの地で受けた嗣業の地は、次のとおりである。すなわち、祭司エレアザル(エルアザル)、ヌンの子ヨシュア、およびイスラエルの人々の部族の首長たちが、これを彼らに分かち、 14:2主がモーセによって命じられたように、くじによって、これを九つの部族と、半ばの部族とに、嗣業として与えた。

エルアザルは宗教的リーダーとして、ヨシュアは軍事と行政のリーダーとして、働いています。これは、各部族の代表者たちが納得の上で行なわれたこと。

2、5節は、主のご命令に従って行なわれたこと。

ヨシ 14:5イスラエルの人々は、主がモーセに命じられたようにおこなって、その地を分けた。

主は命じられましたが、それを行なったのは人間です。神はご自身の計画を示されましたが、それを実行するのは人間です。神のご命令を信じて実行しなければ、約束された祝福は自分たちのものとはなりません。信仰は実行に移さないと、実を結ばないのです。イスラエルは神の力によってカナンの地を与えられましたが、それを信仰によって日常生活の中で活用しなければ、祝福とはならないのです。

「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。・・・」(伝道者の書9:10)

「われらの神、主の恵みを、われらの上にくだし、われらの手のわざを、われらの上に栄えさせてください。われらの手のわざを栄えさせてください。」(詩篇90:17)

「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。」(ヤコブ4:17)

もし、自分に出来る範囲のことをしない人がいるなら、その人の上に災いが下ることを覚悟しなければなりません。

対象は九部族と半部族で、方法はくじが用いられたこと。

ヨシ 14:2主がモーセによって命じられたように、くじによって、これを九つの部族と、半ばの部族とに、嗣業として与えた。

旧約の時代、神はくじを用いて、みこころを民に示されていたこともあった。これは、指導者たちが、民の不満による責任追及が起きないために、民を納得させるために、くじを用いられたものと思われます。ここでは、くじの結果を神の直接のご配慮として受け留めています。この方法を選んだのは、この土地の割り当ては、エルアザルやヨシュアの個人的意見や権力と関係していないことを明らかに示すためです。

「人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。」(箴言16:33)

アカンを見つけ出すにも、くじが用いられています(7:14、16)。ヨナもくじで見つけ出されています(ヨナ書1:7)。ペテロたちは、イスカリオテのユダの後をうめるために、くじでマッテヤを選んでいますが、この時は、主はこのくじを用いませんでした(使徒1:26)。

3節、ルベン、ガドとマナセの半部族にはすでにヨルダン川の東に相続地が与えられており、またレビ人も相続地が与えられなかったことを示しています。

ヨシ 14:3これはヨルダンの向こう側で、モーセがすでに他の二つの部族と、半ばの部族とに、嗣業を与えていたからである。ただしレビびとには、彼らの中で嗣業を与えず、 14:4ヨセフの子孫が、マナセと、エフライムの二つの部族となったからである。レビびとには土地の分け前を与えず、ただ、その住むべき町々および、家畜と持ち物とを置くための放牧地を与えたばかりであった。

レビ人は神の霊的な働きのために、特別に献身し、聖別されていることを知らせています。

イスラエルの祝福はレビ人の働きにかかっていたと言っても過言ではないでしょう。

4節、ヨルダン川の西側のカナンの地では、三部族半が相続地からはずされることになります。そうするとイスラエル十二部族の残りは、八部族半ということになりますが、九部族半に相続地が与えられたのは、なぜか。それはヤコブの遺言によって、ヨセフの子孫がマナセとエフライムの二部族になっていたからです(創世記48:19,20)。

これらの記録は、今日の私たちにとって、あまり関心のないことかも知れませんが、当時のイスラエルの当事者たちにとっては、非常に重要な記録であり、これが周知徹底されていないと、妬みや争いの原因となっていくのです。

何事も、指導者の私意を疑うようになれば、決して良いことは起きてきません。コラ、ダタン、アビラムのような権力的な反抗心を抱いたり、不平不満の呟きが出てきたり、感謝する心が失われてしまいます。

しかし、何事も、すべて神のみこころによって決定されていることを、素直に受け入れるなら、良い実を結んできます。

1、先ず、彼らの生活の中に神の力を実感することができるようになります。

2、物質的な繁栄よりも、霊的な力を重要視するようになります。

3、自分に与えられたものに、心から感謝するようになります。

4、不平、不満な心が生じて来ても、すぐにそれを取り除くことができ、霊的被害を最小限に食い止めることができます。

5、野心が過剰に拡大するのを防ぎます。

6、互いに他人の権利や利益を尊重するようになります。

6~15節は、土地分配の途中で申し出てきたカレブの信仰的要求です。

ここで、カレブの信仰の流れについて、少しお話しておきましょう。

ヨシュア記の前半の主題は、勝利であり、後半の主題は、占領です

キリストにあって、万物は、私たちのものですが、

「だから、だれも人間を誇ってはいけない。すべては、あなたがたのものなのである。」(コリント第一3:21)

神は、私たちが信仰によって、体験としてこれを占領し、自分のものとすることを待っておられるのです。

「あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。」(ヨシュア記1:3)

しかし、神は、再び、ヨシュアに、

「さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。 」(ヨシュア記13:1)

と、言われました。

さらに、イスラエルは、神が彼らに与えると約束された地を取りに行くのを怠っていた。

ヨシュアはイスラエルの人々に言った、「あなたがたは、先祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのですか。」(ヨシュア記18:3)

次に、問題なのは、カナンの地の分与です。

ルベン、ガド、マナセの半部族は、ヨルダンの東に彼らの産業の地を与えられましたが、14章は、カレブの産業のことが記されています。カレブは堅固なアナク人の山地を要求しました。これは四五年前に、神がカレブに約束された言葉に基づいているのです(ヨシュア記14:10~12)。

ヨシ 14:10主がこの言葉をモーセに語られた時からこのかた、イスラエルが荒野に歩んだ四十五年の間、主は言われたように、わたしを生きながらえさせてくださいました。わたしは今日すでに八十五歳ですが、 14:11今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです。わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも堪えることができます。 14:12それで主があの日語られたこの山地を、どうか今、わたしにください。あの日あなたも聞いたように、そこにはアナキ(アナク)びとがいて、その町々は大きく堅固です。しかし、主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができるでしょう」。

カレブは、「キリアテ・セペルを撃って、これを取る者には、わたしの娘アクサを妻として与えるであろう」。(ヨシュア記15:16)と言いましたが、カレブの兄弟オテニエル(実際は甥であると思われる。士師記3:9「カレブの弟、ケナズの子オテニエル」)がその地を取り、カレブの娘アクサは彼の妻となった。

娘アクサは、父に、「わたしに贈り物をください。あなたはネゲブの地に、わたしをやられるのですから、泉をもください。」(ヨシュア記15:19)と言いましたが、カレブは彼女に「上の泉と下の泉」を与えました。

このことは、天の父が、私たちを祝して、「求める者に聖霊」を与えて下さることに似ていないでしょうか(ルカ11:13)。

ルカ 11:13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。

6節、カレブはすぐれた信仰者なのに、ヨシュアのように度々、その名前が聖書に登場してきません。モーセの死後、カレブの記事が最初に記されているのが、ここです。

ヨシ 14:6 時に、ユダの人々がギルガルのヨシュアの所にきて、ケニズ(ケナズ)びとエフネの子カレブが、ヨシュアに言った、「主がカデシ(カデシュ)・バルネアで、あなたとわたしとについて、神の人モーセに言われたことを、あなたはごぞんじです。

その間、彼の信仰が忠実であったことは明らかです。

彼は肝心な言うべき時に、明確に語ることができる優れた人物です。その反対の、沈黙を守るべき時も知っていました。

彼が語る時は、いつも神の側に立った信仰の模範となるような発言でした(民数記13:30、同14:6~9、ヨシュア記14:6~12)。彼がいつも、このように胸のすくような信仰の発言ができたのは、彼が沈黙している間も、神の側に立つ信仰生活をしていたからです。

教会に来ている間だけ、信仰に熱心な発言や働きをしていても、普段の家庭や職場での働きが信仰に立っていなければ、偽善者の外、何者でもありません。このことを、私たちも十分、気をつけたいものです。裏表のない忠実な信仰者になりましょう。

かれは、「ケナズ人エフネの子」でした。ケナズ(あるいはケニズ)は、セイル山に根拠を持っていたエサウの子孫で、エサウとその妻アダの間に生まれたエリファズの子の一人でした(創世記36:11)。ケナズはエドムの家系の首長に着いていた(創世記36:15、42)。

ケナズ人の家族の一部は、エジプト脱出の前から、ユダの部族の間に住み、カレブを呼び出す時には、「ケナズ」と「カレブ」の間に必ずと言っていいほど、「エフネ」がはさまっているのは、これが、ケナズがイスラエルの民の間に住むようになった人脈の流れを示しているように思われます。

このことは、カレブが生まれながらのイスラエル人ではなく、エリコのラハブや、モアブのルツのように信仰によって、神の家族となった者の、もう一つの例であると思われ、なんとも、私たちに親しみを覚えさせてくれる人物です。

7節、カレブがモーセからカナンの地を偵察するために派遣された時は、彼が四十才の時でした。

ヨシ 14:7 主のしもべモーセが、この地を探るために、わたしをカデシ(カデシュ)・バルネアからつかわした時、わたしは四十歳でした。そしてわたしは、自分の信ずるところを復命しました。

彼はそこで巨人たちの姿と城壁に囲まれた町々を見た。そして信仰で戦わなければならない多くの困難があるのを見た。彼らのこれからの前途は多難であることを悟った。彼らはみな、強敵であるのを知った。

しかし彼は、この困難に満ちた戦いの中に神のみわざを信じたのです。カレブは決して困難がないと思い込んだのではありません。もしそれなら、カレブの信仰は不健全です。彼は、直面する危険と困難を正しく、真剣に受け留めたのです。しかし、その不可能と思われることの中に神のみわざを確信して信じたのです。

「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう。」(ルカ1:45)

「そしてわたしは、自分の信ずるところを復命しました。」(7節)

カレブは、カナンの偵察から帰って来た時、他人との相談の結果、話したのではなく、自分の心の中にある確信をそのまま、報告しました。この報告が正しかったことは、彼の後の全生涯において、現実に立証されていきました。周囲の人々の考えや意見がどうであれ、自分の信じて確信したところを進んでいくことは、非常に重要です。

「しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。」(テモテ第二3:14)

カレブは、十二人中、ヨシュアと二人だけの少数派でしたが、彼は自分が確信したことを恥じず、捨てなかったのです。

「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」(ヘブル10:35,36)

8節、一般大衆は、いつでも、確信と根拠のない不信仰な話に動かされやすい。

ヨシ 14:8 しかし、共に上って行った兄弟たちは、民の心をくじいてしまいましたが、わたしは全くわが神、主に従いました。

この話に影響されて、心をくじく者は愚かです。彼らは不安と恐怖に導かれて、四〇年の年月の経過と病気によって倒れて塵と散ってしまいましたが、カレブは彼自身の神に従っていたのです。

「わたしは全くわが神、主に従いました。」

この信仰は、至って個人的であることを示しています。私たちもこの点に十分留意し、教会に所属していることで安心せず、家族がクリスチャンであることに安住せず、たとい家族や友人の中から背教者が出ても、勇敢にカレブの如く自分の信仰を全うしていただきたいものです。

9節、カレブはモーセが誓って、「おまえの足で踏んだ地は、かならず長くおまえと子孫との嗣業となるであろう。」と言った約束を自分のものとして実現するために、生き続けました。

ヨシ 14:9その日モーセは誓って、言いました、『おまえの足で踏んだ地は、かならず長くおまえと子孫との嗣業となるであろう。おまえが全くわが神、主に従ったからである』。

10節、他方、カレブは、「イスラエルが荒野に歩んだ四十五年の間、主は言われたように、わたしを生きながらえさせてくださいました。」と、彼は自分自身、主によって生かされていたと自覚していたのです。

ヨシ 14:10主がこの言葉をモーセに語られた時からこのかた、イスラエルが荒野に歩んだ四十五年の間、主は言われたように、わたしを生きながらえさせてくださいました。わたしは今日すでに八十五歳ですが、

これは彼にとって、主の約束が真実であったことの証明ともなったのです。

つまり、カレブは、自分の使命に向かって、真剣に生き続けており、また、神の約束のご真実によって生かされ続けて来たという信仰も持続していたのです。その結果、彼の信仰は、イスラエルの民がシナイの荒野をさまよって、その不信仰と不服従の四十五年間も、少しも動揺したことがなかったのです。みんなと同じようにシナイの荒野を旅していても、カレブはさまよってはいなかったのです。「さまよう」とは、自分の行き着くべき目的地を見失い、自分の信仰も失ってしまっていることを言います。見かけは同じことをしていても、その中味が全く異なることがあります。それ故、人の外側を見て判断してはならないのです。

「人は外の顔かたちを見、主は心を見る。」(サムエル上16:7)

カレブの信仰の中味は、はっきりと現われてきた。民のすべては、荒野で肉体も、信仰も朽ちていったのに、カレブの肉体と、信仰は、ますます盛んになっていったのです。

カレブは今や、八十五才になっていましたが、彼の勇気は四十五年前、すなわち、四十才の時、モーセから偵察隊員として派遣された時と同じように壮健で(11節)、肉体的にも山地での戦いで勝つことができるほど力に満ちていました。

ヨシ 14:11 今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです。わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも堪えることができます。

カレブは周囲が全く不信仰、不服従な人々で満ちている社会の中で、ただ一人、信仰に立ち、あかしをし、神のために信仰の戦いを守り続ける秘訣を身につけていたのです。カレブの周囲にいた背教者たちは、毎日、カレブの信仰をなじったでしょう。それを四十五年間続けても、カレブの信仰は微動だにしなかったのです。

「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」(ピリピ4:11~13)

「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。」(テモテ第二4:7~8)

不信仰で不服従な誘惑は、カレブには歯が立たなかったのです。私たちの信仰も、カレブの如く堅固なものでありたいものです。

カレブは、四十五年前に見た、町々に城壁を持つ巨人のネフィリム人のアナク人(民数記13:28、33)と戦う日が来ることを、じっと四十五年間、待っていたのです。カレブは、主が巨人のアナク人に勝たせてくださるという約束を、彼自身の手で実現することを待っていたのです。彼が一度、心に持った信仰は、四十五年経っても変わらなかったのです。

12節、彼は、「主があの日語られたこの山地を、どうか今、わたしにください。」と挑戦して言える日が来ることを、静かに待っていたのです。

ヨシ 14:12 それで主があの日語られたこの山地を、どうか今、わたしにください。あの日あなたも聞いたように、そこにはアナキ(アナク)びとがいて、その町々は大きく堅固です。しかし、主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができるでしょう」。

彼は若き日に心に宿した志、神から与えられた幻を忘れなかった。心から消え去らなかった。信仰の炎は燃え続けていたのです。

信仰が勝利を収めない限り、事情は何一つ変わっていなかったのです。相変わちず、アナク人は城壁のある大きな町に住んでおり、ヘブロンはその中心地でした。ヘブロンは難攻不落の町だったのです。ヘブロンは、アナク人の中の最も偉大な人物アルバの名前をつけて、キルヤテ・アルバと呼ばれていました。

あの日から時は過ぎて、カレブは八十五才になっていた。アナク人の事情は何ら変わっていないのに比べて、カレブの状態は不利になっていたと、一般的に見るべきでしょう。しかしカレブの信仰と気力は全く衰えていなかった。若い時は、体力で戦いますが、段々と年を経ていくと、信仰と気力こそ、最大の武器であることを経験するようになります。

私も二十五才の時、日本の魂の救いの重荷を与えられました。しかしあの日からイエス・キリストに対する日本人の心の態度は、少しも変わっていません。アナク人の城壁のように心は頑ななままだし、彼らは巨人の如く、そびえて立っています。しかし主が私の心に与えてくださった幻の火は消えてはいない。そして日本の各地に聖霊によるリバイバルの炎を見せていただいているのです。大事なことは、カレブの如く、不信仰な人に囲まれながらも、信仰の戦いを続け、「この山地を私に与えてください。」という信仰の祈りをささげ続けることではないでしょうか。なぜなら、この戦いは人間の戦いではなく、主の戦いだからです。

「これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである。」(歴代誌下20:15)

主の幻と信仰の確信を捨ててはならないのです。その実現が八十五才を過ぎて、やって来ることもあるのですから。あわてず、あせらず、あきらめずに、静かに、神の時が来るのを待つのです。

13節、同信の友ヨシュアは、カレブを祝福しました。

ヨシ 14:13 そこでヨシュアはエフンネ(エフネ)の子カレブを祝福し、ヘブロンを彼に与えて嗣業とさせた。

カレブの信仰の要求は、ヨシュアを通して祝福をもって認められたのです。実際に、難攻不落の要塞は、大軍で攻めて落とすのではなくて、カレブのような信仰に満ちた精兵によってのみ落ちるのです。

「ヘブロンを彼に与えて嗣業とさせた」アナク人との戦いは、これからなのに、すでに信仰によって、ヘブロンはカレブの相続地となっています。信仰による先行取得です。私たちにも、これが必要なのではないでしょうか。信仰による先行取得をする時、私たちは積極的に戦えるようになります。これができない時は、自分の事情を見て、尻込みしているのです。腰がひけてしまっていては、戦うことはできません。

「神を信じなさい。(「神の信仰を持ちなさい。」という意味)よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」(マルコ11:22~24)

この信仰を自分のものにすることができるでしょうか。

カレブの四十五年間、忍耐してきた信仰は、ついに彼の目で見るところとなったのです。

ヘブロンがカレブのものとなった、本当の理由は、カレブが周囲の不信仰の中でイスラエルの神、主に従い通したからなのです。

ヨシ 14:14 こうしてヘブロンは、ケニズ(ケナズ)びとエフンネ(エフネ)の子カレブの嗣業となって、今日に至っている。彼が全くイスラエルの神、主に従ったからである。

このことなしに、いくら「この山地を私に与えてください。」と叫んでも、むなしいし、その祈りが実現することはありません。

15節、「この地に戦争はやんだ。」

ヨシ 14:15 ヘブロンの名は、もとはキリアテ(キルヤテ)・アルバといった。アルバは、アナキ(アナク)びとのうちの、最も大いなる人であった。こうしてこの地に戦争はやんだ。

結局は、信仰の勝利が、罪悪を根絶し、神の民が神の安息を得る時、戦いはやむのです。平和が実現するのです。信仰の戦いなしに、平和はやって来ません。人の心に平和を与えるのは、平和の君(イザヤ9:6)だけです。

イザ 9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。

「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。」(ルカ2:14)

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。 」(ヨハネ14:27)

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3:15)

平和の主だけが、人の心の中に平和な状態を造り出すことができるのです。これは霊的なみわざです。主だけが、人間の悪欲や不正、自己中心的野心、不当な欲情、怒り、ののしり、虐待を征服し、取り除くことができるのです。主だけが、人の知恵によらない、真の正しさと、公平、平等を確立することができるのです。

カレブはエドム人の出身でありましたが、イスラエルの神によって、アナク人を征服し、真の平和をもたらしたように、平和の君であられる、主イエス・キリストによってのみ、人の魂の中に巣食っている悪の欲情は征服され、真の平和が勝ち取られるのです。

このカレブの信仰から、私たちが学ぶべきことは何か。

1、カレブは四十五年前の主の約束を無効と思わず、今も有効と確信し、その求めるべき日が来た時、彼は最初に約束を受けた日と場所を提示することができた。私たちは主の約束の信仰に立った時、その時の約束を有効として長い間持ち続ける必要があります。このようにしている人だけが、その日が来た時、その約束を自分のために要求することができるのです。

2、カレブは主の約束が実現される時、自分は戦わなければならないことを知っていた。主の約束は信仰の戦いを不要にしないことを知っていた。今日、クリスチャンが無気力になっているのは、安易に主の約束を受けて、信仰で戦うことを止めてしまっているからです。「目標を目ざして走」ることを忘れてしまい(ピリピ3:14)、「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しな」ければならないことを(テモテ第一6:12)知らないからです。

3、カレブは、自分の前に横たわっている困難を知っていた。アナク人たちは四十五年前と同様にいただけでなく、彼らは守備よくヘブロンに要塞を築き、神の民を攻撃する隙をねらっていた。これを見て、カレブはまだ自分の使命は終わっていないと感じた。そして主がこの戦いのために自分を備えて下さり、用いて下さると信じたのです。

パウロも、安易な信仰生活を送っている人には決して知ることのできない信仰の奥義を知っていたのです。
「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」(コリント第二12:9~10)

4、カレブの勝利の確信は、「主がともにいてくだされば」という主に信頼するところから出ている健全なものでした。この確信は、カレブの人間的知恵と力によるものではなかった。私たちが圧倒的な勝利者になるのは、私たちを愛してくださった方によるのです。(ローマ8:37)

ロマ 8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。

5、カレブは、自分の忠誠と信仰のあかしによっては、どんな名誉も、指導者としての地位にも立たなかった人です。彼は、あくまでも信徒の立場で一貫した証詞を続けたのです。しかし彼は決して指導者だったヨシュアに劣らない信仰を持っていたし、その獲得した勝利は歴史に残るものでした。

6、カレブは、自分に対する約束を信じていただけでなく、時至れば、要求しなければならないことも知っていました。信仰は斯くの如く、積極的に求めなければならないのです。

あとがき

あけまして、おめでとうございます。今年も、皆様のお祈りとご支援を心よりお願い申し上げます。
さて、聖書の探求は14章のカレブの信仰に入っております。カレブがエサウの子孫だったのを知っておられたでしょうか。異邦人であっても、これほどの信仰の勇者になることができることは私たちにとって大きな励ましです。カレブは高い指導者の地位を求めたことはありません。-般の信仰者の間にありながら、四五年間、主に忠実な不屈の信仰を保ち続けた報いは、永遠の歴史に残るほど、大いなる報いをもたらしました。
私たちの信仰も、必ず報われるのです。このことを確信して、今日も、明日も、信仰の戦いを続けようではありませんか。

(まなべあきら 2001.2.1)
(聖句は、口語訳聖書から引用)


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