聖書の探求(205) ヨシュア記16章 ヨセフ族の境界、エフライム族の相続地

ユダ族の産業(15章)の次には、エフライムとマナセ(ヨセフ族)の産業のことが記されています(16、17章)。


上の絵は、イギリス領アメリカの画家Benjamin West (1738–1820)により1766-68年頃に描かれた「 “Jacob Blessing Ephraim and Manasseh”(エフライムとマナセを祝福するヤコブ)」(オハイオ州のAllen Memorial Art Museum蔵、Wikipedia Commonsより)


1~4節、ヨセフ族の境界
5~10節、エフライム族の相続地

1~4節、ヨセフ族の境界

ヨシ 16:1ヨセフの子孫が、くじによって獲た地の境は、エリコのほとりのヨルダン、すなわちエリコの水の東から起って、荒野に延び、エリコから山地に上っている荒野を経て、ベテルに至り、 16:2ベテルからルズにおもむき、アルキびとの領地であるアタロテに進み、 16:3西に下ってヤフレテびとの領地に達し、下ベテホロンの地域に及び、ゲゼルに達し、海に至って尽きる。16:4こうしてヨセフの子孫のマナセと、エフライムとは、その嗣業を受けた。

ヨセフ族の境界線は、おおざっぱに記されていますので、正確に位置を決定するのは困難ですが、これはヨセフ族がマナセとエフライムの二つの部族に分けられて、連なっているからです。

マナセとエフライムの二部族は、イスラエル人の中で、ユダ族の次に大きな勢力を持っており、彼らは創世記48章では、ヨセフの子孫であるという特権の故に、長子ルベンよりも、またやがて重要な位置を占めるユダよりも先に、イスラエル民族の創始者となった族長のヤコブから祝福の祈りを受けています。その時、ヤコブは右手(権威ある力の御手を象徴する)を、通常は兄のマナセの頭の上に置くはずなのに、若い弟のエフライムの頭の上に置いたのです。ヨセフは、年老いたヤコブは間違って手を置いたのだと思って、ヤコブの右手を兄のマナセの頭の上に移そうとしましたが、ヤコブは拒んで、「しかし弟は彼よりも大いなる者となり、その子孫は多くの国民となるであろう。」(創世記48:19)と言っています。

このヤコブの祝福の祈りの預言は、エゼキエル書37章19節でも繰り返されています。
「これに言え、主なる神はこう言われる、見よ、わたしはエフライムの手にあるヨセフと、その友であるイスラエルの部族の木を取り、これをユダの木に合わせて、一つの木となす。これらはわたしの手で一つとなる。」

ヤコブがエフライムとマナセのために祝福の祈りをした時、ヨセフには、それが間違った祈りだと思われました。しかし、歴史は、ヤコブの祈りが、神の御旨であったことを明らかにしています。ヤコブは祈った後、間もなく、地上を去りました。しかしヤコブを遠い昔の人と思えません。ヤコブの祈りは現代にまで生きているのです。
「義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。」(ヤコブ5:16)
私たちが信仰を持って祈る時、目先は何の変化も起きないかも知れません。人に、間違った祈りをしていると思われるかも知れません。しかし信仰によって祈った祈りは、必ず実現すると信じることができるのです。

ヨセフ族が相続した地は、パレスチナの中でも、最も良い地で、肥沃で美しい地域です。その地は、シェケムの谷のほかに、パレスチナの最もすばらしい地域で、エフライムの山々と、シャロンの広大で肥沃な地中海沿岸の平原を含んでいました。そこは、山岳に咲くチューリップの一種で、「シャロンのバラで知られている花が咲きほこる地でした。だれでも、この地を訪れるなら、そこが神に祝福された地であることを、すぐに悟ることができるでしょう。私たちも、だれかが私に会った時、すぐに私の内にイエス・キリストを見い出し、神が祝福された人であることをあかし出来る人になりたいものです。それは決して不可能ではないし、難しいことでもありません。ただ、イエス・キリストの御霊を内に宿していればいいのですから。

ヨセフ族がくじによって、このような美しい地を相続できたのは、彼らの父祖ヤコブの祈りに対する神のご好意であったことは間違いのないことです。あなたは、後々の子孫のために、どんな祈りをなし、どんな祝福を残そうとしているのでしょうか。

5~10節、エフライム族の相続地

ヨシ 16:5エフライムの子孫が、その家族にしたがって獲た地の境は、次のとおりである。彼らの嗣業の東の境は、アタロテ・アダルであって、上ベテホロンに達し、 16:6その境は、その所から海に及ぶ。北にはミクメタテがあり、東ではその境はタアナテシロで曲り、進んでヤノアの東に至り、 16:7ヤノアからアタロテとナアラに下り、エリコに達し、ヨルダンに至って尽きる。 16:8タップアからその境は西に進んで、カナの川に達し、海に至って尽きる。これはエフライムの子孫の部族が、その家族にしたがって獲た嗣業である。 16:9このほかにマナセの子孫の嗣業のうちにも、エフライムの子孫のために分け与えられた町々があって、そのすべての町々と、それに属する村々を獲た。 16:10ただし、ゲゼルに住むカナンびとを、追い払わなかったので、カナンびとは今日までエフライムの中に住み、奴隷となって追い使われている。

中央パレスチナは、地中海に突き出るように位置しているカルメル山から南の方向に広がっています。その実り豊かな地域の中のシェケムの地を含む南の区画を、エフライムは相続した。彼らは、豊かな地を得たにも拘らず、その地理的な利益を楽しむだけで、信仰による徹底した戦いをしようとしなかった。彼らはカナン人を同居させていたのです。

「16:10ただし、ゲゼルに住むカナンびとを、追い払わなかったので、カナンびとは今日までエフライムの中に住み、奴隷となって追い使われている。」(10節)

エフライムにとっての言い分は、「カナン人を苦役に服する奴隷にして使っているのだから、いいではないか。」でしょう。しかし異教の偶像礼拝する者を、自分たちの内に同居させておくことは、最も危険なことをしているのです。

エフライムの名前は、ソロモン王の息子のレハブアムの時代に、王国が分裂して後も、北王国の十部族を代表する名前として使われており、神の祝福は疑いのないところとなっています。

主は、このイスラエルに対して、「それは、わたしがイスラエルの父であり、エフライムはわたしの長子だからである。」(エレミヤ書31:9)と言われました。これによって神の愛がエフライムに注がれていたことは明らかです。しかし神は、このエフライムのために深く苦しみ、わななき、悲しまれることになったのです。

「31:18わたしは確かに、エフライムがこう言って嘆くの聞いた、『あなたはわたしを懲しめられた、わたしはくびきに慣れない子牛のように懲しめをうけた。主よ、あなたはわたしの神、主でいらせられる、わたしを連れ帰って、もとにかえしてください。31:19わたしはそむき去った後、悔い、教をうけた後、ももを打った。若い時のはずかしめが身にあるので、わたしは恥じ、うろたえた』。
31:20主は言われる、エフライムはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ子であろうか。わたしは彼について語るごとに、なお彼を忘れることができない。それゆえ、わたしの心は彼をしたっている。わたしは必ず彼をあわれむ。」(エレミヤ書31:18~20)

このようにしてまで、ご自分の民を愛され、あわれまれる神は、主以外にいるでしょうか。多くのクリスチャンたちが、再び、罪に陥った時、「主は、もう私を捨ててしまわれたのではないか。」と、絶望的な不信仰な思いに捕われています。しかし主は、そんなに簡単に、ご自身が十字架にかかって、命の代価を払って買い取られた私たちを、捨ててしまわれることがあるでしょうか。そんなことは決してありません。確かに、あなたが故意に、意志的に主を拒み続けるなら、もはやあなたには、贖罪のためのいけにえは、なくなってしまうでしょう。しかし、あなたの心は、主を愛して、信じて従いたいという思いを持ちつつも、自分の弱さや誘惑の故に、罪に陥るとするなら、あなたのために、御父の前で弁護してくださるお方がいるのです。それは義なるイエス・キリストです(ヨハネの手紙第一2:1)。ですから、いつまでも嘆いていないで、不信仰な思いに捕われていないで、キリストに立ち返ってください。あわれみ深い主は、必ず、あなたを受け入れてくださいます。たとい人が受け入れなくても、主は受け入れてくださいます。

「わたしは彼をわたしに近づけ、彼はわたしに近づく。だれか自分の命をかけてわたしに近づく者があろうかと主は言われる。」(エレミヤ書30:21)

ところが、エフライムはこの神のあわれみに応えようとしなかったのです。あの追い出さなかったカナン人の異教の影響を受けてしまったからです。それ故、神の嘆きは、いよいよ深いものとなっていったのです。

「7:8エフライムはもろもろの民の中に入り混じる。エフライムは火にかけて、かえさない菓子である。(食べることが出来ない、という意味)
7:9他国人らは彼の力を食い尽すが、彼はそれを知らない。(もはや霊的判断力を失っている)しらがが混じってはえても、それを悟らない。(霊的いのちが衰えていることに気づかない)
7:10イスラエル(エフライムのこと)の誇は自らに向かって証言している、彼らはこのもろもろの事があっても、なおその神、主に帰らず、また主を求めない。(悔い改めない)
7:11エフライムは知恵のない愚かな、はとのようだ。彼らはエジプトに向かって呼び求め、またアッスリヤへ行く。(愚かな選択と行動)
7:12彼らが行くとき、わたしは彼らの上に網を張って、空の鳥のように引き落し、その悪しきおこないのゆえに、彼らを懲らしめる。(神はエフライムを懲らしめて、引き帰らせようとしておられる)
7:13わざわいなるかな、彼らはわたしを離れて迷い出た。滅びは彼らに臨む。彼らがわたしに向かって罪を犯したからだ。わたしは彼らをあがなおうと思うが、彼らはわたしに逆らって偽りを言う。(主から逃げる者の運命)
7:14彼らは真心をもってわたしを呼ばず、ただ床の上で悲しみ叫ぶ。(後悔はするが、悔い改めない)
彼らは穀物と酒のためには集まるが、わたしに逆らう。(御利益を求めるが、主ご自身と交わることを求めない)
7:15わたしは彼らを教え、その腕を強くしたが、彼らはわたしに逆らって、悪しき事をはかる。(主の戒めを軽んじて反逆する)
7:16彼らはバアルに帰る。彼らはあざむく弓のようだ。(使いものにはならない)
彼らの君たちはその舌の高ぶりのために、つるぎに倒れる。これはエジプトの国で人々のあざけりとなる。(神をののしる者の最後、頼って行った者たちにあざけられる)
」(ホセア書7:8~16)

それでも、主はまだエフライムを捨ててしまわれていない。なんという底知れぬ神のあわれみか。

「11:8エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。どうしてあなたをアデマのようにすることができようか。どうしてあなたをゼボイムのように扱うことができようか。わたしの心は、わたしのうちに変り、わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている。
11:9わたしはわたしの激しい怒りをあらわさない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたのうちにいる聖なる者だからである。わたしは滅ぼすために臨むことをしない。」(ホセア書11:8,9)

しかし、それでもエフライムは悲しいほど堕落していく。神に振り向こうとしないのです。

「11:12エフライムは偽りをもって、わたしを囲み、イスラエルの家は欺きをもって、わたしを囲んだ。しかしユダはなお神に知られ、聖なる者に向かって真実である。」(ホセア書11:12)
「12:14エフライムはいたく主を怒らせた。それゆえ主はその血のとがを彼の上にのこし、そのはずかしめを彼に返される。」(ホセア書12:14)

これで、もう、終わりかと思われた。しかし、神の愛はついに勝った。最後まで諦めずに、神の愛をもって戦い続ける者は最後の勝利を得るのです。

「14:1イスラエルよ、あなたの神、主に帰れ。あなたは自分の不義によって、つまずいたからだ。14:2あなたがたは言葉を携えて、主に帰って言え、「不義はことごとくゆるして、よきものを受けいれてください。わたしたちは自分のくちびるの実をささげます。14:3アッスリヤはわたしたちを助けず、わたしたちは馬に乗りません。わたしたちはもはや自分たちの手のわざに向かって『われわれの神』とは言いません。みなしごはあなたによって、あわれみを得るでしょう」。
14:4わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。14:5わたしはイスラエルに対しては露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張り、14:6その枝は茂りひろがり、その麗しさはオリブの木のように、そのかんばしさはレバノンのようになる。14:7彼らは帰って来て、わが陰に住み、園のように栄え、ぶどうの木のように花咲き、そのかんばしさはレバノンの酒のようになる。
14:8エフライムよ、わたしは偶像となんの係わりがあろうか。あなたに答え、あなたを顧みる者はわたしである。わたしは緑のいとすぎのようだ。あなたはわたしから実を得る。
14:9知恵のある者はだれか。その人にこれらのことを悟らせよ。悟りある者はだれか。その人にこれらのことを知らせよ。主の道は直く、正しき者はこれを歩む。しかし罪びとはこれにつまずく。」(ホセア書14章全体)

エフライムの歴史は、私たちに何を教えているのでしょうか。

l、神の恵みの祝福を受けていても、潔められていない罪の性質をそのままにし、この世と歩調を合わせ、物質的富だけを求めていくことの危険を教えていないでしょうか。

2、彼らは霊的祝福よりも、物質的祝福を求め、カナン人には奴隷として苦役を課しているのだから、役に立っていると言い訳をすることの危険を教えていませんか。

3、エフライムは最初にカナン人を取り除くのに勇気も、決断力もなく、怠惰になってしまっていることの危険を教えていませんか。

4、エフライムは大いなる神の特権を受けていたのですから、イスラエルの他の部族に対しても、まわりの異教の人々に対しても預言的説教者の働きをすべきだったのに、却って、堕落の手本となってしまった。与えられているタラントを使わないでいれば、その力は取り去られ、霊的に弱い者となり、偶像礼拝や罪への誘惑に征服されてしまうことを教えていませんか。

5、人間が、自分の知恵の判断で行動するようになったら、霊的に夕暮れになっています。

「人々はおのおの自分たちの目に正しいと思うことを行った。」(士師記17:6)
「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。」(箴言14:12)

エフライムは、カナン人を使い、孤立した地域に住まわせて、奴隷に使っているのだからいいと思っていたでしょうが、それがエフライム全体を腐敗させてしまったのです。わずかのイースト菌が粉全体をふくらませるように、わずかの悪の性質と思っているものが、全体を腐らせてしまうのです。

教会の中でも、信仰を持っていない人に洗礼を施したり、悪しき性質の人を受け入れたりすると、その悪の性質は、非常に強くなり、多くの人をとりこにしてしまうのです。

私たちにとって、最も安全な道は、神への全き献身と信仰によって、余すところなく自分の内に神に満ちて頂くことです。この信仰を毎日、更新することです。神はこれを永遠に私たちに求めておられるのです。

(まなべあきら 2001.4.1)
(聖句は口語訳聖書より)


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