聖書の探求(329) サムエル記第二 22章 主がすべての敵の手からダビデを救い出された日に彼が歌った賛美

エルサレムにあるダビデの墓といわれる場所の近くに置かれたダビデ王の像


この章全体は、「主が、ダビデのすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、」ダビデが歌った賛美を記録したものです。多分、この歌はダビデがイスラエルの王位についた直後に歌った歌であろうと思われます。この歌は、ほとんど、詩篇18篇と同じです。詩篇18篇は、サムエル記第二 22章を、一般の礼拝に使うために、編集したものと思われます。

その全体的な内容は、サウルからの逃亡中の経験とペリシテ人との戦いに関する経験を扱っており、特徴のある美しい賛美の調べで満ちています。

この歌は、神とダビデとの個人的な関係を表わしています。主を「わが神」と呼び、「あなた」と、直接的な交わりを表わす二人称で呼ぶことのできる神との関係になっています。

22章の分解

2~4節、荒野で救い出された経験
5~7節、不敬虔な敵の勢力に命を脅かされた時の経験
8~20節、全能の神の威厳と能力による救いの経験
21~25節、ダビデの神に対する態度
26~30節、主が人を扱う原則
31~37節、聴衆(あるいは読者)に向けた主への賛美
38~46節、力を与えられる神(勝利の神を賛美)
47~51節、喜びに満ちた賛歌

2~4節、荒野で救い出された経験

Ⅱサム 22:1 【主】が、ダビデのすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、ダビデはこの歌のことばを【主】に歌った。
22:2 彼はこう歌った。「【主】はわが巌、わがとりで、わが救い主、
22:3 わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。
22:4 ほめたたえられる方、この【主】を呼び求めると、私は、敵から救われる。

2節で「主はわが巌」とダビデが主をお呼びしているのは、モーセが主を「主は岩」(申命記32:4,18,30,31,37)とお呼びになっていた先例があったことと、ダビデ自身、マオンの荒野の岩の所で助けられた経験(サムエル記第一 23:25,28)があったことの両方に基づいています。

2,3節に表わされている神に対する称号は、すべて堅固さを表わす言葉が使われています。これは、ダビデがサウル王に命をつけ狙われていた数年間、いつも、この言葉が表わす信仰を、彼自身、身にしみて握っていたことを示しています。これはこの歌全体の特徴でもあります。

4節、「ほめたたえられる方」は、ダビデが賛美をささげている神です。

「この主を呼び求めると、」は、ダビデが祈り求めている神です。

ダビデの賛美や祈りは、ただの歌や願いの祈りではなく、現実に答えて下さり、ダビデと交わって下さり、救い出された経験に基づいた神を意識した賛美や祈りだったのです。
私たちも、自分で経験したこともなく、知らない神に、神を意識しないで、楽譜通り歌ったり、形だけの祈りをしないようにしたいものです。自分の心にイエス様を受け入れ、生活の中でイエス様のみことばに従い、主に信頼して愛と平安の生活を過ごさせていただくことによって、日々にイエス様を体験しつつ、自分が体験しているイエス様に賛美をささげ、また主と交わる祈りをささげさせていただきましょう。

5~7節、不敬虔な敵の勢力に命を脅かされた時の経験

Ⅱサム 22:5 死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。
22:6 よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。

5,6節の、「死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。」は、サウル王に追いかけられていた時のダビデの気持ちをよく表わしています。彼は自分の気持ちを、ものすごい洪水の渦に巻き込まれて、溺れかかっている人の気持ちで表わし、また、わなにかかった野獣の気持ちにたとえています。

7節、主のほかに、ダビデを助ける者はだれ一人いなかったのです。

Ⅱサム 22:7 私は苦しみの中に【主】を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。

その苦しみの中で、彼は主に向かって悲痛の叫びを上げて、主を呼び求めました。そして彼は自分の叫びが主に届き、主に聞かれたと確信したのです。

私たちの祈りは、主に届き、主に聞かれたと、信仰の確信になっているでしょうか。私たちは確信となる信仰を持って働きや奉仕をしているでしょうか。主は、「あなたの信じたとおりになるように。」(マタイ8:13)と言われたのです。

8~20節、全能の神の威厳と能力による救いの経験

8~16節、やがてダビデの信仰の確信は、現実の答えとなって現われてきました。

Ⅱサム 22:8 すると、地はゆるぎ、動いた。また、天の基も震え、揺れた。主がお怒りになったのだ。
22:9 煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、炭火は主から燃え上がった。
22:10 主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。
22:11 主は、ケルブに乗って飛び、風の翼の上に現れた。
22:12 主は、やみを回りに置かれた。仮庵は水の集まりと、濃い雲。
22:13 御前の輝きから、炭火が燃え上がった。
22:14 【主】は、天から雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。
22:15 主は、矢を放って彼らを散らし、いなずまで彼らをかき乱された。
22:16 こうして、海の底が現れ、地の基があらわにされた。【主】のとがめにより、その鼻の荒いいぶきによって。

神はダビデを助けに来られたのです。神はダビデを救うために動き始められたのです。主が来られる様子が、自然界が激変する様子として描かれています。主は一人の男ダビデを助けられるのに、地をゆるぎ動かし、山々を震えさせ、天を押し曲げて降りて来られているように描写されています。これは大げさなように聞こえますが、事実、イエス様は私たちひとり一人を救うために、人となって天から降って来られ、十字架の死を成し遂げてくださったのです。

9,10,12,14節では、この神の来臨の様子を、煙、暗やみ、雷鳴を伴っているように見られます。これはモーセの時に、シナイ山で律法が与えられた時と同じ様子です。

「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。」(出エジプト記19:16~18)

13~15節、雷光石火に照らし出された神の恵みの啓示は、目もくらむ輝きと稲光によって特徴づけられています(へブル12:18~21)。

この暗やみも、光も、両方とも、神のさばきのしるしです。

この激動の中にも、神ご自身の御姿は見えていないことに注意してください。

「そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。」(申命記4:11~12)ことに、ホッとしていることと、驚きを感じています。

また、この部分全体にわたって、ヨブ記に記されている神の干渉と比較されている箇所が、少なからず見られます(ヨブ記36:29~38:2)。

「摂理を暗くするこの者はだれか。」(ヨブ記38:2)

21~25節、ダビデの神に対する態度

Ⅱサム 22:21 【主】は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。
22:22 私は【主】の道を守り、私の神に対して悪を行わなかった。
22:23 主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。
22:24 私は主の前に全く、私の罪から身を守る。
22:25 【主】は、私の義にしたがって、また、御目の前の私のきよさにしたがって私に償いをされた。

この部分は20節の、神がダビデを喜んでおられることが敷衍されています。そしてダビデの性格と行為と、神のご性質とみわざの二面が見られます。

21~22節、神がダビデに味方されたのは、ダビデが神に対して忠実であり、反抗的な態度をとらなかったことによっています。

21節と25節は、ほとんど同じです。主を愛し、主に従った生活には、必ず主の恵みの報いと助けと守りとが与えられます。

23節の「そのおきてから私は遠ざからなかった。」は、神のみことばに忠実に歩んだことを言っています。神のみことばにより頼んだ生活をしているなら、天のさばきの庭で徹底的な神の聖さの前に立たされても、当惑することはありません。ダビデの時代には、まだイエス・キリストの十字架の血がなかったので、主のおきてだけが強調されていますが、私たちにはイエス・キリストの十字架の血が完成していますので、少しも恐れることはありません。

「このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(ヨハネ第一 4:17,18)

「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(テサロニケ第一 5:23)

ダビデの正しさは、ダビデとサウルとの関係に限られたものだけではなく、彼の生涯のあらゆる面で、彼の廉直さ、高潔で、弱い者にあわれみ深く、誠実で、汚れのないものでした。

24節、「私は主の前に全く、私の罪から身を守る。」ダビデは非常に注意を払って、主に忠実であろうと努めたので、罪から身を守ることができました。これは主によって守られたという意味です。

「…ダビデは、わたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの見る目にかなったことだけを行なった。」(列王記第一 14:8)

「兄弟たち。私は今日まで全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」(使徒23:1)

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に。」(ユダ24)

26~30節、主が人を扱う原則

Ⅱサム 22:26 あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、
22:27 きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。

26,27節、人間が神に対してとる態度や振舞いに対して、神はそれと同じようになられる原理を示しています。これは神のご性質によるものです。

信仰者にとって、神との関係と、人との関係が大切です。

「…わたしはわたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」(サムエル記第一 2:30の終わり)

「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」(ローマ1:28)

この他にも、箴言1章24~33節を挙げることができます。ぜひ聖書を開いてお読みください。

自分が神に対してとる態度と、他人に対してとる態度は、必ず神から自分にはね返ってきます。

Ⅱサム 22:28 あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者に目を向けて、これを低くされます。

28節の「あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者に目を向けて、これを低くされます。」は、ダビデが自分の経験の裏付けから語っていると思われます。

Ⅱサム 22:29 【主】よ。あなたは私のともしび。【主】は、私のやみを照らされます。
22:30 あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。

29:30節、ダビデの生涯の原動力は「私の神、主」です。この神、主から来る内的光と活力とが、ダビデの人格的熱情を燃やし、困難に打ち勝つ動機と力とを与えられたのです。

サムエル記第一 30章8節の「略奪隊(軍隊)」とサムエル記第二 22章30節の「軍勢」とは、へブル語で同じ言葉が用いられています。

30節の「城壁を飛び越えます。」は多分、サムエル記第二 5章6~10節の出来事を指して
いると思われます。

Ⅱサム 5:6 王とその部下がエルサレムに来て、その地の住民エブス人のところに行ったとき、彼らはダビデに言った。「あなたはここに来ることはできない。目の見えない者、足のなえた者でさえ、あなたを追い出せる。」彼らは、ダビデがここに来ることができない、と考えていたからであった。
5:7 しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これが、ダビデの町である。

31~37節、聴衆(あるいは読者)に向けた主への賛美

Ⅱサム 22:31 神、その道は完全。【主】のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。

31節、神は与えられる祝福から、真実なお方であることが分かるだけでなく、神の本質的なご性質からも、あらゆる栄光と賛美と礼拝を受けられるお方であることが分かります。神のみことばも、導きも、みわざも、行なわれるすべてのことが完全で、真実で、純粋で、聖いのです。それ故、神の道をしっかりと歩み、御国に到達させていただきましょう。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

Ⅱサム 22:32 まことに、【主】のほかにだれが神であろうか。私たちの神のほかにだれが岩であろうか。

32節、ですから、神は敵対する者を保護されることはしませんけれども、主により頼む人にとっては、最も確かな信頼できる岩なるお方なのです。このように堅固なお方は、主以外にはありません。

「わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかにはだれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。」(イザヤ45:5,6)

33~37節、ダビデは、神の行き届いた訓練を受けて来ました。ダビデは羊飼いの少年時代から、サウルの従者の時も、そして逃亡時代も、主の御手に全てをゆだねて従うことによって、イスラエルの王としての訓練を、神の御手から受けて来たのです。

Ⅱサム 22:33 この神こそ、私の力強いとりで。私の道を完全に探り出される。
22:34 彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。
22:35 戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓でも引けるようにされる。
22:36 こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの謙遜は、私を大きくされます。
22:37 あなたは私を大またで歩かせます。私のくるぶしはよろけませんでした。

私たちも、知識の学びだけでなく、苦難の中で、主にゆだねて、戦いのための訓練を受けたいものです。主から訓練を受けなければ、神の国のために働く者となることができません。

1、肉体的訓練

34節、「私の足を雌鹿のようにし、」
35節、「私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓でも引けるようにされる。」
37節、「私のくるぶしはよろけませんでした。」

ダビデに健康、腕力、敏捷さが与えられました。これらはダビデがサウル王から逃げ回っている間に、多く訓練されました。これは、戦いでの耐久力になりました。

2、教育的訓練

35節、「戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓でも引けるようにされる。」

ゴリヤテと戦う時も、神の御名と小石を武器として使いました。これは戦略や武器の使用法などの技術を訓練されていたことを示しています。

旧約では、神は様々な方法で戦っておられますが、新約では、パウロはエペソ6章で、神の武具を教えています。私たちはこの点について、もっともっと訓練を受けて行く必要があるのではないでしょうか。

3、霊的、人格的訓練

36節、「御救いの盾」「あなたの謙遜」

主は必要な神ご自身の武具と、危急の時の助けと、謙遜を十分に与えられました。神は恵みをもって、ベツレヘムの羊飼いの少年を権力の王座に登らせ、彼の心に忍耐と温和さを与え続けられました。

ダビデが31節の、神の完全な道を歩み続けたので、神は33節にあるようにダビデ自身の道を完全なものとされたのです。

38~46節、力を与えられる神(勝利の神を賛美)

Ⅱサム 22:38 私は、敵を追って、これを根絶やしにし、絶ち滅ぼすまでは、引き返しませんでした。
22:39 私が彼らを絶ち滅ぼし、打ち砕いたため、彼らは立てず、私の足もとに倒れました。

38,39節、ダビデは、この神の訓練の目的を果たし、完全な勝利を得ました。

Ⅱサム 22:40 あなたは、戦いのために、私に力を帯びさせ、私に立ち向かう者を私のもとにひれ伏させました。

40節、ダビデは神の使命を果たすために、神が自分に効果的な、十分な準備を与えてくださったという確信を持って、敵の征服に乗り出しています。神こそは、ダビデの内に働いておられるお方です。敵の征服は実際のところ、主のみわざなのです。

これはダビデの召命でもありました。神のために働く者、私たちも同じように召命を持っていることが必要です。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

40節、「私に力を帯びさせ、」

1、エペソ3:16、内なる人を強くする力、勇気、忍耐力、実行力

2、エペソ3:18、神の恵みの奥義を理解する力

3、エペソ3:20、願いや思い以上に成就していく力

4、ピリピ4:13、どんなことでも、やりとげていく力

5、コロサイ1:29、労苦しながら奮闘する力

41~43節、神がダビデの敵を退却させ、背を見せるようにされたので、ダビデは彼らを滅ぼし去ることができました。

Ⅱサム 22:41 また、敵が私に背を見せるようにされたので、私は私を憎む者を滅ぼしました。

42節、ところが、敵も主に向かって叫びましたが、主は答えられず、救う者は与えられなかったのです。普段、高慢な態度をとっている反逆者が祈っても、主は答えられるはずがありません。

Ⅱサム 22:42 彼らが叫んでも、救う者はなかった。【主】に叫んでも、答えはなかった。

43節、その結果、ダビデは彼らをちりのごとく打ち砕き、道のどろのように除き去り、完全な勝利を収めたのです。

Ⅱサム 22:43 私は、彼らを地のちりのように打ち砕き、道のどろのように、粉々に砕いて踏みつけた。

44~46節はダビデの支配権のクライマックスを記しています。

Ⅱサム 22:44 あなたは、私の民の争いから、私を助け出し、私を国々のかしらとして保たれます。私の知らなかった民が私に仕えます。
22:45 外国人らは、私におもねり、耳で聞くとすぐ、私の言うことを聞き入れます。
22:46 外国人らはしなえて、彼らのとりでから震えて出て来ます。

44節、国内の争いが、すべて静められただけでなく(サムエル記第二 3:1)、神はダビデを多くの国々のかしらに任じられて(サムエル記第二 8章)、それまで何の関係もなかった民でさえも、ダビデの主権をすすんで認めて、仕えるようになりました。サムエル記第二 10章18,19節には、これを裏付ける歴史的事実が見られますが、そこには預言的な意味も含まれています。

「アラムがイスラエルの前から逃げたので、ダビデはアラムの戦車兵七百と騎兵四万をほふり、将軍ショバクを打って、その場で殺した。ハダデエゼルに仕えていた王たちはみな、自分たちがイスラエルに打ち負かされたのを見て、イスラエルと和を講じ、彼らのしもべとなった。アラムは恐れて、それからはもう、アモン人を救おうとはしなかった。」(サムエル記第二 10:18,19)

「そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。」(イザヤ52:15)

「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」(詩篇2:8)

47~51節、喜びに満ちた賛歌

Ⅱサム 22:47 【主】は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの岩なる神。

47節、「主は生きておられる。」結論は、生ける神の実在です。ダビデは生ける神に対して、口に言い表わせないほどの感謝をささげています。

神を自分のために利用するだけの信仰になってはいけません。「主は生きておられる。」ことを自覚して、体験する信仰でなければなりません。その信仰の自覚から、賛美と感謝が生まれてきます。

Ⅱサム 22:48 この神は私のために、復讐する方。諸国の民を私のもとに下らせる方。

48節の「復讐する方」は、報復することだけを言っているのではなく、ダビデの主張の正しさを弁明してくださる神であることを宣言しています。本当の弁明は、人ではなく、神がしてくださるのです。

Ⅱサム 22:49 私の敵から私を携え出される方。あなたは私に立ち向かう者から私を引き上げ、暴虐の者から私を救い出されます。
22:50 それゆえ、【主】よ。私は、国々の中であなたをほめたたえ、あなたの御名を、ほめ歌います。

49,50節、この歌は、ダビデが神から与えられた多くの民に対する支配力を、神への賛美を広く行きわたらせるために用いるという、ダビデの約束で終わっています。

この考えは、パウロにも引き継がれています。

「また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。」(ローマ15:9)

パウロは、ダビデの主は異邦人にも、救いとあわれみとが、あますところなく現わされていると言っており、主をあかしし、賛美することを目的としています。

私たちの生涯の目的も、主を礼拝し、主をあかしし、主を賛美することの幸いと喜びとさせていただきましょう。

Ⅱサム 22:51 主は、王に救いを増し加え、油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。」

51節、最後に、ダビデは神と永遠に交わる者として、自分の名前を記していますが、これは預言的です。

「ダビデとそのすえ」「すえ」とは、救い主イエス・キリストのことです。ダビデも油注がれていましたが、これは明らかに油注がれたお方であるイエス・キリストを預言しています。そして全世界の民が主を賛美するようになることは、ダビデのすえであられるイエス・キリストによって成就し、永遠の御国において完成します(サムエル記第二 7:12~16)。

「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は、彼に、その父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」(ルカ1:32~33)

ダビデも、パウロも、真に主に仕える者は、すべての造られた者が、主を賛美し、礼拝するようになることを切に祈り求めて奉仕していたことが分かります。人にとって、これ以上に幸いはありません。

あとがき

金持ちの農夫のたとえの中で、彼は自分のたましいに、「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:19)と言っています。
私は伝道の奉仕をしつつ、おいしい物を食べて、飲んで、楽しもうとしても、少しも楽しくなく、胸がつまる思いがして、とても耐えられないと思いました。イエス様の福音を伝えるでもなく、イエス様と交わるのでもなく、真理を味わうのでもなく、ただ肉の楽しみを満足させる生活は地獄のように感じられます。主にある愛の交わりがあり、イエス様に仕えているという手応えがある生活にこそ、生きる喜びがあります。こう感じている方は、私以外に大勢おられるのではないでしょうか。

(まなべあきら 2011.8.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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