聖書の探求(332) 列王記第一、第二 序

ダビデとソロモンの時代のイスラエル統一王国(エルサレムのダビデの塔内にある、エルサレム歴史博物館の展示より)
1.書名
列王記第一と第二と呼ばれている二つの書は、もともと一つの書でした。これはへブル正典では、「前預言書」の中で最後に置かれています。
この書が二つに分けられたのは、旧約聖書の最初の訳としてギリシャ語に訳された七十人訳聖書においてです。この七十人訳聖書では、二つの書は「王国の第三書」、「王国の第四書」と呼ばれています。ラテン語のヴルガータ訳では、へブル語の題名とギリシャ語の題名の折衷案として「列王記第三」、「列王記第四」とされています。
2.記者と著作年代
列王記第一と第二は、正確に言うと記者は不明です。それ故、これから書き記していきます記者や著作年代に関することは、様々な人々の提案であって、推測の域を出ていないことを十分ご承知の上で参考にしてください。
① Baba Bathra15aには、「エレミヤが自分の書、列王記及び哀歌を書いた。」と記しています。
② 古代のユダヤ人の見解としては、列王記の中にはエレミヤ書に類似していると思われる点が多く、列王記第二 24章18節~25章30節は、エレミヤ書52章とほとんど同一です。このエレミヤが列王記の記者であるという説は、シュタイン・ミューラーによって支持されています。
《このエレミヤ説に対する主要な反対》
エホヤキンがバビロンに捕え移され、投獄された記事は、明らかにバビロンで書かれていますが、その当時、エレミヤはエジプトに連れて行かれていたので、エレミヤがこの記事をバビロンで書くことはできなかった。
エレミヤ書52章も、列王記第二 24章18~25章30節も、両者に互いに用語上の差異があり、エレミヤが書いたのではなく、何か大きな資料から抜粋したものと思われます。
《否定的批評学派の主張者たちの、記者に関する異説》
① ファイファーは、本書は多くの改訂を経てきたものであると信じています。
この学説によると、列王記の初版は、BC600年頃に書かれ、BC586年のエルサレム滅亡やバビロン捕囚について何も知らないと言われています。またエルサレムの神殿建設以前には、エルサレム以外の高い所での礼拝を合法的なものとして認めていたとしています。
第二版は、約五十年遅れて出され、バビロン捕囚のことを知っており、ソロモンがギブオンでいけにえをささげたこと(列王記第一 3:3,4)を非難しています。
Ⅰ列王 3:3 ソロモンは【主】を愛し、父ダビデのおきてに歩んでいたが、ただし、彼は高き所でいけにえをささげ、香をたいていた。
3:4 王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこは最も重要な高き所であったからである。ソロモンはそこの祭壇の上に一千頭の全焼のいけにえをささげた。
② この学派の見解によれば、列王記は申命記の思想と宗教とを示す、一つの歴史とみなしています。この諸提案は、大体において「モーセの五書」の近代本文分析学と深く関わっています。
彼ら(マルチン・ノートやゲルハルト・フォン・ラート、そしてその影響を受けたアーネスト・ライト)の考えによると、ルツ記を除いて、申命記から列王記までは、旧約聖書の三つの重要な歴史的記述の一つを表わしており、この部分の記述を「申命記的歴史」と呼んでいます。アーネスト・ライトは、この申命記的歴史(記述)の基礎をなす諸資料を一人の記述者が利用して書いたと言うのです。
この申命記的歴史の思想は、エルサレムを中心として、礼拝中央集権主義と、この世における人間の行為に対する正しい報復の教理を含んでいます。イスラエルの諸王は、エルサレムに礼拝を集中する律法と、高い所を破壊するように命じられている律法に従ったかどうかによって判断されていると言われています。これは申命記12章に教えられていると想定したのです。
更に列王記の記者は、この世的報復の教理を説明するために、史実を犠牲にしてまでも、記者自身の申命記的歴史論を立てようとしたと言っています。それで彼らは、列王記は神学的歴史と考えているのです。
③ アイスフェルトやその他の者たちは、前申命記的列王記の存在を主張しています。この説では、申命記的記者は、新しい書を著作したのではなく、「八書(旧約聖書の最初の八書)の連続した物語に補筆したに過ぎないと言っています。
これらが否定的批評家たちの主張です。これらは学究的に試みているように見えますが、明確な根拠や証拠がなく、合理的な確実性が欠けています。
最初にも書きましたように、列王記の記者は不明ですけれども、最も合理的で確実性の高い、唯一の示唆は、今日、私たちに名前の知られていない一人の歴史家が、へブル民族と神の契約という立場に立って、イスラエル王朝の歴史的出来事の重要な意味を教えるために様々な資料を利用して本書を書いたということです。
彼はエレミヤと同時代の預言者であって、その民が主の御声に聞き従わないことに深く憂いていました。
この名前の知られていない記者は、自分の誕生よりもずっと前の出来事を書いていますから、古い記録を使用しています。
① ソロモンの治世を書き終わった後に、「ソロモンの業績の書(ソロモンの言葉)」と言っています(列王記第一 11:41)。
Ⅰ列王 11:41 ソロモンのその他の業績、彼の行ったすべての事、および彼の知恵、それはソロモンの業績の書にしるされているではないか。
② ユダの諸王に関する記事の資料は、「ユダの王たちの年代記の書」から得ていると言っています(列王記第一 14:29、15:7,23)。またイスラエルの諸王に関する記事の資料は「イスラエルの王たちの年代記の書」から得ていると言っています(列王記第一 14:19、15:31等)。
明らかに、これらの書は、王朝年代史の公文書であって、多分、預言者たちによって記録されたものであると思われます。たとえば、ウジヤ王の治世の歴史を預言者イザヤが書いているようにです(歴代誌第二 26:22)。
これらの資料は、年代史の形式で発行された預言的歴史の一部とみなされています。列王記の記者は、神の霊感によって、これらの公的記録文書から選んで利用したものと思われます。
3.内容と目的
列王記は、神政王国の歴史がバビロン捕囚まで続いたことを記すのを目的としています。その最も繁栄した時代を経て、その衰退没落に至るまで、王と民が主に仕えた間のイスラエルの栄光と、彼らが主から離れ去った時の恥辱と惨敗の状況を記録しています。サムエル記第二で扱われなかったダビデの生涯の残りの部分からエルサレムの陥落と、エホヤキンの牢獄からの釈放についての最後の記録までのイスラエルの歴史の重要な出来事の記録とその信仰的意味を記しています。
列王記第一は、ダビデからアハブ、ヨシャパテに至るまでの、北のイスラエルと南のユダの両王国の、118~125年間にわたる歴史を記しています。
列王記第二は、北のイスラエルがBC722年にアッシリヤによって捕囚とされ、南のユダがBC586年にバビロンによって捕囚とされるまでの歴史を記しています。
ユダの諸王は、サムエル記第二 7章12~16節にあるダビデに与えられた約束に従って判定されていますが、北のイスラエルの諸王は、すべて罪ある者とされています。それは、イスラエルを罪に陥れたネバテの子ヤロブアムの罪をイスラエルの諸王らが犯し続けたからです。
本書は初期のイスラエル王国の歴史と預言者の働きとを結ぶ連環をなしたメッセージであり、特にエリヤとエリシャの預言的働きを非常に強調しています。
南王国のユダについては、ダビデが示した規範に諸王が比較的、忠実であったことを強調しています。しかし非難すべき点については、叱責をしています。そして捕囚は神の懲らしめであったことをはっきりと示しています。
この意味で、列王記第一、第二は、一般的な歴史書ではなく、特別な信仰の目的を持って書かれた歴史書です。記者は、一方で、「祭司の王国」(出エジプト記19:6)「選び出された民」(アモス書3:2)の特権を語り、他方では、「聖なる国民」としての責任を強調しています。
本書の記者の主な注目点は、各王朝の評価をすることによって、神との契約の責任を民が果たしていったか、どうかを明らかにすることにありました。汚れや偶像礼拝を取り除くという消極的な面からも、神のみこころに忠実に従うという積極的な面からも、イスラエルの民が聖い民であるということを、神の召命に対して忠実に従う生活をしていたか、どうかを検証したのです。これは申命記の中で強調されていたことであり、これを基準として諸王の治世において、神の聖さへの召命に忠実であったか、どうかを明らかにしたのです。記者の目的は、この服従の原理を適用して、各王たちの治世を、聖きへの召命の点で評価することでした。
本書の記者のもう一つの目的は、主がダビデに対してなされた約束が、歴代の諸王の歴史の中に保たれ続け、成就されるべきことを明らかに示すことにありました。その約束とは、次の通りです。
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしが人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(サムエル記第二 7:12~16)
記者はこの主の約束を、エルサレムでダビデに与えられた「一つのともしび」として引用しています。
「彼の子には一つの部族を与える。それはわたしの名を置くために選んだ町、エルサレムで、わたしのしもべダビデがわたしの前にいつも一つのともしびを保つためである。」(列王記第一 11:36)
「しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。」(列王記第一 15:4)
この主の約束は、ユダ族のダビデ王朝が北の王朝よりも長期間存続したことによって、「ともしびを保つ」と言われたダビデへの約束が続いている顕著なしるしとして、記者は強調しています。しかし記者は、ユダの王たちの中にも不服従があったことを決して軽んじてはいませんでした。それはユダ王国の滅亡とバビロン捕囚によって、その危機を描いています。しかし記者は、こういう危機の状況においても、神がダビデへの約束を忘れていなかったしるしとして、エホヤキンを牢獄から釈放されたことを記録の中に入れています。このエホヤキンの釈放が将来、どのようにして主の約束を成就していったかも、記者は見ることができませんでしたが、彼は心の中に主の約束の成就を信じ、期待を抱きつつ、この出来事を書き記したのです。
4.使命
【重要な教訓】
従順と祝福、背逆と滅亡
【中心思想】
列王記第一、忠節「父ダビデのおきてに歩んで」ダビデの信仰の模範への忠節(列王記第一 3:3,14、9:4、11:4,33,38、14:8、15:3,11)
列王記第二、「主のことばのとおり」主のみことばの確かな実現(列王記第二 1:17、10:10、17:23、24:2)
【中心聖句】
「ソロモンは父ダビデの王座に着き、その王位は確立した。」(列王記第一 2:12)
「ただし、王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与えよう。」(列王記第一 11:13)
【重要なテーマ】
① 王国の栄光(列王記第一 3~10章)
王国の衰退(列王記第一 11章以後)
栄光と衰退の要因は、指導者の在り方、民の信仰の一致、不一致などによります。
② 主が真の王、王の王であること(列王記第一 9:4~9、22:19)
③ 列王記第一はダビデの晩年からソロモンの繁栄を主に描き、北と南の分裂王国の始 まりを記しています。
列王記第二は、預言者の活躍を描きつつ、北王国の没落と南王国の衰退と捕囚までを描いています。
④ たえず変わる国の状況や政治に対する終始一貫した神のみことば
5.旧約聖書中の列王記の位置
旧約聖書は大まかには次のようになっています。
創始、神政政治、王国時代、捕囚、
その内容は、次の通りです。
〈創始〉
創造、堕落、洪水、バベル、創世記1~11章
〈神政政治〉
①、族長(個人)創世記12~50章
②、奴隷、救出(民族)出エジプト記~申命記
③、征服、ヨシュア記
④、士師、士師記
〈王国時代〉
①、単一王朝(サウル、ダビデ、ソロモン)サムエル記第一、第二~列王記第一 10章
②、分裂王朝(北王国イスラエル、南王国ユダ)列王記第一 11章~列王記第二 17章
③、単独王朝ユダ、列王記第二 18~25章、歴代誌第一、第二、
〈捕囚〉
①、捕囚、エステル記、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書
②、帰還、エズラ記、ネヘミヤ記
③、ギリシャ~ローマ時代、中間期
6.分解
第一期、列王記第一 1章~11章、全イスラエルに君臨したソロモンの栄華の治世の歴史
1章~2章11節、アドニヤの反逆~ダビデの死
2章12節~8章、ソロモンの即位~神殿献堂
(1~2章は、王国の確立、2:12,24,45,46「確立した」に注意。3~10章は、ソロモンの知恵と王国の栄光、3:12,13、4:30、8:11に注意)
9章~11章、ダビデの契約の再述からソロモンの死
(11章~12:24は王国の分裂、11:11、12:17に注意)
第二期、12章~列王記第二 17章、ユダとイスラエルの両王国の並立時代の歴史
12章~16章、王国の分裂
12章~14章、レハブアムとヤロブアムの死(14:27に注意)
15章~16章、ユダの王たちとイスラエルの王アハブまでの王国の状態
17章~22章、預言者エリヤ
17章、呪いの宣言
18章、カルメル山の審判
19章、荒野のエリヤ
20章~22章、アハブの衰退
列王記第二 1章~17章 南北王国の歴史(北王国の捕囚まで)
1章~2章11節、エリヤの最後の奉仕(主が無視される。鍵の句1:3,16)
2章12節~13章21節、エリシャの長期の奉仕(主の怒り、鍵の句13:3)
13章11節~17章、イスラエルの滅亡(主のあわれみ、鍵の句13:23、主の大いなる怒り、鍵の句17:11,18)
第三期、列王記第二 18章~25章、イスラエル王国消滅以後のユダ王国の歴史(ユダ王国の衰退から捕囚に至るまで)
(主の激しい怒り、鍵の句22:13,17,17、23:26、24:20)
18~20章、ヒゼキヤ王
21章、マナセ王(ヒゼキヤの反動)
22~23章、ヨシヤ王
24~25章、ユダの滅亡と捕囚
あとがき
「聖書神学概論」のプリントで学んでいてくださる方から、「聖句を書き入れながら、みことばを味わっています。実際に書くことで、ずい分ちがうのですね。」というあかしをいただきました。聖句は引照がわかれば、聖書を開いて読めばいいわけですが、わざわざ自分の手で一字一字書くことによって、何を経験するのかは、書いた本人だけが味わうことです。
私はもう何十年か、説教のノートに、聖句は赤色のボールペンで書いてきました。ノートを見れば、一目で主のみことばの何が、どこに書いてあるか分かります。聖書のみことばを書く時、時間はかかりますが、聖霊がいろいろな角度から光を照らして下さり、主の語りかけをいただく、最も楽しい時になり、みことばの味わいを楽しみます。
(まなべあきら 2012.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)