音声と文書:ヨハネの黙示録(13) 天の一つの御座 4:1~7

下記に、音声を聞きとって文書化しましたので、お読みください。
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PDF文書:ヨハネの黙示録(13)

ヨハネの黙示録 4:1~7
4:1 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」
4:2 たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、
4:3 その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。
4:4 また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。
4:5 御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。
4:6 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。
4:7 第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。【新改訳改訂第3版】

上の写真は、イタリアの画家 Henry John Stock (1853 – 1930)により1911年に描かれた「The Four and Twenty Elders(二十四人の長老たち)」(Global Gallery蔵、Wikimedia Commonsより)

はじめに

このあたりを見ますとね、あれもこれもお話ししたいことがあるなあ、と思うんですね。
どの一つ一つも重要な事を意味しているわけです。

4章に入りますと、新しい展開に入る事がわかります。第一節のおわりのところに、「この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」という言葉が記されているからなんですね。

1章19節をちょっとご覧いただきます。
黙1:19 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。

「見た事」というのは過去形ですね。「今ある事」は現在形。「この後に起こることを書き記せ」と言っていますから、3番目の事が始まる、ということですね。つまり新しい展開は、ここから入りますよ、と言っていることがわかる。

これまで見た幻は、ヨハネが地上のパトモス島から見たものでありました。けれども、「ここに上れ」と言っていますので、これからは地上から見た幻ではなくて、天上に移されて、天からみた天の幻である、ということが分かると思います。

Ⅰ.まずヨハネは、「その後、私は見た。」何を見たのか。

A.それは、「天に一つの開いた門」であった、と言っています。

ヨハネはこれまで、七つの教会の現状を見ていたわけです。その中には数々の芳しくない、好ましくない問題がたくさんあったわけですね。大変複雑な問題もあった。

ところが、彼は、神さまの言葉を聞き続けていると、天の門が開いていると気づいたわけですね。私達もこういう経験をしなければならない、と思うんですね。
聖書を見ると、何度か、天の門が開かれていることが書いてあるんです。天が裂けて、神様の声がしたとかね、そういうのがあります。

私達もこの生涯を送っているうちに、この地上の問題に頭を突っ込みすぎると、しばしば、天の門が開いていることを忘れてしまうんですね。天の門が閉じていると思うと、人間は失望落胆していってしまうわけですが、ヨハネは神様の言葉を聞き続けていると、決して行き詰る事はないと、天の門が開かれているということをですね、彼は経験しているんです。だから、神様のみ言葉を聞き続けている人は、四方八方ふさがってしまうことはないんですね。難渋な問題に取り囲まれていても、天の門は開かれている、ということです。
だから、どうぞ私達はですね、足元とか、左右前後を見ているんじゃなくて、たまに天を仰いでいただきたい。空だけじゃなくてですね。天というのは神のものですね。こういうのを知って頂きたいなあと思うんですね。

今朝も子供たちと、ヤコブのベテルのところを学んだのですけれどもね、天に届くはしごがあって、そこを御使いが昇ったり降りたりしている。これ、一体何なのか、って話したんですけどね。天が開かれているわけです。
ですから私達は、四方八方ふさがれていても、絶対に天が開かれていることを忘れてはならない。ヨハネはこのことを教えてくれました。

B.その次に「先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。」

とありますが、聞き覚えのある声が聞こえてきたんです。これは1章10節の言葉なんですね。
1:10 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

再びこの声を聞いた。
ここで彼は神の言葉をすぐに思い出すことができたんですね。知らない声ではなかったわけです。これも非常に大事だと思いますね。

電話で声を聞くと、声だけでどなたからというのが分かります。時々、息子がかけてきて、声がお父さんそっくりだったりしてね、間違ってしまうこともありますけれどもね。
私達も絶えず神様の声を聞いて、この声を覚えておく必要があると思うんです。神様が私達の内に語ってくださる神の御声を、覚えておきたいものであります。
その味わいを、「あ、これは神さまなんだな」、と。
ヨハネはそれが分かったわけですね。
神様は、私達の心の内側に語りかけてくださるんです。それを知らん顔して、誰だか知らない人の声に聞かないでね。知ってるお方として、覚えておく必要がある。

Ⅱ.2節でヨハネは、「たちまち私は御霊に感じた。」と、言っていますね。

このヨハネの黙示録のなかで、特に注意したいところの言葉は、「御霊に感じた」というのが一つだと思いますね。

先ほど1章10節を見ましたけれども、「主の日に御霊に感じ」と言っていました。
4章2節でまた、「私は御霊に感じた。」と言っているんです。この次に出てくるのは、17章3節なんです。

黙17:3 それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。

ということは、4章から17章2節までは、ずうっと一連の続きの幻であることがわかります。17章2節までは続いている、ということがわかります。
ヨハネの黙示録というのは、場面が展開していきますので、これをよく理解していないと分かりにくくなってしまうんです。だからこの「御霊に感じて」というのはある区切りを示す言葉である、と言ってよろしいと思いますね。

私達はこれから、黙示録で一番多くの部分を占めている「裁き」に関する幻に入っていくわけなんですが、中身はこれから話していこうと思っていますけれども、ここには七つの封印の裁きから、七つの鉢の裁きまで、七つの連続ものですね、次々と裁きが展開されていくわけですね。
この幻の目的は裁きを示すだけではなくて、実は、七つの封印の裁きの前にこの部分が出ているわけですが、裁きの出所はどこか、裁きはどこから発しているのかということですね。
それは「天の御座」、それからあとの方に出てきますが、「小羊」。裁き主である「小羊」が中心だと言っていいです。
人はですね、この裁きに目を奪われやすいわけですけれども、その裁きがどこから出たかということなんですね。これは大事なところであります。
ですからヨハネは、様々な裁きを見せる前に、幻を語る前に、その中心である「天の御座」とそこに座しておられる「小羊」がどういうお方であるかを、ここで記したということですね。

ここで大事なことをお話したいんですがね、ここでヨハネが見た幻は、イザヤが見た幻とエゼキエルが見た幻と同じだということですね。
イザヤはBC700年頃の人ですから、ヨハネから800年くらい前の人ですね。
イザヤ書6章の初めのところを見ていただきますと、ここにイザヤが見た幻が出てくるんですね。有名な箇所なのでみなさんもご存じかと思います。

イザ 6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満つ。」
6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

イザヤが見た幻ですね。イザヤは神殿の「王座に座しておられる」お方を見た。
この、座しておられる方とは一体誰だったのか。
ヨハネの黙示録を書いたヨハネは、ヨハネの福音書で、ヨハネが見た幻はイエス様の栄光だった、と言っているんですよ。
イザヤが見たのはイエス様だった、と言っているんです。
ヨハネの福音書12章41節を見てみましょうか。ヨハネはね、福音書も書いていますが、黙示録も書いているんです。これは大事なことなんです。聖書は聖書が解くんですね。聖書の解説は聖書なんです。

ヨハ 12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
イザヤは、イエスの栄光を見たと書いてありますね。ですからヨハネが黙示録で見た幻と同じお方をイザヤは見ていた。これは素晴らしいことだと思います。

それから、エゼキエルという人が幻を見ているんです。
エゼキエル書の1章あたりですが、全部を読めるといいんですが、読む時間がありませんのでね、1章の4節以降28節当たりまでね、黙示録の言葉と非常によく似ている。時々ここも見てみたいと思いますが、一番比べやすいのは10節あたりでしょうね。エゼキエル1章10節は、黙示録4章の6節、7節とほぼ同じですね。
非常によく似ているというよりも、同じだと言ってもよろしい。
ですからエゼキエルが見た幻とヨハネが見た幻は、同じである。これらの事はまた日を追ってお話していきたいと思います。

エゼ 1:4 私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。
1:5 その中に何か四つの生きもののようなものが現れ、その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。
1:6 彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
1:7 その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、みがかれた青銅のように輝いていた。
1:8 その翼の下から人間の手が四方に出ていた。そして、その四つのものの顔と翼は次のようであった。
1:9 彼らの翼は互いに連なり、彼らが進むときには向きを変えず、おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。
1:10 彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。
1:11 これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに連なり、他の二つはおのおののからだをおおっていた。
1:12 彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。
1:13 それらの生きもののようなものは、燃える炭のように見え、たいまつのように見え、それが生きものの間を行き来していた。火が輝き、その火から、いなずまが出ていた。
1:14 それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた。
1:15 私が生きものを見ていると、地の上のそれら四つの生きもののそばに、それぞれ一つずつの輪があった。
1:16 それらの輪の形と作りは、緑柱石の輝きのようで、四つともよく似ていて、それらの形と作りは、ちょうど、一つの輪が他の輪の中にあるようであった。
1:17 それらは四方に向かって行き、行くときには、それらは向きを変えなかった。
1:18 その輪のわくは高くて、恐ろしく、その四つの輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。
1:19 生きものが行くときには、輪もそのそばを行き、生きものが地の上から上がるときには、輪も上がった。
1:20 これらは霊が行かせる所に行き、霊が行かせる所には、輪もまたそれらとともに上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。
1:21 生きものが行くときには、輪も行き、生きものが立ち止まるときには、輪も立ち止まり、生きものが地の上から上がるときには、輪も共に上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。
1:22 生きものの頭の上には、澄んだ水晶のように輝く大空のようなものがあり、彼らの頭の上のほうへ広がっていた。
1:23 その大空の下には、互いにまっすぐに伸ばし合った彼らの翼があり、それぞれ、ほかの二つの翼は、彼らのからだをおおっていた。
1:24 彼らが進むとき、私は彼らの翼の音を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、全能者の声のようであった。それは陣営の騒音のような大きな音で、彼らが立ち止まるときには、その翼を垂れた。
1:25 彼らの頭の上方の大空から声があると、彼らは立ち止まり、翼を垂れた。
1:26 彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。
1:27 私が見ると、その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた。その腰と見える所から下のほうに、私は火のようなものを見た。その方の回りには輝きがあった。
1:28 その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは【主】の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた

ですからヨハネは、ここで人間の歴史、旧約の時代からずうっと人間の歴史、あるいは教会の歴史を、ここからは天から見ているということが分かりますね。
これまでは地上から歴史をみていたわけですが、今やヨハネは、天から、人間の歴史、教会の歴史を見ている。イザヤからエゼキエルを通って、これらの事が後々までも続いていく。
それは決して、人間の歴史は人間によってだけで作られるものではない、ということでしょう。神様が人間の歴史の中におられて、介入されて、そして人間の歴史を導かれ、終結されるということでしょうね。終結されるところの姿を彼は示したわけです。

ですからですね、人間は神さまを無視しては、良い歴史を作ることができないということです。人間は神の御心に従って、神様と一緒に歴史をつくらなければならない。これを悟らなければならない。
これは私達個人個人も同じだと思いますね。自分の歴史、家庭の歴史、あるいは国の歴史もあるでしょうが、これはイエス様とともに作るという観点で、確かめていく必要があるんです。そうでなければ、良い歴史を作っていくことができない。人間がどんなにあくせくしても、良い歴史を作る事ができないんですね。
ですから、私達の生涯の歴史の中心は何かというと、「御座に座しているお方」である。
これはイザヤ書からエゼキエル書、そしてヨハネが私達に教えてくださる。

Ⅲ.さて3節以降では、「御座についておられる方」がどういう方か書いてあるんですね。

A.これはエゼキエル書にも出てきたわけですが、エゼキエル書ではヨハネよりももっと詳しく書いてあるんですね。

今日は、エゼキエル書ではないので、その詳しいところはお話しませんが、ヨハネはエゼキエル書に書いていないことも書いているんです。
それは何かというと、24人の長老が4節に書かれています。5節には「神の七つの御霊」が付け加えられてています。これはエゼキエル書には出てこないんですね。
この幻について、許されている時間、ご一緒に学んでみたいと思うわけです。

B, ここでは「御座に座されている方」がいろいろな表現をされているわけですけれども、根本的には、ヨハネはここでどういう神を描いていているのか。

これは一番わかりやすいために、11節の終わりをご覧いただきましょうかね、

黙4:11 「あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

ヨハネはここで、創造者としての神の支配力を見た、ということです。
根本的にはいろいろな面から語っているわけなんです。

C.彼はここで神様を表現するのに、もはや人間の表現する言葉を失っているんですね。神様の人格性というような面でも表現しなかったんです。

1.3節で、「その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。」と言っています。
碧玉とか赤めのうというのは宝石ですね。碧玉というのは鉄分を含んでいて、緑色をしていて柔らかい光を放つんだそうですね。そして透明な宝石であると言われている。赤めのうというのは、燃えるような透明度を持っているっていうんですね。
ヨハネは、御座についているお方を、柔らかさと燃えるような激しさを持っている、それでいて透き通るようなお方であった、という強烈な印象を語っているわけです。

2.さらに続いているのは、「その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。」
といっています。この虹というのは光の輪のことなんです。虹というのは何を表しているかというと、一つには全宇宙を貫くところの神の支配力を表している。
このあたりからですね、聖画をみますとイエス様の頭のあたりが、ボヤーンとなっているのが画かれてあったりするわけなんですが、ああいうふうになっていたかどうかはわかりませんがね。
もう一つ、虹というのは、ノアの洪水の後に神様が永遠の契約のしるしとしてあらわしたのが、この虹なんですね。創世記9章13節~16節を読んでみましょうかね。

創 9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。
9:14 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。
9:15 わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。
9:16 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」

特にここでは、ただの虹ではなくて、神さまが思い起こそうとおっしゃった虹である。ですからこの虹は、罪深い人間に対して発せられるところの、神の怒りをとどめるところの契約の虹である、といえます。この緑玉のように見える虹というのは、神の契約を表すといってもよろしい。もしそうだとするならば、この虹は、新約聖書においては、キリストのあがないを表す、キリストの救いを表す幻である、と言ってよろしいわけですね。
3節だけでも、私達はそういうことがだんだん分かってきたわけです。

Ⅳ.次にこの御座の周囲におられるところのものが記されていますね。三種類の者たちがいました。

A.

1.第一は二十四人の長老たち。これは4節に書いてありますね。彼らは御座の周りの二十四の座に座っている。白い衣を着て、金の冠をかぶっていた。これらはみなすでに、七つの教会の手紙の中にでてきたことです。二十四の座というのは、3章21節でラオデキヤのクリスチャンに言われた御座です。「わたしの座に着かせよう」といった御座ですね。白い衣も冠も記されておりました。

2.それではこれらの二十四人の長老たちは、どういう人々でしょう。あるいはこの二十四人という人数は、どこから出てきたのか。気になるところですね。
これはおそらく、旧約時代の古いイスラエルの十二部族の代表者たち、旧約と新約十二ずつなんですね。
旧約時代にはモーセとかアブラハムとか信仰者がいらっしゃったわけですが、これはイエス様がおいでになる前です。しかし彼らはキリストにあってあがなわれる、救われるわけですから、ずっと待っているわけなんですね。
だから古いイスラエルの十二部族の代表者たちと、もう十二人の長老は、新しいイスラエル、すなわち、教会時代の代表者である十二使徒の十二からとられたものである、ということが分かるわけです。この二十四人にどういう人が選ばれているのかは、記されていません。

マタイ20章20節から23節当たりを見ますと、ヤコブとヨハネがね、二十四の座のうち、最もイエス様に近い右と左の座をですね、お母さんが求めているところがありますね。あういうのを見ると、このことを言っているわけなんですね。イエス様に最も近いところの二十四の席の右と左の席に、私のふたりの息子をつかせてください、なんて言っているのが、あるわけですね。

そこで、旧約の信仰者も新約の信仰者も、結局キリストにあって、ここにおいて一つとされる。
ここまではアブラハムさんもずっと待っているわけですね。決して先に逝ったものが先にいくのではなくて、待っていてくれるということですね。本当に大変なことだと思います。

この二十四人の長老たちは、神とともに働いた旧約と新約の十二人ずつの二つのグループの代表者たちです。そしてこの二つのグループが御国において、キリストのあがないのゆえに一つとなる。そして、神とともに王として支配者の座についているのです。これが十二人の長老たちの意味合いですね。これは素晴らしいと思います。

彼らが白い衣を着ていたというのは、すでにお話したように、彼らの義と純潔の輝きを示しています。金の冠は彼らが勝利者として、王座についている王となっていることを示します。これも既に学んだことであります。

ですからこれは非常に大きな特権ですね。この二十四人は代表者でありますが、これと同じものが御国に入れられる者に報いが与えられるわけなんです。ここでは代表者として記されているわけで、みんなこれを与えられるわけですから、私達は大いなる特権を預かっているなあ、この地上に歩みながら、これを感じさせられますねえ。これが四節ですね。

B.5節に「神の七つの御霊」が書かれてあります。

1.ヨハネはこの幻について語る前に、「御座からいなずまと声と雷鳴が起こった」
と書いています。
「いなずまと声と雷鳴」、この3つが「御座から起こった」ことは、神のご意志、御心であったことを表しているんです。ただの自然現象ではない。
ここで神様は、人間が分かるように「いなずまと声と雷鳴」と表現されたんです。
これは、神様が何をおっしゃろうとしているか、というと、自然界と人間の世界と、それからヨハネの幻の中に出てくるあらゆることを支配しておられる、ことを示しておられるんですね。
これを語った後で、「七つの神の御霊」について語っているんですね。

2.これも注意して読まなければいけないと思いますが、ヨハネの黙示録の1章20節をご覧いただきますと、20節の終わりの方に、「七つの燭台は七つの教会である」と言っていますね。

黙1:20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

ところが4章5節を見ますと、
4:5 七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。

1章20節では「教会」であったのに、4章5節では「御霊」になっているわけですね。
つまりヨハネは、4章5節は1章20節よりもっと根源の幻を見たということが分かるわけです。
教会のともしびは神の御霊ですね。
ですがここでは、御座の前で燃えておられる七つのともしびとは、教会を通して明らかに示される神の御霊であると。
御霊ご自身がここで、燃えるともしびとしてあらわされているのは、全世界への神の完全な啓示、神さまの御心を全世界に知らせようとしている。
燃える御霊というのは世界宣教の熱心を表していると言ってもよろしいと思います。
ですから、4章5節はこういう意味が含まれていますね。非常に熱心な神の御霊の働きを見るわけです。

これからずっと、5章以降を見ていきますと、七つの御霊というのは、小羊との関係でね、七つの角とか、七つの目を持つお方としてだんだんと描かれていくわけです。
私達はどれがどうなっていくのか関連づけてね、いくわけです。
「めざし」がありますね、竹の棒に「めざし」が刺してありますけどね。
あういうふうに、七つのともしびが教会である、といっていたのが御霊になり、小羊の関係で七つの角、七つの目になっていったり、ずっとこうなっていくということですね。
そういうのが分かってくると、ヨハネの黙示録というのが解けていくわけです。そしてここにみんな、七がついているわけです。七は神の完全数でしたから、神の完全さをあらわしているわけですね。
七がついているのは数字の7じゃないということですね。

C.6節では、まずヨハネは四つの生き物を見る前に、「御座の前は、水晶に似たガラスの海のよう」なものを見ています。

1.この「ガラスの海」は神の尊厳をあらわしています。この「海」の原形は何を表しているかというと、ソロモンが神殿をつくった時の、神殿の前に鋳物でつくった「海」であるといわれているんですね。これがその原形なんです。

Ⅰ列7:23 それから、鋳物の海を作った。縁から縁まで十キュビト。円形で、その高さは五キュビト。その周囲は測りなわで巻いて三十キュビトであった。

十キュビトというと約4,5m、高さは五キュビト約2,5m、周囲は三十キュビト約13,5mと言いますから、結構大きいものになりますね。ヨハネが見た海というのは、原形がここにあるわけですね。
こういうことが分かってくると、旧約聖書とのつながりも分かってくるわけです。またここに「水晶に似たガラスの海のようであった」と書いてありますね。
普通、海というのは水があるわけですけれども、彼が見た海というのは、波の動きがないように見えているんですね。ヨハネの見た幻の特徴は、碧玉とか赤めのうの透明性とか、ガラスの透明性にあるように、動きよりもその透明性が強調されているように思われます。

2.この「海」がですね、立っているヨハネと神の間にあったということは、これは彼が感じたことなんでしょうけれども、自分が立っているところと神の間はかなり距離があると、感じていたんです。
つまりそれが尊厳なんですね。
距離というと、何メートルあったかということではなくて、霊的な意味の距離なんですね。

4章をみますとね、6節の中の、「御座の中央」とか「御座の回り」とか「御座の前」とかいう表現は、地理的な位置ではないんです。あるいは空間をさしていないんですね。
これは絶対者である神様に対して、その他のものがどういう関係にあったかを、ヨハネが感じたままに記していると思われますね。
例えばここをみますとね、「御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた」、と書いてありますが、四つの生き物がどこにいたのかわかりませんね。中央にもいた、回りにもいた。
普通なら、中央にいたら、回りにはいられないと思うんですよね。

つまり彼が感じたままをここに記している。あらゆるところにいるように書いてあるわけですが、この四つの生き物というのは、御座に欠くべからざるお方の中心人物、御座に最も重要な関係を持ったお方を、言い表そうとしているわけですね。
そしてそのお方はどういうお方かというと、獅子のようであり、雄牛のようであり、人間のようであり、空飛ぶ鷲のようであった。
このことはエゼキエルも見ているわけですね。
四つの福音書に記されているキリストの姿、獅子は王としてのキリストを表し、雄牛は僕としてのキリストを表し、人の子としてのキリスト、空飛ぶ鷲は、ただの鷲ではなくて、何処へでも自由に飛んでいける鷲、昔の言葉でいえば遍在の鷲、どこにでもおいでになることができる神。

この方が御座の中央とそのまわりにね、いらっしゃった。6節にはこの四つの生き物の特徴が一つだけ記されています。それは「前もうしろも目で満ちていた」ということです。
これ人間だったら、気持ち悪いですね。この前もうしろもというのを、前後だけでなくてね、彼は感じたままを言っている。「前もうしろも目で満ち」というのはね、全ての事をご覧になり、全ての事を知っておられる神、という意味なんですね。

エゼキエル書をもう一度見てみましょうかね。ここでね、まったく同じことが記されているんです。「輪」というのがありますがこれは神の臨在をあらわすんです。

エゼ1:18 その輪のわくは高くて、恐ろしく、その四つの輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。

この「目」というのは神の知性、全知を表しているんです。
イザヤもエゼキエルもヨハネも同じ御座を見、御座に座しておられるお方の幻を見ていた、ということですね。旧約も新約も相通じるものをもってる。
この知性は、初めに見た神様の根源は何かというと、全地を創造された神である。4章11節にそれが書いてあるわけですが、この知性は創造において発揮された。

黙4:11 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

そしてキリストの贖いの時も発揮されたし、また、私達一人ひとりを導くことにも発揮されるし、さらには、これからヨハネがみようとしている終末における神の裁きにおいても、この知性は発揮されようとしている、ということなんですね。

私達は今、このお方の幻を見ていませんが、少なくとも、イザヤ書とか、エゼキエル書とか、ヨハネの黙示録に記した幻を通して、さらによくみることのできる恵みを賜っています。
そして日、一日とこの幻のお方と会うために備えているのです。この次は、主許したもうなら、この四つの生き物がどういうお方であったかを、ご一緒に学んでいきたいと思っているわけですね。ですから私達はですね、この美しい神の御座に招かれている。そしてこのお方とお会いするんですね。

ヨハネは、このお方に対してこのように表現しました。碧玉や赤めのうのように見えた。私達がこのお方にお会いしたらどのように表現するでしょうかね。おそらく口が開いたままで、もうふさがらないと思いますね。
人間の表現の能力を超えたお方だということですね。ですから、ヨハネは感じたままをこのように記したんですね。私達もきっと彼と同じようになるんじゃないかと思います。しかし、どうか私達は今、み言葉を通して神を知ることができることを感謝したいと思います。

〔お祈り〕

恵みの深い天の父なる神様。ヨハネは見た幻をそのままに記しました。でも私達はその背後にあって、神様が語りかけてくださるみ言葉を知ることが許され、感謝をいたします。旧約聖書においてイザヤもエゼキエルも、また、ヨハネも同じ神を見て、実に畏れおののいています。
主よ、私達もやがてあなたとお会いする日が来ます。その時はイエス様がともにおいでくださるがゆえに、喜びと感謝と賛美を持って主にお会いできることを感謝をいたします。そしてイエス様とお会いするとき、聖書を通してあなたを知って居りましたと、言えることができる様に私達の信仰を導いてください。
この時を感謝して、尊いイエスキリストの御名によってお祈りをいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明