音声と文書:ヨハネの黙示録(14)  四つの生き物 4:7~11

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PDF文書:ヨハネの黙示録(14)

ヨハネの黙示録 4:7~11
4:7 第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。
4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」
4:9 また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、
4:10 二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
4:11 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
【新改訳改訂第3版】

上の絵画は、ドイツで11世紀頃に作成されたBamberger Apokalypse(バンベルク黙示録)の中の挿絵 「Anbetung vor dem Thron Gottes(神の御座の前での礼拝)」(Bamberg Staatsbibliothek(バンベルク州立図書館)蔵、Wikimedia Commonsより)

はじめに

これは天の御座において行われていることですから、とやかく注釈することがなかなかできないわけですね。「行ってみればわかる」、といったらこれでおしまいになるわけですが、多少知っておいてもいいのではないかと思われることを、これからお話してみたいと思っているわけです。行ってみたらちょっと違っていた、なんてあり得るかもしれませんが、これはご容赦頂きたいと思います。

この前は、四つの生き物について少しお話ししておきましたが、二つの点をお話しました。一つは、この四つの生き物が御座と非常に重要な関係にあるお方である、ということをお話しました。もう一つは、「前もうしろも目で満ちている」ということは、このお方のすぐれた知性、あるいは全知を表しているんだ、ということをお話させていただきましたね。それが6節に書いてあったわけですが、「目」だけを見ましてもね、6節では前とうしろだったのが、8節ではさらに、この四つの生き物の周りも内側も「目」で満ちていたと、さらに付け加えられています。

この前もお話させていただきましたが、前とかうしろとか周りとか内側とか、そういう物質的な周囲の事を言っているんじゃなくて、ヨハネが見た印象深さをですね、語っているということでありますので、内側にも「目」があってというと、ドーナツみたいに穴が開いていたのかなあと、そういうふうに感じないでいただきたいわけなんですね。
あらゆるところに「目」がついているというのは、神の全知を表している。

Ⅰ.7節には、四つの生き物の特徴がしるされているわけです。

「第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。」
B・Fバックストン先生、この人はイギリスの貴族の方で、島根県で伝道し、大きな働きをした方ですが、この方によりますと、「四つの生き物は、元来、ケルビム(旧約聖書で、聖所と至聖所の間にあった垂れ幕の中にケルビムの織りものが施してあったり、また、契約の箱の一番上にもこのケルビムの天使の彫刻があった。)の四つの姿である。ケルビムは目に見える形でここに神の力をあらわした。」といわれています。
ま、あとでもそのことについて触れますけれども、それはそれとしまして、ここで示されている四つの姿というのは、明らかにイエス様の四つの面を示している、ということができるんです。
簡単にですけれども、それを学んでみたいと思います。

A.「第一の生き物は、獅子のようであり」とありますが、これはマタイの福音書に記されているところのイエス様、と結論から先に言えばそういうことになるわけですね。

1.ここでは、イエス様はユダの獅子として、ユダの族(やから)から生まれた方として、また王として示されています。獅子、ライオンというのは、王として力を示しているわけです。
そのことがマタイの福音書に示されているんですが、いくつか聖書を見てみましょうか。

マタ2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

東の博士がイエス様が降誕された時に、王として訪ねてきておられる。最初からこれは王である。
マタイの福音書の5章から、ご存じのように「山上の説教」が始まっているわけですが、これは王国の憲法であると言われていますね。イエス様はここで、王の権威を持って語られた。これはすべての人が一致して語っているところですね。これは王国の憲法、神の国の憲法ですね。
神の国の憲法は、心の貧しい者であり、悲しむ者であり、柔和な者であり、義にうえ渇いている者である、とずっと続きますが、王国の憲法をイエス様は王のごとく語っている。
少しとんで、マタイの福音書の27章11節をご覧いただきましょうか。

マタ27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです」と言われた。

イエス様は御自分が王であることを認めた。もちろん総督が言ったのは民族的なものですね。人の国の王である。イエス様がお答えになったのは、神の国の王、神の国のことをいっているんです。その差はありますけれども、イエス様は「王である」とお答えになられたということですね。
さて、同じく27章37節に目を留めていただきましょうか。

マタ 27:37 また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。

このようにイエス様は、ユダヤ人の王として、福音書に記されているんです。
最後のところ、28章の終わりの方ををみますと、まさにこれは王ですね。

マタ 28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

ですから、「獅子である」というのは、マタイの福音書に記されているキリスト。

そして黙示録の5章5節にもどりますと、

黙5:5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
ここでイエス様を、ユダの族(やから)からでた獅子ダビデの根。根というのは子孫という意味ですね、ダビデのひこばえ。ユダ族から出たダビデの子孫。イエス様のことですね。
ですから、「この第一の生きものは獅子のよう」でありというのは、力ある王なるイエスを表している。これは間違いないわけです。これは聖書全体を通しての真理である。

B.それから「第二の生き物は雄牛のようであり」とありますが、

① これはマルコの福音書に記されている主、イエス様の姿です。雄牛というのはもくもくと忍耐をもって、罪びとのために働いておられる姿を記しているのはマルコの福音書である。忍耐強い姿。

② それから旧約聖書においては、牛はしばしば生け贄として用いられているわけですね。生け贄にされています。これは、イエス様は降誕の時から十字架まで、全く自己犠牲の生涯を送られているわけですね。

③ さらに牛は、しもべの姿でもあるわけなんです。しもべを表していますね。イザヤ書の42章1節をご一緒の読んでみましょうかね。これもイエス様の預言であります。

イザ42:1 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。

イザヤ書にはしもべ章句と言って、キリストがしもべとして表わされている場所があるんですが、これが一つここにある。イエス様はしもべとして描かれているわけですね。
牛というのは、ある時は生け贄を表し、ある時はしもべ、忍耐強い奉仕者を表すわけですね。つまりイエス様は、神のしもべであり人のしもべである。
いつか学びましたように、イエス様はヨハネの福音書で弟子たちの足を洗っていますね。足を洗うのはしもべの仕事であったわけですね。神と人の救いのために、生涯力を尽くされたお方ですね。ですから、牛の幻の中に、私達は、ご自分の命を惜しまず、十字架の上で生け贄になられた、また、労苦されたしもべとしてのイエス様を見ることができる。これが牛の姿ですね。
命も惜しまず、十字架の上で生け贄となり、労苦も惜しまなかったしもべの姿。
マルコの福音書はその特徴を書き記している書です。マルコの福音書には「すぐ」という言葉が非常に多いんです。しもべですから、すぐに働かなくちゃいけない。

C.「第三の生き物は人間のような顔を持ち、」

これは人の子を表していますから、ルカの福音書に記されている人の子としてのイエス様を表しています。

① 人の顔というのは、優れた知性を表しているわけです。先ほどお話しましたように「目」がでてきましたが、「目」も人間の顔なんですね。顔の中にあるわけなんです。ルカの福音書2章40節ではね、イエス様の幼子のときですがね、知性が表れていますね。

ルカ2:40 幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。

「知恵に満ちている」と書いてますから、キリストの知性に優れてる点が表わされている。

同じく2章52節で、

ルカ 2:52 イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。

40節の方では、まだキリストは幼子でありましたが、52節ではかなり大きくなっているわけですね。このように優れた知性を表している。

② それから3章23節あたりから、ルカの福音書にみられるイエス様の系図が出てくるわけなんですね。系図でよく知られているのはマタイの福音書の系図ですね。マタイの福音書の系図は王としての系図なんです。けれどもルカの福音書3章の系図は、人としての系図なんです。23節を見ますと、

ルカ3:23 教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子、順次さかのぼって、

ヨセフの子、つまり人の子どもとしての系図がここに書かれている、ということがおわかりいただけますね。ですから私達は、人の顔をお持ちの第三の幻は、知恵に満ちた人の子イエスの姿を見ることができるわけです。
神となられたイエス様が人となられましたから、クリスチャンはイエス様とよく交わることができる。これは大事なことですね。
こういうように重要な事が、幻の中に記されているんですね。この幻はエゼキエル書にも出てまいりました。

D.最後に「第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。」とあります。

ヨハネの福音書ではイエス様を鷲のように言い表しているんですが、ここでは特に「空飛ぶ鷲」と言っているんです。「空飛ぶ鷲」とは何を表しているのだろうか。

① 「空飛ぶ鷲」とは、いずこにも行くことができるわけですね。ですからこれは遍在の神、どこにでも行くことができる神、ということができる。難しい言葉に遍在というのがあります。あまねくいます神、ということですね。

② ヨハネの福音書には、マタイの福音書やルカの福音書にあるような系図はないわけなんですね。王としての系図もなければ、人としての系図もない。
あえて、ヨハネの福音書の系図というのは、なんであるかというと、皆さんご存知のように、ヨハネの福音書1章1節2節のあたりに、ヨハネの福音書に見られる系図だと言えば、言えなくはないのですが、ちょっとご一緒に読んでみましょうか。

ヨハ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

これがヨハネの福音書の系図だと言えなくはない。
イエス様の本当の系図というのは、王の系図でもなく、人の系図でもない。
親なく、先祖なく、永遠の初めよりおいでになられる神の系図である、ということができますね。
ですから、ここの「空飛ぶ鷲」の幻は天にいますお方、神、遍在者、どこにでもおいでになる主イエスの幻である、こう言うことができると思うんですね。
ですから、この四つの生き物はイエス様を表している。

四つの福音書が聖書の中に記されているというのは、ただ4人が書いたから4つあるというのではなくて、そこには神さまの意図的なものがある、ということが、これでお分かりいただけたと思うんですね。重要な意味を持っているんだということです。私も最初聖書を読んだとき、なんでイエス様の物語が4つも同じようなことを書いて、わざわざ増やしたのかと思ったこともありましたが、これも無知のゆえでありまして、それだけの意味と意図があって、神はこの4つの福音書を掲げなさった。意味深いことです。

E.さらにこの四つの生き物の姿は、ユダヤ人の思想の中に、最も高い秩序である、という考え方があります。

① 例えば、「獅子」、ライオンですね。野生の獣の中で最高の地位にあるという思想があるわけですね。ライオンが一番最高の地位にあるかどうかはわかりませんが、ユダヤ人の思想の中にはある、ということですね。

② 「雄牛」というのは、あらゆる家畜の中で最も最高の地位にある動物である、考えがあったわけですね。

③ 「人」は、全ての創られたものの中で最高の地位を持っている。

④ 「鷲」は、全ての鳥の中で一番高い地位にある。

こういう考え方をされていたわけなんです。
前回もお話ししたことですけれども、こういうふうに記されている神が、創造者としての神である。ですから神さまは、この四つの意味において、その力と権威をあらわしている。
獅子は力、牛はしもべ、いけにえとして、人は知性、鷲は遍在。
こういうふうにヨハネは驚くべき真理の幻をみたわけです。おそらくヨハネはこの時に、エゼキエルの幻を思い出したに違いないと思います。イエス様の四つの素晴らしさを彼は感じ取って、これをあらわしたのではないかなあ、と思うんですね。

Ⅱ.8節を見ますと、再びこの四つの生き物について、説明が加えられているんです。

A.「目」のことについてはさきにお話しましたが、この四つの生き物には「それぞれ六つの翼」があると書いてありますね。

B・Fバックストン先生はね、この四つの生き物はケルビムの姿だと言われましたが、イザヤ書の6章2節では六つの翼をもつセラフィムという天使が現れているんです。

イザ6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、

と言っていますね。「顔をおおい」というのは礼拝しているんですね。かくれんぼしてるんじゃないですよ。赤ちゃんに、「わぁ」なんてやっているんじゃないですよ。これは礼拝しているんです。「足をおおって」いるのは神の前でへりくだりをしているんです。最後の「二つで飛んでいる」というのは、奉仕をしているんですね。
エゼキエルの方をちょっと見てみましょうかね。エゼキエルのところに出てくる天使、これは名前は書いていないんですが、これはケルビムだろう思われますね。エゼキエルの1章6節をご覧いただきますと、ここには実は翼が四つしかついていないんですね。

エゼ1:6 彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。

ここを読むと、何か二枚足らないような気がするんですね。
1章11節を見ると、その解釈が書いてあるんですね。

エゼ1:11 これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに連なり、他の二つはおのおののからだをおおっていた。

つまりこの翼は上の方に広げられているのだから、飛んでいるでしょうね。奉仕をしている。他の二つはおのおのからだをおおっていた。
おそらくエゼキエルは、もう二枚の翼をはっきりと区別してみることができなかったのではないかと、思われるんですね。
少なくても、イザヤが見た幻とエゼキエルが見た幻とヨハネが見た幻は、同じである。イザヤはセラフィムであると言っていますね。バックストン先生はケルビムだ、と言っているんですが、これはみなさんが天に行ってお調べいただければよいことですが、同一の生き物であったことは考えられるわけですね。
こういうふうに奉仕をしておる。

B.さらにもっと大きな特徴は何かというと、「昼も夜も絶え間なく叫び続けた」ということなんですね。

讃美をしていたということなんですね。神を賛美していた。

この姿は私達に大きな示唆を与えると思うんですね。やがて私達が天の御国に入れられた時に、ある程度の様子を知らせてくれるみ言葉だと思いますね。

天の御国に行ったら、最大の奉仕はなにか。
これを教えてくれているんですね。神を讃美することですね。
讃美というのは神様だけが受けるに価するお方なんです。
ここに24人の長老が賛美していると言っていますね。
「あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。」
私達人間にできる最大の奉仕は何か、というとそれは讃美である。讃美は最も優れた人格的な営みなわけなんですね。これによって、私達は最も優れた充実感と喜びを持つことができる。
この賛美というのはただの歌ではないんですね。人間が神によって似せられて創られたものである証拠なんです。人間が神を賛美できるというのは、人間が神に似せられて創られた証拠である。

私達はこの地上にあるうちに、やはり魂の歌というか、霊の歌を神さまに捧げることを覚えたいと思うんですね。神に捧げる歌ですね。
天の御国では、昼も夜も絶え間なく讃美が続けられるわけですが、この地上では絶え間なくということは出来ませんけど、少なくても心の中では、賛美の心を失いたくないなあと思いますね。

Ⅲ.ここで捧げられている讃美は実は二つあるんです。

A.一つは8節後半です。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」これ、第一番目の賛美であります。

1.初めの「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」
これはイザヤ書6章3節でも出てくるんです。

イザ6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満つ。」

① これは三聖唱とよばれているんです。これは三位一体の神、父なる神、御子イエス・キリスト、御霊を讃美しているんだといわれています。

② この讃美の中心的な思想は何か、というと「聖い」ということですね。ここでは「神の聖」が賛美されているということですが、「神の聖さ」というのは神の属性ですね。神様がお持ちである性質のしめくくり、総体ということができます。

神様が聖くなければ、もはや神でなくなってくるんです。けがれていれば神じゃないですね。
神様が聖くなければすべて偽りになります。
神様が聖くなければ、その他の属性、たとえば愛とか義とか真実というのも崩れてしまうわけです。
ですから、「神の聖」を称えるということは、神のすべての属性をたたえていることを意味しているわけです。

2.もう一つは「神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」
これは永遠の神を賛美しているんですね。さっきの「聖」というのは属性であります。
こちらの方は永遠性。つまり神様が御自分で、永遠性とか聖さを聖書の中に啓示しなければ、教えられるまでは、人間はこれを知る事ができなかったわけなんです。
しかもこの永遠性というのは、神の本質ですからね、ですからこれは神に関する根本、おおもとを讃美していると言って、よろしいと思うんですね。イエス様は御自分を永遠者であると、こういわれているんです。
ちょっとヨハネの福音書8章をご覧いただきましょうかね。イエス様は御自分を永遠の神だと仰っているんですね。

ヨハネ8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
8:57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

ここで、アブラハムはイエス様を見て喜んだと言っていますが、実はこれは、二人の御使いと神様を見たという記事があるんですね。ソドムとゴモラが滅びるよ、とかね、イサクが生まれるよ、とかね、創世記の中に書いてある。「3人のうち一人はわたしだった」とイエス様は言っておられる。
ああ、これは素晴らしいことだと思いますね。潜在性、永遠性を語っておられる。素晴らしい真理だと思いますね。

さらにもう一つ聖書を見てみましょう。ヘブル人への手紙13章8節、これもキリストの永遠性を宣言している言葉です。

ヘブル13:8 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

これは短い言葉ですが、きのうも;過去、きょうも;現在、いつまでも;将来までも永遠に変わらない、永遠者を宣言しているんですね。ですから、一番目の賛美は神の聖さと永遠性を讃美している。これは素晴らしいことだと思いますね。神の本質に対して讃美している。

B.第二の賛美の言葉は、賛美の言葉そのものはしるされていないのですが、9節の
「これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、」
で、「栄光、誉れ、感謝をささげるとき、」と書いてあるんですね。

1.これは神様の「栄光と誉れと賛美」をお返ししたということなんですね。
讃美の中でこれも大事なことだと思いますね。しばしば私達は成功した時、栄光を自分に帰す。誉れも自分で握ろうとしますし、神に感謝するのも忘れやすいわけですね。
栄光と誉れと感謝の3つは、人間が神様から奪いやすいということですね。この3つを神様に帰さないということは、少なくとも自分は、神を神として認めないということの意思表示になってしまうわけですね。これは非常に個人的な事であるということができると思います。
ですから、神を賛美するということは、神を絶対者として認めることであり、絶対者として知っていることであり、さらにこのお方を礼拝しているということなんですね。

私達が神様に近づこうとするときに、必ず3つの物を携えなければならないわけですが、

・一つはなんと言ってもキリストの血潮ですね。キリストの血に対する全き信頼です。
・第二番目は、栄光と誉れと感謝を捧げる献身ですね。
・第三番目は讃美であると思いますね。

血潮に対する信頼と、献身とそして讃美、これなしには神と交わり、神の恵みを受けることは不可能です。神様に近づく唯一の道だということができる。

2.神様はどうしても賛美を求められるお方だということです。
神様は讃美を待っているだけでなく、神様は賛美をどうしても必要とされる、求めるんですね、強く求めるお方である。
イエス様はあるとき、こんなことを仰ったんですね。ルカの福音書19章40節で、

ルカ19:40 イエスは答えて言われた。「私は、あなた方に言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

これはイエス様がエルサレムに入られた時の事なんです。
その時に、弟子たちが神様を賛美し始めたんですね。そうしたら、パリサイ人のある者たちが、彼らを静かにさせるように叱ってくださいと、イエス様にお願いしたわけなんです。その時イエス様は「もし、この人たちが黙れば、石が叫びます」という風におこたえになったんですね。
「石」というのは何を指しているのか。
文字通りの石を指すのか、あるいは、全然神様を知らない異邦人を指すのかは、別にしましても、少なくても神様は、賛美を強く求められているということを表していることは、間違いないわけですね。だから、神を賛美しなくてはならないということですね。クリスチャンは神を賛美するということがいかに大事であるか。
天の御国では最大の奉仕は、なんといっても神を賛美することである、ということですね。これらの特徴を、天の御国の様子を私達に知らせてくれたわけです。

Ⅳ.さて最後に、10節、11節に移りたいと思うのですが、これは9節から続いているわけですね。

A.「感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して」と書いてありますが、

1.これは四つの生き物の賛美が、二十四人の長老をひれ伏せさせ、礼拝させたということですね。
この二十四人の長老というのはこの前お話しましたね。十二人ずつで、旧約の信仰者の代表と、新約の使徒の十二人ですから、新約のクリスチャンの代表とで二十四人、旧約と新約のクリスチャンと、こういうことであります。けれどもここで大事なことは、霊的に優れた賛美というのは、人の心に礼拝心を起こすと、いうことなんですね。ですからクリスチャンはいつも霊的に満ちた賛美を歌うことが必要だと、賛美はそれを聞く者に礼拝心を引き起こすものだということですね。

2.ここで長老たちはひれ伏して、拝んで、自分の冠を御座の前で投げ出しています。これはへりくだりと、礼拝と、献身がみられますね。
この「冠」はおそらく神様から頂いたものであると思います。それをもう一度神の前に置いているんですね。
つまり、栄光を神に帰したということですね。ここに礼拝の姿をみるわけですね。

B.そして彼らは11節で、万物の創造者である神を賛美しているわけですね。

ここで注目したいことは、さきの賛美は四つの生き物、すなわち御使いの賛美でした。後の賛美は二十四の長老、すなわち、かつては罪びとであり、キリストの血によって贖われた者の代表の賛美なんですね。
ですから、これは、いっそう神が喜ばれたと、みることができると思いますね。これは一般の人の賛美じゃないんですね。
これからクリスマスになりますと、あちこちでメサイヤが歌われたりしますが、クリスチャンでない人も歌う場合があります。しかしね、ここはね、明らかにキリストの福音によってあがなわれた者たちだけの賛美なんです。
これが神に捧げられてですね。歌は誰でも歌うことができますけれども、神に捧げることのできる賛美は、神が受け入れられるのは、キリストにあがなわれたクリスチャンの賛美だけだ、ということです。これは大事なことです。

そしてこの二千年間、教会はクリスチャンの賛美で満ちてきたわけですね。

① ある時は、一人のクリスチャンが賛美を歌い始めた時に、教会にリバイバルが起きたことがあるんです。多くのクリスチャンが真の信仰を取り戻して、その結果多くの救われる者が起こされたこともあった。賛美の非常に大きな力を見ることができますね。
② そして二千年の間、教会は次々と賛美を生み出してきた。これは力である。
③ですから、一人の人が賛美を歌いだす時、全ての人は神の前にひれ伏して礼拝を捧げるべきだというのが、この10節、11節の言葉であろうと思います。

本当に神に賛美できるのは、やはり、キリストによって罪が贖われた者だけだということですね。そういう者の特権なんだということを、私達は心に覚えたいと思いますね。
今日は天の御国の御座における姿をみたわけですので、これは是非行って、ご自分の目で見ていただきたいですね。それ以上の事は私達は知る事はできませんけど、大まかに言えば、ここに記されているんですね。どうかイエス様の素晴らしさ、私達に与えられている讃美をする特権を忘れないようにさせて頂きたいと思います。

〔お祈り〕

恵みの深い天の神様、
「聖なるかな、聖なるかな、神であられる主、万軍の支配者、万物の支配者、昔いまし常にいまし、後に来られる方。」
本当にこの素晴らしい賛美を捧げていました。私達も罪びととしてこの世に生まれましたが、イエス様の贖いによって救われて、神を賛美する者に変えていただきましてありがとうございます。天に帰りましてからは、ますます昼も夜もなく、主よあなたに賛美をもって仕えることができる、大いなる喜びと満足に満ち溢れる永遠を過ごさせていただけることを感謝いたします。
しかし、この地上にあっても、主よあなたを褒めたたえる時、あなたの力を頂けることを感謝します。さらに御国の真理を、私達が地上にあっても体験し、心に神の国を宿させてください。
この時を感謝をして、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明