音声と文書:ヨハネの黙示録(12) ラオデキヤにある教会へ 3:14~22
下記に、音声を聞きとって文書化しましたので、お読みください。
PDF文書:ヨハネの黙示録(12)
上の写真は、古代ラオデキヤの遺跡のシリア通り。「Archaeological site of Laodicea on the Lycus between Pamukkale and Denizli, Turkey. The photo shows the Syria Street.」(作者はA.Savin, Wikimedia Commonsより)
ヨハネの黙示録 3:14~22
3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
3:15 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
3:22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」【新改訳改訂第3版】
はじめに
いよいよ七つの手紙の最後に到達しました。
1.このラオデキヤ教会への手紙は、しばしば、現代の教会は非常によくラオデキヤの教会に似ている、と言われて批判されてきたわけです。
その特徴は何か、というと、熱くもなく、冷たくもない、生ぬるい、という状態であるわけですね。こういう状態の教会を非難しているわけです。
確かに現代の教会とラオデキヤの教会は、共通している点があるわけですが、そのことはゆくゆくお話していく中で、少しずつお分かりいただけると思います。
そういうように言われる方も多いわけですけれども、中には酷い人もあって、「現代はラオデキヤである。教会は生ぬるいから、私は異端に行く。異端は熱い」どうしてそういうふうになっちゃうんだろうなあ、少し行き過ぎているんじゃないかなあと、思うんですけどね。激しいの好きだから、異端に行くって、そういう人も中にはいるようなんですねえ。
まあ、教会が生ぬるいから、もう歯がゆくなって、そうなっちゃうのかもしれません、と、思うこともあるんですがね。わざわざそこまで行かなくもいいんじゃないかなと、思うんですね。こういうことを、言われることもあるわけなんです。
2.今日はその問題に入ります前に、ラオデキヤの町について知っておく必要があると思うんですね。その背景ですね。
ラオデキヤの町っていうのは、エペソの町から約50マイルといいますから、1マイルは1.6㎞ですから、80㎞ですね。20里ぐらいですかね。年齢によって、マイルで分かる人、kmで分かる人、何里で分かる人がありますが、私はどちらかというと、何里の方が分かりやすいですがね。何十キロなんていうと、4で割って何里、で考えるんですね。
この間、家内と話をしていて、もう「一斤(きん)」なんてないんですってね、何グラム、でいうんだとか。年齢によって違うんでしょうが、尺貫法はなかなか難しい。
ラオデキヤはエペソから80キロメートル北にあり、リュコス川という川の渓谷にあったわけです。ここには、3本の大きな貿易道路が通っているわけです。日本でもそうですが、幹線道路があったり港があったりすると、栄えるわけなんです。
3.この3つの貿易道路が、ラオデキヤの町を、当時の小アジヤ、昔はアジヤっていうとトルコ半島を中心にして言われていたんですが、そのトルコ半島を工業地帯、あるいは商業の中心都市にしたんです。
アジヤで最も栄えた町、これがラオデキヤであった。ですからここは、非常に華やかで、富が集結していた町だということができます。
この前学びましたが、サルデスの町というのは、非常に貧しかった。フィラデルフィヤは非常に弱さがあった町です。ラオデキヤには貧しさも弱さもない、堂々と栄えた町だったんです。
この町にはすでに大きな銀行があった。イエス様の時代にはすでに銀行がありましたから、そのあと100年近くたっていますから、大きな銀行があった。銀行なんていうと、現代のものかなあ、なんて思いますけれども、2000年前から既に銀行があるんですね。図書館もあるんです。
しかしラオデキヤの町には、もっと珍しい物があった。医者を育てる医学校もあった。今でいえば、自治医大みたいなものでしょうかね。このように、ラオデキヤの町は素晴らしい町であった。紀元前3世紀ぐらいにこの町ができあがっているようなんですね。ですからかなり優秀な町であった。
特にここには被服の工場、衣料ですね。当時はラオデキヤに衣料の工場があった。最近の日本の衣料は台湾とか、中国とかから入ってきますけれどもね。
衣服で思い出しますがね、私の親類の者が岡山県の児島にね、児島は有名ですね、瀬戸大橋のたもとにね、学生服の本拠地であったんです。昔は日本国中、小学生も黒い学生服を着ていた。その児島の服をですね、これ着ろ、これ着ろって言われて、今でも覚えているんですけどね。
4.ラオデキヤは銀行あり、医学校あり、衣料品の本拠地である、そういう町であったんですね。商業、工業が盛んな町でありましたから、当然ユダヤ人が目をつけるわけでね。
ここは非常にユダヤ人が多かったと言われています。ユダヤ人は商業に対して、非常に熱心でありましたからね。ラオデキヤにはユダヤ人が多くいた。これが一つの特徴ですね。
もう一つは、ローマ皇帝の礼拝の中心地であった。それから、ゼウスの神を礼拝する神殿もあった。
5.これが表面的な、外見的なことなんですが、ラオデキヤの人の内面的な精神的な特徴は何であったか。
彼らはお金のためなら、貿易のためなら、経済のためなら、どんな宗教も、どんな文化も、全部受け入れてしまう民族であったんです。ラムゼイという学者がいるんですが、彼に言わせるとこれは「妥協の町だ」っていうんですね。金儲けのためなら、なんだって受け入れてしまう、っていうんです。
最近、世界の文化交流というものが、盛んに行なわれているんですが、これは一面ではお互いの理解を深める、というのが目的の様ですが、でも私はね、政治家が本気で文化交流するだろうか、と思うんですよ。本音はその経済発展が目的だろうと思うんですよ。その手続きとして、まず文化交流をやる。日本で乱立している混合宗教というのをみますとね、まあ、このあたりにあるわけでしょうね。
明治の鹿鳴館時代をみても、なんでもすぐに取り入れてしまう。これは文化だ、文化だっていってね、川柳かなにかにもありましたけど、「文化文化と文明開化の音がするとか」、もう忘れましたけどね。
現代を見てもそうですね。結婚式はキリスト教、お葬式は仏教、というのが定着しているような気がしますねえ。こういうのに日本人は、全然矛盾しないんですね。極端までに、混合している、混乱している。
私達は、ラオデキヤを見ますと、日本とよく似ているところがあるなあと、思うんです。キリスト教を宗教として受け入れたのではなくて、外国との国交のためにね、受け入れていく手段。
日本が、難民を何人受け入れるかというのも、本当に国民が優しい気持ちで受け入れるのではなくて、他の国は何人受け入れているか、日本は何人受け入れないと批判が来るとか、それで何人受け入れるかを考えるわけです。私は恐ろしいと思うんですね。
フランスの医者の話を聞きますと、日本は何でもっと外国に医者を送らないんだろうかと、いうんです。フランスの医者の人達はグループがありましてね、お金を積み立てて、一年間休業してね、自ら奉仕に行くっていうんですね。そういう所に行かないとね、医者の会合には集えない、っていうんです。自分達医者が金儲けするだけでなく、収益の一部を積み立てているわけなんです。そして交代して奉仕に行くっていうんですね。それは自発的にですよ。民間でね。偉いものだなあと思います。私は、日本の医者はそこまでいかないだろううなあ、自分の店をたたんでまで、店ではないでしょうが、行く人はいないだろうな、と思うんです。
日本は宗教ではなくて、何か、文化、文芸、教育みたいなものとしてのキリスト教を、受け入れたに違いないんだろうなと思うんですね。そして、それを日本文化の中に吸収しようとしているところが、見られるわけなんですね。日本の国はそういう意味で、おかしな国だなあと思うんですね。
例えば私が生まれた家をみましても、一軒の家の中に神棚もあれば、仏壇もある。うっかりするとお稲荷さんもあり、いろいろとあるわけですよ。全然矛盾しているって感じないんです。だから今の人が、結婚式はキリスト教で、葬式は仏教でも矛盾していないんですね。これ本当に、仏教に仏さまですか、いたら怒りますよ。いないから怒られないけれどもね。
これを見ると、なんでも妥協するラオデキヤの人と日本人は似ている。つまりこれは社会的な手続きなんでしょう。手続きとして宗教を受け止める。お付き合い。妥協の得意な民族。こういう所がラオデキヤと日本が似ているなあと、感じるわけですね。精神的な面からみますと、ラオデキヤの人々はそうであった。ですからラオデキヤの教会の人々も、それと同じような、妥協的精神を十分に受け継いでいたと思われます。
Ⅰ.さて、ここで、ラオデキヤの教会の問題は何であったか。
1.それは、ユダヤ人と呼ばれている偽りの指導者についても何も書かれていないし、ニコライ派の異端の問題も何も触れられていないということ。
2.残念なことに、もう一つあります。それは他の教会には、賞賛されるところがあるんですがね、ラオデキヤには一つも褒められているところがないんです。
ちょっと情けないなあと思いますね。何か、人間にはどこか取り柄がある。何か褒められてもいいところがある。でも、このラオデキヤの教会は全然ほめられていない。
これが気になるところです。
私もね、子供たちを叱る時にね、何かいいところはあるだろう、と考えるわけです。でも考えても一つもなかったらね、叱る気力もなくなりますね。
しかし、こういうラオデキヤでも、イエス様は見捨てなかったということです。回復を促している。19節なんか見ると、イエス様の切なる気持ちが伝わってきますね。
「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。」
わざわざこういうものを付け加えられたのは、ラオデキヤしかないんですよ。なんか取り柄があれば、最初に励まして褒めておけばね、あとで叱ってもいいわけですが、褒めるところがないわけなんですから。
これで叱ってしまうとぎゃふんときてしまうけれども、愛するから言うんだ、って言ってね、どこかのお父さんお母さんが言うような言葉を、ここで言っているわけですね。こんなことを言われたらおしまいなんですけれども。
ラオデキヤの教会にも希望を持たれたイエス様ですからね、どんな人でも希望を見出すことは出来るんじゃないかな。褒めることが一つもなくてもね、希望はあるっていうことでしょう。
3.この教会の問題点は16節にありますように、「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」
お風呂が熱くもなく、冷たくもない、生ぬるいっていうのはどうですかね。気持ち悪いですね。お茶でもどうですかね。温かいのか、冷たいなら、飲む気もするけど、生ぬるいっていうのにはどうですかね。イエス様は「吐き出す」って仰っていますからね。もう我慢ならないっていうわけですね。
彼らが、悪い罪を犯していたからとか、不真実だったから叱られているんじゃないんです。彼らは、なんで叱られているかわからない、という状況だったと思うんですよ。彼らは、熱心に誠実にキリストに従っていなかった、ということでしょう。
つまり、自分の都合にあわせた信仰生活を送っていたということでしょう。彼らは、神様の恵みも欲しいけれども、この世の富や名声も失いたくない、と。実に付き合いのいいクリスチャンであったわけですね。この世と神と、二股かけて生きようと。
イエス様は二心があってはいけないと、あなた方は神と金に仕えることは出来ないと、仰っていたんですがね。彼らは何とかして二股かけていこうとする。これはちょっと無理なんです。プラットホームには立っていたいわ、電車にも乗りたいわで、片足入れて置いたら、どうなるかっていうの。
私の友人で佐々木君というのがいたんですがね、この子は、昔の電車でしたから自動ドアではなくて、手で戸を開け閉めするんですね。閉めてもピタっとは閉まらないんです。
戸を開けておくと、バアっと風が入ってくる。
高校生でしたから、暑いので、身体を半分出していたら、鉄塔に体をぶつけて死んでしまったんです。よく勉強の出来た子だったんですね。私の次ぐらいにね、と言っちゃ怒られるかもしれませんがね。
佐々木君は真面目でいい子だったんです。友だちだったので、私もずいぶんショックを受けたことがある。身体を半分ですね、デッキの所につかまって、暑いからと言って風に当たっていたら、鉄塔にぶつかってしまった。
残念なことをしたなあと思うんですが、これは危ないですよ。半々ていうのは危ない。
さて信仰は、都合によって生きる、二股かけて生きるのは、危ない。イエス様も許されるはずがない。これは出来ないんですね。
彼らの問題の根本的な事は何か、というと、自己中心でこの世と妥協していたというんです。これ一番危険ですね。だから、自己満足の信仰、って言ったらいいかもしれません。あるいは世俗化、と言ったらいいかもしれません。クリスチャンなのか、クリスチャンじゃないのか、もうわからない。こういう区別がつかない程であった。
ところが、ラオデキヤの人はこれで満足していたわけなんですね。しかも、立派な働きをしていたと思うんです。なぜなら彼らは富んでいるから、大きな会堂を建ててね、教会に集まる人も大勢いたわけです。一面からすると、成功した大教会に見えるわけです。
B.それに対して、イエス様はこう教えられたんです。17節で、「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
こんなことを言われたわけですね。
1.表面的には確かに富んでいました。豊かであったんですね。けれども彼らはこの世の富で満足して、自分の心に対しては無知であったわけなんです。
日本もですが、戦後の40数年間、本当に富みのために戦ってきたんでしょうね。自分達の心を養うためには全然、無知であった、無関心であった。それが現代を築いているんです。恐ろしいですねえ。
私のところにも、若い人達からいろんな悩みが舞い込んできますけれども、みんないい青年ですよ。大学なんて、みんな有名大学を出ている。何やっていたのよ、今まで。何にもやらなかったんですよ。何にもやらなかったのが良くなかったんですよ。
今になって苦しむ。どうやったらいいんでしょうか。これはなかなか、無理ですねえ。富のためにはあらゆる努力をしたのに、自分の心のためには何もしなかったの。だから、自分の心の状態には、全然、気づいていない。これは典型的物質主義だと言ってもいいですね。物に囲まれて。
ある時、私はまだ学生時代でしたけれども、私の兄の友達の所に招かれて行ったことがあったんです。その方はアパートに住んでおられたんですがね、いろんな物があるんです。タンスの上にタンスがあって、その上にまた電化製品があって、テーブルの前に座っていると、なにか谷間に座っているようでね、上から何かおちてこないかなあ、って気がして。そびえたつようにね、物がたくさんあってね、その間に細い谷間があるような感じなわけですね。
皆さんお笑いになりますけれども、皆さんのご家庭はどうか知りませんけど、どうぞどうぞと言われても、うわあって思いましてね。自分のアパートに帰ってきて、四畳半でも広々としているわけでしょう。
2.ラオデキヤもきっと、こんなふうに物がたくさんあったんでしょうね。
物がたくさんあるということは、決して悪いことではありません。裕福であるということは、そのもの自体は善でも悪でもないんです。物がいっぱいあるからと言って、みんなが生ぬるくなるわけではないですね。
問題はどこにあるかというと、霊的な恵みよりも、物質的な富を重要視したところにあった。人間は弱いですから、物が増えると、物の管理ばっかりに心乱れるようになるわけです。教会もこれに気を付けなくてはいけませんね。
① 一般に、立派な教会というのはどういう教会なのか。大きな会堂がある。教会員の数が多い。こういうのが立派な教会であると、思われる。
ある方はこんなことを言われる。
「うちの教会では、先生の説教は下手なんだけど、教会員はどんどん増えてる。」
「いいですねえ。説教が下手で教会員が増えて。どうして、そんなに来るんですか」
「教会を、新しいのを建てたから」
「えーっ、そうですか」
みんな、これは立派な教会だって思ってくるんですよねえ。説教が下手でも次々と来てくれる、いいなあと思うんですね。こっちは何にもないから、せめて説教でもよくしないといけないと思って、四苦八苦、四苦八苦しているわけですけどね。
② 一般には立派な教会とは、そういうものだと考えておられるようですよ。教会の敷地や建物が大きいほうが、成功していると評価される。ラオデキヤもそう。ラオデキヤは有数な教会ですよ。素晴らしい教会。
3.人間は神様の恵みを失っていると、どうしても物質的に大きな物に頼ろうとする。物の中に、安定感とか安心、誇るものを見出そうとする、こういう危険があるわけです。
悲しいことに教会を評価するとき、100人寄れば100人とも物質的な水準の評価しかできない。こういう評価をする人は、内なる信仰は衰えている。息も絶え絶えになっている。自分の本当の姿、内なる魂の状態は、全然気づいていない、ということです。
4.ほとんどの教会が、人数だとか、建物の大きさ、広さとか、献金の額だとか、こういうもので、満足とか、不満足とか、を表わしているわけですね。教会にとって最大の財産は何か。これは各々の信仰が成長することなんです。それが最大の財産。
5.イエス様は、こういう物質的評価しかできない教会を「わたしの口からあなたを吐き出そう。」と言われました。
「あなたは、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」とね。そんなこと、考えてもみないんです。
日本人はどうでしょうかね。今から40年前なら哀れで、貧しいと考えたかもしれませんよ。今は、日本人が哀れで貧しい状態であるとは、ほとんど思っていないでしょ。
でもイエス様は仰る。そびえたつような塔をもち、ステンドグラスを張り巡らし、パイプオルガンを備え、豪華な会堂を持つ教会とクリスチャンに対して、イエス様は「あなたは、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」と言われました。誰も本気にしないでしょうね。
6.こういう姿を見る時にね、私達は気をつけなきゃいけないなあ、と思いますね。人間て見えなくなってしまうんです。みんな、この富める日本の姿を見て、自分がみじめで哀れな状態であると、全然気づいていない。
休みごとに何十キロも車を連ねて、遊びに行く。自分達は上流社会に生きていると、思いやすい。これは恐ろしいんですね。自分は富んでいる、豊かになった、貧しい物は何もない。しかし、その背後には、嘆く顔があるわけなんです。
Ⅱ.こういう者たちに現れたキリストの幻、これが14節に書かれています。
A.
1.第一に「アーメンである方」。メサイヤの一番最後に、アーメンコーラスっていうのがありますね。これはいいなあ、と思いますよ。ハレルヤコーラスもいいですが、アーメンコーラスっていうのもいいですね。ハレルヤコーラスが完成したら、今度はアーメンコーラスをつくりたいんですがね。
話は簡単ですよ。ハレルヤをアーメンに言い換えればいいんですから。アーメンとは、キリストは真理ご自身である、という意味なんです。「わたしが真理です」ということですね。アーメンというのは、そういうことです。
イザヤ書65章16節を開いていただきましょうか。
イザ65:16 この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福され、この世にあって誓う者は、まことの神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。
ここに二度、「まことの神」、と書いてあります。ヘブル語を見ますと、「アーメンなる神」と書いてありますね。真理の神。アーメンなる神。アーメンなる神によって祝福され、アーメンなる神によって誓う。素晴らしいと思いますね。
キリストにあって、アーメンと書いてありますね。ですから、あらゆる富を持ち、大勢の信徒をもっていたとしても、何の意味もない、ということなんですね。神のもとには行けないと、言っているんですね。ただキリストのみ言葉を信じて、行うことによって、神の国に到達できるという意味が、「アーメンである方」という意味ですね。もうすべてを精算してしまいますね。
2.それからその次に、「忠実で真実な証人」、これはどういうことでしょうかね。
つまりここでは、教会の堕落した状態、締まりがなく妥協ばかりしている世俗化した教会を、ありのままに、明らかに証言するのはキリストだけだっていうことです。
人々は、ああでもない、こうなったのはああだ、こうだと、いろいろと理由づけします。けれどもキリストははっきりと、教会の堕落した姿をズバリ言いぬくのはキリストだけだ。そういうことを証言できるのはイエス様だけだということです。忠実で真実に、あからさまにするのはイエス様だけだということですね。
3.第三番目は「神に造られたものの根源である方がこう言われる。」
2か所ほど聖書を開けてみましょうかね。
ヨハネの福音書1章3節、
「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
「この方」というのは、キリストなんですね。言葉は神である。イエス様によって万物が創られた。
もう一つ読んでみましょう。コロサイの1章16と17節。ここにも大切な事がしるされています。
コロ1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
これらのことですねえ。キリストは永遠に変わる事の無い基準をもっておられる。ご計画を持っておられる。それによって万物を創造された。全ての計画通りに進められている。しかもそれを保持しておられる。神に創られたものの根源である方、源はここにある。
さて、こういうような幻が、ラオデキヤの教会とどんな関係があるのか。
① 最初に、「アーメンである方」ですよね。
神のみ言葉に対する信仰と服従を要求するわけですけれども、ラオデキヤの人たちは自分の愚かな判断に頼る、こういう人々でありました。
それに対して、アーメンたるもの、神のみ言葉に信頼することを要求されるアーメンである方が現れている、というのはわかりますね。
② 人間は自分の考えに頼っている時には、右も左も分からなくなってしまう。
彼らは、自分達は富んでいると思い、十分に力強いと思い、堂々とした教会であるものと思っていた。
そういう者に対して、彼らの惨めさ、哀れさ、貧しさ、裸なる事を証言されるお方として、現わされている。忠実な真実な証人。目覚めさせようとしているんですね。
日本人の皮を一皮むくと、何がでてきますかね。怖いですよォ。
日本人だけでなく、皮をむくと何が出てくるか。神から愛を取ったら、無くなる、といった人があります。天使から羽根を取ったら、サタンになる。人間から愛を取ったら、何になるんでしょうかね。
獣だったら、まだましですよ。猫なんて追いかけまわして可愛いものですよ。神さまはこれを暴露する。本当に自分たちは富んでいる、豊かだと思っている者達を、あなたは本当は惨めで哀れなんだという姿を自覚させる。目覚めさせる。そういうお方として来られている。
③ イエス様が創造され、保持している物質を、自分のものと思う物質主義者に対して、天地創造者として、またその保持者としてキリストが現れたわけですね。
こういうのを見ましても、このキリストの幻はまさにピッタリだと思いますね。
B.彼らは、このままでは吐き出されてしまう、と言われたんです。
生ぬるい妥協したクリスチャンは、キリストの香りを失ってしまっている。
夕べ家内が菊の花を切ってきてね、あっちにも置いて、こっちにも置いてね、いろんなところに置いた。香りがね、なくなってしぼんでしまったら、どうします? だいたい捨ててしまうでしょ。
クリスチャンもやはりそうです。イエス様は、「塩が塩気を失ったら、捨てられて踏まれるだけだ。」とおっしゃっていますでしょ。クリスチャンがクリスチャンの香りを失ったら、もう、神の家族でいられなくなってしまう。イエス様の好まれるところではない。滅びの子になってしまうではないか。こう言われているわけですね。吐き出される、というのはそういうことになってしまう。
C.しかし、イエス様は、生ぬるくなって吐き出される前に、希望を捨てなかった。
① 19節で、強く悔い改めを求めておられますね。
3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
熱心になって悔い改めなさい。イエス様は愛するが故に、神の道を外れる者を叱ったり、懲らしめたりするんだ、と仰っておられるんですね。ここを読みますと、私はヘブル人への手紙を思い起こすんですけどね。ヘブルの12章5節~11節を思い起こしたんです。ここを見ますとね、「ああ、神様のなさることだなあ」と教えられたんですけどね。
ヘブル12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
こういうふうに仰っておられますね。ですからね、イエス様も、あんまりがっかりしすぎて弱り果てないように前もって、「愛するから」と言って、仰っているんですね。このあたりも、深く細かく気を配っておられるイエス様の姿がありますね。イエス様の懲らしめや叱責を、軽んじたり反発してはいけないんです。これをキリストの愛として受け止める。
今日も子供たちがね、私より遠く遠く座ろうとするからね、「遠くに行くと、鞭って痛くなるからね、もっとこっちにおいでよ」っていってね。すぐ手の届くところに座らせると、またあっちに行く。キリストの懲らしめに逆らうならね、主のみ心に反して滅びていってしまうわけです。
② そして20節を見ますと、イエス様は一人ひとりの心の扉をたたいておられる。
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。」
聖画の中にこういう絵がある。キリストがランプを持ってね、戸を叩いている絵があるでしょ。これを画いた画家の人はね、取っ手を画いていないんです。今度見た時よくご覧になってください。取っ手がついていないんです。絵を描いた人は、よく分かっていたんだなあと思います。中側から開けないと、開かないようになっているわけ。外側に取っ手がついていない扉なんてないでしょ。中側からしか開けられない。
これは、教会員らが投票して決める問題ではないんですね。教会全体が生ぬるくなっていても、戸を開けるのは 、個人個人の戸です。ここで注目したいのは、イエス様が戸の外側に立っている、ということですよ。教会の主人であるのに教会の外に立っている。これ不思議だと思いませんか。つまり、生ぬるく、この世と妥協したクリスチャンというのは、キリストを自分の外に、教会の外に追い出した状態であるということなんです。
D.キリストは心の戸を叩くだけです。そして「開けなさい」と声をかけるだけです。
イエス様は戸をこじ開けて入りませんから、私達は自分のほうから開ける必要があるわけです。ですからイエス様は、20節の終わりの方で、「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」これが信仰ですね。
自分の方から心の扉を開く、これが信仰というものです。そして、イエス様と豊かな交わりをしてください。ラオデキヤの教会には、こんな約束が与えられたんですね。ですから私達は、本当に真実な心を持ってイエス様をお迎えするならば、どんなに豊かな交わりの生涯を送る事ができるだろうか。
ダビデは詩編23編6節で「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」と言っているでしょ。
詩23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。
イエス様は、ヨハネの福音書の10章10節で、こう言っていますでしょ。
ヨハ10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
豊かないのちを与える。全部このことを言っている。交わりのことを言っているわけですね。約束なんです。
Ⅲ.ですから、この交わりに入るために、イエス様は三つのことを買いなさいと要求しておられる。
18節に書いてありますね。
「豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」と言っています。
これはキリストにある豊かさを体験するためですよ。豊かな者となるために、買いなさい。見せかけの豊かさではないですよ。本当の豊かさです。さて、何を買うのか。
① まず第一は、精錬された金を買いなさい。
精錬された金、とはなんなのか。これはですね、Ⅰペテロの1章7節に書いてありますのでね、私が言うより、み言葉を開いた方がいいですね。
Ⅰペテ1:7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
信仰の試練、と書いてありますが、火で試された信仰、ということですね。つまり、純化された信仰を求めなさい、ということですね。これは、イエス様が現れる再臨の時の称賛と光栄と栄誉に至らせる、こう言っています。
黙示録の方に戻りますが、これを誰から買えといったか。「わたしから買いなさい。」と言ったんです。これはもちろん、お金で買えるものではありませんね。つまり、イエス様によって聖められた信仰を意味しているんですね。純金よりも尊い価値を持っていますよ。そしてこれは、イエス様の再臨の時に祝福を頂けるだけじゃなくて、その日に至るまで、豊かな恵みと交わりの生活を送れるようになる。ですから全く純化された信仰にはもはや、少しの心配もない。
第一番目に買い求めるものは、精錬された金、純化された信仰。
② 第二は、何でしょうかね。
「あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。」
これはね、ヨハネの黙示録19章8節を見てみましょう。そこにこういうことが書いてありますね。だいたい答えは、み言葉の中に書いてあるんですね。
黙19:8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
花嫁って書いてありますが、これクリスチャンのことです。イエス様が花婿です。
これは、クリスチャンとしての勝利に輝く義です。正しい行い、と書いてあります。これをね、買い求めなさい。こういう意味があるんですね。正しい行い、というのはもちろん信仰の行いの事を言っているんですね。ですから、クリスチャンとしての勝利に輝く義を持ちなさい。それは、3章の方に戻りますが、「あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。」ラオデキヤのクリスチャンは、華やかな着物を着ていたにちがいないんです。霊的にみると、哀れな裸の恥を現わしていた。
かつて、エデンの園でアダムとエバが、神様の戒めに背いた時に気づいた事は何であるか。自分たちが裸であって恥ずかしかったことなんです。神に背く時に、人間は神の栄光を失って、自分がいかに愚かであるということを悟るしかないと、言うことですね。
私達の信仰が萎えて、この世と妥協するようになる時に神の義を失うんです。そして自分の判断、態度、自分の行動、自分の選択において、愚かさを現わすようになる。自然とそうなっていく。必ずそうなっていきます。神の義を失うと、どんなに考えても、私達は、神の知恵をもはや用いることは出来ない。裸を表わす。恥を現わす。皆賢いと思っているけれども、実はそうなんです。
③ 三番目に買うものは何か。
「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」
当時はもう目薬があったんですね。目薬は視力が回復するためなんですね。何を見るために、この目薬を買うんでしょうか。
第一は、キリストをはっきりと見るための、目薬ですね。信仰だと言ってもよろしい。
第二は、自分の本当の姿を見るための、目薬ですね。両方見なくちゃいけない。
ラオデキヤの教会は残念なことに、次の3つがなかった。すなわち、純化された信仰、神の義、幻(イエス様の事)を失っていたのです。
だから、「熱心に悔い改めなさい」とイエス様から命じられた。
私達も、絶えずこの3つに注意したいと思うんです。どんなに恵まれた状態になっていてもね、自分は恵みの絶頂にあるからと安心して油断してはいけないんですね。キリストの真理に対して、深く根差した確信をもって、進んでいかなくてはいけないわけでしょ。
そうしないと私達も、キリストにとって不快を感じさせ、悔い改めを求められる。
Ⅳ.さて最終的な報いは何か。
これは21節に書いてありますがね、これは、イエス様との豊かな交わりの後に与えられるものであります。
「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」とイエス様は仰いました。
イエス様と同じみ座に着かせてくださる。それは、キリストが父なる神とともに御座についたのと同じだ、と言っています。
この約束は、七つの手紙の最後の報酬のうち、最も素晴らしいものですね。ラオデキヤの教会の人が、こんなのもらっていいんだろうか、と思うようなものですよ。それでも、与える、と言っているんですよ。キリストと同じ座に着く。キリストの御声をきいて、自分の心を開いて、キリストに従順に忠実に歩むクリスチャンに、皆、与えられるところの約束だ、とね。もったいないことであります。イエス様と同じ座につくなんて。
Ⅴ.さて最後に、七つの教会の手紙を終えるにあたって、共通のいくつかの点を考えておきたいですね。
そして終わりたいと思います。
① 第一は、教会はキリストの再臨の日までは、多くの試練とか、迫害とか、異端とか、内部的な堕落とか、偽りの指導者とか、こういうものが次々と無数の課題が生じてきて、これ、乗り越えなくちゃいけないということです。こういうものは、ある。この世が終結しない限り、神とサタンとの間は絶えず争いが続くんですね。
ですから、ヨハネの黙示録を書かれた一つの目的は、イエス様の再臨までその戦いに耐える様に、クリスチャンと教会に、信仰的な武装をさせようとした、というのが一つの目的だ。こういうことが言えるでしょうね。
② 第二番目は、ここに約束されている、勝利を得る者に対する報酬ですがね、スミルナの教会以外は、明確に、キリストの再臨の時に与えられる、と書いてあるんですね。
ですから、ヨハネの黙示録は、キリストの再臨に非常に深く関わっているということですね。クリスチャンの本当の勝利というのは、この世で決着をつけるということではない、ということですね。この地上で、何処まで地位が上がったとか、どれだけ財産ができたかとか、ということじゃない。それはみんなこの世のものですから。ラオデキヤのクリスチャンは、そこのところが間違っていたわけですね。この世の富に目を惑わされてはいけませんよ、ということです。この警告だと言ってよろしいでしょう。
③ それから第三番目。三番目の共通点は、お気づきになったか分かりませんが、
「すべての勝利を得る者」というのが、全部単数形で書かれているということですね。「勝利を得る者たち」の「たち」となっていないんですね。みんな単数形なんです。
これは、「悔い改める」のも個人個人ですけれども、報酬や祝福も個人的に与えられる、ということです。どうぞ間違わないようにね。
私、あの教会に行っていたから、というような、教会単位でくれるんじゃないんです。
一人ひとりです。教会の中で自分だけ祝福に預かれないこともありうるわけです。どうか願わくは、自分が祝福に漏れてしまうことがないように。
④ 最後には、これら七つの教会全部を、合わせて考えてみますとね、キリストの幻の特徴とか、勝利を与えられるための条件とか、報酬とか、全部、全ての時代の全ての教会に当てはめることができる、ということですね。
全てのクリスチャンと教会は、キリストのご人格と御国において、全く一つにされるということです。教会はあちこちありますけれどもね、最終的には、教会は、まったくキリストの人格と御国において一つである。
クリスチャンと教会はキリストにあってこそ、その存在価値があるということですね。
キリストから離れた教会は意味がないんです。物置の倉庫と同じです。金の倉庫があったっておかしくない。パーレビ国王はトイレまで金で造っていたという話ですけれどもね。だからといったって、パーレビ国王も便秘していたと思うんです。くだらないことを言って申し訳ないんですけれどもね、なんの価値もないんですよ。
キリストにあってこそはじめて、クリスチャンも教会も、現在も未来も、意味を持つということですね。
そして私達も、私達の教会も、実はこの七つの教会の中の一員であることをおぼえてね、信仰の戦いを全うさせていただきたいと思います。
イエス様のお出でがあれば、その時は私達も報酬を受けることができる。
キリストとともに、その座に着くことができる。
〔お祈り〕
「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。」
恵みの深い天の父なる神様、主はこの七つの教会の手紙をとおして、私達の今の時代にもあなたのみ心をお示しくださり、ありがとうございます。
様々な課題がこの後も続くことであります。主のおいでの日まで尽きないところの課題が教会を、襲うことであります。また、教会の中にもさまざまな課題が生じると思います。
しかしどうか、あくまでも、キリストにあってその意味があることをどうか悟らせてください。どうか、み言葉によって進んでいくことができる様に。
最終的勝利は、あなたの御座に着くことであると、主は仰せになりました。心から感謝します。
この地上にあって、私達は成功者であるかもしれないし、あるいは失敗者でこの生涯を閉じるかもしれませんが、分かりませんが、それが全ての結論ではないと心に留めさせてください。
そして主の道をまっすぐに歩ませてくださいますように。
この時を感謝して、尊いイエス、キリストのみ名によってお祈りいたします。
アーメン
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明