音声と文書:ヨハネの黙示録(22) 涙をぬぐわれた者 7:9~17

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PDF文書:ヨハネの黙示録(22)

ヨハネの黙示録 7:9~17
7:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
7:10 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
7:11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
7:12 言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
7:13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。
7:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
7:15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
7:16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
7:17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」
【新改訳改訂第3版】

上の絵画は、ドイツの画家 Albrecht Dürer (1471–1528) により1496/1498年頃に描かれた「The Adoration of the Lamb(子羊の崇敬)」(アメリカ、ワシントンDCのNational Gallery of Art蔵、Wikimedia Commonsより)

はじめに

1.ヨハネは9節で、「その後、私は見た」と書いてありますね。
7章の1節でも「この後、私は見た」と書いてありますから、この幻は別の幻であることが分かります。
しかしこの前にも学んだように、この幻は、7章1節~8節の十四万四千人と記されている新しい神の民と別の人々を言っているのではない。聖書には、神の民があっちこっちに別々に書いてあるということはない。何度出てきましても、同じ民のことを記しているということですね。幻は別であっても、全然違った民のことを言っているんじゃない、ということですね。

2.この幻はさらに、将来のことを語っていますけれども、実はこの幻の中に私達自身を見いだせなければ、もう他には、天の御国に入る群衆はない、ということになるわけですね。
なぜなら、ここに記されている民は、最終的に神の前に集められた神の民なんです。
ですから、この大群衆の中に自分を見いだせなかったら、発見できなかったならば、私達は永遠の滅亡の谷にいることになってしまう。ですから私達は、この群れの中に加えられているとともに、さらに、私達の周囲にいる者も救われてこの群衆に加わるように、ぜひ祈り、福音を伝えていかなくてはならないわけなんです。

Ⅰ.さらに9節で、「御座と小羊との前に立っていた。」とあります。

1.「立っていた」と書いてあるんですが、ここに聖徒たちの大パレードを見る思いがするんです。なぜならば彼らは、神様の御座に向かって大パレードを行って、それでやっと、御座の前に着いたわけです。そして「立っている」

この箇所は、詩篇84篇5~7節を思い起こさせます。

詩 84:5 なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。
84:6 彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
84:7 彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現れます。

5節の終わりに、「その心の中にシオンへの大路のある人」とあります。シオンというのは神の山のことであります。大行進をしているのですが、ここでは、実際に歩いているというよりは、心の中でパレードをしているということなんですね。
私達はこのヨハネの黙示録の幻のある日に向かって、神様の御座の前に向かって、その立つ日に向かって、心の中で大パレードをしている、というわけなんです。ですから、この大パレードはなんと幸いでしょう。

終わりの日にも涙をぬぐわれるんですが、6節を見ますと、「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」と書いてあります。この大パレード中も、涙の谷を恵みの泉に変えながら力強く行進していく、と言っているんですね。
これは、今の地上生活のことを言っているんです。私達は毎日パレードを行っている。シオンの山に向かってパレードを行っている。そしてしばしば、苦しみの涙、悲しみの涙を流しながらも、ここを一つ一つ恵みの泉に変えていく、こういうふうにしたいと思いますね。そして力から力へ進んで、ついにシオンに到着し、神の御前にあらわれる。
ですから、ヨハネの黙示録で読んだこの大群衆は、こういうパレードを行って、到着した人だ、ということができますね。

2.さて、ここに集まった人は、どんなところから集まった人かというと、9節には「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、誰にも数え切れぬほどの大ぜいの群衆」であったとあります。この言い方は、5章の9節にもあるんです。ヨハネの黙示録に何度かでてくる。しかし神の民が、あらゆる国民、部族、民族、国語の中から出てきて一度で集まるということは、一回しかない。それはこの終わりの時なんです。ですからここでの集まりというのは、ある時代の、ある地方の大集会ということではない、ということですね。

ここに集まっているのは、最終的な招集なんです。一番最後の集まり、神の御前の集まりをさしている。
この時は、すべてのこの世の苦しみの試練は終わり、全てのクリスチャンの目は神の御手によってその涙がぬぐわれている。これは、信仰によって受けたところの苦しみと辱めに対して、豊かに報いが与えられる、こういうことなんですね。

3.さて彼らはどういう人であったか。彼らは「白い衣を着、しゅろの枝を手に持って」いた。

「白い衣」については3章4節~5節でお話しました。神の義、神様が与えてくださる神の純潔、そして殉教者を表すものですね。

② 手に「しゅろの枝」を持っていたとありますね。これは王様である主を賛美するものなんですね。かつてイエス様が、ロバの子にのってエルサレムに入城した時のことが書いてあります。その時にエルサレムの人々は、自分の上着を道に敷き、しゅろの枝を切って道に敷いたということが、マタイの福音書に書いてあるんですが、聖書は「木の枝」とかいてありますがね、これはしゅろの木の枝である。ですからイエス様が十字架にかかられる最後の週の日曜日を、パームサンデーとよんでいる。これを、しゅろの聖日、とよんでいる。しゅろの枝を持っていたということは、王をお迎えする、賛美するという意味があるんですね。

③ 10節で彼らは、大声で救い主、勝利の主を賛美していますね。この讃美は短いですが非常に素晴らしい。
しかもここにあります、「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」と二重に言われています。私達の神にあり、小羊にあると、二重に賛美していますね。
小羊というのは確かに私達の神、救い主です。彼らは小羊を、私達の神と賛美したんですね。これは、ここにいる者がはっきりとキリストの救いを経験していることを表している。
後でも御使いたちの賛美がありますが、「永遠に私達の神」、とはありますが、小羊、というのはない。この差は大きい。
ここの賛美は、自分の救い主の小羊を賛美したんですね。ですから、どうか私達は賛美歌を歌う時、誰かが作った歌として歌うんじゃなくて、自分の救い主である小羊を歌いたいんですね。本当に救われて、天の御国に行ける約束を確信している人は、こういうふうな賛美を歌うことができるようになってくる。
しかもヨハネの黙示録に記されている賛美というのは、どれもそうですが、大声で歌われているんですね。10節を見ますと、大声で叫んだと書いてあります。叫ぶような賛美であったようですね。神様を賛美するには、やはり大声で力いっぱい賛美すべきだと思いますね。人に聞かせようとすると、どうもムード音楽的になりやすいのですが、私達はやはり、ヨハネの黙示録にあるような力いっぱいの賛美が大事ですね。神様を喜ばせるのに相応しいと思うんですね。心を尽くして賛美する。小羊を私の神として賛美したい。小羊は、死も涙もない、究極の完全な救いを与えてくださる。これを約束されたわけですねえ。ですからこれは素晴らしいことです。

④ この小羊に救われた者たちの賛美は、11節を見ますと、御使いたちも賛美させている。賛美というのは伝染させる、影響を与えるものですね。礼拝心を起こさせる。
12節で、彼ら御使いたちの賛美はまず、「アーメン」と言っていますね。このアーメンというのは、最初にこの聖徒たちが歌われたわけで、それに対して和した。聖徒たちの賛美を聞いて、歌わないではいられないので、「アーメン」と歌いだしたわけなんですね。
私達は、まだまだ賛美というのが、ここまで届いていないなあと、思うんですよ。聞いて、ああよかった、それでおわり。何か、単発的ですね。どうもこう機関銃的にならない。祈りにしてもそうです。ああよかった、で終わっちゃうんですね。
一人の人の信仰を見て、それで、アーメンと言って、自分の信仰に受け継いでいくことは大事なことだと思うんです。すぐに彼らは間を置かずして、アーメンと言って、自分たちも賛美した。

さて、この御使いたちの賛美を見ますと、七つの頌栄の賛美が捧げられています。日本語を見ますと、七つの言葉が並べられているだけです。「賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢い」と、つながれてはいるんですが、これではなんていうか、そっけない訳し方だと思います。もっと丁寧に訳すべきじゃないですかねえ。これらの言葉は、ギリシャ語では一つ一つに定冠詞がついているわけですから、「アーメン。その賛美と、その栄光と、その知恵と、その感謝と、その誉と、その力と、その勢いと・・・」ということでしょうね。
神様の一つ一つの恵みを歌いつくしている、と言ってよろしいというような歌い方であります。一つ一つを丁寧に、神の栄光を歌っているということですね。私達もどうか、神様にお祈りする時、神様を賛美する時、何かひっくるめて十把一絡げでやってしまわないようにしたいですね。一つ一つ丁寧に神様にお祈りしたり、賛美したりする者になりたいなと思います。

しかしここには、先ほどの聖徒の賛美のように、小羊は見られない。これは致し方のないことなんですね。なぜなら御使いたちは、救いも聖めの経験もしていないからなんです。彼らは救いの喜び、聖められた喜びを経験していない、感じとることもできない。
ですからここには、小羊に贖(あがな)われた、聖められた賛美の力強さ、というのを見ることができるわけですね。聖徒の賛美は人々の心を動かす。そして神様を礼拝する力を持っているということですね。これは非常に素晴らしいなと思います。
私達は心の底から賛美をしたいならば、みんなが声をそろえてアーメンと言わざるを得ない、それで次のグループが、思わず引き込まれて賛美をする、というような礼拝というか、神への賛美を捧げたいと思うんです。

Ⅱ.さて13節で、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか」という質問を受けている。

これはヨハネに対して、長老の一人が質問したということですが、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」という質問は、私達への質問でもあるんです。小羊である神の御座の前に立つ人々とは、どういう人なのか。つまり、どういう人生を通ってくる人なのか、という質問ですね。
私達はこの幻を見ながら、この質問を自ら問いかけてみる必要があると思うんですよ。
ヨハネは賢くも、自分の知恵によって答えていなかった。あ、そりゃあ、こういう人々ではありませんか、なんて言わなかった。彼は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。
自分の知恵で答えないで、神に尋ねようと、この長老の人に聞いたわけですね。私達もしばしば、自分の人生の歩み方を自分の知恵で考えないで、主のみ言葉に問いつつ人生を歩むのが、賢い人生だということができますね。こういうのがやはり、ヨハネという人は長けた人である、と言えますね。霊的によくわかった人だなあと感じます。
で、ここで長老は、聖徒たちと、神様と小羊の関係を語っているんです。すなわちこの関係が、神の御座の前に立つ条件だということですね。

A.第一に、その条件は何かというと、「彼らは、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」と言いました。

すなわち、御子イエスの血によって罪が赦され、罪が聖められた人だ、というんですね。これが神の御座の前に立つ第一条件。いくつか聖書のみ言葉を読んで見ましょうかね。

Ⅰヨハ1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

全ての罪が聖められた人が神の前に立つ、と言っているんです。
パウロもこう言っているんですね。こちらもとても大事なことなんですね。

テトス3:5 神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

パウロはここで何を言っているのかと言いますと、神の御座の前に立つためには、人の善行によっては立てない、とはっきりと教えているんですね。
「神は、私たちが行った義のわざによってではなく」と書いてあります。
この点で、善行によって神の御国に入れると思っている人は、何と大きな罪深い考えをしているかということです。これほどの高慢はない。
人はしばしば、自分はそれほど悪い人間ではない、悪人じゃないと言います。私は誰にも親切にし、善行を行ってきたと言いますが、そういう思いこそが罪深い思いである、ということなんです。
小羊の血によって洗われ、聖められなければならない。
自分は正しい行いを続けてきた、と思ってきた人にとっては残念なことですが、この3章5節のみ言葉は、人間の正しい行いによって神の御前に立つことは出来ない、と書いてあるんですね。
ヘブル人への手紙12章14節を見てみましょうかね。後半ですね。

ヘブル12:14 ・・・ また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。

ですから、御座の前に立って、主とお会いするために必要なものは何だ、といわれているのでしょうか。善行ですか?そうじゃない。小羊の血によって聖くされることだ。
ですから主とお会いする第一条件は、何か。これは小羊なるイエス・キリストによって洗われることだ、ということですね。それがヨハネの黙示録でも言われていたわけです。
「その衣を小羊の血で洗って白くしたのです。」
これが第一条件。これなくして誰も神の御前に立つことは出来ない。

B.第二番目に必要なものは何かというと、「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たち」です。

この大きな患難というのは、ある人達は「大患難」、主の終末と言っていますけれども、ただそれだけではないでしょう。
イエス様はヨハネの福音書16章33節で、「あなたがたは、世にあっては患難があります」と言われました。
ですからこの聖徒たちは、地上生活で受けたあらゆる患難によって、その苦しいことのために、主に対して不従順になったり、信仰を捨てなかった人です。最後まで信仰を全うし、勝利を得た人です。

クリスチャンといえども、いろいろあるわけです。途中でひっくり返る者もあれば、調子のいい時だけ、問題が起きないときだけ、神様、神様って言っている人もありますけれども、何か問題が起きるとひっくり返ってしまう。神を呪う、退く、萎える、さ迷う、こういう人々が少なからずいるわけなんです。
ここでいっている大患難から抜け出してきた人達っていうのは、通過した人。
私達は、自分の人生から苦しい患難が去って行くことを願いやすい。イエス様は、患難がなくなる人生はないと、おっしゃったわけです。イエス様は、私達がこの地上で生きている限り患難はなくならないと、言われました。それならば、患難がなくなることを願い求めても虚しいわけですね。その患難の一つ一つを乗り越えていく、信仰の力を求めるべきで、乗り越えていけばよろしい。

なぜ私達は、海に浮かべる船を造っているんでしょうかね。波を一つ一つ乗り越えていくためではないでしょうか。私達は、海が陸地になることよりも、船を造ってその波を超えることを考えた。これは当を得ていると思うんです。
この地上には山もあれば、坂あり、谷もある。どこに行っても多少はあるわけです。私達はそこを乗り越えていく乗り物を考えたわけです。海に出れば どこにでも山波はあるし、空に昇れば、気流の乱れはどこにもある。私達は自分の人生が平坦になるのを願うより、それを乗り越えていく、患難の中を信仰を持ってまっすぐに進んでいく。不従順になったり、信仰が萎えてしまったり、中断されたり、ひっくり返ったり、捨ててしまったり、そういうことをしない人なんです。もし私達が、山や谷も坂も何も、乱気流がなくなることを願っているならば、もうとっくの昔に滅んでいたと思いますよ。

私達が前進をし、勝利を得るためには、何が必要なのか。そういう障害物、困難なことがなくなる事ではないわけです。それはなくならない。それを乗り越えていく信仰の力を求めるだけなんです。彼らにはそれがあった。私達がこの地上の生涯を歩いていますと、いろんなことに出くわすわけです。そういう時、そういうものがなくなることを、去っていくことを期待するよりも、それを乗り越えていくところの神の力を求めていく必要があるんですね。
通過した。これが第二番目のことですね。

Ⅲ.さて三番目に、15節から17節を見ますと、これは聖徒に与えられた神の報酬ですね。

これを15節から見ますと、七つの教会への書き方に非常によく似ていると思います。

A.第一に「彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えている」特権を与えられています。

彼らは、神の御座近くに住んだんです。そして、もはや祭司としてではなく、僕としてでもなく、賛美と礼拝をもって神に仕えている。非常に素晴らしいですね。
「彼らの上に幕屋を張られる。」という表現は、ヨハネの黙示録21章3節にも現れているんです。つまりこれは、神様が直接にともにおられる表現なんですね。幕屋を張る、というのは天幕を張るということではなくて、神様が直接に聖徒とともにおいでになる、ということを表しているんです。今私達は、霊的に神様とともに生きています。信仰によってそれを知る。しかし、御座の前では直接に神が共にいてくださる。

B.その結果、何が与えられるのか。

1.それが、16節と17節に書いてあるんですが、神が私達と直接いてくださることによって、
「彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。」
今私達は、飢えとか渇き、干ばつというのを経験していませんから、それがどんなに苦しいことかはわからない。けれども飢え、渇きというのは、人間にとってどんなに大きな苦しみを与えるか、ということですね。これは苦しんでいる人を見ればわかる。人々は飢えと渇きに苦しめられる時に、どんなにそこから解放されたいだろうかを、願う。
今、物質に富んでいる者にとっては、これらから解放されて、貧しい国の人々のそういう気持ちがなかなか解らないわけなんですね。その苦しみが解らない。
しかしイエス様の御前では、神の印を受けた者は、この苦しみから解放されている。そして神の印を受けなかった者は、この地上でどんなに富んでいた者も、飢え渇きで苦しむようになる、というんです。今私達は、物質に富んでいる社会に住んでいますから、食べ物、飲み物で苦しむことを経験しない。ところが神の御前では、そうではないよ、と言っているんですね。ルカの福音書の16章23節~25節を読んでみましょうかね。ここを見ますと、とても大事ことが書いてあるんです。

ルカ16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

この金持ちというのは、地上生活で良い物を受け。つまり贅沢をしていたわけですね、
19節を見ますと、「紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」
まあ、今でいえば、本当に羨ましがるような生活をしていたわけなんです。飲む物、食べる物に困る生活をしたことがない人なんです。ところが24節を見ると、彼はここで、渇き、を経験しているでしょう。
そしてこの地上生涯で、飢え渇きを知らないで、神を知らないでこの世を去ったら、大変なことになってしまいます。ものすごい飢え渇きにさいなまれてしまう。それは永遠に癒されることがない。
神の印がない者は永遠に癒されることがない。お分かりになったでしょうか。
神の印を受けない者は、この地上でどんなに富んでいても、飢え渇きで永遠に苦しむことになる、ということを聖書ははっきりと書いてある。

2.なぜこの聖徒たちは飢え渇きがないのか。
それは、小羊が聖徒たちの羊飼いになって、命の水の泉に導いて下さるからですね。17節に書いてある。この表現は詩篇23篇に非常によく似ています。ちょっと読んでみましょうか。

詩23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。

非常によく似ていますね。羊飼いである神様が、憩いの水のほとりに伴われる。小羊である羊飼いが、小羊となって牧者となって、命の水に導いてくださる。非常によく似ていますね。イエス様はある時、ヨハネの福音書4章14節で、サマリヤの女に、決して渇くことのない水を与えると言いました。

ヨハ4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

私達は、この世にあってこの水をいただいて、心の渇きを癒されました。いつもイエス様はこの泉の水に導いてくださる。そしてこの泉は、実はキリストの十字架と、キリストのみ言葉のあるところに常に湧いているわけなんですね。
しかしこの御座では、絶えず命の水が溢れている。地上では、私達は求めなければなりませんが、この神の御座の前では、命の水は湧き溢れているわけです。ですからそこではこの世で経験した悲しみや苦しみや嘆きも、みんな消え去ってしまう。私達はこの地上でどんな悲しみがあっても、そこに行くともう何も思い出さないほど癒されてしまう。全部命の水が癒すからですね。この命の水というのは、私達は経験するまでわかりませんが、ただの水ではない。つまりこの命の水はすべての喜び、すべての愛、豊かな命、神の恵みのすべてを表しているわけですね。ですからこの命をいただかなかったら、とても大変なことになってしまう。

クリスチャンはこの世にある間に、まあ、多くの涙を流します。苦しみが理解されないとか、迫害をされるとか、いろんなことで涙を流しますね。しかしここに到達することによって、全ての悲しみの涙は拭い去られていくわけですね。ですから、この地上にある間は、私達は涙を流しても、絶対に信仰を捨ててはならない。私達はこの世で、悲しみと苦しみと嘆きの多い中で生きている。

① それですから、先ず第一に私達は主の十字架によって、イエス様の血によって罪赦され、聖められることが大事でありますね。これが神の御前に立つ条件であります。どうか小羊の血で洗われて白くなった者になりましょう。

② それから第二は、この世の患難によって信仰が打ち倒されないように、この地上で出会うところの苦しい出来事によって、信仰を投げ捨ててしまったり、後退してしまわないように、信仰の力を主に求めていかなければなりません。

③ 第三番目は、この世にいる間に経験する悲しみの涙というのは、主の御手によって拭っていただかなければなりませんね。私達が必要としているのは、人の慰めではなくて、神の慰め、17節の終わり「神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」
一滴も残さずに拭い去ってくださる。21章にも書かれてあります。これによって、神の御座の前に立つ日を迎えられるわけですね。

この地上生活で様々な苦しみに出会う時に、私達は信仰がぐらぐらするときがあるかもしれませんね。けれどもそれで信仰が後退したり、萎えてしまったり、捨ててしまったりすることないように、多くの患難を抜け出ていかなければならない。そして最後にこの白い衣の聖徒たちの群れの中に、加わることができるまで、信仰によって勝利を得続けなければならない。
それほど私達の人生は大事なことであります。

お祈り

「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って白くしたのです。」
恵みの深い天の神様、私達の住んでいる社会は、食べ物もいっぱいあり、飲み物もいくらでもあります。そのことのゆえに、今、お読みいたしましたルカの福音書16章の金持ちのように、この地上にあって贅沢に暮らし、遊び暮らし、何の苦労も経験もしないでこの一生を過ごすことだって可能であります。主の御前に立つとき、私達にとって必要なのは、この地上にあっていかに贅沢な生活をしたかということではありません。やがて、私達がもし主を信じていなかったら、主の道を歩いていなかったら、あの金持ちが、ラザロの指先に水を一滴つけて自分の舌を冷やさせてくれと、願ったほどの飢え渇きを神のまえでしなければなりません。

主よ、どうか、この地上でいかなる生涯を送ろうとも、いろんな苦しいことを経験しようとも、主よ、あなたの御前に立つ日まで、イエス様、あなたを信じ、あなたの血潮を頂き、また、多くの患難を通過して、そういうトンネルを通過して、主の御前に立つ日まで、信仰をぐらつかせず、信仰を保ち続け、勝利を得るように、顧みを与えてください。今年も、今月も、今週も私達は様々な問題にぶつからなくてはなりません。

私達は、神が与えてくれる試みと信じて、受け止めて、乗り越えさせてください。やがてあなたは勝利を与え、毎日命の泉に導き、また、この全ての悲しみの涙を拭い取ってくださる、そういうお方であります。その日に立つまで、勝利から勝利へと進ませてください。私達の心の中で、神の御前に進むところのシオンへの大路のパレードを、絶えずさせてくださいますように。そして涙の谷を過ぐる所も、そこを神の恵みの泉とかえ、力から力に進むことができると、詩篇は約束をくださいました。いかなる信仰の力を神様から頂けるか、もう一度大きく挑戦を与えられ、感謝であります。どうか導きと助けを加えて、いよいよ神の近くを歩む者とさせてください。そして願わくは、この大群衆の中に加わることができるように、どうかみ助けを与えてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明