音声と文書:ヨハネの黙示録(23) 解かれる封印(4) 8:1~5 第七の封印

 

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PDF文書:ヨハネの黙示録(23)

ヨハネの黙示録 8:1~5
8:1 小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。
8:2 それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。
8:3 また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。
8:4 香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。
8:5 それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。【新改訳改訂第3版】

上の絵は、ドイツの画家 Matthias Gerung (1500–1570) により1530-1532頃に描かれた「The Opening of the Seventh Seal and the First Four Sounding Trumpets(7番目の封印が解かれ、初めの4本のラッパが鳴り響く)」。(Ottheinrich Bible(ドイツのオットー・ハインリッヒ公により編纂された聖書)の挿絵より。バイエルン州立図書館蔵。Wikimedia commons より)

はじめに

6章の終わりで第六の封印が解かれました。
7章では、しばらくこの封印が開かれるのは、中断されていたんですね。それでここで神の聖徒たちのことが出てまいります。十四万四千人は何を意味するか、ということもお話をしましたね。それから白い衣を着た数えきれないような群衆は、一体どういう者たちであるか。実は、これは同じところの聖徒である。天国に入るのに、あっちこっちに何種類も聖徒がいるのではありません。一種類の聖徒しかいません。

8章に入りまして、7章では解かれなかった七番目の封印が解かれているわけです。ここにはいくつかのシリーズが出てくる。第一番目は、七つの封印、その次は七つのラッパ、その次は七つの鉢。

Ⅰ.七つの封印は最後の封印ですから、普通なら、最後、フィナーレですね。

最後ですから、何か劇的なことが起きるのではないかと期待するわけです。
第一から第六までの封印が開かれてきた出来事を見てきた人は、第七番目は何が起こるんだろうと、期待するのは当然のことなんです。人間はいつでも、これまで築いてきたことは、その後も続くと考えるんですね。

ある人が、こんなことを言っていますがね。
「皆さんは、今日太陽が東から昇っているのをみて、明日も昇ると思いますか。」って聞いたんです。たいがいの人は「昇ると思う」と答えたんです。しかし、必ずしも、そうなるとは限らないということです。例えば、今日みなさんが健康であるということは、明日健康であるということを、少しも保証していないということなんです。今日元気で生きていることは、明日元気で生きていることを、保証していないわけですけれども、人間は、明日の朝も目が覚めているだろうと、知らないうちにそう思って生きている、っていうわけです。

A.さて、第七の封印が起きた時、何も劇的なことは起こらなかった。

関西の言葉で「スカタン」ていうのがあるんですが、あまりよく「スカタン」てわかりませんけどね。
起きた事は何かというと、「半時間ばかり静けさがあった」
ここでちょっと、難しいことかもしれませんが、考えておきたいことがあるんです。ヨハネはここで「天に静けさがあった」と、こう言っているんですね。その時間は半時間ばかりであった、と。今でいえば30分ばかりですかね。こういうようなところは、誰でも読み過ごしてしまうんですですね。皆さん、こういうところを読んで何か分かりますか。分かれば大したものです。

1.注意深く読めば、こんなことが分かるわけですが、この「天」とは大空のことではありません。これは天の御座を表す天的次元を表す。

これまで私達が見てきた御座の周りの出来事は、四つの生き物の礼拝だとか、長老たちの礼拝であるとか、御使いたちの礼拝だとかを見てまいりましたけれども、これらの出来事はみな天的次元の事。そして天の次元では、神のみもとでは、時間性というのはないわけです。時差出勤なんてないわけですね。御使いがあんまり多すぎるので、あなたは9時から、あなたは10時から出てきなさい、なんて言うのはない。教会ではこの頃、時間性というのがありますけれどもね。天では時間がない。神様には時間がないんです。それなのにヨハネは「半時間ばかり」であった、と言っているんです。これは実際に、静けさが30分続いたということでしょうか。

これはね、そういうことを言ってはいないということです。実際静けさが30分続いたということではないんです。ただ、ヨハネには、そう感じられたということなんです。これはね、重要なことなんですよ。私達の水準でもいえることなんです。私達が天の御国のことを考える時、あるいは永遠を思う時に、ヨハネと同じように天の次元のことをこの世の次元において感じ取ろうとしているんです。

子供たちの賛美歌にね、「天の花園だ」なんていうのがあるんですけれどもね、私はね、「嘘だあ」、と思うんですよ。天の御国に行って、「花がいっぱいだあ」だなんてね。
聖書に、「花がいっぱいだ」って書いていないんですよ。気持ちの上でそうなんだってことなんでしょうが、それはこの世の次元で、何とか天の御国のことを感じ取ろうとしているんですね。ヨハネもそうだった。

ですから、皆さんが天の御国のことをどういうふうに想像するか、永遠の価値というのをどういうふうに判断するか、これは非常に大事なことなんです。この世の中の人が、本当に天の御国のことを重要だと思ってみてごらんなさい。聖書を読み、教会に行き、キリストを求めるようになるにちがいないんです。しばしば地上の経験でしたことに基づいて、私達は神の国だとか、天だとか永遠だとかを考えやすいんですね。これは決して正しい判断ではないということです。

実際、ヨハネは30分ばかり静けさがあったように思ったけれども、神様にとってはそれは、永遠を意味するし、一瞬を意味するんですね。さらにもっと問題なことは何かというと、私達の天の御国の想像の仕方、あるいは永遠の価値判断の仕方は、すぐに今の私達の生活の仕方に反映してくる、ということです。

例えば、天の御国がですよ、今よりちょっとだけましなつまらない生活だと思うなら、天国に行ったらビフテキが食べられる、自分の好きなことができるぐらいの、それぐらいだと思っているならば、私達の今の生活は全く引き締まらないものになってしまいますね。ますます堕落したような生活になってしまう、と思うんですよ。天国をどのように判断しているか、感じ取っているか、これは非常に重要なことなんです。もし私達が、永遠を退屈でつまらない長い時間があるだけだ、と考えているならどうでしょうか。喜んで天国を待ちわびる気持ちになるでしょうか。

人間にとって、本当に「つまらない」というのは大変ですね。
利佳子ちゃんが、病院の待合室で4時間待っていた、というんですね。私なんか、そんなに待てないですよ。「4時間もずっと絵本を見ていて、絵本を覚えちゃったでしょう」っていったら、「覚えてない」って言っていましたがね。覚えないから幸いですけどね。何度でも、めくれるからね。
天国がつまらない長い時間だと思うなら、「天の御国にいきたいなあ」、なんて思わない。「行きたくないなあ」、と思うかもしれません。
こういうように、判断の差、というのはその人の信仰の差として出てくるんですね。信仰がどんなに成長した人であっても、この世の次元を用いて、つまり、この世で経験したことから推論して、天の次元を感じ取ろうとしているなら、決して正確なものにならない、ということです。天国ってこうだろう、永遠ってああだろう、と考えたんではだめですねえ。天国の本当の姿を知ることはできない。

ですからここで、天の静けさには時間的な流れなんかなかった。では、時間的な流れがないということは、凍りついたものであるかというと、そうでもない。神様のみもとでは時間はない。神様のみもとでは、私達は年を取らない。これは非常に大事なことですね。
「天に半時間ばかり静けさがあった」、というのは矛盾しているわけですね。これはヨハネが自分でこの地上的な感じで捉えた事を言っているわけですね。こういう点を私達は聖書を読みながら、ああそうかなと、理解の仕方に気を付けなくてはいけないんです。

この静けさは、それまでは、神の御座では大声で賛美が歌われ、賛美がこだましていたわけなんですね。ですからこの静けさ、というのは讃美していた四つの生き物とか、長老たちとか、御使いたちが賛美を突然中止して、沈黙を守って、急にシーンとした。非常に賑やかだったのに急に静かになった、ということなんですね。なぜこんなに静かになったんだろうか。なぜこの静けさが必要だったのか。

これはね、この次に行われることが何かということを、息をこらして、ま、固唾を飲んで、見守っている姿を表している。子供たちなんかも、話をしている時に急に話を止めて、「これから何かするぞ」、という恰好をしますとね、みんなこっちを向きます。神様もそれをなさったわけですね。だからこの静けさは、神の啓示を注意深く待ち望んでいるところの沈黙なんです。

ことわざに「沈黙は金」というのがありますね。ずうっと黙っていても困るんですけれども、集中させておる。私達は今お話しましたように、天の次元におけることは、天の御国についても、永遠についても、どうか、この世の次元からあれこれと話すことは正確さを欠きますので、気を付けなくてはいけませんね。

ある聖徒は、「天国とは、行って見ると、まあ!というところだ」って言ったんです。それ以上は言えない、というんです。それ以上言うと、みなこの地上のものになるんですね。天国に行くと、魚屋があって、こっちに花屋があって、乾物屋があって、あっちに寿司屋があって、さあ、好きなところへ行って食べなさい、なんていう所ではないですよ、っていうことですね。私達は、それ以上何も説明できないということです。後は実際にご自分で天国に行って、ご覧になってわかると思います。

Ⅱ.さて、第二番目。ヨハネは、「神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。」と言いました。

A.七つのラッパというのは、次の段階の、神の七つの審判を啓示するものですね。

ですから、ラッパが鳴ると次は何が起こるのかと、御座の前のみんなが注目しているわけです。七人の御使いのラッパが、「神様に何々しなさい」、と言われる命令を待っていたわけですね。それが第七節以降に、ラッパが次々と続いていくわけですね。今日はそこのところを学びませんけれども。

彼らがこのラッパを吹く前に、第3節に「もう一人の御使い」が現れてくる。7章の2節でも「もうひとりの御使い」がでてきます。何かプラスアルファ、プラスアルファと、出てくる感じがしますがね。

この第8番目の御使いは、七つのラッパを持った御使いたちの審判の実行をしばし止めているわけです。それゆえに、先の天の静けさもこの御使いの出現も、何かを示そうとしている、特別な何かを表そうとしている。これに気づかなくちゃいけない。つまりこれは一言でいうならば、イエス様が、小羊ですね、大いなる審判を加えようとする直前の前兆を示していると思われます。よく津波が来る前に海鳴りがする、とか言いますけれども、前兆を表している。

「静けさ」のことから言いますればね、

① イエス様は十字架に架かられる前に、「静かな」ゲッセマネの園で祈りの時を過ごされていますね。これも前兆なんです。それは十字架に向かわれるための備えであった。

⓶ あるいは預言者エリヤをみますと、第一列王記の19章12節で、ホレブの山で、「静けさ」の中で神が語られることを聞いています。

Ⅰ列王 19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも【主】はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。

こういうのはね、全部似ているわけです。
神様の方法というのは、至る所で同じ方法をとっているなあ、と分かる。これらはみんな重大な御業を成される前の前兆であります。これはね、私達の生活の中にも見えるんですね。神の御手が動く前は、しばらくね、何も起きないような時間というのがあるんです。神の手が激しく動かされる前に、静かな、静止したような、こういう時っていうのが暫くの間あるんです。そしてその次に、神の御業が成されるわけです。こういう必ずといっていいほど、ルートがあるんです。

それをね、クリスチャンはね、よく知っていないといけないんです。そうしないと、この「静けさ」の時、神様は何もしてくれないじゃないかと慌てるわけですね。そして、あの手、この手で、己の知恵や力で動き回ってね、神様が実際に働きなさろうとする時に、ごちゃごちゃに引っ掻き回している。こういうことはですね、私達はよく知っておく必要がありますね。

神様の「静けさ」の時、神が何もなさらないかに見える時、御業をなさらないかのように見える時に、それは重大な御業がなされる前兆であるということですね。大地震が起きる時、急に鳥や獣が静かになるという話がありますけれどもね、気配を感じるんでしょうかね。そして今、第八番目の御使いが出てきてしようとしていること、これも、もう一つの前兆であったわけですね。

B.さて3節では、この御使いは、「金の香炉を持って祭壇のところに立った。」といっています。

1.祭壇のところで立っていますからね、これは、新しい神の神殿、で行われたことを表しています。

2.5節を見ますと、この祭壇は火が燃えています。
預言者イザヤもこの火が燃えている天の祭壇の幻を見ています。
イザヤ書の6章6,7節をちょっと見てみましょうか。

イザ 6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

祭壇に燃えている火、それが用いられた記事がここに書いてある。
預言者イザヤは、この火が燃えている天の祭壇の幻を見ていたわけです。
このイザヤが見た祭壇というのは、地上にあった祭壇の火ではないんですね。天の御座、黙示録に出てくる祭壇の火と同じわけですね。そしてこれを見ると、イザヤは祭壇の燃える炭火で、罪が潔められていますね。ですから、お分かり頂けると思いますけれども、この祭壇は何を意味しているか、ということですね。イザヤ書を見ると、私達はわかるわけなんです。

3.そして、それが全ての聖徒たちの祈りとともに、御座の前に捧げられているわけですね。たくさんの香が与えられ、全ての聖徒の祈りとともに御座の前にある金の祭壇の前に捧げられている。
4節を見ると、「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。」とあります。神の御前に立ちのぼった、とありますから、これは神に受け入れられたということですね。

なぜここで、御使いの香と、聖徒たちの祈りが、ともに神の御前に立ち上らなければいけなかったんでしょう。なんで一緒にしたんでしょうかね。
それは、ここでの出来事は、聖徒たちが完全に救われているしるしである。これは神様と、聖徒たちの契約を意味しているんです。ですから聖徒たちの祈りが、天の御使いの香の煙と一緒に受け入れられている、ということは、聖徒たちの祈りが、神に喜ばれる天的なものとして受け入れられたことを意味しているわけなんです。もしこの聖徒達の祈りが不純なものでありましたら、香の煙として立ちのぼることは出来ない。神の御前に上ることは出来ない、ということです。

これは祈りが天的なものであるということを意味しています。私達はこの祈りをですね、クリスチャンも気を付けなくてはいけません。地上の次元の祈りもあれば、天的な次元の祈りもある、ということです。地上の次元の祈りとはどんな祈りでしょうかね。自分の願いがかなえられるために、そればっかりを祈る、卑しいものの考え方。あるいは、祈りが応えられないように思うと、祈りは虚しい力のないようなものに思う。これはみな地上的な次元のことですね。こんなことを繰り返しても、神の御前にその祈りは立ちのぼっていかない。しかしこの祈りが、香ばしい香りを放つものとなるならば、これは天的な次元のものになっていく。私達がこの地上にあって、天的なものに変えることができるものは、祈りだけですね。

ヨハネはここで、聖徒たちの祈りが神に聞かれ、神に受け入れられ、喜ばれることを幻の内に見たわけです。私達の祈りが、真実な信仰によって捧げられているものであれば、その祈りは天的なものである。しかしこの祈りというのは、単なる祈りの言葉のことだけではないんです。この祈りというのは、聖徒たちの神に向かう全ての霊的な思い、賛美、あるいは霊的な営みの働きのすべてを含んでいるわけです。神様に向かう霊的な全てを含んでいる、これが祈り。

私達は祈りというと、何か上手な言葉で祈ることがその祈りのように思います。けれども、それだけじゃないんです。それはごく一部です。私達がこの地上で営むもののうち、神に向かって立ち上るものだけが天的なものになるわけです。それ以外はすべて虫と錆びがついて滅びてしまう、と言われましたね。イエス様がマタイの福音書6章19、20節で同じことを言っているんです。

マタ6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

こう書いてありますね。天に宝を蓄えなさい、それは天的なものになる。地上でたくわえると、虫がつき錆びがついてきず物になる。

私の子供のころ、近所に大きな蔵がたっている家があった。蔵は物置きか何かに使っていたようでね、大したものは入っていなかったのですが、泥棒の人がいましてね、あの蔵には宝物でも入っているんだろうと思って、ある日ですね、蔵の壁に大きな穴をあけました。私はここで、この聖書の部分を思い出しましたね。泥棒が穴を開けて入る、というところですね。

私達はこの朽ちるべき地上にあって、朽ちない天的なものに変えていく秘訣をみるんです。私達は、持っているものや、身体そのものや、いろいろなものがありますが、朽ちるものを朽ちないものにしなくちゃいけない。パウロは朽ちるものが朽ちないものを着る時、死は勝利に呑まれた、ということを書いていますね。これは非常に大事なことなんです。
私達はこの朽ちるものの社会に生活しているんです。朽ちる地上の生活をしているわけですよ。それなのに、私達はそれを天的なものに、地上に宝を積まないで天に宝を積むようにと、イエス様はおっしゃったんですね。朽ちるものが朽ちるままで、私達はこの生涯をたどってはならない。祈りはそれを可能にしてくれた。

C.さて5節に移りますと、「それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。」と書かれています。

ある人は、これは神様の怒りを表しているんだろう、と言います。確かに「地に投げつける」という行為は、怒り狂った人間がしばしばやることですね。腹が立つから、お皿を投げ飛ばすとかね、いろいろなのをやるでしょ。人間で考えれば、これは怒りを表すかもしれない。

けれども先ほどお話しましたように、この祭壇は、この祭壇の火は、怒りを表すのではありませんね。祭壇の火は、神の怒りを表したときはあります。エリヤの時に天から火が下って滅ぼされた、というのがありますけれども、この祭壇の火は旧約においては、罪の赦し、聖めの場所であり、罪の贖(あがな)いがなされるところであったわけですね。イザヤが経験した火は怒りの火ではなくて、聖めの火であったわけです。その聖めの火を香炉に満たして地に投げつけるのは、神の怒りを表しているのではない、と思われます。

さあ、このことを解く鍵はなかなか困難ですが、香炉を地に投げつけることが、次の四つのことが起きる引き金となっている、ということでしょうね。そうしたように考えるしかないわけです。モーセがですね、2枚の石の板を持ってきて、あれも怒りかどうかわかりませんけれどもね、しかし少なくても、ここでは四つの出来事が起きる引き金になったことはわかる。これ以上のことは私達にはわからないんですね、聖書は何も言っていませんから。これ以上詮索することができない。
なぜならばね、この地面に投げつけたことによって、人々がどうなったかが書いてありませんからね。投げつけた、すると、こう、こう、こういうことが起きた、と書いてあります。ですから、これは、引き金になった、ということです。

D.そこで私達は、ここで起きた四つのことについてですね、考えてみたいと思います。

何が起こったかというと、「すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。」ということですね。私達は、これとよく似た例をみます。
これは出エジプト記の19章16節に見ます。

出19:16 三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。

これは、モーセが、神様から十戒の教えをいただく直前の光景です。ここには地震とかはありませんけれども、地震が起きた時のように、民は震え上がっています。18節では、「全山が激しく震え上がった」と書いてありますね。
これは、神様が十戒の教えを頂くための備えを、モーセとイスラエルの民に備えを成させるために、ここにある。

この四つの出来事も、先の静けさと同じように、その後で起きるラッパによる審判を予告するためのしるしであった、ということですね。
ですから、黙示録の8章の1節から5節は、封印とラッパの間に挿入された予告的しるしであり、これは聖徒たちにとって非常に重要なものであった。聖徒たちはこの予告的しるしを受けることによって、来るべき悪に対する審判が下ることを知ったわけですね。そしてそれによって備えることができた。またこの予告を受けた時に、聖徒たちはこの審判に巻き込まれずに、安全に守られる、というしるしでもあったわけなんです。

神様は、神の律法を与える前に、与える直前にモーセとイスラエルの民に準備的なしるしを与えましたね。その時に、民たちは震え上がったと書いてあるんです。
これはね、モーセが立案したものでなくて、神が与えたものである、起源が神にある、ということをはっきりとさせるための準備的しるしであった、いうことなんですね。しかも、誠心誠意守らなければならない、ということを教えるものだったんです。

神様は世の終わりにおいても、聖徒たちに大いなるしるしを与えている。しかし今回のしるしは、恐るべきものであるにもかかわらず、聖徒は恐れていないんです。モーセの時は、民は恐れたんですが、世の終わりは、聖徒は恐れていない。なぜかというと、聖徒たちは神に受け入れられていることを、確信していたからなんですね。ここに大きな違いがある。むしろ聖徒たちの確信を強めるために与えられている。

今も同じですが、同じような現象に出会っても、恐れたり、不安になったり、震え上がる人もいますし、また、ますます確信を強くする人もいるんです。同じことに出会っても、違うんです。この違いはどこにあるかといいますと、日ごとの祈り、すなわち、神に向かう毎日の生活が神さまに受け入れられている、という確信をもって生活しているかどうか、このところに鍵があるわけです。こういう確信の無い人というのは、災いにあうとすぐに恐れたり、不安になったりしてしまうんですね。

イスラエルの民は、神様が祝福するために戒めを与えるために下ってきたのにもかかわらず、震え恐れてしまった。神に受け入れられている、という確信がない。人間というのは、自分の心にやましいものがあったりすると、不安になってしまいますね。
たとえば今、泥棒をしてきた後でね、曲がり角を曲がっておまわりさんに出会ったら、不安になっちゃうでしょ。俺を捕まえに来たんじゃないかってね。
こんな話がありますね。ずいぶん前ですけれども、
イギリスで、泥棒をした人がね、アメリカに行って、アメリカで大成功して、またイギリスに帰ってきた。通りを歩いていたら、後ろから「どろぼうだ、捕まえてくれ」という声がしてね、そこで彼はその場にへなへなと座り込んでしまった。そしてその人の横を本物の泥棒が走り去っていった、というんですね。彼は泥棒をしてから10年も20年も経っていましたけれども、決して忘れていなかったんですね。
こういう話が現実にあったそうですけれども、自分とあまり関わりがないことであっても、人間は不安と恐れにさいなまれてしまうわけですね。イスラエル人はそうでありました。

私達にも、自分に危害を加えると思われる雷鳴と声と稲妻と地震が起きてくるかもしれない。さらにこれから終末が近づけば近づくほど、私達には考えられないことが次々と起きてくる。昨日まではどこか遠いところで起きたような事が、今日は自分の足元で起きるんです。アルメニヤで大地震が起きたといっていますけれども、うっかりすると、家の縁の下から地震が起こることもありうるわけです。

もし私達が、毎日、神に向かう思いを確かめて生きていくならば、少しも自分を動揺させることなく、神の救いを確信することができるようになる。このことを私達に教えてくれるんです。

天の静けさも、四つの恐るべき出来事も、実はその後で起きる重大な審判の予告であります。この予告は、既に神の聖徒である者にはますます神に近づくことを教えているんですね。まだ救われていない者には、罪の悔い改めと信仰への警告となっているわけです。

最後に私達が知っておかなきゃならないことは何か、というと、今の生活の状態がずっと続くわけではないということですね。必ず、神の大審判が来るときがくる。その前に私達は、自ら十分に備えておかなきゃいけない。また人々にも救いを伝えておかなくてはならない。こういうことが教えられている。

ですから、この第七の封印は、次の七つのラッパの審判の予告として行われているんだ、ということがこれでわかったわけですね。
どうか私達は、こうして神様のみ言葉をいただいておりますので、自分の人生は、この今の人生は、永遠に向かう予告である、そういうことを覚えながら、この生涯をたどらせていただきたいと思います。

お祈り

恵みの深い天の神様、イエス様は私達に警告を与え、イエス様の十字架を示してくださいまして、ありがとうございます。
また私達は祈りを通し、神に向かう思いを通して、この地上で朽ちるべきものを、朽ちない天的なものと変えさせていただけることを、ありがとうございます。この地上はしばしの宿りでありますが、どうかイエス様、あなたの御国に入れてください。その御国がいかに尊い、いかに素晴らしいものであるか、私達はこの地上から見ることが不可能であります。けれども、そこはあなたによって備えられた素晴らしい都であることは確実であります。
どうか、低いつまらない、この世の生活よりちょっとましなようなもの、退屈で長いようなものと、もし私達が思っているなら、大きな誤りであり、またその誤った思いは私達の生涯を堕落させてしまいます。
どうか願わくはもっともっと神に近づき、聖徒たちの祈りが神の御前に立ち上ったように、私達の生活もそのようなごとく変えてください。心からお願いいたします。そしてますます神に近づき、確信を強くする者としてください。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明