聖書の探求(039) 創世記49章 ヤコブの預言的遺言

この章は、ヤコブの預言的遺言を記しています。ヤコブはここでは預言者として記されており、自分の子どもたちが諸部族にまで成長したかの如く、将来の状態を見ています。これは特定の歴史的事実の預言というよりは、祝福の預言的性格の本質を示しているようです。すなわち、

(1) この詩には、約束の地の獲得を示す言葉もなければ、特にヨシュアの時代を指示する言葉もありません。

(2) 49章10節の言葉はダビデの時に一時成就したと考えることができるかもしれませんが、レビについて述べられていること(49:5~7)は、モーセの時代か、それ以前のことに違いありません。(申命記33:8~11)

創 49:10 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。

創 49:5 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。
49:6 わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。
49:7 のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。

申 33:8 レビについて言った。「あなたのトンミムとウリムとを、あなたの聖徒のものとしてください。あなたはマサで、彼を試み、メリバの水のほとりで、彼と争われました。
33:9 彼は、自分の父と母とについて、『私は、彼らを顧みない』と言いました。また彼は自分の兄弟をも認めず、その子どもをさえ無視し、ただ、あなたの仰せに従ってあなたの契約を守りました。
33:10 彼らは、あなたの定めをヤコブに教え、あなたのみおしえをイスラエルに教えます。彼らはあなたの御前で、かおりの良い香をたき、全焼のささげ物を、あなたの祭壇にささげます。
33:11 【主】よ。彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。彼の敵の腰を打ち、彼を憎む者たちが、二度と立てないようにしてください。」

(3) さらに、この詩はドライバーがいうように個々の独立した資料を蒐集し、編入したものであるとか、ファイファーがいうようにBC960年頃のある詩人が初期の部族伝承を用いたものであるということはあり得ないことです。なぜなら、この詩は明白な証拠をもって統一性を示しているからです。
それ故、49章はヤコブ自身による預言的遺言であることは確実です。

(48章と49章の違い)

48章はヨセフとその二人の子どもに対する祝福でしたが、49章はヤコブの息子たちが祝福されることではありません。(十二部族が祝福されることは、申命記33章に記されています。) 49章1節をみますと、ヤコブは祝福したのではなく、ただ後の日に彼らに起きることを預言したのです。ですから、48章は49章よりはるかに幸いな章です。
ヤコブの十一人の息子たちはヨセフのように信仰の目を開いて、父の床に来て臨終の祝福を求めることをしなかったので、ヤコブのほうから十一人の息子たちを呼びよせたのです。(1,2節)

創 49:1 ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。
49:2 ヤコブの子らよ。集まって聞け。あなたがたの父イスラエルに聞け。

ヘブル人への手紙11章21節には、ヤコブが信仰によってヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福したことが記されていますが、他の十一人の息子たちについては何も記されていません。これによってヨセフとその子どもたちと、他の十一人の息子たちとを区別したことは明らかです。

ヘブル 11:21 信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。

〔ヤコブの十一人の息子たちに対する六つの預言〕

1.初めの三人(ルベン、シメオン、レビ)の息子に対する預言(3~7節)

ヤコブはルベンを呼び、その地位、勢力、威光、権威の栄光を告げましたが、それはすぐにはぎとられ、却ってのろいを受ける預言をしました。(3,4節)

創 49:3 ルベンよ。あなたはわが長子。わが力、わが力の初めの実。すぐれた威厳とすぐれた力のある者。
49:4 だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことがない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ。──彼は私の寝床に上った──

厳かな臨終の時に、愛と憐みの言葉を話さず、却って厳しい言葉を述べたのは、聖霊の導きによるものです。
「だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことがない。」(四節)
と言われたのは、ルベンに対するのろいです。ルベンの性質ははなはだ定まりがなく、動揺しやすく、無節操で、無主義ですから、卓越することができないと言われたのです。この預言は文字通り成就しました。聖書中、ルベンの族から出たすぐれた大人物は一人もいません。ただ有名な人物は二人いますが、それは民数記16章ではなはだしい罪を犯したダタンとアビラムです。

民 16:1 レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、
16:2 会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。
16:3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、【主】がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、【主】の集会の上に立つのか。」
・・・

このようなのろいの原因は、ルベンが父の床に上り、姦淫罪を犯した為です。申命記27章20節には、「父の妻と寝る者は、自分の父の恥をさらすのであるから、のろわれる。」と宣言されています。ルベンの罪とのろいは、今日の私たちにとっても、警戒であり、教訓です。

シメオンとレビに対する預言も祝福ではなく、のろいです。(5~7節)

創 49:5 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。
49:6 わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。
49:7 のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。

他の息子たちは一人一人の名前が呼ばれて、別々に預言されていますが、この二人は一緒にされています。おそらくヤコブは34章のシェケムにおける二人の偽りと残虐な行為を覚えていたためであると思います。後に、レビの族は神に選ばれて祭司の権利を受けるようになりますが、この時にはそのことについては彼らの罪のためにヤコブには隠されていたのでしょう。
7節の「私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。」とありますのは、彼らの将来のことです。この預言も文字通り成就しました。シメオンの族はカナンの地の南の端に置かれ、ユダとベニヤミンの族によって隔てられて全く別れ別れになっています。レビの族は産業を受けられず、すべての部族の中に散らされました。彼らはその不信仰と残虐の結果として、兄弟たちから別れ別れに散らされてしまったのです。こういう結果はいつでも罪から出てくるものです。

2.ユダに対する預言(8~12節)

ユダははなはだ卑劣で無責任な肉的な者でした。後に彼はエジプトに下るに当って、自ら責任をもって弟のベニヤミンを連れて行き、父の心を痛めることを恐れてベニヤミンを保護し、自らベニヤミンの身代わりになることを申し出るなど、その言行を見ると、彼が先に失っていた徳、品性、地位、威厳などを回復したようです。
ユダの預言にはのろいはありません。彼はその罪の故に長子の権利を受けることができませんでしたが、系譜の権利を受け、その部族の栄と貴さが預言されています。

(1) ユダの部族は勝利を得る部族です(8節)

創 49:8 ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。

「ユダ」という名の意味は「誉れ」です。その名のとおり、兄弟たちにたたえられ、敵のうなじを踏みつけ、父の子たちが伏し拝む者となりました。

(2) ユダの部族は勇気のある部族です(九節)

創 49:9 ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。

ユダは獅子のように強く、勇ましく、威勢のある者です。ヤコブは各々を獣にたとえています。イッサカルはろばのように、ダンは蛇のように、ナフタリは雌鹿のように、ベニヤミンは狼のように、そしてユダは獅子のようなものであるといっています。

(3) ユダの部族は王的部族です(10節)

創 49:10 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。

王権はユダから離れず、統治者はその部族から離れることはないと言っています。その如く、主イエスはユダヤ人の王、また全人類の王(支配者)としてユダの部族から出られました。

(4) ユダの部族はメシヤ的部族です(10節)

シロ、すなわちメシヤが必ず来て、すべての人が彼に従うのです。

(5) ユダの部族は実を結ぶ部族です(11,12節)

創 49:11 彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。
49:12 その目はぶどう酒によって曇り、その歯は乳によって白い。

彼らは、ぶどうの実を結び、ぶどう洒でその着物を洗い、ぶどうの血で自分の衣を染めます。これは驚くべきキリストの型です、キリストはユダの部族から出て、勇気と大胆さに満ち、王たる権威を持ち、メシヤとして万民をご自分のもとに引き寄せ、まことのぶどうの木としてぶどう洒(喜びのこと)を注ぎ出されるお方です。

3.ゼブルンとイッサカルに対する預言(13~15節)

彼らはレアの子らです。

(1) ゼブルンに対する預言は、彼が「海辺に住み、船の着く岸辺に住むことでした。

創 49:13 ゼブルンは海辺に住み、そこは船の着く岸辺。その背中はシドンにまで至る。

この預言は文字通り成就しました。パレスチナの港ハイファ-はゼブルンの部族に属しています(聖書地図で確認してください)。
港は貿易所ですから、他に恵みを施す機会が与えられています。ですからゼブルンはその機会を活用すれば、それが祝福となるのです。大胆な活動ができるチャンスが与えられているのが、彼の祝福です。現在の私たちに、自由に福音を伝えることができるチャンスが与えられているのは神の大いなる祝福です。これを活かさなければ、祝福はわざわいに変わるでしょう。

(2) イッサカルの位置はゼブルンの反対で、陸のほうに置かれています。

49:14 イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す。
49:15 彼は、休息がいかにも好ましく、その地が、いかにも麗しいのを見た。しかし、彼の肩は重荷を負ってたわみ、苦役を強いられる奴隷となった。

イッサカルは堅実な働き人のようです。15節には、休息があり、その地は麗しい。しかし彼の肩は重荷でたわみ、苦役を強いられる奴隷のようです。彼は、罪の重荷を背負っているキリストのようでもあり、その苦しい働きの中にも安息と麗しさとがあります。

4.ダン、ガド、アセル、ナフタリに対する預言(16~21節)

この四人は女奴隷ビルハとジルバの子らです。

(1) ダンに対する預言は、祝福とのろいと祈りの三つに分かれています。

創 49:16 ダンはおのれの民をさばくであろう、イスラエルのほかの部族のように。
49:17 ダンは、道のかたわらの蛇、小道のほとりのまむしとなって、馬のかかとをかむ。それゆえ、乗る者はうしろに落ちる。
49:18 【主】よ。私はあなたの救いを待ち望む。

(a)ダンはのろわれた状態であるにも拘らず、民をさばく権利が与えられています(16節、サムソンの例)。
ヨハネの黙示録7章を見ると、イスラエルの子孫の各々から一万二千人ずつ額に印を押される者があると記されています。しかしこの中にはダンの部族が除かれています。これはダンの部族からにせキリストが出てくるためであると言われています。その根拠とされている記事がレビ記にあります。
レビ記23章と25章に、ユダヤ人の七つの例祭が記されています。これらはみな、予表として見るべきもので、

第一の過越の祭(23:5)は、十字架の贖罪

レビ 23:5 第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを【主】にささげる。

第ニの初穂の束を敵げること(23:10)は、キリストの復活

レビ 23:10 「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたが入り、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。

第三の五旬節(23:16)は、聖霊降臨、

レビ 23:16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を【主】にささげなければならない。

第四のラッパの祭(23:24)は、主が聖徒を携え挙げられる日(テサロニケ第一4:16,17)

レビ 23:24 「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。

Ⅰテサ 4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

第五の贖罪の日(23:27)は、ユダヤ人が救われ、回復される時、

レビ 23:27 「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を【主】にささげなければならない。

第六の仮庵の集(23:34)は、主が聖徒と共に再臨される時、

レビ 23:34 「イスラエル人に告げて言え。この第七月の十五日には、七日間にわたる【主】の仮庵の祭りが始まる。

第七のヨベルの年(25:8~)は、千年王国の型です。

レビ 25:8 あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。
25:9 あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。
25:10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。
・・・

この23章と25章の間、すなわち、ユダヤ人が回復されることの型と千年王国の型との間に、24章10,11節の話が出てきます。

レビ 24:10 さて、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちに出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争った。
24:11 そのとき、イスラエルの女の息子が、御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れて来た。その母の名はシェロミテで、ダンの部族のディブリの娘であった。

これは一見、前後の型と何の関係もないように見えますが、これはにせキリストが現われることの予表であると言われています。この神の御名を冒涜した者の父はエジプト人で、母はイスラエル人で、その名はシュロミテといい、ダンの部族の女でした。もしこの人物がにせキリストの型であるなら、にせキリストがダンの部族から出ると考えるのも理由のないことではありません。おそらく、そういう理由でヨハネの黙示録7章では、ダンの部族が除かれているのでしょう。

(b) ダンからにせキリストが出るならば、のろいを受けるのは当然です。ダンは道のかたわらの蛇、小道のほとりのまむし、馬のかかとをかんで乗る者をうしろに落とすとあります。これは、にせキリストが現われる時、彼は自らメシヤと称し、ユダヤ人と約束を結び、助けるけれども、後に、これを裏切って彼らを倒すのです。

(c) ヤコブはダンの恐るべきのろいを十分には理解できなかったであろうけれども聖霊によって、ダンをとおして恐るべきわざわいが来ることが示され、突然祈ったものと思われます。
「主よ。私はあなたの救いを待ち望む。」(18節)

(2) ガドは最初、軍勢に襲われるが、後に勝利を得る(19節)と預言されています。

創 49:19 ガドについては、襲う者が彼を襲うが、彼はかえって彼らのかかとを襲う。

ガドの部族の歴史をみると、彼らは勇ましい戦士たちでした。彼らはモアブ、アンモンの近辺に住んでいましたから、度々困難に会いましたが、歴代誌第一、5章18節以後を見ますと、彼らはモアブ、アンモンに勝ったことが記されています。
私たちは、このガドから、堅忍不屈な者が必ず勝利を得ることを教えられます。

Ⅰ歴代5:18 ルベン族、ガド人、マナセの半部族で、盾と剣を取り、弓を引き、戦いの訓練を受けた勇者たちのうち、従軍する者は、四万四千七百六十人であった。

(3) ゼブルンとイッサカルが対照的であったように、アシュルとガドは対照的です。

ガドは勇ましい戦士でしたが、アシュルは平和な農業を営み、王のごちそうを作り出します(20節、参考、伝道者の書5:9)。

創 49:20 アシェルには、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作り出す。

伝 5:9 何にもまして、国の利益は農地を耕させる王である。

人には各々異なった賜物があります。ある人は進撃的に働き、他の人は静かに仕事をして神のみ旨を行なう。アシュルの部族については、申命記33章24節にもっと評しく記されています。

申 33:24 アシェルについて言った。「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。

(4) 「ナフタリは放たれた雌鹿で、美しい子鹿を産む」(21節)

箴言5章19節をみると、鹿は愛らしく、いとしいものであり、詩編18篇33節をみると、鹿は滑らない足で絶壁をかけ上がるもの、詩篇42篇1節をみると、鹿は生ける水を慕いあえぐものです。

箴 5:19 愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。

詩 18:33 彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。

詩 42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

ナフタリもそのようです。彼は放たれた雌鹿のように自由で美しい者で、危険な絶壁をもかけ上がり、生ける水を慕い求め、美しい言葉を話します。これもまたキリストの型です。
マタイ4章15,16節をみると、主イエスはゼブルンとナフタりの地から伝道を始められました。
これはナフタリに対する預言が成就するために、主イエスが雌鹿のごとくうるわしいことばをナフタリの地から発せられたのです。

マタ 4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
4:16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」

5.ヨセフに対する預言(22~26節)

48章では、ヤコブはヨセフの子らのエフライムとマナセに祝福を与えましたが、49章では、ヨセフ自身について預言しています。

(1) ヨセフの過去の生涯(22~24節)

(a) ヨセフの生涯は実を結ぶ生涯でした(22節)。

創 49:22 ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える。

実を結ぶ秘訣は「泉のほとりにある」ことです(詩編1:3、エレミヤ書17:8〉。

詩 1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

エレ 17:8 その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。

根は人の心の思い、
実は品性の徳、
葉は口のことば、
枝は身の行ないです。
ヨセフは、根であるその心の思いを神ご自身のところに延ばして天の水を吸っていたから、よく実を結んだのです。

(b) 彼の生涯は迫害された生涯でした(23節)。

49:23 弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。

兄たちはヨセフを非常にねたみ、憎み、苦しめました。ポティファルの妻もヨセフを誘惑し、陥れて苦しめました。パウロも、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(テモテ第二、3:12)と言いました。

(c) 彼の生涯は強い信仰の生涯でした(24節後半)。

49:24 しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。

弓は信仰を表わし、失は祈りを示します(列王記第二13:14~19)。

Ⅱ列王 13:14 エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュは、彼のところに下って行き、彼の上に泣き伏して、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んだ。
13:15 エリシャが王に、「弓と矢を取りなさい」と言ったので、彼は弓と矢をエリシャのところに持って行った。
13:16 彼はイスラエルの王に、「弓に手をかけなさい」と言ったので、彼は手をかけた。すると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、
13:17 「東側の窓をあけなさい」と言ったので、彼がそれをあけると、エリシャはさらに言った。「矢を射なさい。」彼が矢を射ると、エリシャは言った。「【主】の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。」
13:18 ついでエリシャは、「矢を取りなさい」と言った。彼が取ると、エリシャはイスラエルの王に、「それで地面を打ちなさい」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。
13:19 神の人は彼に向かい怒って言った。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」

ヨセフの弓(信仰)はたるむことなく、いつでも強く堅固でした。だから驚くべき力をもって祈りの矢を発射することができました。その秘訣は、神の御手がヨセフの上にあったからです。

(d) 彼の生涯は希望のある生涯でした(24節後半)。

「それはイスラエルの岩なる牧者による。」これはキリストを指しています。キリストはユダの部族から出られましたが、それはメシヤとして、王としてでした。ここでは別のこと、すなわち、岩なる牧者として表わされています。これはユダヤ人のためだけでなく、全世界の贖われた羊の群の為です。
岩は教会の土台(マタイ16:18)、牧者は贖われた信者の監督(ペテロ第一、2:25)です。

マタ 16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

Ⅰペテ 2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

この預言によってヨセフは十二部族の中に含まれず、全世界の教会の頭としてのキリストの完全な型であることが分かります。

(2) ヨセフの将来の生涯(25,26節)

創 49:25 あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。
49:26 あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。

(a) 「上よりの天の祝福」(25節)これは聖霊による霊的祝福です。

(b) 「下に横たわる大いなる水の祝福」(25節)これは物質的祝福です。神は、霊的祝福に加えて、物質的祝福も与えてくださいます(ローマ8:32)。

ロマ 8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

神は天の父として、私たちの肉体の必要物も豊かに与えてくださいます(マタイ6:31~33〉。

マタ 6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

(c) 「乳房と胎の祝福(25節)これは繁栄の祝福です。

「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(ペテロ第一2:2)

これは乳房の祝福です。神のみことばによって養われることは、真の祝福です。

(d) 「あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ」(26節)これは無限の祝福です。ヨセフに対する祝福は、永遠の丘のきわみ、すなわち、全世界の人々にまで及ぶのです。これは明らかにキリストの型であり、この預言はキリストによって成就しました。

6.ベニヤミンに対する預言(27節)

創 49:27 ベニヤミンはかみ裂く狼。朝には獲物を食らい、夕には略奪したものを分ける。」

ヤコブが最愛の妻ラケルの子可愛いさで、人情によって預言していたのなら最も愛するベニヤミンのために、もっと愛情のこもった預言をしたであろうけれども、彼は神のみ声に従い、人情にとらわれず、忠実に神のみことばを語りました。
ベニヤミンに対する預言は、やがてベニヤミンの部族に表れてくる軍人的性質を示して、「かみ裂く狼」と言いました。ベニヤミンは最も小さい部族でしたが、最も軍人的気質をもっていました。この部族からは多くの人物が出ています。

二番目の士師エフデ(士師記3:15)

士 3:15 イスラエル人が【主】に叫び求めたとき、【主】は彼らのために、ひとりの救助者、ベニヤミン人ゲラの子で、左ききのエフデを起こされた。イスラエル人は、彼を通してモアブの王エグロンにみつぎものを送った。

イスラエルの初代の王サウル(サムエル第一9:1,2)

Ⅰサム 9:1 ベニヤミン人で、その名をキシュという人がいた。──キシュはアビエルの子、順次さかのぼって、ツェロルの子、ベコラテの子、アフィアハの子。アフィアハは裕福なベニヤミン人であった──
9:2 キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った。彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。

エステルとモルデカイ(エステル記2:5~7)

エス 2:5 シュシャンの城にひとりのユダヤ人がいた。その名をモルデカイといって、ベニヤミン人キシュの子シムイの子ヤイルの子であった。
2:6 このキシュは、バビロンの王ネブカデネザルが捕らえ移したユダの王エコヌヤといっしょに捕らえ移された捕囚の民とともに、エルサレムから捕らえ移された者であった。
2:7 モルデカイはおじの娘ハダサ、すなわち、エステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。このおとめは、姿も顔だちも美しかった。彼女の父と母が死んだとき、モルデカイは彼女を引き取って自分の娘としたのである。

大使徒パウロもベニヤミンの部族の出です(ピリピ3:5)。

ピリ 3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、

彼らはみな、偉大な勇士の気質をもっていました。

ここでもうー度、ヤコブの十二人の息子たちに対する預言を要約してみますと、

1、ルベンは品性が不堅実のためにのろいを受け(現代人にこのような人が多い)、
2、シメオンとレビは不信仰と残虐のために恥辱を受け(現代これは一般的です)、
3、ユダは王的、メシヤ的系譜の幸いを受け、
4、ゼブルンは機会を活用する責任を受け、
5、イッサカルは奉仕の成功の秘訣を受け、
6、ダンはのろわれる者にまで及ぶ祝福を受け、
7、ガドは堅忍不屈の報賞を受け、
8、アシュルは実を結ぶ幸いを受け、
9、ナフタリは自由を受け、
10、ヨセフは忠実な生涯の栄光を受け、
11、ベニヤミンは軍人としての勇気を受けました(気高く、勇気あるクリスチャンになりたいものです)。

ヤコブの最後の勧め(28~33節)

創 49:28 これらすべてはイスラエルの部族で、十二であった。これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福したとき、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。
49:29 彼はまた彼らに命じて言った。「私は私の民に加えられようとしている。私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。
49:30 そのほら穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にあり、アブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買い取ったものだ。
49:31 そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。
49:32 その畑地とその中にあるほら穴は、ヘテ人たちから買ったものである。」
49:33 ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。

ヤコブは最後に、自分の死体の葬りについて語りました。これには深い意味と目的があります。ヤコブは自分の死体をエジプトに葬らずに、カナンに携えて行き、そこに葬るように命じました。しかも間違いのないようにカナンの地(国)、マムレに面した(場所)マクペラの畑地(指定の所)を指示しました。
その墓はほら穴であること、以前はへテ人エフロンの所有であったこと、またアブラハムが買った所であることを話して、その畑にはほかに墓があるかもしれないから、間違わないようにアブラハム、サラ、イサク、リベカ、レアの葬られているほら穴であることを詳しく話して、そこに葬るように命じました。
この命令には重要な意味が含まれています。そこは、神が約束をもって与えられたカナンの国であること。それ故、子孫がこのことを忘れないように、必ずカナンの国に帰ることを覚えさせるために、自分の死体をカナンの国に運ばせて葬らせたのです。これは信仰と希望から出た命令です。

(以上、創世記49章、聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、イギリスの版画家 Thomas Bolton Dalziel(1823–1906)が1861~1864年頃に描いた挿絵「Jacob Blessing His Twelve Sons(彼の12人の息子たちを祝福するヤコブ)」

下の地図は、ヨシュアがカナンの地をイスラエル各部族に割り当てた相続地(「バイブルワールド-地図でめぐる聖書」ニック・ペイジ著、いのちのことば社刊より)

〔あとがき〕

いよいよ次号で創世記も終わりになります。ここまでくるのに三年以上もかかってしまいました。しかしそれでも私の心の中には幾分かの満足感があります。この間、聖書の探求を途中で止めてしまわれた方も何人かおられます。とても残念でした。しかしそれよりもずっと多くの方々が、途中から購読くださり、一号にさかのぼってバックナンバーをお求めくださいました。
私たちの信仰の成長には、聖書が霊的に分かるということが不可欠です。しかし聖書を探求していくには、時間をとり、忍耐強くコツコツと学んでいくしかありません。それ故、真剣に聖書に取り組む人は少ないのです。
これから暑くなってくると、昼間執筆するのが困難になってきます。早朝か、夜になります。ほかに多くの仕事をかかえての執筆ですので、執筆者の霊性と健康が守られるようにお祈りいただければ幸いです。
感謝しつつ。
(1987.6.1)

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