聖書の探求(038) 創世記48章 マナセとエフライムの祝福

37章よりヤコブの歴史は、主としてヨセフのことを記してきましたが、ここではヤコブ自身のことを記しています。すなわち、ヤコブが信仰によってヨセフとその子らを祝福したことです。ここでエフライムが長子マナセより大いなる者となることが預言されています。これはどのように成就されていっているでしょうか。

(1) さらに広い領地を要求、ヨシュア記17:14~18

ヨシ 17:14 ヨセフ族はヨシュアに告げて言った。「【主】が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。」
17:15 ヨシュアは彼らに言った。「もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。」
17:16 ヨセフ族は答えた。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。」
17:17 するとヨシュアは、ヨセフ家の者、エフライムとマナセにこう言った。「あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。
17:18 山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」

(2) ギデオンに抗議する威勢を持っている。士師記8:1

士 8:1 そのとき、エフライム人はギデオンに言った。「あなたは、私たちに何ということをしたのですか。ミデヤン人と戦いに行ったとき、私たちに呼びかけなかったとは。」こうして彼らはギデオンを激しく責めた。

(3) 王国分裂の時、ヤロブアムに従い、北のイスラエルの中心的存在となる(列王第一12章)。

王国分裂の原因はソロモンの罪(根本的原因)、ソロモン以来の重税(直接的原因)、ユダとエフライムの対立、ヤロブアムの野心、エジプト王シシャクの政策(列王第一11:40、14:25,26、歴代第二12:2~9)です。

Ⅰ列王 11:40 ソロモンはヤロブアムを殺そうとしたが、ヤロブアムは立ち去り、エジプトにのがれ、エジプトの王シシャクのもとに行き、ソロモンが死ぬまでエジプトにいた。

Ⅰ列王 14:25 レハブアム王の第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来て、
14:26 【主】の宮の財宝、王宮の財宝を奪い取り、何もかも奪って、ソロモンが作った金の盾も全部奪い取った。

Ⅱ歴代 12:2 レハブアム王の第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来た。彼らが【主】に対して不信の罪を犯したからである。
12:3 戦車一千二百台、騎兵六万がこれに従った。また、彼とともにエジプトから出陣した民、すなわちルブ人、スキ人、クシュ人の人数は数えきれないほどであった。
12:4 彼はユダに属する防備の町々を攻め取り、エルサレムまで攻め寄せて来た。
12:5 そのとき、預言者シェマヤが、レハブアムと、シシャクを前にしてエルサレムに集まったユダのつかさたちのもとに来て、彼らに言った。「【主】はこう仰せられる。『あなたがたがわたしを捨て去ったので、わたしもまたあなたがたを捨ててシシャクの手に渡した。』」
12:6 すると、イスラエルのつかさたちと王とはへりくだり、「【主】は正しい」と言った。
12:7 【主】が、彼らのへりくだった様子をご覧になると、シェマヤに次のような【主】のことばがあった。「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさない。間もなく彼らに救いを与えよう。シシャクの手によって、わたしの怒りをエルサレムに注ぐことはやめよう。
12:8 ただし、彼らは彼のしもべとなる。わたしに仕えることと地の諸王国に仕えることとの違いを思い知るためである。」
12:9 エジプトの王シシャクはエルサレムに攻め上って来て、【主】の宮の財宝、王宮の財宝を奪い取り、何もかも奪って、ソロモンが作った金の盾をも奪い取った。

1.ヨセフの積極的な信仰(1,2節)

創 48:1 これらのことの後、ヨセフに「あなたの父上は病気です」と告げる者があったので、彼はそのふたりの子、マナセとエフライムを連れて行った。
48:2 ある人がヤコブに告げて、「あなたの子ヨセフがあなたのもとにおいでです」と言ったので、イスラエルは力をふりしぼって床にすわった。

ヨセフは信仰をもって自ら父の祝福を受けようとして、二人の子どもを連れてヤコブのもとに行きました。ヨセフは霊的直感(私たちも信仰の道を歩み続けることによって、この霊的洞察力や判断力、価値感を聖霊によって養っていただくことができます。)によって、父ヤコブには神の祝福を分け与える権威と力があることを知って、神の祝福を尊びました。しかし他の兄弟たちはこのことを弁(わきま)えず、父ヤコブの祈りはただ口でその願いを言い表わすだけであると思ったのです。クリスチャンの祈りについても同じように考えている人がいるのではないでしょうか。大いに反省し、悔い改めたいと思います。

エレミヤ書17章5~7節には、人間に信頼する者と主に信頼する者の違いが記されています。

エレ 17:5 【主】はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が【主】から離れる者はのろわれよ。
17:6 そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。
17:7 【主】に信頼し、【主】を頼みとする者に祝福があるように。

6節には、「しあわせが訪れても会うことはなく」とあります。だれにでも、しあわせのチャンスは与えられています。そして神に信頼する者はこれを祈り求め、ついに神の祝福を得ますが、人間に信頼している者はこれを見分けることができません。
ヨセフは信仰によって見ていましたから、自らすゝんで祝福を受けましたが、他の兄弟たちは自らすゝんで求めようとはしませんでした。(ヘブル11:6)

ヘブル 11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

2.祝福を受ける信仰の基礎(3,4節)

創 48:3 ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して、
48:4 私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』

多くの人は感情によって祈りますが、真の祝福を受ける祈りはそのようなものではありません。ヤコブはヨセフに、自分が祝福を受けるに至った三つのことを思い出して、それを話しました。

①ルズの地でヤコブに神が現われたこと
②そこで、神がヤコブを祝福されたこと
③神がヤコブに約束を与えられたこと

特に、この約束は彼の子孫の繁栄を意味していましたから、ヤコブは大胆に祝福の預言を発表したのです。
ルズとは、べテルのことです。ベテルで神は二度、ヤコブに現われました(28章と35章)。28章はヤコブが直接神と会った最初の時、すなわち彼の救いの時です。35章はヤコブの潔めの更新の時です。ヤコブの潔めは32章のペヌエルの経験ですが、ここでヤコブが思い出したのは、35章の約束です。(35:9~12)

創 35:9 こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。
35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。
35:11 神はまた彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。
35:12 わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。」

特に11節では、「諸国の民のつどいが、あなたから出て」とあります。これはユダヤ一国だけではなく、多くの国民が出るという意味です。ヤコブは、神が自分に与えられた約束に基づいて祈ったのです。これが神の祝福を受ける方法です。

使徒4章24~30節のクリスチャンたちの祈りをみると、
(1)創造主なる神(24節)
(2)神のみことば(25節)
(3)神の預言(26節)
(4)神が主イエスを立てられたこと(27節)
の四つの事実の上に立って(信じて)祈っています。

使 4:24 これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。
4:25 あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。
4:26 地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』
4:27 事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油をそそがれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、
4:28 あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました。
4:29 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
4:30 御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」

3.祝福の条件(5~7節)

創 48:5 今、私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子にする。
48:6 しかしあとからあなたに生まれる子どもたちはあなたのものになる。しかし、彼らが家を継ぐ場合、彼らは、彼らの兄たちの名を名のらなければならない。
48:7 私のことを言えば、私がパダンから帰って来たとき、その途上カナンの地で、悲しいことに、ラケルが死んだ。そこからエフラテに行くには、なお道のりがあったが、私はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道のその場所に彼女を葬った。」

ヨセフの二人の子どもはヤコブの子どもとなり、十二部族を立ててからはヨセフの名前は十二部族の中には出てきません。この二人の子どもの名前がヨセフに代わったのです。つまりヨセフは他の兄弟と比べて、二倍の分を受けることになったのです。これは長子の権利に相当します。
ヨセフの二人の子どもはヤコブの孫でしたが、ルベンやシメオンと同じようにヤコブの子どもとなるのは、霊的に幸いな特権であっても、当時としては非常な犠牲であったと思われます。なぜなら、この二人の子どもは当時比類なきエジプトの支配者の子どもだったからです。それが、人の目から見れば、卑しい一介のユダヤ人となるのですから。ですから、ヨセフがこの特権を受けたのには、その当時としては最大の犠牲を払い、最大の信仰をもって神の祝福を見通していたからにほかなりません。彼は決して目先のことで判断したのではありません。目先のことで自己中心的になりやすい私たちは、特に注意したいものです。
7節では、ヤコブはヨセフを祝福する前に、ヨセフの母である最愛の妻ラケルを思い出したようです。ラケルは死んでヨセフとベニヤミンのほかに子どもがいなかったから、ヨセフの二人の子どもをラケルが生んだ子どもであるかのようにヤコブの子どもとするという意味を含んでいるように思われます。
とにかくヨセフは長子の権利を軽んじず、喜んで自分の地位や子どもたちの将来も投げ打って、長子の権利を受けました。これが祝福の道です。見えるところに頼らず、見えないものを重んじて、天にある宝を得るために、自分の手中にあるものを捨てたのです。(ピリピ3:4~9)

ピリ 3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

またヨセフ自身の名が十二部族の中に含まれず、かえって二人の子どもの名前が加えられることを甘んじて承知したのも、ヨセフの犠牲だったでしょう。しかしそれが祝福を受ける条件でした。

4.祝福の奥義 (8~14節)

創 48:8 イスラエルはヨセフの子らに気づいて言った。「これはだれか。」
48:9 ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった子どもです。」すると父は、「彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう」と言った。
48:10 イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった。それでヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。
48:11 イスラエルはヨセフに言った。「私はあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった。」
48:12 ヨセフはヤコブのひざから彼らを引き寄せて、顔を地につけて、伏し拝んだ。
48:13 それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。
48:14 すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。

ここには祝福のための神の絶対的権威が示されています。
神はしばしば長男を捨てて、次男を選ばれたことがあります。たとえば、カインは捨てられ、アべルが受け入れられ、イシュマエルは捨てられ、イサクが立てられ、エサウが拒絶され、ヤコブが祝福されました。
ここでも、エフライムは次男でありながら、長男のマナセを越えて祝福を受けています。ヨセフ自身も、ルベン、シメオン、レビ、ユダなど、年上の兄たちを越えて祝福を受けています。
ヤコブは聖霊に導かれて、神のみ旨に従い、手を交差して右手を次男の上に置いて、長子の祝福を与えました。ヤコブは自分の軽験(兄エサウが長子の権利を軽んじて、自分が奪ったこと)を思い出していたでしょうけれども、自分の経験に基づいてしたのではなく、神に導かれて預言の力をもって行なったのです。

5.祝福の与え主(15,16節)

創 48:15 それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。
48:16 すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。

ヤコブは祝福を受ける権利を神の約束の上におきましたが、今ここで、その祝福の与え主である神ご自身の権能と慈愛と摂理とを覚えて祈りました。

(1)「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神」

これは全能の神です。(17:1)

創 17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。

アブラハムをカルデヤのウルから呼び出された神、すなわち父なる神を差すと思われます。この父なる神がアブラハムとイサクに与えられたのと同じ祝福を自分の子孫にも与えられるようにと願ったのです。

(2)「きょうこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」

これは実の養いを与えてくださる主イエスを差しています。主イエスは「まことのパン」です。ヤコブは自分の罪深い生涯にも拘らず、恵みをもって養われてきたことを覚えて、その子孫にも同じ神の養いを願ったのです。

(3)「すべてのわざわいから私を購われた御使い。」

これは聖霊を差します。聖霊はこの世を旅する私たちと伴ってくださる神です。
主イエスは昇天されましたが、聖霊は地上にあって私たちの生活を導き、すべてのわざわいから救い出してくださいます。ヤコブは自分の経験から、その子孫のために聖霊の保護を祈ったのです。

聖書中に「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という呼び名が何度も記されています。これは神が死んだ者の神ではなく、生きた者の神であることを意味しています。(マタイ22:32)

マタ 22:32 『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」

アブラハムの神は父なる神であり、イサクの神はイサクの代わりにモリヤの山で犠牲の羊を備えられた神、主イエス・キリストを差し、たえずさまよって旅をしながら、苦難をなめたヤコブの神は、クリスチャンの生涯を導かれる聖霊を差すと考えられます。

6.祝福の性質(16~19節)

創 48:16 すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」
48:17 ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。
48:18 ヨセフは父に言った。「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、こちらの頭に置いてください。」
48:19 しかし、父は拒んで言った。「わかっている。わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」

ヤコブはレアによって六人の子どもを得、最愛の妻ラケルによって二人の子どもを得ました。そのほかの四人の子どもは、女奴隷の生んだ子どもでした。
この家族には三つの権利がみられます。すなわち、長子の権利、系譜の権利、祭司の権利です。(祭司の権利は、後に付け加えられた権利です。)
これらの権利はだれに与えられたのかというと、
長子ルベンは不倫の罪によって、長子の権利を失い、次男シメオンも、三男レビも34章の恐ろしい罪によって、この権利を失いました。四男ユダもまた38章の罪によって長子の権利を継ぐことができず、長子の権利はラケルの長子ヨセフに与えられました。
系譜の権利は、ルベン、シメオン、レビたちには与えられず、四男のユダに与えられました。系譜の権利はいうまでもなく、キリストの先祖となる権利で、ユダヤの王権でもありました。
祭司の権利は、三男のレビに与えられました。この祭司の権利は永久的なものではなく、モーセの時からキリストの出現までの間の権利であって、キリストが祭司となられたことによって、レビの祭司の権利はなくなりました。
長子の権利は祭司の権利や系譜の権利よりも大切なもののように記されていますから、その祝福は最も深く、広く、長く、高いものでしょう。しかし長子の権利が与えられたヨセフはキリストの系図にもなく、ヨハネの黙示録21章12節の新しいエルサレムの十二の門の中にもヨセフの名前はないように思われます。

黙 21:12 都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。

(ただし、ヨハネの黙示録7章8節では、ヨセフの部族の名があり、ダンの名が記されていません。)

黙 7:8 ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。

それでは、この長子の権利は、ただヨセフが二人の子どもをとおして二つの分け前を受けただけのことだったのでしょうか。エフライムとマナセはどのような祝福を受けたのでしょうか。

(1) エフライムとマナセはヨセフの名をもって称えられず、アブラハムとイサクの名とともに称えられています。(16節)
これはすなわち、イスラエルの十二人の先祖たちの中に数えられることです。

(2) 16節と19節をみますと、彼らは大いなる国民となることが記されています。
十人の兄弟の祝福は、ユダヤの一国民の先祖となることでしたが、エフライムとマナセに対しては、その子孫は国々を満たすほど多くなることが約束されています。この約束はまだ成就されていませんが、必ず将来成就されるべきものです。
おそらく、キリストの再臨の時、ユダヤ人がエルサレムに帰ってきて、この約束が文字通り成就されるものと思われます。

7.祝福の封印(20~22節)

創 48:20 そして彼はその日、彼らを祝福して言った。「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。』」こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。
48:21 イスラエルはヨセフに言った。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に帰してくださる。
48:22 私は、あなたの兄弟よりも、むしろあなたに、私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケムを与えよう。」

ヤコブはこれらの祝福の上に、さらに祝福を加えて封印しました。エフライムとマナセがこのように祝福されたことは、すべてのイスラエル人の模範です。ヤコブはヨセフにもう一つの約束を加えました。それは神がイスラエル人を先祖の地、すなわちパレスチナに導き返される時、ヨセフの受けるべき分としてシェケムの地を与えました。このシェケムはシメオンとレビが暴虐によって取ったものでしたが、これを彼らの暴虐の故に取り上げて、彼らによって迫害を受けたヨセフに特別の賜物として与えました。

(以上、創世記48章、聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、イタリアの画家 Guercino(1591–1666)が描いた「Jacob Blessing the Sons of Joseph(ヨセフの息子たちを祝福するヤコブ)」(National Gallery of Ireland蔵、Wikimedia Commonsより)

〔あとがき〕

「手元に届きますと、ワクワクしながら封を切るのです。」
「信仰の支えになるみことばを感謝です。かみくだかれてあるので、とても心にしみるようです。」
など、励ましのお言葉を頂き聖名を崇めています。
先日、聖書の探求はこのスピードでいくと、ヨハネの黙示録まで何年くらいかかるか計算しましたら、七十年という数字が出ました。しかし、その頃まで私は生きることができないでしょうから、もっとスピードアップしなければなりません。大体一人で聖書全体に取り組むなんて無茶なことなんだと分かっていても、聖書の魅力にとりつかれてしまうと、挑戦したくなってしまいます。
私は文章を書くことが多くて、上衣やセーターの右手の袖がすり切れてしまいます。それで家内が古いスポーツ着の袖を切り取って手おおいを作ってくれましたが、これはヒジを冷さないためにも重宝しています。しかし右手の疲労や痛みも出て、左手で字がかけるようにならないかと思ったりしています。
(1987.5.1)

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