聖書の探求(040) 創世記50章 ヤコブの死体の埋葬と、ヨセフの愛と信仰の告白と死

この章は、創世記の締括りの章であり、ヤコブの死体の埋葬と、ヨセフの愛と信仰の告白と死が記されています。

1.ヤコブの死の悲しみ(1~6節)

創 50:1 ヨセフは父の顔に取りすがって泣き、父に口づけした。
50:2 ヨセフは彼のしもべである医者たちに、父をミイラにするように命じたので、医者たちはイスラエルをミイラにした。
50:3 そのために四十日を要した。ミイラにするにはこれだけの日数が必要だった。エジプトは彼のために七十日間、泣き悲しんだ。
50:4 その喪の期間が明けたとき、ヨセフはパロの家の者に告げて言った。「もし私の願いを聞いてくれるのなら、どうかパロの耳に、こう言って伝えてほしい。
50:5 私の父は私に誓わせて、『私は死のうとしている。私がカナンの地に掘っておいた私の墓の中に、そこに、必ず私を葬らなければならない』と申しました。どうか今、私に父を葬りに上って行かせてください。私はまた帰って来ます、と。」
50:6 パロは言った。「あなたの父があなたに誓わせたように、上って行ってあなたの父を葬りなさい。」

ヤコブは預言と最後の命令を終えると、平安のうちに息絶えて眠りにつきました。ヨセフは非常に悲しんで、父の顔に取りすがって泣き、父に口づけしまレた。しかし、他の兄弟たちの嘆きについては何も記されていません。ヨセフが真実の愛をもって泣いたのは当然のことです。彼は特に父に愛され、長い間離れて暮らし、神の特別な摂理によって、再び、父の晩年を親しく交わったのですから。
3節をみると、エジプト人も七十日間泣き悲しんだとあります。これはエジプト人の習慣であり、エジプト人はヨセフのために泣き悲しんだのとともに、ヤコブをも尊敬するようになっていたので、真実な態度をもってこの習慣を守ったものと思われます。
4節。ヨセフは喪の衣を着、髪も切らず、ヒゲもそらなかったから、直接パロに会うことをはばかって、使いをやってパロに父をカナンの地に葬ることの許しを願いました。そして王の許可を得て、カナンの地へと出発したのです。

2.ヤコブの葬り(7~13節)

創 50:7 そこで、ヨセフは父を葬るために上って行った。彼とともにパロのすべての家臣たち、パロの家の長老たち、エジプトの国のすべての長老たち、
50:8 ヨセフの全家族とその兄弟たちおよび父の家族たちも上って行った。ただ、彼らの子どもと羊と牛はゴシェンの地に残した。
50:9 また戦車と騎兵も、彼とともに上って行ったので、その一団は非常に大きなものであった。
50:10 彼らはヨルダンの向こうの地ゴレン・ハアタデに着いた。そこで彼らは非常に荘厳な、りっぱな哀悼の式を行い、ヨセフは父のため七日間、葬儀を行った。
50:11 その地の住民のカナン人は、ゴレン・ハアタデのこの葬儀を見て、「これはエジプトの荘厳な葬儀だ」と言った。それゆえ、そこの名はアベル・ミツライムと呼ばれた。これはヨルダンの向こうの地にある。
50:12 こうしてヤコブの子らは、命じられたとおりに父のために行った。
50:13 その子らは彼をカナンの地に運び、マクペラの畑地のほら穴に彼を葬った。そこはアブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買ったもので、マムレに面している。

ヤコブの葬りの式は盛大なものでした。ユダヤ人の王たちの葬りの時にも、このような盛大な儀式はなかったと思われます。国なき旅人として軽蔑されたヤコブの葬りがこのように盛大であろうとは、夢にも思わなかったことでしょう。私たちもこの世にあっては旅人、寄留人としての徹底した生活をしましょう。私たちの故郷は神が用意してくださっている天の故郷です。そして、私たちの葬りは神とみ使いたちが盛大に執り行なってくださいます。それは私たちが考えている以上のことです。それ故、この世のものに執着せず、旅人の生涯を送りたいものです。
当時エジプトの国は世界最大の帝国でした。7~9節をみれば、パロのすべての家臣たち、パロの家の長老たち、エジプトの国のすべての長老たちがヤコブの葬りに参列しています。彼らが何千人であったかは分かりません。それにヨセフの家族と兄弟たち、父の家族たち、これもおそらく数百人以上であったでしょう。その上に、戦車と騎兵とが伴い、大軍勢となりました。聖書は、「その一団は非常に大きなものであった。」(9節)と言っています。
彼らはゴレン・ハアタデ(アタデの打ち場)で、七日間葬儀を行ないました。これを見ていたカナンの人々は、イスラエル人もエジプト人も区別がつかなかったので、ゴレン・ハアタデをアベル・ミツライム(エジプトの嘆き、あるいはエジプトの葬儀)と呼びました。
このようにして、ヤコブの子孫たちは、彼らの父ヤコブをカナンの地に葬ったという強い印象を受けました。これはヤコブが求めていたことであり、神のご目的でもありました。

3.再び、エジプトヘ(14節)

創 50:14 ヨセフは父を葬って後、その兄弟たちおよび、父を葬るために彼といっしょに上って行ったすべての者とともに、エジプトに帰った。

葬儀が終わると、ヨセフと兄弟たちは、再びエジプトに帰ってきました。彼らはせっかく自分の母国に帰ってきたのであるから、そのままそこにとどまりたかったでしょうが、今エジプトを出てしまうのは神のみ旨ではありませんでした。
神がヤコブの子孫をエジプトから導き出されるのは、彼らが苦しみ、悩み、奴隷として圧迫され、自分の力では脱出できないことを自覚した後に、神の奇跡的力によって救出されることでした。これは私たちの救いについても、同じことが言えます。人間の願いとしては、立派に堂々とした態度で救われたいのですが(ヤコブの葬儀の大行列の如く)、それでは神の栄光が現わされません。かえって、人の高ぶりとなってしまいます。神の栄光が現わされるためには、神ご自身の奇跡的みわざによって救われるのでなければなりません。これが恵みです(エペソ2:5~9)。

エペ 2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

4.兄たちの不信仰(15~18節)

創 50:15 ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない」と言った。
50:16 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。
50:17 『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。
50:18 彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」

エジプトに帰ると、兄弟たちの心は不信仰になり、ヨセフに対して恐ろしい疑いを持ち始めました。ヨセフが今までやさしくしていたのは、父ヤコブを悲しませないためであって、父が死んだ今は、彼らの古い罪を咎めて、復讐をするに違いないと言い出し、使い(おそらく、ヨセフの弟のベニヤミンであったと思われる)を出して、ヨセフに父の名を用いてヨセフが彼らの罪を赦してくれるようにと求めました。そして彼らは、ヨセフの返事を聞いてから、みんな出て来て、ヨセフの前にひれ伏して、ヨセフの奴隷となると約束しました。
ここに大切な教訓があります。すなわち、不信仰はどれほど深く人の心の中に根ざしているかということです。生まれながらの心は、自分の心のわだかまりの思いを基準にして、他人の思いをもそうだと判断するのです。兄たちは、ヨセフが自分たちを真実な愛をもって愛し、すべてを赦しているとは、どうしても考えられなかったのです。人には、真に神を経験するまでどうしても理解できないものがあるのです。兄たちは、自分たちが持っている卑劣な心を、ヨセフも持っていると思ったのです。
サタンが主イエスを誘惑したのも、主イエスが自分と同じか、あるいは他の人間と同じ思いをもっていると判断したからです。未信者の人が真のクリスチャンを見るときにも、同じような思いを持つでしょう。また私たちも、自分と同じような思いを神も持っておられると思いやすいのです。しかし神の思いは私たちの思いとは異なり、はるかに高いのです(イザヤ55:8,9)。

イザ 55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

兄たちは、自分たちが不信仰で卑劣な心の故に、ヨセフの真実で透徹る寛大な愛の心を曲解したのです。

5.ヨセフの豊かな赦し(19~21節)

創 50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。
50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。
50:21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。

(1) ヨセフは兄弟たちのことばを聞いて泣きました。先には、兄弟たちの悔い改めの婆を見て悲しみに耐えず、別室に退いて泣きました(42:24)。

創 42:24 ヨセフは彼らから離れて、泣いた。それから彼らのところに帰って来て、彼らに語った。そして彼らの中からシメオンをとって、彼らの目の前で彼を縛った。

さらに、ベニヤミンを見たときにも、情にせまって奥の部屋に行って泣きました(43:30)。

創 43:30 ヨセフは弟なつかしさに胸が熱くなり、泣きたくなって、急いで奥の部屋に入って行って、そこで泣いた。

しかしここでヨセフが泣いたのは、先の二回の涙とは異なります。ヨセフは兄弟たちの不信仰を嘆いて泣いたのです。
人の心が最も痛むのは、信じてもらえるはずの人に信じてもらえない時です。ヨセフが長い間かけて、愛と恵みと、寛大な心を現わし続けてきたにも拘らず、兄弟たちに誤解され、信用されなかったのは、実に涙を流すほど悲しいことでした。
主イエスがラザロの墓で涙を流されたのも、同じ理由です(ヨハネ11:32~35)。

ヨハ 11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。

ここでは、主イエスは同情の涙を流されたのではありません。主は彼らの不信仰を見て嘆かれたのです
主は私たちが不信仰になるとき、憤りにも似た嘆きをもって泣かれるのです。
ヨセフの兄弟たちは、ヨセフの涙を見て、一層深く自分たちの不信仰を悔い改め、不信仰の恐ろしさを知ったのでしょう

(2) ヨセフは、兄弟たちの心から恐れを取り除き、平安を与えるために彼らの思いを神に向けさせました。

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。」(20節)

ユダヤ人たちは主イエスをねたみ、十字架にかけましたが、神はイエスを立てて、主となし、救い主となされたのです。
パウロも、神は、愛する者のためには、すべてのことを益に変えてくださると言っています(ローマ8:28)。

ロマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

ヨセフの生涯の成功の秘訣は、どんな状態の時にも、神を意識的に信じ、神を自分の心の中心に崇め、だれにでも神を示したことです。少年時代に夢を見た時にも、無邪気にその夢を父と兄弟に話し、エジプトで奴隷となってからも、ポティファルの前に神を言い表わし、ポティファルの妻に誘惑された時にも、これを拒むのは神を畏れているからだと言明し、監獄で二人の囚人の夢を解くときにも、自分の知恵によるのではなく、神であることを示し、パロの前で夢を解く時にも、自分の力を否定し、神の力を大胆に言い表わしました。
ヨセフの成功の秘訣はここにあります。神がヨセフの心の全ての全てであったのです。神は常にヨセフの目にあり、心にあり、ことばにあったのです。そしてここで、兄弟たちの恐ろしい罪を赦す理由も、神です。事の表面的な原因を見ず、その第一原因である神を見て、いかなるわざわい、いかなる不幸に会うにしても、それは神が許されたことであると信じ、認め、人を裁く心を持たず、復讐する考えも持たず、ただ神の中におり、神に包まれ、神に目を向け、神のみこころを悟り、神の愛を味わい、すべての苦しみを神にゆだねたのです。
それ故、ヨセフが兄たちの罪を赦したのは、一時の感情や人情によったのではなく、まして父のいる間だけというのではなく、神を畏れ、神を信じ、神を愛し、神に従っていたからです。

(3) ヨセフは、兄弟たちに平安を語っただけでなく、これから後も引き続いて、彼らの家族を養い、慰め、保護することを約束しました(21節)。

50:21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。

これは主イエスの美しい型です。私たちも主イエスの深い愛と恵みを味わいたいものです。

6.ヨセフの死と勝利(22~26)

創 50:22 ヨセフとその父の家族とはエジプトに住み、ヨセフは百十歳まで生きた。
50:23 ヨセフはエフライムの三代の子孫を見た。マナセの子マキルの子らも生まれて、ヨセフのひざに抱かれた。
50:24 ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」
50:25 そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください」と言った。
50:26 ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めた。

ヤコブもヨセフも最後の時、自分の葬りについて命令しましたが、そこには違いがあります。ヤコブは49章29~31節で見たとおりに、自分の死体をエジプトに葬らずに、カナンの地に運ばせて葬らせました。

創 49:29 彼はまた彼らに命じて言った。「私は私の民に加えられようとしている。私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。
49:30 そのほら穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にあり、アブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買い取ったものだ。
49:31 そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。

しかしヨセフは、反対に自分の死体をエジプトにとどめておいて特別の葬儀をさせず、神が定められた時がきて、イスラエル人をカナンに帰らせる時に、その死体を携え上って、カナンの地に葬ることを誓わせました。
ヤコブもヨセフも共に信仰によって誓わせたのです。ヤコブがカナンの地に葬られたいと望んだのは、それによってイスラエル人の国はエジプトでなく、カナンであることを子孫にはっきりと覚えさせるためであり、ヨセフは自分の死体を棺に納め、いつもイスラエル人の目の前に置いておき、神の定めの時に、カナンに帰って行くべきことを覚えさせるためでした(ヘブル11:22)。

ヘブル 11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。

ヨセフの棺は、忘れることができないための象徴でした。ヨセフは、もし子孫がヤコブの盛大な葬儀を忘れることがあっても、自分の死体が棺に納められて彼らの中にあれば、彼らは決して忘れることがないと思ったのです。イスラエルの子孫には、カナンに葬られたヤコブの骨と、エジプトにある葬られていないヨセフの骨の二つのしるしがありました。この二つのしるしは、いつもイスラエル人の心の中に、自分たちが旅人であること、寄留者であること、そしてカナンに帰るべきことを覚えさせました。
このヨセフの命令は、ヨセフの国がこの世の国ではなく、天の御国であり、ヨセフの望みは、この世の望みではなく、天の望みであることを示しています。彼はこの命令によって、彼の信仰が絶対的で完全であることを示しています。
創世記は、神が天地を創造されたことから始まり、ヨセフの天の思いをもって終わっています。

 

〔ヨセフについての考察〕

1.ヨセフの神観

(1) 道徳的支配者としての神 39:9(42:17~19)

創 39:9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

創 42:17 こうしてヨセフは彼らを三日間、監禁所にいっしょに入れておいた。
42:18 ヨセフは三日目に彼らに言った。「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから。
42:19 もし、あなたがたが正直者なら、あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。

(2) 啓示者としての神 40:8(41:16)

創 40:8 ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは彼らに言った。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」

創 41:16 ヨセフはパロに答えて言った。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」

(3) 歴史の支配者としての神 41:32

創 41:32 夢が二度パロにくり返されたのは、このことが神によって定められ、神がすみやかにこれをなさるからです。

(4) 慈悲の父、慰めの神 41:52(コリント第二1:3)

創 41:52 また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた」からである。

Ⅱコリ 1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

(5) 祝福の神 43:29(48:9)

創 43:29 ヨセフは目を上げ、同じ母の子である弟のベニヤミンを見て言った。「これがあなたがたが私に話した末の弟か。」そして言った。「わが子よ。神があなたを恵まれるように。」

創 48:9 ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった子どもです。」すると父は、「彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう」と言った。

(6) 摂理の神 45:5,8、 50:20

創 45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。
創 45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

創 50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

2.理想的信仰者

ヨセフの生涯を神が置かれた場所によって分けてみますと、

(1) 父のもと(家族)におけるヨセフ
(2) 奴隷としてのヨセフ
(3) 獄中のヨセフ
(4) 宮殿におけるヨセフ(パロの前に立つ)
(5) 権威の座にあるヨセフ
(6) 兄弟とともにあるヨセフ
(7) 老年のヨセフ

ヨセフはどんな情況においても、完全な信仰者でした。幸福な時にも、不幸な時にも、弱い時にも、強い時にも、身分が奪われた時にも、高い地位についた時にも、神に対しても、自分に対しても、主人に対しても、しもべに対しても、王に対しても、国に対しても、親に対しても、兄弟に対しても、いつでもどこでも変わることなく、完全な品性を表わしています。

(ヨセフの七つの品性)

(1) 質朴な透徹った性格、少しも偽りのない心。

人を邪推せず、間違った基準で判断せず、くもりのない心で人を判断した。彼が若い頃にみた夢を、そのまま話したのも、そのような単純、質朴な性質からでした。

(2) 心のきよい、罪に対して敏感な人。

若い時にも、兄弟の悪い行ないを見て黙っていることができず、迫害を受けることを知りながらも、それを父に告げました。彼の義は偽善的ではなく、犠牲的な義でした。エジプトでポティファルの妻に誘惑された時も、単に拒んだばかりでなく、それが神のみ前に恐るべき罪であることを言い表わしています。彼の心は潔く、その良心は鋭敏でした。これは聖徒の聖潔の生涯の奥義です。

(3) 勇気のある忍耐強い精神の持ち主。

兄たちに迫害され、正義のために訴えられ、罪なくして監獄に入れられ、依頼したことは二年間も忘れられ、患難に患難をなめても、なお希望を失わず、自暴自棄になりませんでした。

(4) 義務感が強く、忠義心があつく、忠実な人。

人は、最上のことができる時がきたら、最上のことをしようと考え、それまで自分にできることもしないで、ただ空想にふけることが多い。しかしヨセフは、最高の地位に達しない間も、現在の位置にあって、目の前の義務を忠実に実行した人です。家庭にあっても、奴隷に売られても、監獄に入っても、パロの宮殿にいても、権力と責任のある地位についても、いつでもどこでも、わずかな義務であっても、重大な義務であっても、忠実に果たしました。これが真の成功の一つの奥義です。

(5) 深い同情とすぐれた才能を備えていた人

とかくすぐれた才能のある人は、近づきがたく、親しみがたい人が多い。しかしヨセフはどこにいても人に愛せられ、ポティファルにも、パロにも、パロの臣下にも、エジプトの民にも愛されました。
それとともに、彼はすぐれた才能をもっていました。ポティファルの家を管理し、監獄を管理する力を示し、夢を解き、ききんに対する備えの知恵を示し、さらにエジプト国民の感情を害することなく国全体を王の権利のもとに統一した手腕はヨセフが大政治家としての才能を持っていたことを示しています。

(6) 人に対して寛大で、人を赦し、復讐心のない人。

これはヨセフの最も美しい徳です。ヨセフが兄弟たちの罪を赦したのは、やむをえずではなく、まごころからでした。ヨセフは愛と寛容をあらわし、赦すことを喜んだのです。

(7) 神を信じる完全な信仰。

これはヨセフの品性の基礎であり、冠です。彼はいつも神ご自身に目を向け、人の残酷な仕打、あるいは失敗より起きる困難な事情や境遇に目を向けませんでした。ヨセフにとって最も現実のものは神でした。彼の精神も心も思いも、みな神に包まれ、神の中にあったので、美しい聖霊の実(品性)を結んだのです。

ヨセフの生涯は、アブラハム、イサク、ヤコブの生涯と異なり、一度も神の顕現が記されていません。これは極めて注目すべきことです。これはヨセフが見えるところによらず、全く信仰によって歩んだことを示しています。今でも、ある人々は何か感情的に著しい経験をしないと神とともに歩んでいることを信じません。
しかしヨセフのような信仰の人は、感じても感じなくても、神ご自身を信じて、神とともに歩むのです。ヤコブの生涯が37章からヨセフの話で遮(さえぎ)られていますが、46章になって再びヤコブのことが出てくると、すぐに神が幻のうちに現われたことが記されています(46:1,2)。

ヤコブは目に見えるしるしがなければ導かれなかったので、神は幻のうちに現われてヤコブを導かれました。しかし、ヨセフは聖霊によって直接に導かれて、驚くべき成功の生涯、神とともに歩む生涯を送りました。ヨセフの品性や行ないをみると、それは聖霊に満たされないとできないところのものです。お互い、  ヨセフに比べて欠点の多いことを深く悟り、ヨセフの神が自分の神であることを信じ、へりくだって全き愛に満たされるように祈り求めるべきではないでしょうか。

3.キリストの型

(1) ヨセフとその兄弟との関係

ヨセフは父によって兄弟たちのところに遣わされ、彼らとともに居り、彼らにねたまれ、憎まれたにも拘らず、忠実に兄弟たちの罪を責め、夢によって自分と兄弟たちに関わる神の示しを語りました。
主イエスも父なる神からユダヤ人(肉における兄弟たち)に遣わされましたが、彼らは主イエスを受け入れず(ヨハネ1:11)、非常にねたみ、憎んだにも拘らず、三年の間、忠実に彼らの罪を譴責して、悔い改めをうながし、ご自分とユダヤ人に関するメッセージを示しました。

ヨハ 1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

(2) ヨセフが売られたこと

ヨセフが父に遣わされて来るのを見た兄弟たちは、無慈悲な策略を立て、銀二〇枚でイシュマエル人にヨセフを売りました。
主イエスに対しても、ユダヤ人の指導者たちは、残酷な策略を立て、弟子のイスカリオテのユダが銀三〇牧で主イエスを故に売り渡しました。

(3) ヨセフが辱(はずか)しめられたこと

ヨセフが罪なくして奴隷に売られ、罪なくして誘惑を受けて勝ち、罪なくして監獄に入れられ、獄中で監獄の長に信用され、二人の囚人に対して、一人には救いの恵みを、他の一人には審判を受けることを預言したこと、これらのことはみな、主イエスの型として主イエスの上に成就しています。
主イエスもこの世に下って来られて、しもべとなり、サタンに試みられて勝ち、罪なくして捕えられ、十字架と墓という監獄に入れられましたが、そこで刑を執行した百人隊長が感嘆したこと、また十字架の上で二人の犯罪人に会い、一人は恵みを受け、他の一人は審判を受けました。

(4) ヨセフが崇(あが)められたこと

ヨセフが急に監獄から出されて、エジプトの支配者の位にまで挙げられ、彼の家族だけでなく、エジプト全国、近隣諸国をききんから救う者となったのも、キリストの型です。
キリストも三日目に墓から復活し、天に昇り、神の右に坐し、救い主として立てられました。

(5) ヨセフの結婚

ヨセフはその知恵と力を現わし、エジプトに救いを施した報賞として妻が与えられました。その妻はオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテであり、ユダヤ人ではなく、異邦人の一人でした。これもキリストの型です。
キリストは私たち異邦人をも新婦とされます。しかも、キリストご自身が贖(あがな)われた教会を父なる神の御手から新婦として与えられるのです。(ヨハネの黙示録21:2)

黙 21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

(6) ヨセフの職務

ヨセフの職務の順序は驚くべきキリストの型として表わされています。ヨセフは命のパンの与え主として第一にエジプト人(異邦人)の命を助けました。次に自分の家族(ユダヤ人)を助けました。こうして後、帝国の民が食糧を買おうとしてヨセフのもとに集まり、ヨセフは世界の救い主となったのです。
キリストの職務もほとんどこの順序と同じです。第一にキリストは、まず今の時代に異邦人を救い、命のパンを与えておられますが、後になって、キリストの兄弟であるユダヤ人が再び故国ユダヤに帰り、回復されて救われるようになります。こうして後、世界中の国々からキリストを信じる者が起こされるのです。

使徒15章に、この三つの段階が記されています。

使 15:14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。
15:15 預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。
15:16 『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。
15:17 それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。

① 15:14 異邦人の中から御名をもって呼ばれる民をお召しになる。
② 15:16 倒れたダビデの幕屋が建て直される。すなわち、ユダヤ人が再び立てられること。
③ 15:17 残った人々、すなわち、すべての国民が主イエスを求めるようになること。

(7) ヨセフが兄弟たちに自分を現わしたこと
ヨセフは兄弟たちに自分を現わして平安を告げ、彼らを赦し、その命を助け、慰め、養い、全く回復したことはキリストの型です。
主イエスも再臨の時に、かつてご自分を拒み、ねたみ、憎み、裏切り、敵に渡したユダヤ人に現われ、この二千年間わざわいに会い、世界中に散らされ、のろわれ、苦しめられてきたユダヤ人に知られるようになるでしょう。このようにして、ユダヤ人は長い間知られなかったイエス・キリストのみ前にひれ伏して服従し、赦され、回復されるでしょう。

私たちは、このような驚くべきキリストの型を見る時、イスラエルの模型的歴史は決して偶然に符合したのでもなく、また誰か賢い人間の作為によったのでもなく(たとい人間の作為でこのようにしようとしても、とてもこれほど符合させることは不可能です。)、神の御計画によったものであることを信じざるを得ません。これを記している聖書は全く神の霊感によるものであり、私たちは神のみことばをいよいよ自分の導きの光として受け入れなければなりません。へりくだって、信仰によってみことばを聞き、その中にキリストの御声を聞かなければなりません。

(創世記 おわり 聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用)

上の写真は、フランスの画家 James Tissot (1836-1902)が描いた「Jacob’s Body Is Taken to Canaan(ヤコブの体はカナンの地へ運ばれる)」(アメリカ、ニューヨークのthe Jewish Museum蔵より)

下の写真は、イギリスのリトグラフ画家David Roberts (1796–1864) による「Tomb of Joseph at Shechem(シェケムのヨセフの墓)」(Wikimedia Commonsより)

〔あとがき〕

世界で最も買われているのが聖書なら、世界で最も読まれていないのも聖書だと言われています。クリスチャンなら一年に一回も聖書を通読しないなんてことはあり得ないはずだし、本当に救われているなら、もっと聖書を学びたいと思うのが普通です。ところがどこの教会の牧師もなんとかして信徒に聖書を読んでもらおうと四苦八苦しています。長年CSの教師をしている人でも、一度も聖書を通して読んだことがない人がいます。よく、「どうして日本にはクリスチャンの数が少ないんでしょうか。」という質問を受けます。伝道していないわけではない。ラジオやテレビで巨額の富を使って伝道しています。それなのに体勢は一向に変わってきません。日本の教会とクリスチャンに力がないのは、別の所に原因があるようです。それは聖書を読まない、信じない、行なわないからです。キリストを信じると言っても、神のことばを信じていない人が大勢います。その信仰にはしっかりした根拠がありません。だから力がないのです。
(1987.7.1)

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