聖書の探求(157) 申命記21章 犯人がわからない殺人、捕虜の女性を妻とする時、家族の問題
この章は、刺し殺した犯人がわからない場合、捕虜の女性を妻とする時、長子の権利の相続、父母に逆らう子に対する刑罰などが記されています。ここではおもに、刑罰的律法が取り扱われています。
1~9節、神の約束の地で起きた判明しない殺人。
殺人はそうしばしば起きることではないかも知れませんが、聖書は「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」(ヨハネ第一3:15)と言っています。殺人は憎しみから起きます。それ故、殺人の動機である憎しみを心に抱くことは、殺人と同じ罪とみなされているのです。
ここでは、殺人の犯人が判明しない場合のことが記されています。犯人がわからない場合でも、殺人の罪はそのままにしておいてはいけないとされています。今日、殺人の犯人が見つからない場合、そのままにされてしまって、社会的共同責任が問われませんから、各地域での防犯意識が非常に弱く、犯罪、いたずら等が野放しになってしまっています。
また殺人は、たとい自殺であっても、神が創造された命を人為的に絶つことですから、人に対する罪の中で、最も深刻な罪です。
主は犯人が分からない場合、最も近い所の者が、共同貴任を取るように命じています。どんな罪も、決してそのままに放置しておいてはならないのです。放置しておけば、やがて必ず、その町全体、社会全体、その国全体が滅びることになります。罪は民全体の内に広がり、神のさばきを受けることになるのてす。
この殺された人は、その生涯で実を結ぶことができなかったので、収穫のために一度も使われたことのない雌の子牛が、まだ一度も収穫したことのない谷(荒れた地)で首を折って殺されます。このようないけにえの儀式の定めは、これまでは制定されていなかったけれども、ここに初めて定められ、ここにも明らかに、イエス・キリストの十字架が光っています。
8,9節は、罪の赦しと聖潔が結び合わされています。
申 21:8 【主】よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。
21:9 あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。【主】が正しいと見られることをあなたは行わなければならないからである。
8節は罪の赦しを扱っており、9節は罪の除去、すなわち潔めを扱っています(ヘブル9:12~14、ヨハネ第一1:9)。
ヘブル 9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
Ⅰヨハ 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
ここで、その役割を果たす者たちは、2節、まず「長老たちとさばきつかさたち」です。
申 21:1 あなたの神、【主】があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、
21:2 あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。
長老たちは、町の評議員たちてあり、さばきつかさたちは、モーセによって各部族のリーダーとして任命された人々の後継者たちです。彼らは、町の治安と司法と行政を司る者たちです。
彼らは.その罪の共同責任を負う町を、犯罪現場からの距離を測って、決定する役目を担っています。彼らはこの決定にごまかしがないことを証明しなければなりません。
3,4節、雌の子牛を選んで、まだ一度も収穫したことのない谷に連れて来て、首を折って殺すのも、町の長老たちの仕事です。
申 21:3 そして、刺し殺された者に最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、
21:4 その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。
5~7節、次に、このいけにえの儀式を行なって判決を下すのは、神に仕えているレビ族の祭司です。
申 21:5 そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、【主】が、ご自身に仕えさせ、また【主】の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。
祭司には、最高の主導権と中心的司法権が委ねられていました。いつの時代でも、主に仕え、主の御名によって主の恵みと祝福を語る者の判断や態度は重要であり、非常に大きな影響を与えるものです。クリスチャンはこのことを日々に自覚して、毎日を過ごすべきです。自分の言葉や態度が、まわりの人々にどんな影響を与えるかを自覚すべきです。特に、毎日顔を合わせる家族や職場の同僚たちに対しては、心を用いるべきです。そうでないと、あなた自身が孤立と破滅に陥ることになります。コリント第一13章5節に、「(愛は)礼儀に反することをせず」とありますが、特に、親しい人々の間でこそこれをしなければならないのですが、現実はこれと反対で、親しい人に対しては、我がままな態度をとり、ののしりの言葉も平気で言うために、悲劇が起きているのです。親しい者の間だから許されるという面もあるでしょうが、度を越すと、かえって家族だから耐えられなくなるということも知っておかなければなりません。人間的要素として屈辱にも限界があることを知っておかなければなりません。
6,7節、祭司の指導に従って、犯罪のあった所から最も近い町の長老たちが、いけにえにされた子牛の上で手を洗わせます(詩篇126:6)。
申 21:6 刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、
21:7 証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。
詩 26:6 【主】よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。
それは、その町を代表して彼らが無実であることを示し、自分たちが罪を犯さなかったことと またその殺人の現場を見なかったこと、隠していないこと、ウソをついていないことを証言しなければならなかったのです。もし、偽りであり、ウソの証言をしているなら、長老たち全員が厳罰に処せられますから、重い責任があるのです。それ故、町の長老たちは町を正しく運営するようになるのです。
8節、しかし殺人の罪があれば、その犯行は事実ですから、罪の赦しの祈りをささげさせられています。
申 21:8 【主】よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。
これは、神の民のための、とりなしの祈りです。犯してしまった罪は、確実にあがなわれなければなりません。今日、私たちにはイエス様の十字架のあがないがありますから、私たちは日ごとに信仰の更新をすることによって、赦され、潔められ、解決されます。そればかりでなく、自分で気づいていない過失についてまでも、主の十字架のあがないの恵みは赦しを与えてくださっているのです。
9節、しかし、罪は犯す前に取り除かなければなりません。罪には、必ず神の刑罰が下ります。
申 21:9 あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。【主】が正しいと見られることをあなたは行わなければならないからである。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)
罪は、安易な気持で引き起こしますが、必ず深刻なことになるのです。私たちは、自分が正しいと思うかどうかではなく、主が正しいと見られる事を行わなければなりません。
「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。」(箴言12:15)
「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)
この箇所は、最も卑怯な者の罪に対する警告です。
「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言28:13)
このようにして、長老たちのいけにえがささげられても、殺人犯本人の罪が赦されたわけではありません。本人には必ず、神の刑罰か下ります。しかし町は守られ、神との健全な関係を保つことができ、社会の秩序も保つことかてきるのです。
10~23節、主の相続地を汚してはならない。
この箇所は、家族の問題が扱われており、主がこれほど細かい事にまで立ち入って命じておられることには、驚かされますが、実に家庭の問題こそ、国家安寧の最心の問題であり、神の民として、信仰の継承と、神の国建設の中心的問題です。家庭が乱れて崩壊すれば、やがて必ず、国は傾いてきます。
10~14節は、戦いで捕虜にした女性を妻にする場合のことが記されています。
申 21:10 あなたが敵との戦いに出て、あなたの神、【主】が、その敵をあなたの手に渡し、あなたがそれを捕虜として捕らえて行くとき、
21:11 その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら、
21:12 その女をあなたの家に連れて行きなさい。女は髪をそり、爪を切り、
21:13 捕虜の着物を脱ぎ、あなたの家にいて、自分の父と母のため、一か月の間、泣き悲しまなければならない。その後、あなたは彼女のところに入り、彼女の夫となることができる。彼女はあなたの妻となる。
21:14 もしあなたが彼女を好まなくなったなら、彼女を自由の身にしなさい。決して金で売ってはならない。あなたは、すでに彼女を意のままにしたのであるから、彼女を奴隷として扱ってはならない。
イスラエル人は、カナンに住む異教の女性との結婚を厳重に禁じられていました(7:3)。
申 7:3 また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。
それは、近隣の偶像礼拝がすぐに侵入してくる危険が強かったからです。
11節でいう、妻とする女性は、20章14,15節に記されている、非常に遠く離れている国々の女性のことです。
申 20:14 しかし女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ってよい。あなたの神、【主】があなたに与えられた敵からの略奪物を、あなたは利用することができる。
20:15 非常に遠く離れていて、次に示す国々の町でない町々に対しては、すべてこのようにしなければならない。
ヨシュア記9章に出てくるギブオン人は、非常に遠い国の者であることを装っておりましたので(ヨシュア記9:3~15)、ヨシュアは油断したのです。
しかしこのことは、特にすすめられているのではありません。万一、このようなことが起きた場合の例外的処置を言ったものです。
自分の妻にする女性は、捕虜であっても、特別な敬意を払わなりればなりません。これは今日の人々にも、最も欠けている点ではないでしょうか。
異教の人と結婚する場合、すぐには結婚できませんでした。
12節、まず「髪をそり、爪を切り」今でも同じですが、この世の異教的習慣は、髪や爪に表われています。
これを取り除くように言われているのは、パウロがローマ12章2節で、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と警告しているとおりです。今日、クリスチャンもこの世の人の真似をしたがる傾向がありますが、それは世俗化への傾向を示しています。しかし、主は、異教の習慣を神の民の中に持ち込むことを禁じて、それらを全部捨てるように命じておられます。
13節、「捕虜の服を脱ぎ」この女性は、もはや捕虜ではなく、神の民の一員となることが求められています。
「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。」(ルカ15:22)
新約聖書では、罪の古い人、罪の奴隷の服を脱ぎ捨てて、新しい人を着るべきことが強調されています(エペソ4:22~24、コロサイ3:9~10)。
エペ 4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
4:23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、
4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。
コロ 3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
さて、彼女は、一か月間、自分の両親のために泣き悲しむことが許されています。しかし結婚後は、両親のことを忘れて、神の民の人の妻として、適合することが求められているのです。これは彼女が神の民の中の一員となるためには、異教の習慣を捨て、両親からも独立する必要があることを示しています。これは信仰者が両親を顧みないでいいと言っているのではありません。人格的に独立することを言っているのです。
「娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。」(詩篇45:10,11)
「あなたを捨て、あなたから離れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所に私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(ルツ記1:16,17)
ルツは異教の人、モアブ人でしたが、その信仰の故に神の民の中に迎え入れられ、ボアズと結婚し、ダビデ王の曾祖母となり、救い主イエス様の系図に加えられています(マタイ1:5)。
マタ 1:5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1~3)
14節の「彼女を好まなくなったら」とは「夫が彼女に心をとめなくなったら」という意味です。
こうなると、奴隷だった妻は悲惨なほど弱い立場におかれることになりますので、妻には正当な権利が保証されたのです。
第一に、再び奴隷に売られることなく、自由の身にすることを保証すること。これは今日の私たちにとっては当り前のことと思われるかもしれませんが、今から一世紀前までは文明国と言われていた国々でも奴隷の売買が行なわれていたことを思えば、イスラエルに与えられていた神の律法が、いかに弱者の人格と人権を守ることに注意が払われていた、すぐれたものであったかが分かります。しかし今日でも、妻たちの中には、夫に奴隷のようにののしられ、扱われている人は、少なくないのです。主はそのようなことを、いつまで許しておかれるのでしょうか。
15~17節は、嫌がられている相続人について記しています。
申 21:15 ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合、
21:16 その人が自分の息子たちに財産を譲る日に、長子である、そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。
21:17 きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである。
この箇所は、一夫多妻をすすめているわけではありません。むしろ一夫多妻が多くの悲劇とわざわいを生む例を上げているにすぎません。ヤコブがレアとラケルの姉妹を妻にした時の苦しみ、エルカナがペニンナとハンナを妻にしていた時のわざわいは、それを物語っています。
夫と妻が共に愛と信頼と、互いの人格を尊重する生活を続けているなら、先の問題も、この問題も生じてこないのです。しかし人間は自己中心ですから、互いに不満を抱き、不平を言い、自己主張して、非礼を行ないますから、アダムとエバの時から、今日まで夫婦の争いは絶えたことがないのです。
その夫にとって、最初の男の子が、嫌っている妻の子どもであっても、長子としての権利はその子にあり、その子に財産の二倍の分け前を与えなければなりません。二倍の分とは長子の権利を意味しており、その家督の継承者となることを意味しています。
ここでは、夫が愛する妻の息子に、長子の権利を与えたいという思いを持つことを警告しているのです。創世記に記されているヤコブはその思いを抱いでいました。彼は愛する妻ラケルの産んだ息子ヨセフに、その長子の権利を継がせたかったものと思われます。その思いは、ヤコブがヨセフに「そでつきの長服」を作ってやったことにも見られるし(創世記37:3)、
創 37:3 イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。
ヤコブが剣と弓とを持ってエモリ人の手から取ったシェケムをほかの兄弟よりも、むしろヨセフに与えようと言っていることでも分かります(創世記48:22)。
創 48:22 私は、あなたの兄弟よりも、むしろあなたに、私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケムを与えよう。」
彼自身(ヤコブ)も、兄エサウが愚かにも長子の権利を軽視し、放棄した故に、弟であったヤコブが受け継いで、神の祝福を受けています(創世記25:27~34、27:27~40)。
創 27:30 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くか行かないうちに、兄のエサウが猟から帰って来た。
創 27:34 エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。「私を、お父さん、私も祝福してください。」
また、ヨセフの二人の息子のうち、下の息子エフライムは、ヤコブの手を交差した祈りによって、兄のマナセではなく、弟のエフライムが長子の権利を得ています(創世記48:
13~20)。
創 48:20 そして彼はその日、彼らを祝福して言った。「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。』」こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。
また、エリシャはエリヤに、「あなたの霊の、二つの分け前」を求めて、それを得ています。
このように信仰による例外はありますが、通常、親の好き、嫌いの自分中心によって、長子の権利を移してはならないことを定めたのです。
これは今日、人情によって、霊的祝福や特権、召命などを狂わせてはならないことを示しています。霊的特権は、血筋や人情によってではなく、正確に、主のご命令に従って引き継がれなければなりません。
18~21節、両親に逆らう子ども
申 21:18 かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、
21:19 その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、
21:20 町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです」と言いなさい。
21:21 町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。
ここでの特徴は、子どもの訓練が家庭の両親のもとで効果を上げずに、その子が堕落し父母の言うことに従わない場合、両親の与える刑罰は制限されています。親が勝手に子どもを殺せば、殺人罪に問われることになります。そこで、公的に組織された法的権威、すなわち、町の長老たちによって、さばいてもらう必要が出てきます。
21節では、親に逆らう子どもに対しては現代では厳し過ぎるように見えますが、厳罰の石で打ち殺す刑罰が課せられています。なぜなら、親は神の代理人とみなされて、親に逆らうことは、神に逆らうとされていたからです。勿論、ここでは親が神に従っている場合のことです。平気で親に逆らう子どもが増えるなら、神に逆らう国民が増え、国は崩壊していくことになります。しかしイスラエルの律法における死刑は、異教の国々におけるよりもずっと少なかったのです。それは、イスラエルでは、礼拝は純潔を守ること、生命の神聖さを守ること、性の神聖さを守ること、その他、親に対する服従など、人として生きていく上で重要かつ、根本的に守らなければならないことが教えられ、これを破ると死刑が宣告されていたからです。
22,23節、木につるされた者
申 21:22 もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、
22節、「木につるす」ことは、死刑を執行するためではありません。
ここでは、死刑になった者の死体を木につるして、さらして、犯罪者が神の律法を破り、のろわれた者となったことを公に宣言し、イスラエルの全会衆の戒めとするためです(民数記25:4、サムエル第二4:12)。
民 25:4 【主】はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕らえて、白日のもとに彼らを【主】の前でさらし者にせよ。【主】の燃える怒りはイスラエルから離れ去ろう。」
Ⅱサム 4:12 ダビデが命じたので、若者たちは彼らを殺し、手、足を切り離した。そして、ヘブロンの池のほとりで木につるした。しかし、イシュ・ボシェテの首は、ヘブロンにあるアブネルの墓に持って行き、そこに葬った。
しかし、のろわれた者の死体を木につるすことは、本人がのろいを受けるだけでなく、神の相続地ものろわれてしまいます。このような者が沢山出るということは、その地がのろわれることになります。
23節、のろいは早く、神の相続地から取り除いてしまわなければなりません。願わくは、そのような、のろわれるべき者が出ないことが、最も求められるペきなのです。
申 21:23 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、【主】が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。
(まなべあきら 1997.4.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵は、FreeBibleimagesのサイトより引用した申命記20章のイラスト。(FreeBibleimages is a registered Christian charity in the United Kingdom with no denominational or commercial affiliation. → https://www.freebibleimages.org/ )
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