聖書の探求(158) 申命記22章 隣人愛の実行、主の創造の秩序を守れ、結婚は神聖に

21章は、家庭内の問題を扱っていましたが、22章は目を外に向けています。外といっても、近隣の同族に対してです。ここでは、信仰は、感情的な喜びや興奮だけでなく、実践的で、倫理的でなければならないことを強調しています。今日、すべてのクリスチャンがこれらの点で、神の愛の動機を持って実践するなら、大きなあかしの力となります。これは実に、身近な隣人に対する愛の実践から始めなければなりません。私たちの信仰が、実行のない理屈だけになるなら、だれも信じないでしょう。これが現代の日本のキリスト教の姿ではないでしょうか。しかし人の目は、愛の実践に触れる時に、覚まされるのです。真の宗教は、社会において、神の愛と義を実行させるものです。」よく対人関係の問題が議論されますが、結局は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(ルカ10:27)という隣人愛を実践できるか、どうかなのです。キリストの救いは、これを現実に実行させるものです。

イエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために釆たのです。」(マタイ5:17)と言われました。信仰は、キリストへの愛と信頼をもって行なうことであり、律法は神のご命令への服従の面を示しています。この二つが一体となる時、宗教は完全なものとなるのです。イエス様はこのことをして下さったのです。実に、ここではこの二つが一つとなっています。すなわち、神の律法への服従が求められるとともに、その根本にある隣人に対する愛と善意の態度が求められています。

22章の分解

1~4節、隣人愛の実行
5~12節、主の創造の秩序を守れ
13~30節、結婚は神聖に守られなければならない

1~4節、隣人愛の実行

ここでは当時の隣人の財産に関わることに対して言われています。

1~3節は、隣人の財産である家畜や着物が失われた場合であり、知らぬ振りをしたり、黙って横取りしたりしてはなりません。必ず、持ち主の所に返すように命じられています。

申 22:1 あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。

4節は、隣人のろばや牛が道で倒れている場合、これを助け起こさないと、死んでしまい、隣人は大きな損害を受けることになります。

申 22:4 あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。

このことは、ルカの福音書10章25~37節のよいサマリヤ人の話を思い起こさせます。

ルカ 10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

4節は、横取りしないまでも、冷淡さの故に、隣人に損害を与え、苦しませないようにという戒めです。

1,2節の牛と羊は、イスラエル人にとって最も重要な財産です。またそれは主へのいけにえともするものです。これらの牛と羊が迷っているのを見たら、「知らぬふりをしてはならない。」神を愛している者は他人に対して冷淡になることができません。

「愛は、・・・礼儀に反することをせず」(コリント第一13:4,5)

2節、もし、その持ち主が遠くの者で、その人を知らない場合でも、それをあずかって世話をし、持ち主が見つかったら、返さなければなりません。

申 22:2 もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。

3節のろばは、イスラエル人にとって労働力として使っていましたから、これもまた、大切な財産でした。また当時、着物は相当に貴重品であり、それを見つけたなら、知らぬふりをしてはなりません。

申 22:3 彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。

これらのことを通して、隣人に実際に神の愛を現わすのです。今日、クリスチャンは自分を守ることだけに心を用いています。もっと同信の友に対して、心からの愛の配慮と分かち合いをしていかなければなりません。

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ44:6)

「互いに重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテヤ6:2)

「自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:4)

「ですから、私たちは、機会のあるたびにすべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」(ガラテヤ6:10)

「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。」(ローマ15:2,3)

これらのことは、決して社会福祉活動でもなければ、ボランティア活動でもありません。これは真の神を正しく礼拝する者たちが当然つくっていくぺき神の国の社会です。内的信仰をあかしする者は、自分と自分の家族が満足するだけでなく、必ず隣人への愛の実践が求められています。これを知らぬ振りをしたり、手助けをしないことは、偽善です。内的愛の信仰は、必ず外的愛の行為となって現われてこなければならないのです。

5~12節、主の創造の秩序を守れ

これまで、神の義が家庭生活や隣人愛に活かされなければならないことが記されていました。しかし契約の主は、神の義を社会の生活習慣や制度の中にまで定着させるべきであると命じられています。

クリスチャンにおいても、献身や信仰、謙遜という言葉は、しばしば使われていても、それらが口先だけで終わってしまっていることが多く、それが実際に行なわれることはあまりありません。主は、ご自身の義が私たちの生活の中で真実でさらに、ごく自然に行なわれるようになることを強く求めておられるのです。もし私たちが、主の創造の秩序である神の義を、自分の好みや自分勝手な欲望で排除し、破壊していくなら、人間の生活や生命そのものの存在が危うくなってくるのです。なぜなら、人間と自然界を含めた全被造
物は神のものであり、その造り主の義の秩序を保って、調和していなければならないからです。人類はかつて、戦争によって、この神の義を拒み、創造の秩序を破壊して来まし
た。しかし、この二〇世紀末には、特に文明国といわれる国々の人々の大量消費生活によって、戦争以上に、主の創造の秩序を破壊し、やっとその危険が自分にも及んでくることに気づき始めて、あわてているのです。これにはクリスチャンである私たちも、こぞって消費生活を楽しむことによって加わってきましたから、責任があります。今や、地球は森林を失って、砂漠化しているとか、排気ガス(炭酸ガス)による地球の温暖化によって極地の氷が急速に解け始めて、大氷原だった所が大きな湖となり、南の島々の水位が上がり、海中に水没しようとしています。やがて人類は自分たちに必要な酸素を失い、自分が立っている土地は水中に沈み、炎熱で苦しみ全滅していく時が来るでしょう。今のままで
主の創造の秩序の破壊行為が続けられていくなら、その時が来るのは、そんなに遠い将来のことではないでしょう。私たちは、神の義を拒み、その秩序を破壊すれば、自分たちの生存や生活を続けることが不可能になることに気づかなければなりません。

「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」 (ローマ八・22)

5~12節にも書かれていることは、今日の人々によっても、勝手に犯されています。しかし、それがそれほどに重大な事であると、考えていないのではないでしょうか。しかし主は、私たちに重視することを厳しく要求しておられます。

5節は、異性の衣装を身に着けることを禁じています。

申 22:5 女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、【主】は忌みきらわれる。

このことは特に頽廃(たいはい)的な、快楽的で、物質主義で非人格的な人々の間で流行しており、それは衣服だけでなく、髪型などにも表われてきています。これは今日、クリスチャンと呼ばれている人々の間にも侵入してきています。

このように、男女の性別の区別をはっきりさせず、不明瞭にすることによって、いつでも社会には性的不道徳な状態が蔓延し、若者たちは心身共に堕落していったのです。

男性と女性はたとい結婚しない人であっても、互いに助け合うために造られていますから、仲良く交わっていることは大変よいことです。そこで男女の秩序を明確にすることは、お互いの人格を尊重する上でも重要なことではないでしょうか。それは仕事の分担とか、役割ということではなく、互いに助け合い、分かち合う上でも大切なことではないでしょうか。性は人格であることを忘れてはなりません。性を遊びの道具にする人は、自分の人格も、相手の人格も無視し、神を冒涜しているのです。

6~7節、今日、神が創造された動植物の多くの種が絶滅に瀕していると叫ばれていますが、それは人間が自分の欲望によって無秩序に、無制限に乱獲したためです。

申 22:6 たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵が入っていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。
22:7 必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。

それは鳥、獣、魚、野の虫や草花にまで及んでいます。これをそのまま続けることは、何を意味するのでしょうか。小さい動物、虫たち、草花が住めない地球には、人間も住めなくなるということではありませんか。それはただの自然破壊だけでなく、人間の生存を危うくするのです。私たち人間の高慢(自然界は人間が自分の思い通りにできると思っていること)と欲望は、結局自分を滅ぼすことになるのです。人類は今や、自分の欲望と高慢によって、滅びつつあるのです。このことを私たちは十分に自覚して、主が創造された人をも、自然をも愛し、大切にし、主の義に従ったシンプル・ライフをすべきではないでしょうか。

8節、主が創造された秩序の中で、主が最も注目しておられるものの一つは、人の血です。

申 22:8 新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけなさい。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないために。

当時の人は、よい空気を楽しんだり、見晴らしを楽しんだりするために、平な屋根の屋上を作りました。それによって、しばしば屋根から落ちて血を流す事故を起こしていました。今日、世界の国々での事故は、うなぎ上りに増えています。交通事故は世界で数えられないほどになり、流血の事件は無数といっていいでしょう。これらの死は、神の義の秩序を乱すことから生じています。

9~11節は、もう一つのことを言っています。

申 22:9 ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。
22:10 牛とろばとを組にして耕してはならない。
22:11 羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。

これは宗教的理由から禁じられています。これはクリスチャンの生活の中に異教的な要素を取り入れてはならないことを意味しています。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとべリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。』」(コリント第二6:14~18)

9節は、ぶどう畑に二種類の種を蒔いた場合、その収穫が、みな汚れたものとなる危険があると言われています。

申 22:9 ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。

これはクリスチャンの心のうちに、自己中心の性質と信仰とが、同居していて、潔められない状態が続く場合、すべてが汚れたものになってしまう危険があることを予表しています。この箇所を掘り下げていくと、潔められた信仰は、主が「種類に従って」創造されたみわざにまで行きつくことになります(創世記1:11)。

創 1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。

神の創造は、決して二種類の種を混ぜ合わせるような創造ではありませんでした。

申 22:12 身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない。

12節の着物の四隅にふさをつけることは、神のご命令への服従のしるしです(民数記15:37~41)。

民 15:38 「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。
15:39 そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、【主】のすべての命令を思い起こし、それを行うため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、
15:40 こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。

神への従順と服従こそ、祝福の道であり、高慢と自己中心は、自らの破滅の道です。

13~30節、結婚は、神聖に守られなければならないこと

申 22:13 もし、人が妻をめとり、彼女のところに入り、彼女をきらい、
22:14 口実を構え、悪口を言いふらし、「私はこの女をめとって、近づいたが、処女のしるしを見なかった」と言う場合、
22:15 その女の父と母は、その女の処女のしるしを取り、門のところにいる町の長老たちのもとにそれを持って行きなさい。
22:16 その女の父は長老たちに、「私は娘をこの人に、妻として与えましたが、この人は娘をきらいました。
22:17 ご覧ください。彼は口実を構えて、『あなたの娘に処女のしるしを見なかった』と言いました。しかし、これが私の娘の処女のしるしです」と言い、町の長老たちの前にその着物をひろげなさい。
22:18 その町の長老たちは、この男を捕らえて、むち打ちにし、
22:19 銀百シェケルの罰金を科し、これをその女の父に与えなければならない。彼がイスラエルのひとりの処女の悪口を言いふらしたからである。彼女はその男の妻としてとどまり、その男は一生、その女を離縁することはできない。
22:20 しかし、もしこのことが真実であり、その女の処女のしるしが見つからない場合は、
22:21 その女を父の家の入口のところに連れ出し、その女の町の人々は石で彼女を打たなければならない。彼女は死ななければならない。その女は父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱になる事をしたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。
22:22 夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。
22:23 ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、
22:24 あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。
22:25 もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。
22:26 その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合は、ある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである。
22:27 この男が野で彼女を見かけ、婚約中のその女が叫んだが、救う者がいなかったからである。
22:28 もしある男が、まだ婚約していない処女の女を見かけ、捕らえてこれといっしょに寝て、ふたりが見つけられた場合、
22:29 女と寝たその男は、この女の父に銀五十シェケルを渡さなければならない。彼女は彼の妻となる。彼は彼女をはずかしめたのであるから、彼は一生、この女を離縁することはできない。
22:30 だれも自分の父の妻をめとり、自分の父の恥をさらしてはならない。

今日、性は快楽的遊びとして乱用され、結婚は各々の官能的好みによって行なわれ、また各々の好みによって軽々しく離婚されています。聖書は、性と結婚を神聖なものとして守らなければならないことを示しています。なぜなら、それは神が人の祝福と繁栄のために与えられたものであり、それは潔い愛と信頼という非常に高い人格的なものとして与えられたものであり、さらに結婚は、神聖な家庭を築き、神の民を形成していくために与えられたものだからです。これを快楽のために乱用するなら、神のご目的を破壊するのです。

(まなべあきら 1997.5.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、English: Biblical illustrations by Jim Padgett, courtesy of Sweet Publishing, Ft. Worth, TX, and Gospel Light, Ventura, CA. Copyright 1984. Released under new license, CC-BY-SA 3.0(Wikimedia Commonsより)


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