聖書の探求(156) 申命記20章 戦闘準備の忠告、将軍たちの指揮、占領の方法
この20章は、敵との戦いにおける注意がされています。敵との戦いは、特に、カナン入国の時に実践しなければならないことでしたが、イスラエル人はこの命令に徹底的に従わずに、カナン人をわずか残しておいたことによって、命取りになってしまったのです。
私たちは、自分のうちに潔められない自己中心の自我が残っている限り、それがどんなにわずかであり、弱っているように見えても、やがてその自己中心の自我が自分を征服するようになり、命取りになるのです。この内なる敵は、必ず、滅ぼし尺くし、潔められなければなりません。
この章において、
1節は、総論、
2~4節は、祭司による霊的メッセージによる激励、
5~8節は、つかさたちによる、戦いの妨げとなる者を取り除く指導、
9~20節は、将軍たちの指揮のもとに攻戦する時の指導が記されています。
これは、武力戦争にしろ、経済戦争にしろ、無神論者の戦略とは、全く異なっています。
1~8節、戦闘準備の忠告
申 20:1 あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、【主】が、あなたとともにおられる。
20:2 あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、
20:3 彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。
20:4 共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、【主】である。」
20:5 つかさたちは、民に告げて言いなさい。「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。
20:6 ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。
20:7 女と婚約して、まだその女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が彼女と結婚するといけないから。」
20:8 つかさたちは、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」
(警告)
1、恐れてはならない(1、3節)
2、弱気になってはならない(3節)
3、うろたえてはならない(3節)
4、おじけてはならない(3節)
(約束)
1、主が、あなたとともにおられる(1節)
2、共に行って(4節)
3、あなたがたの敵と戦い(4節)
4、勝利を得させてくださる(あなたがたを救って)(4節)
(家へ帰らなければならない者)
戦友たちの心をくじくといけないから。
1、新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者(まだ移り住んでいない者)
2、ぷどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者
3、女と婚約して、まだその女と結婚していない者
4、恐れと弱気になっている者
9~18節、占領の方法
申 20:9 つかさたちが民に告げ終わったら、将軍たちが民の指揮をとりなさい。
20:10 町を攻略しようと、あなたがその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。
20:11 降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民は、みな、あなたのために、苦役に服して働かなければならない。
20:12 もし、あなたに降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲しなさい。
20:13 あなたの神、【主】が、それをあなたの手に渡されたなら、その町の男をみな、剣の刃で打ちなさい。
20:14 しかし女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ってよい。あなたの神、【主】があなたに与えられた敵からの略奪物を、あなたは利用することができる。
20:15 非常に遠く離れていて、次に示す国々の町でない町々に対しては、すべてこのようにしなければならない。
20:16 しかし、あなたの神、【主】が相続地として与えようとしておられる次の国々の民の町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。
20:17 すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、【主】が命じられたとおり、必ず聖絶しなければならない。
20:18 それは、彼らが、その神々に行っていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、【主】に対して罪を犯すことのないためである。
1、まず降伏を勧めなさい。-降伏に同意して門を開くなら- 民を苦役に服して働かせる(貢を納める者とし、仕えさせる。)。
2、降伏せず、戦おうとするなら-包囲せよ。
①非常に遠く離れている町々
. 町の男をみな、剣の刃で打ちなさい。
. 女、子ども、家畜、すべての略奪物を、戦利品として取ってよい。
②主が相続地として与えようとしておられる国々の民の町(ヘテ人、エモり人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人)
. 息のある者をひとりも生かしておいてはならない。主が命じられたとおり、必ず聖絶しなければならない。
19~20節、攻め取るとき、木を切り倒してはならない。
申 20:19 長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。
20:20 ただ、実を結ばないとわかっている木だけは、切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまでその町に対して、それでとりでを築いてもよい。
①その木の実を取って食べる
②野の木は逃げ出さない
③実を結ばないと、はっきり分かっている木だけは、切り倒して、敵の町が陥落するまで、その町に対して、その木でとりでを築いてもよい。
1節は、総論ですが、
申 20:1 あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、【主】が、あなたとともにおられる。
「あなたが敵と戦うために出て行くとき」
イスラエルはいつでも戦ったのではありません。
10~11節では、降伏する者とは、戦いません。
申 20:10 町を攻略しようと、あなたがその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。
20:11 降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民は、みな、あなたのために、苦役に服して働かなければならない。
主は、ご自分の前に降伏する者とは、戦われません。主は主に敵対する態度を取る者と戦われるのてす。
「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(ペテロ第一5:5)
「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのてす。」(ヤコブ4:4)
「神が払たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)
私たちは旧約聖書において、イスラエルが戦いを聖なるものとして、神の戦いとして戦っているのをしばしば見るのを驚いてはなりません。これは今日、私たちに戦争をすすめているのではありません。旧約聖書に見られる神の民の戦いを見る時、そのすべてが本質的に霊的戦いであることが分かります。そして、これらの戦いは、人を用いて戦われていても、人の戦いではなく、主とサタンとの戦いです。それは主の民が抹殺され、信仰が抹殺されることを防ぐための戦いです。出エジプト記17章のレフィデムでのイスラエルと
アマレクとの戦いも、ヨシュアたちによるカナン攻略の戦いも、エステル記のモルデカイとハマンの戦いも、エリヤとバアルやアシェラの預言者との戦いも、結局は、ヨハネの黙示録20章7~10節の、主と主の民と、サタンとサタンにつく者たちとの戦いにつきるのです。
黙 20:7 しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
20:8 地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
20:9 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
そして現代の私たちに対しては、パウロは、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすペての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6:11~13)と、警告しています。これは、主ご自身が戦われる戦いです。
「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。・・この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。」(歴代誌Ⅱ20:15,17)
今日、世界で多くの戦いが行われており、そして、しばしば自らの戦いを聖戦と唱える者がいますが、それはむしろ旧約の戦いよりも劣るものであり、サタンに操られた人間が、自分たちの権力と富を求めての戦いであり、それはサタンの支配下での戦いです。終末の世にあって、主はそれをじっと見ておられるように思われます。
新約聖書においては、旧約聖書と異なり、もっと霊的戦いが強調されています。それは神の国がイスラエル国家というヒナ型から、霊的神の国へと、神の啓示がより鮮明に発展したからです。それ故、旧約の神の戦いの記事は、私たちが霊的に受け留めてこそ、最も価値あるメッセージとなるのです。
この戦いにおいて、注意すべきことは、
第一に、馬や戦車や、自分たちよりも多い軍勢を見て、敵を恐れないことです。イスラエルの中では、軍務につくことのできる者は約六十万人いました。しかしカナンに入ると、もっと多くの敵の軍隊がいることが想定されています。
戦いにおいて、最大の壁は、敵を恐れることです。敵を恐れて、戦う士気を失ったら、必ず敗北してしまいます。今日、日本の福音宣教において、最大の壁になっているものもこれ、この世の勢力を恐れていることです。クリスチャンの数があまりに少なすぎて、心、頑(かたくな)な不信仰な日本人が多すぎて、とても日本に多くのクリスチャンが生まれることは不可能だと、クリスチャンのみんなが、特に牧師たちが思い込んでいること、すなわち、恐れていることが、日本の福音宣教の壁になっているのです。この恐れと不信仰の失意とを、信仰によって、払拭しなければなりません。クリスチャンのひとり一人が聖霊の力を受けて立ち上がり、積極的にあかしの生活をするようになる時、神の国は着実に拡大し始めるのです。この日本でも必ず、多くのクリスチャンが生まれてきます。心の頑(かたくな)な未信者の数が多いことによって、恐れてはなりません。むしろ、自分の身辺にいる、主を求める心のあるひとり一人の人を忍耐強く主にお導きすることこそ大切なのです。
第二は、「あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。」(1節)ことを自覚することです。
私たちは、自分のような者でさえ、救い出してくださった主が、今も、ともにいてくださることを自覚する必要があります。この自覚を持つことによって、敵に対する恐れを取り除くことができるのです。自分のように罪の泥沼の中にいて、心が頑(かたくな)だった者でさえ、主がお救いくださったことを思えば、主は今も、心の頑(かたくな)な人をお救いくださると信じることは容易です。その上で、忍耐強く主をあかしするなら、実を結んでくるのです。
3,4節の祭司の勧告は、ほぼ1節の繰り返しですが、ここでは消極的になることを取り上げて、「弱気、恐れ、うろたえ、おじけ」てはならないと警告しています。
申 20:3 彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。
20:4 共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、【主】である。」
他方、積極面では、主がともに行って、戦って、勝利を得させてくださることが強調されています。戦いも、勝利も、民の人間的な力の結集によるのではありません。主が戦われることによって、勝利が与えられるのです。
お互いも、このあたりのことをよく弁(わきま)えていないと、不満や内輪もめを起こすようになります。教会の戦いは、霊的な面からも、経済的な面からも、宣教の面からも、相当大きな戦いになっていくのです。これは主の力によって実行していかなければなりません。
今日のクリスチャンは、使徒の時代のクリスチャンのように聖霊の力によって戦ったことが一度もないので、霊的戦いが全く分かっていない状態にあります。聖書の中の一部分だけを見て、カリスマ的に傾いてみたり、儀式や神学にしがみついて、死んでしまっていたり、この世の人と同じように自分の学歴や地位、権力を振りかざしてみたり、教会堂の建築物やパイプオルガンに頼ってみたり、全く、なさけない状態に陥っています。
ステパノが知恵と御霊によって、みことばをあかししたように、私たちが毎日の生活の中で、みことばと聖霊によって力をいただいて、あかしするなら、主は使徒の時代と同じように大いなるみわざを成し遂げてくださるのです。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)
私たちは、自分の信仰によって主が戦ってくださり、勝利が得られることを、自分の生活の中で経験し、一つ一つの幻が実現していくことを経験していかなければなりません。
主が戦ってくださる時には、信仰の強い者も弱い者もともに戦いに加わることができます。しかし自分たちの力を出し合って戦うなら、力のない者は脱落していきます。この二つのことは、全く異なったことなのです。主の戦いと、人の戦いとは、ここに違いが生じるのです。人の戦いでは、必ず、強い者と弱い者が分かれていき、区別され、差別されていきます。しかし主の戦いでは、強い者も弱い者も、ともに心を一つにして戦いに加わることができるのです。
また、もし、人が力を出し合って成功するなら、その栄光は人が取ってしまいますが、主が戦って勝利を与えてくださったことが、だれの目にも明らかになるなら、すべての者が主に栄光を帰し、主を心から賛美するようになります。心から主を賛美していない人や教会は、主に栄光を帰していないのです。この点を十分に弁(わきま)えていなければなりません。
次に、5~9節は、つかさたちによる実際的忠告が行なわれています。
申 20:5 つかさたちは、民に告げて言いなさい。「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。
20:6 ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。
20:7 女と婚約して、まだその女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が彼女と結婚するといけないから。」
20:8 つかさたちは、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」
20:9 つかさたちが民に告げ終わったら、将軍たちが民の指揮をとりなさい。
これは、戦いの士気をくじく者は、戦いに参加させないためです。うしろ髪をひかれながら戦えば、必ず敗北します。この世のことに心を奪われつつ、主の福音の働きをすることはできません。どんな献金も、惜しみながらするなら、のろいとなります。アナニヤとサッピラはその実例です(使徒 5:1~11)。
使 5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、
5:2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
5:4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5:5 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。
5:6 青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。
5:7 三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずに入って来た。
5:8 ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です」と言った。
5:9 そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」
5:10 すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。入って来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。
5:11 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。
「どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意(祝福)に満ちた贈り物として用意しておいてください。・・・ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(コリント第二9:5,7)
だれでも人間的思いと動機で奉仕するなら、のろわれます。
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)
イスカリオテのユダは滅び、マルコ(別名ヨハネ)は宣教旅行の途中から引き返してしまっています(使徒13:13)。
使 13:13 パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。
これはマルコの信仰がまだ十分に成長していなかったからですが、これはパウロとバルナバが激論するほど、重要な問題でした。バルナバにとって、マルコはいとこにあたりましたから(コロサイ4:10)、バルナバはマルコを成長させたかったのでしょう。
コロ 4:10 私といっしょに囚人となっているアリスタルコが、あなたがたによろしくと言っています。バルナバのいとこであるマルコも同じです──この人については、もし彼があなたがたのところに行ったなら、歓迎するようにという指示をあなたがたは受けています。──
しかしパウロの見解は、恐れる者を厳しい、激しい福音の戦いに加えることは危険であると考えて、バルナバに反対したのです。このことで、二人は別々の行動をとることになったのです。
ここに、戦いの士気をくじく幾つかの具体例を上げています。
5節、新しい家を建てて、まだ奉献をせず、そこに住んだことのない人、
6節、ぶどう畑の収穫をしていない人、
7節、婚約して、まだ結婚していない人、
8節、その他、恐れて弱気になっている者、
彼らは、戦友たちの士気をくじく危険があったのです。
教会の私たちひとり一人が、どんな戦いにも耐えることができる大人の信仰を持つ状態になる時、主は私たちを用いて、戦ってくださいます。教会中に不信仰な発言をする者
がいる間は、福音宣教の戦いをすることはできません。
「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のみことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかりのんでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル5:12~14)
9~20節、将軍たちの指揮
前半の祭司とつかさたちの指導は、民に対する備えを十分にすることでした。しかし、将軍たちの指揮は、直接、外敵に対する攻撃です。
10,11節、外敵に対しては、「まず降伏を求める」ことが命じられています。
申 20:10 町を攻略しようと、あなたがその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。
20:11 降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民は、みな、あなたのために、苦役に服して働かなければならない。
主の命令は第一に、交戦することではなくて、降伏させることです。教会の歴史の中で、交戦によって勝利をおさめたことは、ほとんどありません。イスラム軍に対するローマ教会の十字軍は、ことごとく敗北しています。
しかしキリストの福音の戦いは、いつでも相手に愛と信仰の降伏を求めることです。相手が主イエス様に降伏するまで福音を伝えるのが、福音宣教です。未信者の人は、二つに一つ、すなわち、救いか、滅びか、どちらかを選ぶことになります。
11節、「降伏に同意して門を開くなら」
これは意志の明け渡しを意味しており、イスラエルの属国民として、強制労働に服するという条件のもとに平和が与えられています。このような厳しい処置に驚く人もいるかもしれませんが、これは永遠的な神の承認ではなく、戦うことなしには、存続できなかった当時における前進途中にある神の啓示として考えなければなりません。
しかしここには、霊的真理が含まれています。すなわち、主に降伏する者は、自己中心が徹底的に砕かれて、忠実な主のしもべとなることが求められています。この条件のもとに全き平安が与えられるのです。
「こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。」(コリント第一4:1,2)
12節、しかし、もし、降伏せず、交戦してくるなら、すなわち、平和をはねつけてくるなら、彼らは滅ぼされなければなりません。
申 20:12 もし、あなたに降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲しなさい。
20:13 あなたの神、【主】が、それをあなたの手に渡されたなら、その町の男をみな、剣の刃で打ちなさい。
20:14 しかし女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ってよい。あなたの神、【主】があなたに与えられた敵からの略奪物を、あなたは利用することができる。
しかし、剣で打ち、聖絶しなければならないのは、町の男だけに限定されています。女、子ども、家畜、町の中にあるすべての略奪物を、戦利品として利用することが許されています。これを人道的配慮と考えてはなりません。もし、そのように考える人がいるなら、その人には信仰がなく、人本主義(ヒューマニズム)の人です。
ここで神が、「滅ぼさなければならない」と命じられたのは、18節にあるように、イスラエル人の生活の中にカナンの偶像教が侵入してきて、イスラエル人が神に対して罪を犯すことのないためです。
申 20:18 それは、彼らが、その神々に行っていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、【主】に対して罪を犯すことのないためである。
それ故、もし、カナンの女や子どもでも、偶像礼拝をイスラエル人の中に持ち込もうとする者がいれば、当然、打ち殺され、滅ぼされることになります。しかし、エリコの町のラハブや、モアブのルツたちは、神の民の中に受け入れられて主の祝福を受けています。主が問題にしておられるのは、民族の違いではなくて、ひとり一人の信仰の実質なのです。このことは今日でも変わっていません。
このことは、私たちに何を教えているのでしょうか。神に逆らわせる自己中心の自我こそ、滅ぼされなければならない敵だと教えているのです。もし、神に逆らう自己中心の自我が全く滅ぼされて、私の本来の自我が喜んで主に従うようになるなら、その他の才能や健康や、富や力はみな、戦利品として主のために用いることができるようになります。しかし大抵のクリスチャンの自我が神の御前に降伏していないために、才能や富や健康を握って自己主張して、神と争っているのです。その結果、すべてを失って、滅んでいくクリスチャンも多いのです。私たちが神の平安をいただき、天の御国に入れていただくことを真剣に願うならば、神に逆らう自己中心の自我は、徹底的に滅ぼされなければなりません。もし自己中心の自我が取り除かれないなら、自分のすぺてが地獄で滅びることになるのです。私たちは、自己中心の自我か、それとも自分自身のすべてか、どちらかを滅ぼさなければならない運命にあるのです。あなたはどちらを選びますか。
19,20節、カナンの異教徒たちのとる戦略は、占領地において果実のなる木をすべて切り倒してしまうことが、共通した戦略でした。
申 20:19 長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。
それは敵が剣から逃れても、食べ物を失って滅びるためてす。これは戦いにおいて、しばしば用いられた兵糧攻めの一種です。
しかし主は、果実のなる木を切り倒してはいけないと命じました。主が滅ぼせと命じられているのは、主に逆らう人だけです。人の生命を支える木は大切に保存されるぺきです。木は一度切り倒すと、再び、果実を実らせるまでに成長するには、長年かかります。
20節、ただ、実のならない木だけは切って、とりでを築くことができました。
申 20:20 ただ、実を結ばないとわかっている木だけは、切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまでその町に対して、それでとりでを築いてもよい。
こうして、主がイスラエルの信仰を守るために戦うことを命じているのは、主が戦争を永遠に是認しているわけではありません。ダビデは戦士であったために、神殿建設を禁じられています(列王記第一5:3)。
Ⅰ列王 5:3 「あなたがご存じのように、私の父ダビデは、彼の回りからいつも戦いをいどまれていたため、【主】が彼らを私の足の裏の下に置かれるまで、彼の神、【主】の名のために宮を建てることができませんでした。
また、メシヤの王国では、戦争はなくなることが預言されています(イザヤ11:1~10、ミカ4:3)。
イザ 11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
11:2 その上に、【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と【主】を恐れる霊である。
11:3 この方は【主】を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
11:4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
11:5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。
11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
11:7 雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。【主】を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
11:10 その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。
ミカ 4:3 主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
神がカナン人を聖絶せよと命じられたのは、彼らが偽りの信仰を持っていただけではなく、その偶像信仰によって淫蕩な儀式を行ない、子どもをいけにえにしたり、はなはだしい悪行を行ない続けていたからです。
この記事は予表的な意味を持っていますが、神はご自身の義の王国のために、ご自分の民を用いて世界で働いておられるのです。その働きを通して神に降伏して、神の子どもとなる者には、神の平安が与えられます。しかしあくまでも反抗し、罪に固執する者は、究極的な滅亡を招くことになります。これは普通の真理です。
あとがき
早くも二月です。何もできないうちに、時は過ぎて行くように思います。 私どもの教会のある姉妹が言いました。「聖書を学ぶには、生涯が足りない。」と。全く、その通りです。しかし私たちは行けるところまで、コツコツと歩ませていただいています。また読者の方からは、「長生きして、ヨハネの黙示録まで書いて下さい。」と言っていただいて、本当に有難く思っています。多くの方々のお祈りに支えられて、この働きを進めることができています事を感謝致しております。
私たちの願いは、なんとしても、日本人の心の中に、生けるイエス様のみことばが生きて働くようになることです。そのためには目先の成果ばかりを求めないで、忍耐深く、みことばを伝え、教え、訓練する働き人が起こされるように備えていかなければなりません。
最近、メッセージ・テープや本を通して主のみわざによる勝利のあかしが届くようになりました。主に栄光あれ。ハレルヤ。本当に心から主を賛美します。栄光在主。
(まなべあきら 1997.3.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵は、FreeBibleimagesのサイトより引用した申命記20章のイラスト。(FreeBibleimages is a registered Christian charity in the United Kingdom with no denominational or commercial affiliation. → https://www.freebibleimages.org/ )
「聖書の探求」の目次
【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
創刊は1984年4月1日。2021年9月現在、通巻451号 エズラ記(7) 4~6章、まだまだ続きます。
お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
単月 一部 50円 送料84円
バックナンバーもあります。
(複数の送料) 3部まで94円、7部まで210円.多数の時はお問い合わせ下さい。
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」
発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
〒233-0012 横浜市港南区上永谷5-22-2
電話FAX共用 045(844)8421