音声+文書:信仰の列伝(34) サムソンの勝敗の原因(士師記13~16章)へブル人への手紙11章32~34節

スペインの画家Peter Paul Rubens(1577–1640)による「Sansón matando al león(サムソンはライオンを退治する)」(Fondo Cultural Villar Mir蔵、Wikimedia Commonsより)


2017年4月2日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章32~34節
11:32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。
11:33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、
11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
【新改訳改訂第3版】


はじめの祈り

「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」
恵みの深い天のお父様、こうして、私たちを4月の月の第1の聖日を守らせてくださり、感謝をいたします。
様々な戦いがこの世にあって、繰り返されていますけれども、福音の戦いほど困難を極めているものもないかもしれません。しかし、必ず勝利が約束されていますから感謝いたします。
こうして私たちは、信仰の勇士たちを見ておりますけれど、そこから学ぶだけではなくて、私たちが置かれている時代の使命をしっかりとつかんで、弱い者であっても、主によって力を頂いて、一歩一歩、歩ませていただき、主を証しさせて頂けますことを感謝いたします。
今日も祝してください。
「残念なサムソン」の話をすることになると思いますが、そこにも光輝くあなたがおられますことを感謝いたします。
尊いキリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。


今日は信仰の列伝34回目、「サムソンの勝敗の原因」と、ちょっと難しい題を付けましたけれども、ひとことで言えば、「残念なサムソン」ということです。
ヘブル人への手紙11章32節~34節で 少し足踏みしていますけれども、この中のサムソンを取り上げます。

勇士サムソンは、大いなる使命と特権を持って生まれてきました。それにも関わらず、自分の欲と力に溺れて、その霊性の貧弱さ、信仰の弱さのゆえに、自ら破滅していった人です。
ですから、たとえ神様が与えてくださった力であっても、聖霊によってコントロールされて用いるのでなければ、肉の欲のために使えば、サムソンのように破滅を招いてしまいます。

このサムソンンの生涯から、彼に学ぶべき点と、避けるべき点の二つを学ばなければなりません。

まず、サムソンは大きな特権を持って生まれました。神を畏れる敬虔な両親のもとに、神へのナジル人として生まれました。
士師記13章5節を読んでみたいと思います。

士師13:5 「見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」

神のナジル人と言われていますね。禁欲主義者ではありませんでしたけれども、二つのことが禁じられておりました。酒を飲むことと、髪の毛を切ることが禁じられていました。サムソンはこの両方を犯しております。

もう一つ、サムソンの誕生における大きな特権は、主ご自身が現れて、彼の誕生を告知されたことです。
士師記の13章18節を読んでみましょう。

士師 13:18 【主】の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」

イザヤ書を読んでも「不思議」という名前が記されていますけれども、この主の使いは、受肉前、人となられる前のイエス様の姿であります。この主の顕現、現われは、イエス様がサムソンに特別な使命と任務を与えていることを示しています。神様が現れるということは、そういうことを意味しています。

ここから、私が学ぶことは、一体なんでしょうか。
それは、父なる神様が、今の自分に、今日の自分に与えられている使命は何か、を悟ることであります。
一人ひとりが大切な使命を持って生きているわけですけれども、しかし、今日与えられている使命は、一体なんであるか。
人のたましいは、みな例外なく神によって創造されています。そして各々に、一日一日のなすべき使命が与えられて生きております。
「使命」と言うと大げさに聞こえるかもしれませんが、隣り人を助けることであったり、互いに許し合うことであったり、これを行うことによって、私たちのたましいが恵みに満たされたり、神様を経験したり、喜びに満たされたり、主と交わる経験をしたり、臨在の確信をします。主の栄光を現わす喜びにも満たされます。これが信仰生活ですね。

私たちは間違ってしまいやすい。聖書を読んで、祈って、デボーションの時を1時間、2時間持ちました、とか、午前中はデボーションの時間にしましたので、という話を聞かないわけではありません。しかし、「これでよし」というのではなくて、「ではそのあと、どうしましたか」が大事なところです。
「デボーションが終わったから、後はこの世の人と同じ普通の生活をしました」と言うなら、一体デボーションは何だったんでしょうか。どういう意味を持っているんでしょうか。

よく「聖」と「俗」ということが言われますけれども、午前中は「聖」で午後は「俗」なることをやる、というような生活が、信仰生活なんでしょうか。
そうではなくて、一日中が、主と共に歩む生活になるはずです。私たちはそれぞれ、自分の使命を行うために、恵みと力をイエス様から与えられております。

サムソンも、自分の使命を果たすために、神の恵みと力を受けておりました。
しかし、彼は自分の使命をそれほど真剣に受け止めないで、ただ漠然としか受け止めていませんでした。
「信仰、信仰」と言っている人がいますけれども、漠然とつかんでいる人が多いんじゃないでしょうか。今日一日なすべき信仰の使命を、自覚して生活しているでしょうか。
サムソンは、ペリシテを滅ぼさなければならない、くらいにしか考えていなかったのではないでしょうか。自分に与えられた力を、自分の楽しみと欲のために使うことによって、サムソンは敗北してしまいました。

人間の内に働く知恵と欲、肉の欲は滅びだ、と書いてあります。
自分に与えられた才能、力、知識、特権や時間などを、自分を誇るために、自己満足のために使う人は、必ず、わざわいを招きます。与えられたものが大きければ大きいほど、わざわいを招きます。
現代人のほとんどの人が、今日、自分がどんな神様の使命を成すべきか、何もつかむことなく、一日を過ごしてしまっております。一日は長いようで短く、あっという間に過ぎてしまいます。これほど自分の人生を、むなしく浪費してしまうことはありません。

人生50年、60年、100年というと長そうに見えますけれども、あっという間に飛び去ってしまうんだ、とモーセは言っております。
エジプトを出たイスラエル人が、神の約束の地に行く、という使命と目的を
持って、一日一日、主に導かれ、主に従って歩んでいる間は、主の臨在が絶えることはありませんでした。恵みもマナの養いも、絶えることがありませんでした。

もし、私が、毎日、神の国とその義とを第一に求める生活をしていくなら、毎日が主の臨在に満ちて、喜びが溢れるようになり、主のマナの養いも絶えることがありません。毎日が、恵みに満ち溢れる経験をするためには、一日一日の神の国と神の義が必要であります。
才能や能力や知識は、正しく主の使命のために使うことによって、実を結びます。主の栄光を現わします。自分も喜びに満たされます。
信仰は、今日の自分の使命を明確に成し遂げていくために、活用すべきです。
この点においてサムソンは、十分ではなかったわけですね。

第二に、士師記の13章24,25節を読んでみましょう。

士師 13:24 その後、この女は男の子を産み、その名をサムソンと呼んだ。その子は大きくなり、【主】は彼を祝福された。
13:25 そして、【主】の霊は、ツォルアとエシュタオルとの間のマハネ・ダンで彼を揺り動かし始めた。

ここに特徴ある言葉があります。「主の霊が彼を揺り動かし始めた」と書いてあります。神様は彼を祝福しました。
幼い子どものころから大きくなるにしたがって、そこには意味がありますね。神の器として、神の栄光を現わす、神の御国を建設するのに役に立つ、神のしもべが育ってきている、そういう兆候を見ることができます。サムソンもそういう人であったわけです。神に期待された人でした。

バプテスマのヨハネについても同じことが言えます。ルカ1章80節を読んでみましょう。皆、神様に期待されている人ですね。

ルカ 1:80 さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。

「幼子は成長し、その霊は強くなり」と書かれています。

主イエス様についても語られています。二つ読んで見ましょう。

ルカ 2:40 幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。

ルカ 2:52 イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。

これらのみことばを比べてみるとわかりますね。
サムソンは非常に優れた、神の忠実な神の人になるべく、神が備えられた選ばれた人である。ですから神へのナジル人と言われているわけです。ですから、彼の信仰の道を最後まで全うしてほしかったですね。私たちの良き模範となってほしかった。
私たちの信仰も、途中で曲がらずに、全うすることで、周りの人々や後世の人達の励ましとなり、証しとなっていくんです。信仰は全うすることが大事です。
右や左に曲がらない。あっちがどうだ、こっちがどうだと言って、転々とする人が少なくありませんけれども、そういう人の信仰はよき模範にはならない。
そのためには、自分に与えられた才能や特権を誇らずに、溺れずに、自分の考えによらずに、道を間違えずに、主の真理の道を、光を灯しつつ歩まなければなりません。
そのためには、主のみことばに留まり続け、主の愛に留まり続けることが大切なことです。このことは。ヨハネの福音書15章7から9節で、イエス様は語られました。ぶどうの木のお話しですね。主のみことばと愛を離れては、どんなに努力しても、主の栄光を現わすことはできません。

ヨハネ 15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

7節のところでは、わたしにとどまりなさい、と仰いました。わたしのことばにもとどまりなさいと仰いました。そして、わたしの愛にとどまりなさいと仰いました。
キリストにとどまり続けるには、みことばを足の灯し火とし、日常の歩みを聖霊に満たされ、心に神の愛アガペーを注いで頂いて生活する必要があります。
信仰の成長とか霊的成長というのは、自分の知恵と力で頑張って、背伸びすることではありません。音楽を練習して、賛美歌を上手に歌えるようになったり、弾けるようになったりすることでもない。
健康な体づくりでも、やりすぎると、筋肉を傷めたり、骨折したりします。
適切な食事、運動、睡眠は、誰でも言われている通りです。

このことが分かっているのに、なぜクリスチャンは、自分のたましいのためにも、周りの人のたましいのためにも、いのちのパンや、いのちの水のみことばが必要だ、ということに気づかないのでしょうか。
聖書を学んだり、理解したり、覚えたりはしていますけれども、大切なことは、みことばがたましいとなり、いのちとなって経験されていますか、ということです。
更に、信仰が、手足で働く生活に活用されているかどうか。信仰が、教えることだったり、議論することだったりで終わってしまっていないでしょうか。
たましいには、毎日、一日分のキリストの平安が与えられていますが、これがあれば、信仰は必ず成長し実を結んでいきます。たましいは栄養分を必要としているんです。

第二ペテロの1章8節をご一緒に読んでみましょう。

Ⅱペテロ1:8 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。

ここでお話していることが、私たち一人ひとりの生活の中に実現していけば、
イエス様は、役に立たない者とか、実を結ばないことはない、と言っています。
霊的な成長や、実を結ぶことは、主の恵みの中にとどまり続けることによって、知らず知らずのうちに成長するものであります。

有名なみことばを読んでみましょう。マルコ4章26~32節です。

マルコ 4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。
4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
4:30 また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。
4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、
4:32 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」

ここで言われていることが、分かるでしょうか。
「からし種」といわれているのは、私たちの信仰のことですね。最初は、小さいことであります。私たちがしていることは、小さい事かもしれない。
しかし、そのことを通して多くの人が、慰めや平安を得て、イエス様の救いをいただくことができるようになる、驚くべき神の栄光を現わす生活ができるようになる。そういうことを言っているわけですね。私たちは驚かざるを得ません。

そのために必要なのはなんだったのか、と言うと、「まことのぶどうの木」の話のところで、「わたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまり・・」、キリストの愛にとどまっているなら、そのことが起きる、と言っているわけです。
自分が人に認められたり、良く思われたりすると、人は熱心になり、真面目に聖書をよく学んだり、聖霊を受ける前のペテロのように、一生懸命になろうとします。
しかしそれは、失敗してしまいますね。自分の肉の力の頑張りでしかないからです。それは必ずその人を高慢にしてしまいます。キリストにとどまっていないで頑張る人の姿ですね。それは、まことの神による霊の成長ではありません。
霊の成長は必ず、みことばと聖霊によっています。信仰によって、一日一日主に従う謙遜な服従によってもたらされます。

サムソンの記事には、この面がほとんど見られないのです。彼は、力をつけてきた時、自分に与えられた力を、ただ振り回しているように見えます。自分はこれほど熱心で、力に満ちているんだと、これ見よがしに行動しているようであります。これは有能な人を襲う、最も危険なことであります。

次に、サムソンが、ペリシテ人の娘を好んで、妻にしようとしていたことが記されています。士師記14章4節を読んでみましょう。

士師14:4 彼の父と母は、それが【主】によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテ人がイスラエルを支配していた。

ここに、「主によることだとは知らなかった」とあります。これは、神様のファースト・ベストを意味しているわけではありません。聖書の中に、ファースト・べストとセカンド・ベストがあるようです。
これは、サムソンの意向を、サムソンがペリシテ人とことを起こす機会を作るために利用された、と言っているだけであります。

民数記22章でよく知られているように、モアブのバラクが、ベオルの子バラムに、イスラエルを呪ってくれるように、報酬をたくさん約束して頼みに来た時に、神様は「行ってはならない。」と禁じました。神の怒りが燃え上がって、主の御使いが道に立ちふさがって、禁じました。それでもバラムは、報酬に目がくらんで行きたがっています。

主はバラムに、「この人たちと行け。」と許可されたように言われましたけれども、バラムは安心して行ったようでありますが、これを表面的に見ると、主が許可されたと受け止めてしまって間違った道に進んでしまいます。
これは、神様が喜んで「行きなさい。」と言ったのではありません。民数記25章では、バラムが行った結果、イスラエルはモアブの偶像礼拝をおこなうようになり、二万四千人が殺されています。民数記31章8節では、バラムも剣で殺されています。

サムソンもまた、最後には、ペリシテの娘たちによって死んでいます。神のセカンド・ベスト、「行ってもいいよ。しかたがない。」と言われているように見える時も、それは決してファースト・ベストではないことが分かります。
神のナジル人として生まれたサムソンが、神に敵対しているペリシテ人の娘と結婚することを、神が喜ばれるはずがありません。
こういう話をすると、すごく制限がかかっているように聞こえるかも知れませんが、しかし、例外もありました。エリコの遊女ラハブや、モアブの女ルツがその例外です。これを見分ける力が必要ですね。これは簡単ではありません。

一般のイスラエル人も、異教の人と結婚することを禁じられていたわけですから、サムソンはこのことを十分にわきまえているべきでした。そうすれば、ペリシテと対決するためといっても、他の方法を取ることができたでしょう。
サムソンの命取りは、異教のペリシテ人の女性との関係にのめり込んでいったことにあります。サムソンは決してふしだらな人ではありません。しかし、自分に与えられた霊的特権と、自分の好みとを、わきまえることができなかったのです。彼は、とくだん両親の反対もなく、主がペリシテの娘との結婚を許可されたと、思ったのです。

信仰の迷い道は、自分にとって好ましいこと、人から高い評価を受けること、自分に利益があること、自分に都合の良いことから始まります。こういう事態がめぐってきたら、危険がやってきたと思った方がいいです。なぜなら、主イエスに従うより、自分の欲に惹かれやすいからです。

士師記14章5,6節を読んでみましょう。

士師14:5 こうして、サムソンは彼の父母とともに、ティムナに下って行き、ティムナのぶどう畑にやって来た。見よ。一頭の若い獅子がほえたけりながら彼に向かって来た。
14:6 このとき、【主】の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂いた。彼はその手に何も持っていなかった。サムソンは自分のしたことを父にも母にも言わなかった。

サムソンは、吠え掛かる、若い、力がみなぎっている獅子を、素手で引き裂いた、と言っています。驚くべき力と勇気を、神様から与えられていたわけですね。
彼は、この驚くべき力と勇気を、両親に話しませんでした。その力と勇気がどこから来たのか、両親にも明かさなかったわけですね。
これは、謙遜にしようとしたからではなくて、彼には魂胆があったわけです。
後に、獅子を引き裂いたことを、なぞかけに使って、自慢しようとしています。

ローマの15章1節をお読みしたいと思います。私たちの持っている力を、どのように使うべきでしょうか。

ローマ15:1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。

私は今まで、いろいろな方の話を聞いてきましたけれども、自分の周りの人が、たとえば会社の同僚が、いかに駄目な人か、そして自分がいかに正しくて真面目で、熱心で立派な人であるかのように話す人を、たくさん見てきました。これは、正しい人が陥りやすい高慢ではないでしょうか。
神様が自分に与えてくださった力と良きものを、主の栄光を現わすためだけではなくて、自分の自慢のためや、自分の悔しさをはらすため、自分のために使うなら、サムソンと同じ間違いを犯してしまいます。自分に与えられた才能や力を、不用意に用いたり、自分を誇るために用いることによって、神を忘れた不敬虔が、忍び寄ってくるわけです。
サムソンの悲劇も、ここから始まっておりました。非常に危険なところに差し掛かっているわけですね。

「自分には、なんの才能もないし、賜物もない。」と嘆く人がいますが、嘆く必要はありません。高慢になる危険が少なくて、いつもへりくだっていて、毎日、小さなことで、主に仕えることができるからです。小さいことに忠実なしもべにも、主の喜びと多くの報いが与えられています。
私たちは、自分に与えられている信仰と愛と、恵みと力を、毎日の生活の中で活用して、主の栄光を現わすようにさせていただきたい。他の人の徳になることは、どんな小さなことでも行いたい。赦し合ったり、助け合ったり、重荷を負い合うことを、パウロは教えています。そうすることを通して、主の栄光を現わすことができます。
人が目を見張るようなことができなくても、主が私たちの小さな信仰の働きを見ていてくださっています。その一つ一つに対して、主は必ず報いてくださいます。
大きな特権と力を受けている人ほど、高慢と不敬虔に陥る危険の近くにいることになります。サムソンは大きな力を受けることによって、落とし穴に落ちてしまいました。自分を誇ることは最大の危険であります。

士師記14章16,17節を読んでみましょう。

士師14:16 そこで、サムソンの妻は夫に泣きすがって言った。「あなたは私を憎んでばかりいて、私を愛してくださいません。あなたは私の民の人々に、なぞをかけて、それを私に解いてくださいません。」すると、サムソンは彼女に言った。「ご覧。私は父にも母にもそれを明かしてはいない。あなたに、明かさなければならないのか。」
14:17 彼女は祝宴の続いていた七日間、サムソンに泣きすがった。七日目になって、彼女がしきりにせがんだので、サムソンは彼女に明かした。それで、彼女は、そのなぞを自分の民の人々に明かした。

泣き落としですね。サムソンはこのとき、ペリシテ人の妻に謎の解き明かしを教えてしまいました。
その後のデリラに対しても、最も重要なサムソンの力の秘訣を、敵の前に隠し通すことができない、心の弱い人でした。この心の弱い人が、自分から危険な人に近づいて行っているのですから、愚かとしか言いようがありません。自分中心の肉の欲で生きている人は、ここに陥りやすいのです。

エペソ3章16節をご一緒に読んでみましょう。

エペ 3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

私たちは、聖霊によって内なる人が強くされないと、サタンに打ち勝つことができません。神様から与えられた内なる力を、サタンに奪われないようにしていただきたいんです。

イスラエルの初代の王サウルは、神様のご命令を無視して、自分の知恵に頼ったために、この内なる力をサタンに奪われてしまいました。
イスカリオテのユダも、イエス様への不忠実と、仲間への妬み、それに金銭欲のゆえにサタンに狙われてしまいました。
ペテロは自分の人情、フィレオによって、主イエス様の十字架を否定して、イエス様からマタイ16章23節で、「下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をする者だ。あなたは、神のことを思わないで、人のことを思っている。」と叱られてしまいました。
またペテロは、マタイ26章69~75節で、人のことばを恐れて、主イエス様を三回も、呪いをかけて誓って、「そんな人は知らない。」と否定しています。
彼らはみな、心の中に神の御霊を失ってしまっています。勝つことはできません。

箴言29章25節にあるように「人を恐れると罠にかかる」のです。
力のある人、財産のある人、知識のある人、才能のある人は黙っていられないのです。自分を誇りたい思いが、しゃべらせるのです。この世の中に「口が堅い人」など一人もいません。「私は口が堅い。」と言う人ほど、口の軽い人はません。
その人を持ち上げて、自分を誇りたい気持ちを掻き立てれば、何でもしゃべりだすのが人間です。人の心は、思いを閉じ込めておけないのです。

アモス書の5章13節を読んでみましょう。

アモス 5:13 それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。それは時代が悪いからだ。

神の知恵のある者は、沈黙を守ります。内なる人が聖霊によって強められていないと、人間が愚かになってしまいやすい。

神様が、サムエルにも語られていますけれども、第一サムエル記3章9節で、「主よ。お話ください。しもべは聞いております。」とありますが、これはサムエルの祈りの基本となっています。サムエルの祈りだけではなくて、すべての祈りの基本であります。
私たちは思い違いをしています。祈ることは、神に何かを申し上げることだと思い込んでしまっています。祈ることは、神様が語ってくださるのを聞くことであります。人間がしゃべり続けているから、神様は話すことができないんです。

士師記15章では、三百匹のジャッカルの尾と尾をつなぎ合わせて麦畑を燃やし尽くした話が出てきます。ジャッカルの尾と尾を結び付けて、二つの尾の間にたいまつを取り付けて、ペリシテ人の麦畑に放ち、収穫した麦束、立穂、オリーブ畑まで燃やしてしまいました。
これは、獣の性質をよく知っていて、それを利用した、人の知恵では考えられない方法をとっています。これによって、ペリシテの畑は焼け野原に変わってしまいました。サムソンは、奇抜な方法を取る人だということが分かります。

それにしても、獰猛なジャッカルを三百匹も捕らえて、尾と尾をつなぎ合わせることは、人にできることではありません。ですから、サムソンは確かに神の力を受けていたことが分かります。
ろばのあご骨で、ペリシテ人を千人も一人で打ち殺すことは、どんなに勇士でも体力的に不可能であります。それを一人で、ろくな武器も持たずに成し遂げたことは、サムソンはただの怪力ではないことが分かります。

サタンと戦うには、人の力では戦えません。パウロもこのことに気づいていました。エペソ6章11節~13節をお読みしたいと思います。

エペソ6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

そしてパウロは、神の武具として、いくつかのものをあげています。

1、真理の帯・・・・真理とは、みことばと、イエス様と、聖霊ですから、
みことばと、キリストと、聖霊を持つこと。

2、正義の胸当て・・神の国と神の義を持つこと。
神の義であるキリストを内に持つこと。

3、平和の福音の備えを足に履くこと・・・
つまり、神との和解をもたらすキリストの十字架を証しすること。

4、信仰の大盾・・・サタンの攻撃や誘惑を打ち消すために、毎日、信仰を活用すること。知っているだけ、納得しているだけではやられてしまうでしょう。

5、救いの兜・・・・救いを確信していること。
気分的な確信ではなくて、みことばと聖霊による確信。

6、みことばの剣・・聖書のことばを覚えるだけではなく、理解して納得するだけではなく、恵まれた感覚だけではなく、実際に生活で使うことです。

主イエス様も悪魔に試みられた時、申命記のみことばでサタンを撃退しています。私達も同じように、みことばを使わせていただかなければなりません。

サムソンの激しい働きと大勝利の直後に、突然、霊的に落ち込む時が来ました。
士師記の15章18節と19節を読んでみましょう。

士師15:18 そのとき、彼はひどく渇きを覚え、【主】に呼び求めて言った。「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。」
15:19 すると、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれ、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返った。それゆえその名は、エン・ハコレと呼ばれた。それは今日もレヒにある。

激しい働きの後、渇きを覚えたわけですね。ここを読む時、私も若い頃のことを思い出します。日曜日は朝の教会学校から始まって、午前礼拝。午後集会、夕方は路傍伝道、夜の伝道集会と、一日が終わるとくたくたでした。月曜日は、頭がぼんやりして、身体はだるくて、そんな日がずうっと何年も続きました。
そんな時、たましいを刷新させる方法は、一つしかない。それは、新しいメッセージの準備に取り掛かることですね。そうすると、みことばが、いのちの水を湧き上がらせてくださるからです。これが私にとって、エン・ハコレでした。

今日の話のまとめとして、サムソンが勝利を得た秘訣と、敗北した原因を
まとめておきたいと思います。

まず、勝利の秘訣は、14章6節にあるように、「主の霊が激しく彼のうえに下った」ということ、また、15章14節の「主の霊が激しく彼のうえに下り」もそうですが、サムソンが、主の使命の道を歩んでいる間は、主の霊に満たされておりました。それが彼の勝利の秘訣であります。

使徒の働き5章32節も読んでみましょう。

使徒 5:32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

神様は、ご自分に忠実に従ってくる者に、聖霊をお与えになります。それは、サムソンも私たちも同じであります。私たちも御霊に満たされて、内なる人が強くされている時、神の栄光を見ることができます。

しかし、サムソンは、自分の考えでペリシテ人を倒すために、主の御霊を求めていません。聖書の中に記されている時は、神様の方から御霊を与えられていましたが、サムソンは自分のほうから、主の御霊を求めていません。むしろ、彼は主の霊によって動かされていたのです。

サムソンが主を求めたのは、士師記15:18~19の、エン・ハコレで水を求めた時と、士師記16:28で、最後の力を主に求めた時だけです。
サムソンは大いなる特権を受けて、神様がずっと近くにいてくださったわけですから、もっとしばしば主と交わって、神ご自身を求めるべきでした。神様がそばにいてくださるんですから。

そして残念なことでありますけれども、サムソンの最後の求め方には、力は与えられましたが、主の霊が下ったとは、記されていません。それまでは、主の霊が下ったと書いてありましたが、最後の求め方には、問題があったからでしょうね。彼は、自分の罪を悔い改めて祈ったのではなくて、士師記の16章28節の後半で、「私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人を復讐したいのです。」と、言っております。サムソンは飢え渇いて、悔い改めて、主の御霊を求めたのではなくて、復讐心に燃えて神の力を求めております。それゆえに、主の霊が注がれなかったのでしょうね。

サムソンの敗北の原因は、士師記16章20節後半、「彼は主が自分から去られたことを知らなかった」と書いてあります。主の霊が離れると、どんなに努力をしても、そのほかの道を探しても、回復する道はありません。
イスラエルの初代の王サウルが、自分の知恵に頼り、主の道を捨てて、主のご命令に従わなかったとき、神様は彼から離れてしまいました。彼は慌てて、サムエルにお願いしたり、口よせや霊媒に頼んだりしましたが、神様が去られた後は、回復はありません。
ですから、私たちも十分にこのことを心に留めて、神の道をしっかりと握らせていただきたいと思います。

サムソンはあれほど激しく主の霊が下っていたのに、なぜ、主が自分から去って行ったことに気づかなかったのでしょうか。
それは彼が、主とともに歩む生活をしてこなかったから、日常の何気ない人の交わりの生活が整っていなかったから、身に着いていなかったから、主とともにくびきを負うことを意識したり、自覚していなかったから、です。
みことばを活用することを、自覚していなかったから、神の愛が心にあって、聖霊の働きをしてこなかったから、です。
ですから、信仰はただ熱心であればいいのではない、ということが分かります。
主とともにくびきを負うことを自覚して、信仰を働かせることが非常に大切なことであります。

最後にマタイ11章29節をお読みしましょう。

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」

この点で、サムソンの生涯は、キリストの安らぎのないものでした。サムソンは、ダビデのように、自分の前に主を置く生活をしてこなかったのです。自分のやりたいことを、いつも優先しておりました。みことばにも導かれていません。
みことばを握って、足のともしび、道の光にしていなかった。彼は自分が欲するままの道を歩みました。それが敗北の原因であります。

私たちには、みことばと聖霊が与えられていますから、みことばに従って、聖霊が導いてくださるので、自分の知恵によらないで、神の道をまっすぐに歩ませて頂ければ、道に迷う事はありません。
サムソンの大切なところ、学ぶべきところと、避けるべき危険を、私たちは十分にわきまえて、信仰の道を真っすぐに歩ませて頂きたいと思います。

お祈り

「あなた方もわたしのくびきを負って、私から学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎがきます。」
恵みの深い天のお父様、力のある者、才能のある者、優秀な者を、人は称賛しますけれども、そこには大きな危険がございます。
私たちは、特別な力を受けていなくても、日ごとの生活を通して、あなたは私を導き、諭してくださり、この小さな働きの中に、あなたの栄光を現わし、光を見出すことができますことを感謝いたします。
今週も、新しい道を導いてくださって、主の栄光を現わすことができ、また、私たちの道にも、様々な危険が待ち受けていると思いますけれども、霊の目が開かれて、内なる人を強められて、進んでいけますようお守り下さい。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

<今週の活用聖句>

ペテロの手紙第一、4章10節

「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」

地の塩港南キリスト教会
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