音声:信仰の列伝(27) モーセの立ち去る信仰 へブル人への手紙11章27節
2017年2月12日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
へブル人への手紙11章27節
11:27 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。
<インフォメーション>
「神はモーセに仰せられた。『わたしは、「わたしはある。」という者である。』また仰せられた。『あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。」と。』(出エジプト記3:14)
主はモーセに約束されました。ご自分の名を「わたしはある。」と名乗られて、この方がモーセとともにおられ、この方がともに行かれ、モーセを遣わされると言われたのです。このお方の同行によって、あらゆる困難を勝利に変えることを約束されたのです。
あなたが信じている神様のお名前が「わたしはある。」というお名前なのをご存知でしょうか。
「わたしはある。」とは、どのようなお方ですか。
簡単に言えば、「わたしは永遠に、現在形で存在する神。」
「わたしは古くなることもなく、変わることもなく、永遠に、今、生きておられ、今、働いておられる神です。」「わたしはある。」という神は、いつでも今現在なのです。この神には、過ぎ去って行く時はありません。難しく言うと、不変、偏在の永遠の神です。
このことは、へプル13章8節で、次のように言われています。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」このみことばによって、この「わたしはある。」と言われた神が、イエス・キリストであることが分かります。
「わたしはある。」ということばの構文に注目して下さい。主イエス様は、この構文をご自分に当てはめて、沢山使っておられます。
わたしは、道です。いのちです。真理です。
わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしは、天から下ってきた、いのちのパンです。
わたしは、羊の門です。
わたしは、門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。…わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。(ヨハネの黙示録22:16)
これらはみな、イエス・キリストが「わたしはある。」の構文をご自分に当てはめて語られた、おことばです。このことは、イエス・キリストこそ、永遠の神であることの証拠です。
「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしをも信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。」(ヨハネ5:46)
明らかに、主イエス様は、ご自分がモーセに「わたしはある。」と語られたことを覚えて、こう言われたのです。
とにかくモーセにとっては、エジプトの王パロの軍隊の追跡も問題でしたが、エジプトを離れてからのイスラエルの民を養うことも、シナイの荒野を大勢の民で旅することの困難さも問題でした。モーセは、それら一つ一つを主が背負って下さると信じたのです。
私たちは、罪の生活を離れ、主にある新しい生活に踏み出そうとする時、不安を覚えるかもしれません。その時、すべてのことを主が助けて下さると信じることが大切です。
仕事を変える時、住まいを変える時、地上を去って御国に帰る時、すべてのことを主が備えて、助けて下さることを信じることが必要です。
私も開拓伝道をして、日本のあちこちに行きましたが、確かにどこに行っても、主は助けて下さいました。
主は、ご自身の助けと、導きを信じて、勇敢に従って行く者を、見捨てたり、見放したりするお方ではありません。
<今週の活用聖句>
ヘブル人への手紙10章35~39節
「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。…わたしの義人は信仰によって生きる。…私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」
写真は、Flemish(フランダース)のバロック画家Guillam Forchondt (1608–1678)とWillem van Herp (circa 1613/1614–1677) によって描かれた「The departure of the Israelites(イスラエルの民の出発)」 (Wikimedia Commonsより)
地の塩港南キリスト教会
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