音声+文書:信仰の列伝(26) 信仰による霊的覚醒(2) へブル人への手紙11章24~26節

1900年頃にthe Providence Lithograph Companyから発行されたバイブル・カードの一枚「The Call of Moses, as in Exodus(出エジプト記のモーセの召命)」(Wikimedia Commonsより)


2017年2月5日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章24~26節
11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。

はじめの祈り

「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」
恵みの深い天のお父様、こうして2月に入りまして、第一の聖日を主とともに主を礼拝して始めることができて、心から感謝いたします。
この一週間を通しても、あなたの恵みを深く心に経験して、主を礼拝した恵みを証しすることできますようにお助け下さい。
みことばを祝し、聖霊との交わりを深めて私たちの信仰を導いて下さい。
これからのメッセージを祝し、聞く人、一人ひとりのたましいの奥深くに根を下ろして実を結んでいくように顧みてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


今日は、モーセの「信仰による霊的覚醒」の二回目をお話しさせていただきます。

「楽しみを受けるよりは苦しみのほうを選び取った。」
「キリストのゆえに受けるそしりをエジプトの宝にまさる大きな富と思った。」

ここでは、楽しみを捨てて苦しみを選ぶ、ということが書かれています。これは到底、人の力でできることではありません。
見栄のためにとか、他人から高い評価を得るためにとか、自分がいかに敬虔なクリスチャンであるかを誇るために、一時はできるかもしれません。一時は損失を受けることもできるかもしれません。けれども、生涯キリストのために苦難の道をたどり続けることは、自分中心の人には到底できるものではありません。

使徒の働きの5章で、アナニヤとサッピラの夫婦は、バルナバという人の証しにならってマネをしました。バルナバが畑を売った代金を主に捧げて、エルサレム教会の人々から敬虔な聖徒として高い評価を受けたのを見て、自分たちもそれと同じような評価を受けたいと思ったのです。
そこで、アナニヤとサッピラは持ち物を売って、その一部を残しておいて、残しておいたのが悪かったわけではありませんけれども、それを全部献げたかのように偽って、献げたわけであります。彼らは、財産を全部献げた立派なクリスチャンである、聖徒である、という高い評価を期待しました。
しかし聖霊に教えられていたペテロは、アナニヤに、「どうしてあなたは、サタンに心を奪われ、聖霊を欺いたのか。あなたは人を欺いたのではなく神を欺いたのだ。」と言って叱責しました。アナニヤもサッピラもたちまち滅んでしまっています。

見たところでは、楽しみを捨てているかのように見えますけれども、むしろ、欺瞞というか、偽りというか、高度な欺きというか、霊的に隠された肉の欲を求めていたことが分かります。

第二テモテの3章5節を読んでみたいと思います。
Ⅱテモ3:5 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。

見かけだけの敬虔なクリスチャン、こういう人はいないでしょうか。それは非常に危険ですね。人々から立派な人、と言われている中に見せかけがある。
そこで私たちにも、常に霊の覚醒が必要です。かつて霊の覚醒を経験した人でも、放っておけば再び霊が曇ってきます。絶えず、霊の覚醒は必要であります。

ヘブル11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

「はかない楽しみ」とは、虚しさを覚えている心に、淡い楽しみ、という覆いをかけたようなものです。「はかない」とは、虚しさを覚えている上に、さらに虚しさを覚えるような楽しみ、一時の快楽を示しています。

第二コリント4章4節を読んでみましょう。
Ⅱコリ4:4 その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

エデンの園で、サタンは必死になってエバの心に覆いをかけようとしました。主のご命令に逆らわせようと必死になって、「善悪を知る木の実」を食べさせようとしました。
サタンは、「食べても決して死ぬことはありませんよ。」と言って、偽りの確信を持たせようとしました。
「善悪を知る木の実」を、異様に麗しく見せ、食べるのにおいしそうに見せ、神のように最高に賢くなるように見せて、エバに快楽の過激な衝動を吹き込んで、覆いをかけています。

どのお店の商品も、照明や様々なものを用いて、あるいは添加物を用いて、おいしそうに見せるというのが、この世の習わしであります。食べておいしいように、見て美しいように見せる。そういう覆いをかけているのです。
聖霊を悲しませ、聖霊の光を無視して、自分の知恵と考えで生活をしている人は、確かにサタンの覆いがかけられています。

ヘブル12章1節をご一緒に読んでみたいと思います。
ヘブル12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

いつもお話ししていることでありますけれども、クリスチャンであっても、三つのバランスを実行していないとサタンの覆いがかけられてしまいます。
聖霊を受ける前の弟子たちのように、主から離れてこの世に引かれていく者が出てくるわけです。この世の楽しみを見ると、息抜きができそうに見えてもすぐに虚しさに変わってしまいます。
しかし、このキリストと共に味わう苦しみは、永遠の霊の喜びの上にかけられたしばらくの間の、軽い苦みのシロップのようなものです。神の栄光の喜びの上に、苦しみという、パウロが言っているような経験がかけられています。
パウロは次のように言いました。二つほどみことばを読みます。

ローマ 8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
永遠の神の栄光を考えると、今受けている苦しみは取るに足らないものだ、と言っています。

Ⅱコリ4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
軽い患難が私たちの内に働いて、苦しみにあったことは私にとって幸せだった、と詩篇の作者は言っていますけれども、それが信仰によって益と変えられて、永遠の栄光に変わる、と言っています。

信仰によって霊が目覚めた人は、この永遠の栄光を味わい始めています。
ことばや議論だけの信仰ではなくて、知識や納得だけの信仰ではなくて、主の臨在の栄光を心の内に経験し、聖霊によって、心の内に神の愛といのちの力が注がれていることを経験し、内なる人が強められていることを経験し、イエス様との平安に満ちた交わりを経験します。
これらの経験は、永遠の栄光の冠を受ける前味わいであります。そういうことを、パウロは言ったわけですね。

しかし、「この世のはかない楽しみ」は、どんなに自己満足していてもパラダイスの側には立っていません。
「この世のはかない楽しみ」は、ハデスの側に立っています。その楽しみが過ぎ去ると、むなしさが残るだけではなくて、その苦味は永遠の苦しみとなって逃れられなくなってしまいます。
この世では、麻薬とか薬物の損傷が指摘されていますけれども、それだって大変なことでありますけれども、一時の快楽の後に来る苦しみが待っているわけでありますが、ここで記されている「この世のはかない楽しみ」は、それ以上のものであります。その危険を聖書は語っています。

信仰は、この二つの人生の本質を見抜く霊的洞察力と、キリストとともに苦しむ人生を、喜んで選び取る霊の力を与えます。そのことをパウロは言っているわけですね。「取るに足りないもの」とか、「重い永遠の栄光をもたらす」、とか言っています。そのことを悟らせる力を与える。

モーセが経験した第三の霊的覚醒は、価値判断をもたらしました。
ヘブルの11章26節の前半に、「彼は、キリストのゆえに受けるそしりをエジプトの宝にまさる大きな富と思いました。」と書かれています。

私たちの価値判断は、通常どのような基準で行われているでしょうか。通常、人は次の二つの基準で行動しています。
第一の基準は、自分にどうしても必要だと思うことを真っ先に行います。
第二の基準は、自分が好むことを行います。

自分の好むものは、どうしても必要がなくても、自分の欲望を支配して、つかまされてしまうんです。必要でない物も、欲しいと思うとつい買ってしまうというのが一例です。
商売の極意というのは、どうしても必要なものを買わせるのではなくて、必要でない物を買わせるところにある、と言われています。ですから欲しがるものを並べているわけです。

実はこの第二の基準が、第一の基準を作り出している、と言っていいでしょう。
欲しい物をつかませてしまう、そういう基準です。
例えば、オートバイを買いたい青年とか、洋服を買いたいという婦人がいたとして、そういう人は、通常より余計なお金が要る、と思うでしょう。そこで、その余分のお金を得るためにアルバイトを始めます。この世の価値基準は、そのように、自分の欲から出ていることに気づかなくてはなりません。

しかし、イエス・キリストは、人に必要な価値判断は一つである、とはっきり言いました。ルカの10章41節から42節までを読んで見たいと思います。
ルカ 10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

いろいろ選択して、選んでいって、最後に選ぶのは何なのか。マリヤはそれを選んだ、と言いました。誰も彼女からそれを取り上げることはできません。その選んだ基準は何だったのか。

マタイの6章33節を読んで見たいと思います。
マタイ 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

有名なことばです。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」
多くの方の話を聞くと、毎週教会に行っていることが、神の国とその義とをまず第一に求めていることだと思って、自己満足している人がいると言われています。しかし、ここで言っている「神の国とその義」とは、イエス・キリスト御自身のことです。
すなわち、キリストのご人格であられる聖霊、キリストのみことば、キリストのまったき平安、キリストのまったき愛、を第一に求めることを言っています。そうすることによって、私たちは一つだけの基準を持つことができます。

もう一つ、マタイの22章37節、39節を読んで見ましょう。
マタイ22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
マタイ22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

これは、マタイ6章33節「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」と同じ基準ですね。別のことばで言い表しています。
これが、私たちが持つべき唯一の信仰の基準です。これによって、すべてのことを判断し、選択し、行動するわけです。
これを実際の生活の中で実行するかしないかが、信仰の試金石になっています。

もし私の価値判断が、この世の朽ちるものを第一に求める、というものであるなら、私の生涯は、飲むもの、食べる物、着るもの、住む家のために費やしてしまうでしょう。そして、全生涯を費やしても満足が得られず、そればかりではなく、「神の国とその義」とを求めなかった結果として、私の人生は破滅してしまうことになります。愛も平安も御国も失ってしまいます。

私たち人間には、価値判断をする基準を自分で決める権限は与えられていません。
正しい価値判断は、「神の国とその義」とを第一に選ぶこと以外に、他にはありません。私がそれを信仰で選び取る時、私の人生は神によって保障されます。
しかし、この世のものを自分の人生の目的にしているなら、私の人生は信仰によって営まれておらず、自分中心の肉の欲で生きているのですから、遠からず行き詰ってしまいます。
自分の行くべき道は、一つしかないことを自覚しなければなりません。それは、永遠のいのちに至る細い道であるからです。

誰も、滅びる道だとわかっていて、滅びる人生を選ぶ人はいません。ほとんどの人にサタンの覆いがかけられて、真実が分からなくされてしまっているんです。ですから、大勢の人が並んで歩いている広い道を歩けばよいと思って、そこに入り混じって行ってしまうわけです。ですから、すべての人がみことばと聖霊によって、魂の覚醒が必要です。
それはモーセや聖徒たちだけではありません。

ところでみなさんは、「キリストのゆえに受けるそしり」「エジプトの宝にまさる大きな宝」と、計算することができるでしょうか。
キリストを信じて従っているために、家族や友人たちからそしられたり、非難されたことはないでしょうか。その時、キリストのゆえに喜びを感じ、誇りに思ったでしょうか。それとも、キリストから離れようと思ったでしょうか。

使徒の働きの5章41節~42節を読んで見たいと思います。
使 5:41 そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。
5:42 そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。

御名のためにはずかしめを受けることを喜びと感じて、議会から出ていった、と書いてあります。それで、福音を伝えることをやめるかと思うと、毎日、宮や家で教え、キリストを証しした、と言っています。

エジプトの宝とは、派手で、贅沢で、自分の力に頼り、自分を誇る、他人から称賛されるような生活のことです。肉の欲を持っている人は、このようなキラキラと輝いている生活にあこがれるでしょう。
最近の世の中を見れば、いろんな電球がキラキラ輝いているような生活が蔓延しております。そういう着飾った生活をしている中で、それでもキリストのために苦しみを受ける方をわざわざ選ぶでしょうか。キラキラか輝いている方がいいと思うでしょう。
キリストとともにくびきを負って、忍耐する方を喜んで選ぶでしょうか。そういう人はほとんどいないと思います。

ですからモーセの選択は、現代人が考えられない途方もない選択だったわけであります。しかし、モーセもパウロも、キリストのために苦しむ方がはるかに大きな富と計算したのです。それは金銭勘定ではありません。永遠に失われない、尊い栄光の冠を計算に入れていたからであります。

ある人達は、「それは死後のことでしょ」と言うかもしれません。しかし、私たちは、そう遠くない日に、その栄光の冠を受ける日が来るのです。
それだけではありません。今、地上に生きている間に、永遠に残る信仰と希望と愛を受けて、キリストの平安を受けるのです。キリストにある愛の交わりを受けます。それは、栄光の冠と同じ味わいをするものです。

ピリピ3章7節と8節を読んで見ましょう。
ピリピ 3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。・・・・」

キリストを知っていることの素晴らしさ、クリスチャンはみな、キリストを知っていることの素晴らしさを知っているでしょうか。
この世で朽ちていくものだけしか得られず、永遠に残るものは何も得られないで、滅んでいってしまうことは最も危険であります。そんな選択をする私には、朽ちないものに変えられる栄化もなく、復活の勝利もありません。

モーセもパウロも、選んだ苦しみがやがてどういうものになっていくか知っていたからであります。私たちは寒い木枯らしが吹き、冷たい風が吹き、雪が降り、そういう冬が過ぎると春が来ることを知っています。
しかし、キリストともに苦しみ、キリストとともにくびきを選んだ人は、聖霊によってキリストに似た者に変えられていくことを知っているでしょうか。

第二コリント3章18節を読んで見ましょう。モーセやパウロもそれを知っていたわけですね。
Ⅱコリ 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

クリスチャンは、顔の覆いを取り除けられる必要があります。いま、経験している苦しみや悲しみや、キリストとともにくびきを負う辛さも、そのことから生まれてくる神の栄光を、経験させていただかなければなりません。それを経験している人が、家族や周りの人々に、重大な人格的影響を与えていきます。
私たちは福音を伝える時に、何をどのように話したらよいか考えるかもしれませんが、それ以上に大事なことがあります。それは、重大な人格的影響であります。
私たちの心の中に、みことばと聖霊の光を持っていることです。聖霊の働きを持っていることです。

エペソの4章16節を読んで見ましょう。
エペソ4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

キリストのそしりを、信仰によって甘んじて受けることは、この世にあっても必ず勝利を得させます。しかし、肉の欲を持ちながら、キリストのそしりを喜んで受けることはできません。信仰による価値判断が必要になってきます。
今、目の前にある苦しみや困難をどう受け止めるかは、信仰による価値判断が決めていきます。

第四の霊的覚醒は、集中と継続でありました。
ヘブル11章26節後半では、「彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」と言っています。

ヘブル11章6節では、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」と言っています。

これは、神の報いを求め続ける継続的な信仰です。神様は、私たちに報いを求めることを命じておられます。その報いは、朽ちる報いではなくて、永遠の栄光の冠の報いです。この求めは、集中と継続的な信仰によるものです。
これが第四の霊的覚醒の特徴であります。

ヘブルの11章26節で、「目を離さなかったのです。」とあります。
12章の2節でも、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。・・・・」と言っています。

「イエスから目を離さない」とは、どうすることでしょうか。
それは、主イエスに注目し、集中し、忍耐強く待ち望むことを指しています。
アブラハムが、神の都を待ち望む信仰を見てきました。
エリヤもカルメル山上の祈りの中で、主の御手から目を離しませんでした。
イエス様から目を離さない、いつも心にイエス様を持っている、イエス様を仰いでいる、そういう信仰が必要だ、ということですね。

詩篇123篇1~2節を読んで見たいと思います。
詩 123:1 あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。
123:2 ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。

この詩篇の記者は、奴隷たちが主人の指示がいつ出るか、主人の命令が出たらすぐに行動ができるように、主人の手に注目しております。目をそらさないようにして、私の目も主からそらさず、主に集中している。それがイエス様から目をそらさないことですね。片時も主を軽んじない。
自分の知恵と力に頼ることなく、主に仕えることを指しています。ややもすると自分の考えや知恵が出てきて、そうなると主から目を離してしまうことになります。

ヘブル人への手紙では、主は私たちの信仰の創始者であり、完成者だと言いました。
主は、普遍的な、究極的な信仰の創始者であり完成者であります。
しかし、それと共に、現実的な、個人個人の信仰の創始者であり、信仰を育てて完成させてくださる完成者でもあります。

主はモーセを、40年かけてミデヤンの荒野で取り扱われて、ホレブの燃える柴の中からの顕現によって、モーセの信仰を完成させてくださいました。

新約聖書でも、カナンの女の人は、主に求めを断られながらも、「小犬も、主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」という信仰に導かれて、信仰を完成されました。恵みのみわざをおこなっていただける信仰に、到達したわけです。

イエス様に目を開いていただいた人も、最初は、人が木のように動いているようにしか見えませんでしたが、二度目には、はっきりと見えるように癒されています。彼の信仰が、完成に導かれたからであります。

病の息子を持つ父親も、イエス様に、「できるものなら、私たちをお助け下さい」と求めましたが、その信仰はまだ完成されていません。
そこで主は、「できるものならというのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と、きつく言われました。
すると父親は、「主よ、信じます。不信仰な私をお助けください。」と叫んでおります。
主はこの遠慮がちな父親の、不信仰が混じった信仰を、主がみわざをおこなわれるにふさわしい完全な信仰に導いておられます。
明らかに主は、信仰の完成者であります。

イエス・キリストの弟子たちも、十二弟子と呼ばれてから三年半、主に従いましたが、ペンテコステの日に聖霊に満たされて、信仰が完成されました。

イエス様は、私の心の内に、みことばと聖霊によって信仰を生まれさせてくださいました。そして、私の内に始めてくださった信仰を、私の生涯を通して完成させてくださるお方です。

ピリピ1章6節をお読みいたしましょう。
ピリピ1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

クリスチャンの内に、良い働きを始めたのもイエス様ですが、イエス様の再臨の日までそれを完成させてくださる、と言っています。ですから、私たちの内に与えられている志も、完成させてくださるのはイエス様だということが分かります。

第一テサロニケの5章23節も読んでみましょう。
Ⅰテサ5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

私たちのたましいの完全、信仰の完成は、私たちの努力によって到達するものではなくて、平和の神ご自身が完全に守ってくださることによって、主イエスの来臨の時に責められるところのない状態に、到達することができます。このみわざが、今日も明日も、毎日おこなわれているわけです。ですから、イエス様から「目を離さないでいなさい。」と言われています。
「目を離さないでいなさい。」とは、私の個人的経験として、「この私の内で信仰を始めてくださり、そして、私の内にその信仰を完成してくださる、そういうイエス様から目を離さず集中して従いなさい。」というメッセージであります。

ヘブル11章26節では、「彼は報いとして与えられるものから、目を離さなかったのです。」と言っていますが、これは、とりもなおさず、イエス・キリストから目を離さなかった、ということであります。

マタイの17章8節で、弟子たちが、「彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。」と書いてあります。変貌の山のことであります。
変貌山で、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが経験したのも、イエス・キリストお一人のほか、誰もいなかった。モーセもエリヤも見えなくなっていました。そして、イエス様お一人だけが見えるようになってきた時に、信仰が完成に近づいています。

コリントの教会ではこんな問題が起きていました。
Ⅰコリ1:12 あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。
1:13 キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。

ここで問題になっているのは、イエス様を差し置いて、人間の指導者を追いかけるようになると、分裂を引き起こしてしまっている、ということです。二千年間の教会の歴史は、人間の指導者による分派、分裂の連続です。そして別れ争うものは、立ち行かなくなるのです。
イエス様以外のものを見つめて言い争っている者は、イエス様からも、聖書の真理からも、外れている証拠です。

主はこう言われました。ヨハネ14章6節を読んでみましょう。
ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

ですからイエス様に集中し、忍耐強く従っていく信仰は、この世にあっても必ず恵みを受け、永遠の栄光の冠を受けるのです。これは主の確かな約束です。私たちの信仰はそこに向かって、完成にむかって、毎日訓練を受けて成長させていただいております。

自分の知恵と、肉の欲の熱心では、地上に財産や地位を築いたようであっても、決して神の愛と平安と喜びを持てません。自分中心の熱心と努力では、永遠の価値ある報いを受けられません。信仰でなければ、報いを受けられないからです。

モーセに霊的覚醒をもたらした信仰は、今の私たちも持つことができます。
そのことは、すでにお話してきましたが、最後にもう一度まとめておきましょう。
この霊的覚醒にはいくつかの段階がありました。

第一のステップは、人となられた神、イエス・キリストが、私の不信仰の罪のために、十字架にかかって、身代わりの死、贖(あがな)いの死、を成し遂げてくださったことを信じることです。
大事なことは、キリストの十字架の死は、犯した罪のためだけではなくて、罪を犯させる原因となる罪の性質、罪の力、罪の根、罪の傾向性からもきよめてくださることにあります。すなわち、救い主として、きよめ主としてのキリストを、自分のたましいの内に受け入れて信じることです。

このことが明確になってくると、霊の覚醒が始まります。
霊の覚醒は、私たちのたましいの内にキリストのご人格を持つようになることから始まります。聖書の知識が増えたから始まるわけではありません。キリストの御霊が私の内に宿る時、霊の覚醒が始まるんです。神さまが分かるようになる。
聖書を読んで、みことばを覚えて、理解して、納得しても、何も始まらないかもしれません。霊の覚醒は始まりません。
ところが、聖書があまりよくわからない状態でも、キリストのご人格を受けることによって、私たちの霊の目は開かれます。覚醒が始まるんです。今まで体験しなかった霊的経験が開けてきます。
この第一ステップが明確にならないと、信仰全体が動き出しません。

ニコデモがイエス様のところにやってきて、いろいろと質問しましたが、彼には、霊による新生経験が明確ではありませんでした。ですから何も始まりませんでした。キリストの御霊を受けることによって、霊の覚醒が始まります。
今日クリスチャンは、洗礼を受けて、教会も長いこと行っているけれども、霊の覚醒が始まらないでいる人が、いらっしゃらないでしょうか。そういう人は、この第一ステップが明確になっていないからです。
キリストの十字架の意味を知るだけではなくて、救い主として、きよめ主として、主を自分のたましいの内に受け入れて信じることが大事なステップであります。

第二ステップは、主の約束のみことばをしっかり握って、モーセがエジプトの楽しみを退けたように、この世の快楽を退け、この世に対する未練を心の中から追い出してしまうことです。ここで大事なことは、自分の決心で追い出すだけでは、十分ではありませんから、必ずみことばを心に握って追い出しましょう。みことばを使えば、そこに聖霊が働いてくださるからです。
自分の決心を堅くして、追い出したつもりになっていても、すぐに崩れてしまいます。信仰の土台は決心ではなくて、みことばであります。聖書の約束のことばを握っていることが大事ですね。
主イエスもサタンの試みに会われた時に(マタイ4:1~11)、申命記のみことばを使ってサタンを撃退されました。イエス様もみことばを使っております。ですから私たちも、その模範に従いたいものです。

第三ステップは、神のみことばが示す道を、選び取ることです。
聖書のことばは、読むだけではなく、覚えるだけではなく、理解するだけではなく、議論するだけでなく、活用することです。大事なことは、自分の毎日の生活をするための足のともし火とし、道の光として活用することです。
聖書のことばを、自分の生活の命として光としてエネルギーとして活用することです。毎日、みことばと聖霊が教えてくださることを実行していくことです。

マタイの7章24節をご一緒に読んで見ましょう。
マタイ7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
大事なことはそれを聞くだけではなくて、行うことですね。全部行えなくても、その一つでも二つでも、毎日の生活の中で実行する人は、神様のみわざが行われることを必ず経験します。

第四のステップは、肉の欲の価値判断ではなく、キリストにある価値判断をすることです。神と富と、両方を得ることはできません。
金持ちの青年の価値判断は、キリストを捨てて自分の富を選び取ることでした。彼ははじめ、永遠のいのちを求めてキリストのもとに来たのに、自分で主のみことばを拒んでしまいました。
長い間教会に来ていて、永遠の命について何度も聞いている人でも、この青年と同じ選択をする人がいます。
朽ちる冠ではなく、朽ちない冠を獲得していただきたい。この最後の選択は、牧師が助けることができません。自分ひとりで選択するんです。朽ちない冠を、是非受けていただきたい。

第五のステップは、主イエスから目を離さないで、集中して、忍耐強く従い続けていくことです。
この世の私たちの周りには、不信仰な誘いもあれば、偽りの教えも入ってくるし、サタンが覆いをかけてもきます。
キリストの光が見えなくなってしまうこともあるし、これに惑わされる人も少なくありません。
霊的なことだからといって、どれでも信じていいわけではありません。ヨハネの第一の手紙で、ヨハネは警告しました。

この霊の覚醒のステップはつながっていて、発展していくものであります。しかし、どの段階においても大事なことは、キリストを信じて従うことが中心であります。ですから、毎日、一日一日、明確に歩んでいくなら、誰でも、確実に、特別な人でなくても、長い間信仰生活を送ってこなかった人でも、今日信じた人でも、信仰の活用によって霊的覚醒を受けて、霊の世界が開かれて行きます。

大事なことは、洗礼を受けるとか儀式を守っていることだけではなくて、たましいの内にキリストのご人格を受けて、十字架の血潮を受けて、正確に始めることであります。そのことを通して私たちは、新たなる霊の世界を経験することができるわけです。それが、信仰による霊的覚醒の第一歩であります。

お祈り

恵みの深い天のお父様、彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
こうして私たちにも信仰を与えてくださって、歩むべき道を示してくださり、みことばと聖霊も与えられております。
少なからざる恵みの経験もさせていただいております。そのことの故に感謝いたします。
ますます、主を証しする力を与えてくださって、あなたの栄光の冠を受ける日まで、導きを与えてください。
一歩一歩前進して、朽ちない冠を受けることができますように、お助け下さい。
忍耐強い信仰を持って、主の道を歩み続けられますように助けてください。
この時を感謝して、尊いキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明

<今週の活用聖句>

へブル人への手紙12章2節
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421