音声:信仰の列伝(26) 信仰による霊的覚醒(2) へブル人への手紙11章24~26節

2017年2月5日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章24~26節
11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。

<インフォメーション>
それ故、「目を離さないでいなさい。」とは、私の個人的経験として、「この私の内に信仰を始めて下さり、そして私の内でその信仰を完成して下さる、主イエスから目を離さず、集中して、従って下さい。」と言うメッセージになります。
へブル11:26では「彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」と言っていますが、これは取りも直さず、イエス・キリストから目を離さなかったということです。
「それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスお一人だけであった。」(マタイ17:8)
変貌の山で、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが経験したのも、イエス・キリストお一人のほか、誰もいなかったのです。モーセも、エリヤも見えなくなっていたのです。
イエス様お一人だけが見えるようになって来る時、信仰が完成に近づいています。
コリントの教会ではこんな問題が起きていました。
「あなたがたはめいめいに、『私はパウロにつく。』『私はアポロに。』『私はケパに。』『私はキリストにつく。』と言っているということです。キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。」(コリント第一、1:12~13)
このように、イエス様を差し置いて、人間の指導者を追いかけるようになると、分裂を引き起こしてしまいます。
この二千年間の教会の歴史は、人間の指導者による分派、分裂の連続です。そして、分れ争う者は立ち行かなくなるのです。
イエス様以外のものを見つめて、言い争っている者は、イエス様からも、聖書の真理からも、外れている証拠です。
主はこう言われました。「イエスは彼に言われた。『私が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネ14:6)
イエス・キリストに集中し、忍耐強く従って行く信仰は、この世にあっても、必ず恵みを受け、永遠の栄光の冠を受けるのです。これは主の確かな約束です。
自分の知恵と、肉の欲の熱心では、財産や地位を築いたようでも、決して神の愛と平安と喜びを持てません。
自分中心の自我の熱心と努力では、永遠の価値ある報いを受けられません。
信仰でなければ、報いは受けられないからです。

<今週の活用聖句>
へブル人への手紙12章2節
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

写真は、中世オーストリアの詩人Rudolf von Ems (c. 1200 – 1254) による「Mose zieht vor Gott im brennenden Dornbusch die Schuhe aus(燃える柴のなかの神の前で靴を脱ぐモーゼ)」(Wikimedia Commonsより)

地の塩港南キリスト教会
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