音声+文書:信仰の列伝(28) あがないの信仰 へブル人への手紙11章28節

1897年のBible Picturesのイラスト「The Angel of Death and the First Passover(初子を殺そうとする天使と最初の過ぎ越し)」 (Wikimedia Commonsより)


2017年2月19日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

 

へブル人への手紙11章28節
11:28 信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行いました。

はじめの祈り

「信仰によって、初子(ういご)を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越(すぎこし)と血の注ぎとを行いました。」
恵み深い天のお父様、この聖日、私たちのイエス様の尊い血潮を注いで、新しい礼拝をさせていただき、キリストにあって新しい者に造り変えていただき、新しい霊に満たされて、この一週間を歩ませていただくことを感謝いたします。
今日も贖(あがな)いの信仰をしっかりと握りなおして、信仰に堅く立ち、恵みの中を歩ませてください、
これからの時を導いてください。
尊いキリストの御名によって、お祈りいたします。
アーメン。


今日は、「あがないの信仰」という題でお話しさせていただきます。

この信仰の贖(あがな)いの問題は、ヘブルの11章28節で、「初子(ういご)を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、モーセは過越(すぎこし)と血の注ぎを行いました。」と書いてあります。
この出来事は、出エジプト記の12章21~30節に記されています。
今日は、いくつかの旧約聖書をお読みしますけれども、特に注意して頂きたいことばがいくつかあります。
一つは、「初子(ういご)」ですね。
それから、「わたしのものである」です。

特にそういうことばに心を留めて、お読みいただけると良いと思います。一生懸命に読んでしまうと、読むことに一生懸命になってしまって、そこに書いてあることが、心に留まらないことがあってはいけませんので、「初子(ういご)」「わたしのものである」ということばに、特に注意して読んでいただけると良いと思います。

出 12:21 そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。
12:22 ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。
12:23 主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。
12:24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。
12:25 また、主が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。
12:26 あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか』と言ったとき、
12:27 あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて、礼拝した。
12:28 こうしてイスラエル人は行って、行った。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。
12:29 真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。
12:30 それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。

エジプトの内のすべての初子(ういご)が殺されていますね。聖書をもっと読んでいきますと、この最初の「初子(ういご)」が殺される、という出来事は、聖書の中の記事としては、神様が特に初子(ういご)に注目をされるきっかけになったように記されています。
この過越のご命令と約束は、創世記3:15のキリストの十字架の預言以来、最も重要な神の小羊、イエス・キリストの十字架の贖(あがな)いを表す予表であり、重大な神の啓示となっています。

創 3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

このことが突然、モーセの時のエジプトの脱出に関わって現わされたことは、このエジプト脱出が単なる一事件ではなくて、聖書の中の重要な真理、キリストの十字架の贖(あがな)いを表す一大真理をさしていることは明らかで、そのことが、特に意識されて記されています。

ですから、バプテスマのヨハネも、イエス・キリストを見た時に、過越の身代わりのいけにえにされる、神の小羊に見えました。

ヨハ 1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

ヨハネが言っていることは明らかに、この初子(ういご)が殺される時の、小羊の血潮を指して言ってるわけですね。
この神の小羊は明らかに、私たちの罪の身代わりになって十字架にかかってくださった、身代わりのいけにえになってくださった、イエス・キリストを指しております。
ですから、救われるには、小羊の血による信仰が必要であるように、キリスト対して、単純で、純粋で、一つの疑いもはさまない、全く信じ切った信仰が必要になることを示しております。

ローマの5章8~10節を読んで見ましょう。旧約聖書で明確に記されていないことが、新約聖書で明確に記されています。

ローマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

第一ペテロの1章18~19節も読んで見たいと思います。ここにも明らかに贖(あがな)いのことが書いてありますね。キリストの血による贖(あがな)いのことです。

Ⅰペテ1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

旧約の人達、ユダヤの人達に伝わってきた小羊や獣の血ではなく、キリストの血によって贖(あがな)い出され、救われるということが明確にされております。

第一ヨハネの1章7節も読んでみましょう。
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、一言で言えば、キリストの血による真理の中におられる、と言うことです。
キリストの血の真理の中を信仰を持って歩んでいるならば、私たちは互いに交わりを保ち、この交わりは信者のお互いの交わりではなくて、父、御子、御霊との、つまり神様との交わりを指しています。人が贖(あがな)われ、救われるのは、神様との交わりを回復するためですね。

ですから、モーセは、イスラエル人が、小羊の信仰を個人的にあてはめるために、小羊の血潮を二本の柱、門柱とかもいに塗らせておりますね。民族的な過越の儀式を行っただけではなくて、小羊の血をそれぞれの家の入口に塗らせております。
信仰は、全体的なものだけではなくて、心の中に、一人ひとりの生活の中に適用し活用されなければなりません。今日私たちは、みことばと聖霊によって、キリストの贖(あがな)いの血潮を自分に当てはめて信じることが大切です。
キリストの救いも、きよめも、霊的な神様の恵みのみわざも、それを受けるためには、決して疑わない信仰が大切であります。キリストの十字架のことばを、自分に当てはめる信仰が必要です。

第一コリントの1章18節を読んでみましょう。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」

このことばを覚えているだけではなく、体験していることが必要です。
キリストの十字架は、個人的に自分のものとして信じて、自分の内に持つのでなければ、たとえ、その知識を知っていても、ことばを覚えていても、救いの力にはならないし、きよめの力にもならないし、罪や誘惑にも勝てません。さらには、ズルズルと罪を犯し続けていって、平安もなく、神の愛も経験できません。そういうクリスチャンにならないように、気を付けなくてはなりません。
知識として知っている、洗礼も受けている、儀式も守っている、だけども、十字架のことばを知らない、経験していない、内に持っていない、信じていない。それは滅びに至る人でしかありません。こういう人達には、十字架のことばは力にならない、と言っています。

へブル11章28節で、「信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることがないように」と言っていますが、ここで、なぜ、「初子(ういご)」が注目されるのか、お話しておきましょう。
それは「初子」は、神にとっても人にとっても、重要な存在だからであります。今日の一つの中心的な話題は、「初子」にかかっています。

まず、神様にとって、「初子」はどんな存在だったのでしょうか。
出エジプト記の4章22~23節を読んでみましょう。ここで「初子」という言葉が出てまいります。神様と「初子」の関係ですね。

出4:22 そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。
4:23 そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』」

「初子」が特別に特出されていますね。
「イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。 ・・・ 行かせないなら、あなたの初子を殺す。」と言われています。

出エジプト記の13章2節も読んでみましょう。
「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」
最初に生まれた息子のことですね。人であれ家畜であれ、神様のものだから聖別しなさい、と言っている。

出エジプト記の34章19~20節を読んでみましょう。神様にとって「初子」がどんな存在だったか、わかります。

出34:19 最初に生まれるものは、すべて、わたしのものである。あなたの家畜はみな、初子の雄は、牛も羊もそうである。
34:20 ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし、贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの息子のうち、初子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。

ここからだんだんと、「初子」のかわりにレビ人が現れるようになってくるわけですけれども、そのいきさつについては聖書に書いてありますので、また、読みたいと思います。
民数記の3章38~45節を、ちょっと長いですけれども読んでみたいと思います。レビ人というのは、モーセやアロンもレビ人でしたが、アムラムやヨケベデもその息子たちもレビ人であります。これは、予備知識として知っておいていただきたいですね。

民3:38 幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちであった。ほかの人でこれに近づく者は殺される。
3:39 モーセとアロンが主の命により、氏族ごとに登録した、すべての登録されたレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人であった。
3:40 主はモーセに仰せられた。「イスラエル人のすべての一か月以上の男子の初子を登録し、その名を数えよ。
3:41 あなたは、わたしのために、わたし自身、主のために、イスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取り、またイスラエル人の家畜のうちのすべての初子の代わりに、レビ人の家畜を取りなさい。」
3:42 モーセは主が彼に命じられたとおりに、イスラエル人のうちのすべての初子を登録した。
3:43 その登録による、名を数えられたすべての一か月以上の男子の初子は、二万二千二百七十三人であった。
3:44 主はモーセに告げて仰せられた。
3:45 「レビ人をイスラエル人のうちのすべての初子の代わりに、またレビ人の家畜を彼らの家畜の代わりに取れ。レビ人はわたしのものでなければならない。わたしは主である。

ここに書いてある通りですね。レビ人が「初子の代わりに」とあります。これはイスラエル人の「初子」がレビ人の人数に近かったからです。それで、レビ人が神様の御用をするように召されていくわけです。
ここで何度も出てきていますが、「わたしのため」、「わたしのため」、「主のため」・・・・・・「わたしのものである」ということばが繰り返されております。

民数記の8章14~20節も読んでみたいと思います。

民 8:14 あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。
8:15 こうして後、レビ人は会見の天幕の奉仕をすることができる。あなたは彼らをきよめ、彼らを奉献物としてささげなければならない。
8:16 彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。
8:17 イスラエル人のうちでは、人でも家畜でも、すべての初子はわたしのものだからである。エジプトの地で、わたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは彼らを聖別してわたしのものとした

ちょっとここで気を付けていただきたいところがあります。
「エジプトの地で、わたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは彼らを聖別してわたしのものとした」と特筆しております。ですからモーセの時代で、出エジプトの時に、「初子」が殺されたということは、神様にとって、非常に重要な出来事であって、特筆することであったことを記しているわけですね。
レビ人が選ばれることもそうですけれども、「初子」は神にとって特別なものになる、という出発点になっていることが分かります。

8:18 わたしはイスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取った。
8:19 わたしはイスラエル人のうちからレビ人をアロンとその子らに正式にあてがい、会見の天幕でイスラエル人の奉仕をし、イスラエル人のために贖いをするようにした。それは、イスラエル人が聖所に近づいて、彼らにわざわいが及ぶことのないためである。」
8:20 モーセとアロンとイスラエル人の全会衆は、すべて主がレビ人についてモーセに命じられたところに従って、レビ人に対して行った。イスラエル人はそのとおりに彼らに行った。

ここまで聖書を探求してくると、主が「初子」をご自分のものとされた意義がだんだん分かってまいります。
「初子」の聖別は、長子の相続権とも関係しているようです。相続権というのは、ヤコブの問題もありましたし、ヨセフの子どもをヤコブが祈る時のことを、前にもお話をしてきましたけれども、長子の相続権と関係しているようであります。

それとともに、特にレビ人をイスラエル全体の「初子」の代わりに取られたことに、特別な意義があります。主は直接、ご自身に仕えて幕屋の奉仕をさせるために、レビ人を聖別されています。祭司を助け、幕屋の仕事をする専門家として召されています。このレビ人の中から、アサフのように賛美の奉仕をするものも現れています。

神様にとって、「初子」は重要な存在であったことがわかります。しかし、この神の聖別の恵みも、レビ人達が聖別された特別な恵みも、新約聖書の時代には、信仰も、神の愛も、恵みも失われてしまっております。

ルカ10章30~32節を読んでみましょう。そこにレビ人が出てまいります。

ルカ10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

このイエス様のお話は、ユダヤ人に見下されていたサマリヤ人の敬虔な信仰に注目をさせております。偏見を取り除いて、神の選民であることを自負していたユダヤ人の祭司と、レビ人の信仰が死んでしまっている。真の宗教を忘れて、儀式化してしまった宗教を痛烈に叱責されております。素晴らしいモーセの時代に、レビ人を選ばれたその特権をないがしろにしてしまっています。非常に重要な出来事も、意義ある出来事も、こうして儀式化されたりすると、いのちを失ってしまうことがよく分かります。

しかし、使徒の働き4章36節では、キプロス生まれのレビ人で、敬虔な信仰の持ち主バルナバがいたことが記されています。当時は、レビ人の中でも、信仰が生きているのが記されているのは、バルナバぐらいであります。
今日では、神様に仕える奉仕者は、初子でもなくレビ人でもなく、聖霊に満たされたきよめられた人です。

使徒の働き1章8節をお読みしましょう。

使1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

キリストを証しする人は、聖霊に満たされた人ですね。宣教師の話だけではなくて、証し人です。使徒の働き6章3節も読んでみましょう。

使6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。

新約の時代においては、主は、信仰と聖霊に満ちた人を、ご自分に仕える奉仕者として選んでおります。ですから、旧約の時代の「初子」やレビ人の制度はなくなってしまっておりますけれども、神様が「初子」を特別な意味で大事にされた意味が、お分かりいただけると思います。新約においては、信仰と聖霊に満ちた人が重要だと言うことが分かります。

ここまでは、神にとっての「初子」の価値についてお話してきましたけれども、主はエジプトの初子を打っておられます。そのことが、「初子」が重要視されるきっかけになったことは、先ほどお話した通りであります。

それでは、神に敵対する人間にとって、初子はどんな価値があるのか考えてみましょう。初子は、夫婦に生まれた最初の男の子のことですから、初子が生まれることは非常に意味があります。

第一に、軍事力が増強されることです。
エジプトのパロが、イスラエルに男子が生まれることを恐れたのは、イスラエルに反乱軍を起こす力が増してくるからですね。ですから、イスラエルに男の子が生まれたら殺すように命じました。
第二に、初子は貴重な労働力の増加、引いては、それによって物質的繁栄を意味するからです。

この二つの問題は、今の時代でも変わっていません。国の人口が減少することは、その国の国力の衰退をはっきりと示しています。今、日本の人口が減りつつあると言われています。若い男女の減少、晩婚化、出生率の低下は、すべて国力の衰退を示しています。この時、エジプトの初子が殺されたということは、エジプトの王朝が滅びることを意味するほどの重大事件だったのです。

日本でも先の戦争の時に、急速に人口が減少しました。これは非常に恐ろしい事ですね。アメリカでも最初から人口が多かったわけではありません。移民がどんどん増えて、移民を増やすことによって国力を増強してきた歴史があります。だから今、ものすごく問題が起きているわけですね。自分の都合の良い事だけ言う人が、増えてくるからです。

私たちの国でも、国全体、特に若い青年層の人達が、家族を構成する喜びを感じているかどうか、不安視されています。青年層の人達が、結婚や出産に輝いた感覚を抱いていないのは、自分達が育ってきた親の世代の家庭に、素晴らしく輝いたものを見てこなかったからではないでしょうか。出産が増えるということは、特に青年層の人達が家族を形成する喜びを感じている時ですね。それを感じなくなってしまったら、自分たちが育ってきた家族に喜びを感じなくなってきたら、これから家庭を作ることを輝かしいものと考えなくなってしまいます。車や電化製品や家を買って、ローンを払って一生を終えてしまう。そういう人生を誰もがやっているのを見て飽きてしまっているのです。お金で買えるものばかりを求めて、互いに愛し合ったり、助け合ったりすることの大切さや喜びを、経験してこなかったからですね。心に深く感動する体験をしてこなかったからです。

お金で買えるものを求めている社会では、みんなが自己中心になり、つっけんどんになり、頑固になり、癇癪を起こすようになり、自分さえよければいいという、そういう社会ができ上がってしまいます。自分だけおいしいものを食べて、楽をして、遊んで暮らして、それがあたかも素晴らしいパラダイスのように、この世は描いておりますけれども、楽しくないんです。感謝の心が湧いてこないし、なんでも物とお金で済ませてしまう。そういう社会には、生きていく感動がありません。喜びがないんです。輝いているものがない。そういう生活を子どもの頃から見てきた青年たちは、自分の将来に輝きを期待できない。そうすると、自分だけで快楽を楽しむ生活をしてしまいます。ですから、どこかで誰かが、どの人の人生にも光輝く生き方があることを、見せてあげなければなりません。

大繁栄した巨大帝国はすべて、国力を失い、滅んでいっています。その原因は、一人ひとりの心に、今日生きていく心の感動を失ったからです。それが滅亡の最大の原因ですね。
今、私たちの時代に、一人ひとりの心の中に光輝く感動があるでしょうか。それが一人ひとりの生活の仕方や、国の力に現れて来るんです。今の日本は、急速に国の力が衰えています。一緒に遊ぶ人は増えても、愛し合ったり、助け合ったり、光を照らす人が身近にいないからです。繁栄した社会は明るいように見えますけれども、宇宙のブラックホールが自滅していくように、人類は丸ごと滅亡していくのです。そういうことは、私たちがニュースを見るまでもなく、実感として感じているのではないでしょうか。

初子が滅ぼされることは、エジプト帝国にとっても、神の民にとっても、今日においても、重要な問題で、私もその社会の一員として生きているのですから、光輝かせなくてはなりません。光輝く生活があることを、証ししなくてはならない。

最後に、「初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行いました。」と書いてあります。

これは注意深く読む必要があります。モーセが、主のご命令に従って、過越の小羊をほふったこと、それは全体的な儀式でありますけれども、その血をイスラエルの一軒一軒の家の門柱とかもいに塗ったことを、別々に書いています。これは、イスラエル全体として行ったことと、個人個人の信仰に適用したこととを分けて書いています。

モーセは、この過越を単なる儀式や行事と思っていません。彼は本気で信じて、イスラエル人の個人個人の門柱とかもい、すなわち、入口の部分に小羊の血を塗っています。
たとい、イエス・キリストの血が全世界の人々のために流されていても、一人ひとり、個人個人が自分に当てはめて信じて受け入れるのでなければ、自分の救いにはなりません。信じない人々にとっては、過越は単なる宗教儀式に見えるでしょう。しかし、自分に当てはめる人だけ、本当に信じる人なのです。モーセは、小羊の贖いの血を、門柱とかもいに塗り、その家の中にとどまっていれば、初子を滅ぼす者は触れないで通り過ぎていくと、本気で信じたのです。

モーセは、なぜこのことばを信じたのでしょうか。もしこれが、人間の哲学者や宗教家の話だったら、信じなかったでしょう。しかしモーセは、自分自身で直接神から聞いていた経験があったからです。この確信は間違いのないものです。打ち消すことができません。
ルカの1章45節で、エリサベツがこう言っています。
「主によって語られたことは必ず実現すると信じ切った人は、なんと幸いな人でしょう。」

今日、私たちの過越の小羊イエス・キリストは、すでに身代わりのいけにえとしてほふられています。キリストの十字架は、完全な贖いのいけにえであって、これに人間が何もつけ足してはいけません。良い行いなら、つけ足してもいいのではないかという人がいますが、たとい善行であっても、キリストの十字架のいけにえに、何もつけ足してはいけません。もしつけ足したら、キリストの十字架は完全でなかったということになってしまう。十分でないことを主張することになり、不信仰になってしまうからです。良いことならたくさんあった方がよい、という論理は、キリストのあがないの十字架には、成り立ちません。このことに、ぜひ注意していただきたいと思います。身代わりの十字架の救いのためには、キリストの十字架だけを信じることが大切です。

第一ペテロの2章24節をお読みしてみましょう。

Ⅰペテ 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

なぜ、小羊の過越のいけにえが、滅ぼすものから救ってくださるのか。なぜ、キリストの十字架の血が、私の罪の身代わりとなり、私の罪を赦しきよめるのか。
それは、ひとえに、全知全能の神の約束であり、ご命令だからです。神の主権によって成し遂げられた贖いのみわざだからです。これを信じて受け入れる者には、神の救いのいのちと力を経験するのが分かります。この約束が、全能の神の約束ならば、人は信じなければならないし、もし信じなければ滅んでしまいます。信じなかったエジプトのパロの軍隊は、紅海の海の底に沈んでしまい、全員が滅んでしまいました。

最後に、聖書が言っている「キリストを信じる」とはどうすることか、改めてお話しておきます。
なんとなくキリストをイメージして、信じたつもりになっている人もいますけれども、それは正確ではありません。牧師や伝道者も、はっきりと正確に教えていないのではないでしょうか。そこで、キリストを信じるとはどういうことかをお話しします。

第一に、主イエス様の十字架の血潮は、私の罪の身代わりとなって流された血であることを信じることです。
キリストの十字架の死は、私の罪の身代わりの死であることを信じることです。これが聖書が啓示している、キリストを信じることですね。
先ほどもお読みしましたけれども、第一ヨハネの1章7節後半「・・・・御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

第二に、キリストを信じるとは、主のみことばを信じることです。
ルカの7章47節で、「だから、私は言うのです。『この女の多くの罪は赦されています』」
ルカ7章48節でも女の人に言われました。「そして、女に、『あなたの罪は赦されています』と言われた。」
マタイ8章3節で、「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。するとすぐに、彼らのらい病はきよめられた。」とあります。

主が、「あなたの罪は赦された」と心に語りかけられたら、赦されたと信じることです。それをいつまでも、疑って不安になっているなら、主を偽り者だ、と言っていることになってしまいます。

主のみことばに少しでも疑いを持っているなら、すぐにサタンが入りこんできて、疑いを増幅し、不信仰にひっくり返してしまいます。サタンの侵入を防ぎサタンを撃退するためには、主イエス様もされたように、聖書の神のみことばを疑わずに、信じて活用することです。みことばを握らないで、自分の思いとか、主張とか、哲学とか、道徳などで、キリストを信じようとすることはできません。自分の知恵や考えの自己主張に曲がって行ってしまうからです。聖書のことばは信じていないけれども、自分の言っていることは正しいからいいんだ、と思っている人は危険です。

なぜ、聖書の言葉を信じることが必要なのかと言うと、私が神の子どもとなり、神の国の相続人となる契約書にサインすることだからです。どんなに話し合いのうえで意気投合したとしても、最終的に契約書にサインせず、契約書を交わさなければ、罪の赦しも、きよめも、神の国の相続も、有効になりません。ですから、必ず、今日の話は楽しかったとか、いいお話を聞きました、とかで終わらせていただきたくないんです。「みことばを信じます」と言っていただきたい。

マタイ8章8~10節をお読みしたいと思います。

マタ8:8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

みことばを信じるとは、イエス様の主権を信じることですね。これが大事なことであります。

キリストを信じる第三の意味は、
聖霊のみわざを信じることです。キリストの血潮とみことばと聖霊を信じることですね。キリストの血の贖いの効力と、みことばの約束を実際に私の内に出現してくださるのは、聖霊であります。私がみことばを信じた時、同時に聖霊がみわざを行ってくださっています。
今、お読みしたマタイの8章の13節に、こうあります。

マタイ 8:13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

百人隊長がみことばを信じた時、聖霊が働いたんですね。ですから、みことばを信じたら、聖霊のみわざを疑ってはなりません。聖書は、聖霊を悲しませてはなりません、聖霊を消してはなりません、無視してはなりません、と言っています。聖霊によって生まれた者は、聖霊によって生き、歩み、進まなければなりません。

キリストを信じるとは、キリストの血潮とみことばと聖霊を信じることなのです。もし、私たちが、キリストが流された血が、自分の罪のためだと信じているなら、みことばによってその約束を、しっかりと握っていただきたい。そして今、私を救い、きよめ、御国を相続させていただくことと、聖霊が働いてくださることを信じて、歩ませていただきたいと思います。この一週間もキリストの血潮と、みことばと聖霊の約束を、しっかりと信じて、歩ませていただきたいと思います。

お祈り

「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」
恵みの深い天のお父様、この出エジプトの出来事の中に、神の大いなる贖いの真理が含まれておりました。そのことが、イエス様の尊い十字架の血潮と、みことばの約束と、聖霊の働きによって今も実現していますことを感謝いたします。
旧約の時代の真理がそこで終わりになったのではなくて、今も脈々と新鮮ないのちを持って、働いていてくださることを感謝いたします。
クリスチャンの一人ひとりがこのことを深く経験して、イエス様を証しさせていただけますように顧みてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明


音声と文書:信仰の列伝(全51回)へブル人への手紙11章 目次


<今週の活用聖句>

ペテロの手紙第一、2章24節
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421