音声:信仰の列伝(32) ギデオンの信仰 へブル人への手紙11章32~34節

2017年3月19日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

上の絵は、アメリカのthe Providence Lithograph Companyから1907年に出版されたバイブルカードより「Gideon and His Three Hundred(ギデオンと300人)」(Wikimedia Commonsより)


へブル人への手紙11章32~34節
11:32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。
11:33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、
11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
【新改訳改訂第3版】

彼(ギデオン)は、神の約束のみことばだけでは確信が持てない、信仰の弱い人でした。このような信仰の弱いギデオンに対して、主がみわざを行なわれるにふさわしい信仰に成長させるために、主は信仰の挑戦を与えました。それは、ギデオンの兵士を減らすことです。

ギデオンのもとに集まった兵士は三万二千人でした。主は仰せられました。「そのとき、主はギデオンに仰せられた。『あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが「自分の手で自分を救った。」と言って、わたしに向かって誇るといけないから。』」(土師記7:2)そこで「恐れ、おののく者はみな帰りなさい。」と言うと、二万二千人が帰って行き、一万人が残りました。

クリスチャンも、人数が多いのを喜ぶ傾向がありますが、本当に神の栄光を現わしているでしょうか。

士師記7章4節で主は、「民はまだ多すぎる。」と言われて、一万人を水の所に連れて行って、テストしました。 「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、」獣のような飲み方をする者は、神の兵士として用いるに相応しくない。また、「ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」ひざをついて飲む者は、戦う者として、敵に対する警戒心がなさ過ぎます。神の兵士であるという、自分の使命と役割の自覚がありません。(7:5)

「口に手を当てて水をなめた者の数は三百人」(士師記7:6)でした。

主の働きをする時は、人数が多いだけで喜んではなりません。恐れる者、不信仰な者、呟(つぶや)く人が混ざっていると、大勢いればいるほど、敗北の原因になります。いつまでも、永遠に残るものは信仰と希望と愛しかないことを、しっかり心に刻み込んでおかなければなりません。

主がご自分の使われる器として選ばれたのは、わずか三百人でした。主は人数によらず、もっともみこころにかなった、忠実な人を必要としているのです。主は今も、忠実な人を求めておられます。私たちは、イザヤのように、「私がここにおります。私をお遣わしください。」と言えるようでありたいものです。

ギデオンは、兵士の数がドンドン減らされ、最初に集まった人数の1%にも満たなくなった時、不安になったに違いありません。

しかし主は、ギデオンに攻撃命令を出しました。

「その夜、主はギデオンに仰せられた。『立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。』」(士師記7:9)

そして勝利の保証として、ギデオンと若者プラを敵の陣営に忍び込ませて、敵の仲間が夢の話と、その解き明かしをしているのを聞かせています(士師記7:13~15)

このしるしを聞いた時、ギデオンは、やっと本気で、勇気ある信仰に立ち上がったのです。

主は信仰の弱い人を強くするのに、いつも忍耐強く指導されています。このことを覚えて、私たちは信仰を途中で、投げ捨ててはいけません。投げ出さずに主に従って行けば、必ず、主が共に働いて下さる信仰にまで到達します。

信仰は、弱い私が強くなるのではなく、弱い私のままで、その私の内に、主の御霊がお住み下さることによって、私の信仰が強くされるのです。

パウロも肉体に弱さを持ったまま、主がパウロと共にいて下さったことによって、信仰の戦いを続けられたのです。弱い自分が強くなると、自分を誇るようになります。

聖霊に満たされた私たちは、ちょうど炉に入れられた鉄の塊のようです。鉄が燃える炉の中にある間は、火は鉄の中を貫通して、火の玉にして、全てを焼き尽くす力を発揮します。

しかし、鉄を炉の中から取り出すと、鉄は火を失って、ただの黒い、冷たい、塊になってしまいます。

私たちも同じです。主が私の内にいて下さっている間は、私は神の力を帯びています。しかし、主から離れてしまうと、ただの罪人になってしまうのです。このことは、全ての聖徒たちが経験していることです。

信仰によって、私の人間的弱さがなくなってしまうのではありません。ただ、主が私の内にいて下さることによって、内なる人が強められ、十分に困難を乗り越えることができるのです。

クリスチャンが、いっまでも弱いままで嘆いているのは、主を内に持った生活を真剣に求めないからです。

<今週の活用聖句>

コリント人への手紙第二、4章7節
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」

地の塩港南キリスト教会
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