音声+文書:信仰の列伝(32) ギデオンの信仰 へブル人への手紙11章32~34節

アメリカのthe Providence Lithograph Companyから1907年に出版されたバイブルカードより「Gideon and His Three Hundred(ギデオンと彼の300人)」(Wikimedia Commonsより)
2017年3月19日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
へブル人への手紙11章32~34節
11:32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。
11:33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、
11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
【新改訳改訂第3版】
はじめの祈り
「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」
恵みの深い天のお父様、こうして私たちの一週間の旅路をお守りくださって、もう一度主を礼拝する、この良き時をお与え下さり、感謝いたします。
時は過ぎ、地上に生きていた者も天に召されたり、そういう中で私たちは、今日も変わらないイエス様を見上げて礼拝を献げられますことを感謝いたします。
先週は兄弟を天にお送りしましたけれども、イエス様の助けが豊かに与えられて、慰めと力と勇気とを与えて下さり、弱い者である者を強くされた、とありますように、私たちも弱い者でありますけれど、イエス様によって恵みをいただいて、立ち上がることができますように助けてください。
今日もみことばを祝してください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
このヘブルの11章32~34節を見ますと、ヘブル人への手紙の記者は、これまで次々と信仰の勇者たちを挙げてきましたが、ここに来まして、まとめて六人の信仰の勇者たちと預言者たちを取り上げています。そして、いよいよ、この話を締めくくろうとしている、そういう状況ですね。もうここでお話を締めくくろうかな、という雰囲気を醸し出している場所であります。
しかし私たちは、もう少しこれらの信仰者の信仰を追求してみましょう。33節、34節には、彼らが信仰によってどのようなことをしたのか、記しています。
国を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
こういう事は、私たちが経験したことのない事ですけれども、彼らはそれを、信仰によって成し遂げたと言っています。私達は、自分の信仰を見て、「信仰はこれくらいのことしかできない。」と思い込みやすいのではないでしょうか。しかし、ここで記されている人達の信仰を見ると、私の信仰も、もっと偉大なことを行わせる力があることが分かります。
ヨハネの福音書14章12節をお読みいたしましょう。
ヨハネ14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。
信仰は、どのような働きをすることができるのか。
イエス様によれば、
⓵、山のような困難を海に移すことができるわざ、
②、隣人を愛して助けていくわざ、
③、福音を宣べ伝えていくわざ、
④、祈りによって主の栄光を現すわざ、
を行っています。
私たちは日ごとに、信仰のわざを進めることができるわけですね。そういうふうに、生活を営んできております。霊とまことを持って、賛美を持って、祈りを持って、主を礼拝するわざも行っています。さらに、もっともっと日常生活で信仰を働かせると、奇蹟のわざを行うことができます。ですから、是非ともそれを行わせて頂きたい。
そして、ペンテコステの時のように、周りの者に、「これ何ごとぞ」と言わせたい。イエス様とともにくびきを負って行えば、主が働いて、栄光を現してくださいます。ですから、今日も、ギデオンの信仰を私たちもいただかせて頂きたいと思います。
ヘブル11章34節の中に、「弱い者なのに強くされ」と書いてあります。ギデオンは、その「弱い者なのに、強くされた人」です。私たちはギデオンと聞くと、強そうな名前のように響きますけれども、聖書には、ギデオンは、弱い者のうちもう一つ弱い人のように書かれています。
ギデオンついては、士師記6~8章に詳しく記されています。ギデオンの課題は一体何だったでしょうか。士師記の6章1節を見てみたいと思います。
士師6:1 イスラエル人はまた、【主】の目の前に悪を行った。そこで、【主】は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した。
ここで私たちは、ギデオンにとって本当に解決しなければならない問題を、はっきりとさせなければなりません。
イスラエル人は、ミデヤン人によって七年間も苦しめられていました。ですから、すぐ目の前に見える侵略者のミデヤン人を取り除くことが問題だと、思いやすい。目の前にある困難な課題を取り除けばいい、と思いやすい。
これまで、多くの方々の悩みを聞いてまいりましたけれども、ほとんどすべての人が自分の言い分を訴えるだけで、本当の原因を言いません。ギデオンにとって、取り除くべき本当の課題とは、実は、7年間侵略していたミデヤン人ではなくて、イスラエル人が偶像礼拝を行っていたことであります。イスラエル人は、ヨシュアの時代に主が戦ってくださったことによって、カナン七族の一部を残して、ほぼ全面的に占領しました。カナンでのイスラエル人の生活は、豊かになり安定し、平和になりました。ヨシュアは晩年、イスラエル人に、主にだけ仕える信仰を誓わせました。しかし、世代が変わると、ヨシュアの信仰の戦いを知る者もいなくなると、イスラエル人の中に残っていた異教のカナン人が勢力を増してきて、カナン人と交わって、彼らの偶像礼拝を行う者が出てきました。
もう一つの大きな原因は、ヨシュアの死後出てきたのは、政治的、治安維持のための軍事的指導者たちばかりでありました。サムエルの出現まで、神のことばを強烈に語る、神の代弁者が現れなかったことです。現代を見ましても、軍事的強化ばかりののろしが上がっていて、神のことばを語ることの重要性が消えてしまっています。平和で繁栄した世界では、神のみことばを聞く渇きがなくなってくる。強烈に神のことばを語ったり、預言したりする説教者がいなくなります。その代わりに、カリスマ的な奇跡を行うという人物が、多く現れます。これは教会の歴史の中で、繰り返されてきていることです。
このことは、すでにアモスが預言していることです。アモス書8章11節~13節を読んでみましょう。そこに飢饉の話が出てまいります。
アモス8:11 見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことのききんである。
8:12 彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、【主】のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。
8:13 その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。
神のことばを語る説教者も、預言者も、教会に必要なだけではなく、全世界の全人類のたましいに必要なわけです。人のたましいは、神様のみことばを食べて生きているからです。
ちょっと長いですけれども、詩篇19篇4節~14節までお読みいたしましょう。神様のみことばが、たましいにいかに必要であるかが記されています。
詩19:4 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。
19:5 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。
19:6 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。
19:7 【主】のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、【主】のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
19:8 【主】の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、【主】の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
19:9 【主】への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。【主】のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
19:11 また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
19:12 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。
19:13 あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
19:14 私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、【主】よ。
ここで大事なことは、神様のみことばが、いろんなふうに言われていますね。戒めだとか、証しだとか、教えだとか。神様のみことばを信じて働かせている人は、たましいを生き返らせたり、わきまえのない者を賢くする経験をします。心が喜んだり、光を得たり、好ましく感じ、蜂の巣より滴る蜜よりも甘いという素晴らしい経験をし、報いも大きく、罪の赦しも受けさせていただける。そういう経験をするのは、信じているからであります。聖書の言葉を知っていて、知識として持っているだけでは、光を経験したり、喜びを感じたり、純金よりも好ましく甘く感じたりすることはありません。その人が信じているかどうかは、こういう経験を通して分かるんですね。
マタイ4書4節でイエス様は言われました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」大事なことは、神の口から出る一つ一つの言葉であります。私達は、神のことばを食べて生きているんです。ことばを知って生きているのではありません。知識として暗誦して生きているのではありません。食べて生きているのです。
士師記6章25節~31節で、ギデオンはこのことに気づいて、ミデヤン人と戦う前に偶像を取り除いています。しかし、イスラエル人の心の中の罪の性質まできよめられることを、主に求めていませんから、形の偶像を取り除いても、しばらくするとまた同じ偶像礼拝を繰り返すことになってしまいます。形の偶像礼拝をやめても、心の中の偶像が存在している限り、同じことが繰り返されてしまいます。
私が受けてきた数々の悩みの訴えも、ほとんどが、目の前で起きている問題が、取り上げられていて、一時的にそれが解決しても、根本が解決していませんから、同じことを繰り返してしまいます。人の心の中の自分中心の自我の主張が、きよめられること追い求めなければなりません。
もし、ギデオンがイスラエルのうちから偶像を取り除かず、ミデヤン人との戦いに出ていったら、主の助けが得られず、たちまち打ちのめされていたでしょう。
私たちも、この点に十分注意しなくてはなりません。しばしば、心の中の偶像が取り除かれていないために、恵みを得られないことがあります。目に見えていない本当の問題を解決しないと、救いは確立して来ないんです。
次に、ギデオンがどのような人物であったかをお話しします。
彼は、信仰の勇者と言えるような、信仰の強い人物ではなくて、人間的にも気の弱い、気の小さな人でした。士師記の6章11節では、ミデヤン人の略奪を恐れて、酒舟のなかに隠れて、小麦の脱穀をしていました。
士師記の6章13節では、不満だけは一人前に神様に訴える人でした。
6章13節を読んでみましょう。ギデオンがこう言っています。
士師6:13 ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし【主】が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『【主】は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、【主】は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」
エジプトから上ってきたあの大きな奇蹟は、どこにみられるか、と不満を言っています。現実には、神様は私たちを見捨てて、ミデヤン人の手に渡しているではありませんか、と不満を言っています。
12節で、主の御使いがギデオンに現れて、「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」と呼びかけています。こんなに弱々しい人を、神様は、「勇士」と呼んでいます。変じゃありませんでしょうか。でも、神様が働かれる時に、弱々しい人が勇士に変わるんです。ギデオンは、すぐに全能の神を信じて、信仰に立てなかったんです。
以前にお話ししたラハブの話ですが、エリコのラハブはエジプトの証しを聞いて、すぐに信仰に立ちました。しかし、ギデオンはそうではないんです。
エジプトの脱出の証しを聞いても、過去の歴史を聞いているだけで、今現在の自分の課題を解決してくださる全能の神として信じておりません。
6章の15節でもギデオンはこう言っています。
6:15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」
彼は、自分で自分の弱さを告白しました。彼は、消極的で、不信仰で、神様に対して一人前の不満を言う。ま、そういうふうに、使いものにならないという人でも、信仰を持つならば、見違えるような信仰の勇者に変えられて、主の栄光を現すのです。ギデオンは、そういう実に良い実例であります。彼ほど弱々しい、文句ばかり言う、不信仰な人はいないかもしれません。しかしまた、彼ほど主の栄光を現した人も、いないでしょう。
士師記6章16節で、主はギデオンに仰せられました。
「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」
聞き飽きるほど聞いていることばがあります。
それは、「わたしはあなたといっしょにいる。」であります。
これはモーセにもヨシュアにも語られました。私たちにも語っておられます。これはギデオン自身が強くなったのではなくて、弱いギデオンと共にいらっしゃる主が強いお方であるからです。これは旧約、新約を問わず、私たちが経験するところです。
第一コリントの1章26~29節を読んでみましょう。
Ⅰコリ 1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
神様はここで、どのような人を選んだか、と言うと、この世の愚かな者を選んだ、この世の弱い者を選んだ、無に等しいものを選んだ、と書いてあります。
なぜ、そうされたのか。
それは、誰も神の前で誇ることがないためだ、と言っています。
第二コリントの12章9節も読んでみましょう。パウロ自身の告白であります。
Ⅱコリ12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
弱さのゆえに悩んで、悲しんで、失望して、落胆している人は少なくありません。ところが、パウロは違います。自分の弱さの内に神様の力が与えられることを聞いて、むしろ、大いに喜んで、自分の弱さを誇っています。「キリストの力が、私をおおうためだ」と言っています。
神様の恵みは、いつも私の才能のあるところ、強いところ、素晴らしいところに力が現されるのではなくて、弱さの中に現されるんだ、という、このことを実際に体験することがありはしないでしょうか。
自分の力や才能を身につけるために、切磋琢磨しているこの世の中で、聖書は何と言っているんでしょうか。
「わたしの力は弱さの内に完全に現れる、わたしの恵みはすでに十分である。」と言っておられます。
ヨハネの福音書16章33節も読んでみましょう。
ヨハ 16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
世にあっては患難があります。一難去って、また一難。次々と来るはずです。世に会って患難がなくなる時がない。
「しかし、勇敢でありなさい、わたしは、すでに世に勝ったのです。」
すでに勝ってくださった方が、私たちの救い主であられます。
ギデオンは残念ながら、主のみことばだけで確信することができず、異邦人のように神であることのしるしを求めました。
マタイの福音書の8章に、イエス様のみことばだけを求めた百人隊長の話がありますけれども、「みことばだけをいただかせてください。」と言ったローマ人もいるならば、みことばだけで確信できないで、しるしをください、と言ったイスラエルの人もいるわけですね。
みことばだけで確信することができない、それがギデオンであります。
士師記の6章17節を読んでみましょう。
士師6:17 すると、ギデオンは言った。「お願いです。私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。」
主は怒らずに、疑うギデオンにしるしを与えました。しかし、しるしを与えられたから、嬉しがって、確信に立ったかというと、そうではなかった。これによってギデオンは別の問題を抱え込みました。強められるかと思うと、かえって、主の使いだと分かって、恐れてしまって、全く手を焼かせる人物になりました。
士師記6章21節~23節も読んでみましょう。
士師 6:21 すると【主】の使いは、その手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種を入れないパンに触れた。すると、たちまち火が岩から燃え上がって、肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまった。【主】の使いは去って見えなくなった。
6:22 これで、この方が【主】の使いであったことがわかった。それで、ギデオンは言った。「ああ、神、主よ。私は面と向かって【主】の使いを見てしまいました。」
6:23 すると、【主】はギデオンに仰せられた。「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」
とにかく手を焼かせるのがギデオンです。しるしを見せてください、と言うから見せたら、今度は、神様を見てしまったのだから滅びるかもしれない、と言って恐れています。
人が信仰に立つというのは、なかなか、ああでもない、こうでもないと言うものです。みことばに立てば一番いいわけですけども、しるしをください、と言うからしるしを与えると、恐れてしまってなかなか立たない。
信仰を、非常にむずかしいものだ、と考えてしまうのは、自分の知恵と力に頼ろうとするからです。
21節、22節では、「主の使い」であった方が、23節では「主」に変わっていることが分かります。ですから、この時に現れた方は、受肉前の、人となられる前のイエス・キリストであった可能性が高いことが分かります。私たちの救い主であるイエス様が、この手を焼かしているギデオンを、何とかして信仰に立たせようとしている姿が見られます。それと同じように私たちの信仰も、ぐらついたり、崩れそうになった時も、イエス様がいろいろな手を通して、怒らずに、忍耐深く導いてくださることが分かります。
士師記の6章27節でギデオンは、偶像礼拝者の父の家の者や町の人々を恐れて、偶像を取り除くのを、夜行っています。ギデオンの親も偶像礼拝者になってしまっていたんですね。なり下がっていました。家族の者も恐れていたわけです。ですから、ギデオンは臆病で気弱な人であることがよく分かります。
しかし、ギデオンは弱々しくはありましたけれども、とにかく夜分に信仰を持って戦いを始めました。人の目を避けて、偶像を取り除き始めたわけです。何はともあれ、こうして神の働きを妨げていた偶像が取り除かれると、主の御霊が力強く働き始まっております。
私たちにとって大事な点は、神の働きを妨げているものを、取り除くことであります。先ほどお話ししましたけれども、ミデヤン人を取り除くことではなくて、偶像を取り除くことが先決問題でありました。そうすると、御霊が力強く働き始めてくださいます。私達はそのことを間違えてしまうと、ミデヤン人の問題だから、これを取り除いてくれと叫んでいる間は、主の御霊は働き始めません。
どの信仰の働きでも、神のみわざを妨げている罪を取り除くと、聖霊が働いてくださいます。聖霊が働かないと、人間の努力だけでは、実りも勝利もありません。これは、非常に重要なことですね。
ギデオンは、はじめから終わりまで終始弱いままであります。ギデオンが強くなったことはないんです。ギデオンはその弱いままで、神様はご自分の器として用いてくださっております。
士師記の6章36節~40節を見ると、ギデオンは、聖霊の働きが与えられても、なお、しつこく、細かく、しるしを求めました。彼は、神の約束のみことばだけでは確信がもてない、非常に信仰の弱い人でありました。
士師向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一回言わせてください。どうぞ、この羊の毛でもう一回だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください。」
6:40 それで、神はその夜、そのようにされた。すなわち、その羊の毛の上だけがかわいていて、土全体には露が降りていた。
このような信仰の弱いギデオンに対して、主がみわざを行われるのにふさわしい信仰に成長させるために、主は、信仰の挑戦を与えておられます。
考えてみるに、主は、なぜこのように信仰の弱いギデオンを選ばれて用いようとしているのか分かります。それは、人が誇ることがないためですね。
神様はギデオンに挑戦を与えました。その挑戦とは何なのか。
ギデオンの兵士を減らすことでした。増やすことは考えられますけれども、減らすということは考えられません。人間の発想ではありません。最初にギデオンのもとに集まった兵士は、三万二千人でありました。主は仰せられました。士師記7章2節を読んでみましょう。
士師7:2 そのとき、【主】はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。
そう言っておりますね。三万二千人の兵士は多すぎる、と言っています。
そこで、3節、「恐れ、おののく者はみな帰りなさい。」と言うと、二万二千人が帰って行った、と言っています。三万二千人のうち、二万二千人が帰ってしまった、と言っていますから、ほとんどが帰ってしまったことになります。
一万人だけが残りました。
クリスチャンも、人数が多いのを喜ぶ傾向がありますけれども、本当に神の栄光を現しているでしょうか。
7章の4節を見ますと、主は「民は、まだ多すぎる。」と言われています。その一万人を水のところへ連れて行ってテストしました。7章5節では、「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」とあります。
つまり、獣のような飲み方をする者は、神の兵士として相応しくない、と言われたんですね。ひざをついて飲む者は、どこがいけないんでしょうか。戦う者として、敵に対する警戒心がなさすぎる。神の兵士であるという使命と、役割の自覚がないことを指しています。
7節では、「口に手を当てて水をなめた者は三百人」でした。
主の働きをする時に、人数が多いだけでは、喜んではなりません。恐れる者、不信仰な者、つぶやく者が混ざっていると、大勢いればいるほど敗北の原因になります。
いつまでも永遠に残るものは、パウロが言ったように、信仰と希望と愛しかないことをしっかりと心に刻んでおいておかなければなりません。
主がご自分の器として選ばれたのは、わずか三百人でした。主は、人数に拠らず、最もみこころにかなう忠実な人を必要としていることが分かります。
主は今も、忠実な人を求めておられます。ですから私たちも、イザヤのように、「私が、ここにおります。私をお遣わしください。」と言えるような者でありたいですね。
とにかく、ギデオンは兵士の数がどんどん減らされて、最初に集まった人数の1パーセントにも満たなくなった時、不安になったに違いありません。
しかし主は、ギデオンに攻撃命令を出しました。
士師7:9 その夜、【主】はギデオンに仰せられた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。
ギデオンは、無茶苦茶だと思われたかもしれませんけれども。勝利の保証として、ギデオンと若者のプラを敵の陣営に忍び込ませて、敵の仲間の夢の話と、その説きあかしをしている場面を聞かせております。神様はギデオンに、勝利のしるしを見せたわけですね。ちょっとそこを読んでみたいと思います。
士師 7:13 ギデオンがそこに行ってみると、ひとりの者が仲間に夢の話をしていた。ひとりが言うには、「私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが一つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまで入り、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。」
7:14 すると、その仲間は答えて言った。「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全部を渡されたのだ。」
7:15 ギデオンはこの夢の話とその解釈を聞いたとき、主を礼拝した。そして、イスラエルの陣営に戻って言った。「立て。【主】はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった。」
やっとギデオンは、本気で勇気のある信仰に立ち上がりました。仲間の話ではなくて、敵の兵士たちの夢の話を通して、彼はやっと神様が本当に戦ってくださって、勝利を与えてくださる、その確信に立つことができました。
主は信仰の弱い人を強くするのに、非常に忍耐強く指導しておられるのが分かります。このことを覚えて、私たちも信仰を途中で投げ捨ててはなりません。
投げ出さずに主に従っていけば、必ず、主が共に働いてくださる信仰にまで到達します。
信仰は、弱い私が強くなるのではなくて、私は弱いままで、その私の内に主の聖霊がお住みくださることによって、私の信仰が強くされるのです。パウロも肉体に弱さをもったままで、主がパウロと共にいてくださることによって、信仰の戦いを続けられました。弱い自分が強くなると、自分を誇るようになります。
聖霊に満たされた私たちは、ちょうど炉に入れられた鉄のかたまりのようです。鉄が燃える炉の中にある間は、火は鉄の中を貫通して、火の玉にしてすべてを焼き尽くす力を発揮します。しかし、その鉄のかたまりを炉の中から取り出すと、鉄は火を失って、ただの黒い冷たいかたまりになってしまいます。
私たちも同じです。主が私の内にいてくださる間は、私は神の力を帯びています。しかし、主から離れてしまうと、ただの罪人になってしまうのです。
これは、すべての聖徒たちが経験していることです。信仰によって、私の人間的な弱さがなくなってしまうことはありません。ただ、主が私の内にいてくださることによって、内なる人が強められて、十分に困難を乗り越えることができるようになります。クリスチャンが、いつまでも弱いままで嘆いているのは、主を内に宿した生活を真剣に求めないからです。
もし、ギデオンが主のみことばを信じないで、酒舟の中で麦打ちを続けていたなら、彼は一生涯罪を取り除くことができず、ミデヤン人に苦しめられ続けたでしょう。臆病や恐れや不安の中から出てこなければなりません。自分はきよめられないと決めつけて、弱さや、困難の状況の中に閉じこもって、主を心に受け入れることを拒んでいれば、今持っている信仰も失って、主も私から去ってしまいます。
私が弱くても、信仰によって主を内に宿すことが大事ですね。内なる力を受けて勇敢になります。
ギデオンは初め、人を恐れて、夜に偶像を倒すことから始めました。しかし、主が共にいてくださることによって、イスラエルのリーダーにまでなりました。
周りの困難に気を取られずに、主を信じて進んでいくと、主の勝利と栄光が備えられています。
最後にお話ししておきたいことが一つあります。
ギデオンが勝利を得たのは、ギデオンが連れて行った三百人の武力ではありません。彼らは、剣を交えて戦ったことは一度もありません。彼らは戦わないで勝ちました。信仰の戦いは、しばしば、戦わないで勝ちます。なぜならそれは、すでに世に勝ってくださっているイエス様を持っているからですね。クリスチャンはいつもすでに勝っているんです。すでに勝ったお方を内に持っているんです。
選ばれた三百人は、三隊に分けられ、全員が、角笛と、空の壺と、壺の中にたいまつを入れました。神様の戦いはいつも特異です。変わっています。
クリスチャンは、教会に集まった時だけ、元気になっていないでしょうか。
大事なことは、この世に出ていって、未信者の間で生活する時に、そこでの戦いが問題になります。
各々が祈り合いつつ、助け合いつつ、各々の置かれたところで、証しをする必要がありますね。そのために主は用いてくださいます。
共にキリストの愛によって組み合わされ、結び合わされて、別々のところで三隊に分かれて、各々置かれたところで角笛を吹き鳴らし、福音を証しするわけです。
ギデオンは、空の壺を持たせています。これは、その中にたいまつを入れるためです。第二コリントの4章7節を読んでみたいと思います。ここにも、空の壺に入れているものがあります。
Ⅱコリ4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
空の壺とは、土の器とは、自分中心の自我を取り除かれた私自身のことであります。モーセの経験で言えば、燃える柴の経験の柴と同じですね。空の壺も柴も同じです。
「壺」は空でなければなりません。キリストの御霊が満ちてくださるためです。
その空の壺の中に、たいまつを入れました。これは、夜、敵の陣営に入った時に壺を壊して、たいまつを輝かせるためですね。壺はいつまでも壺で頑張っているのではなくて、壊されてしまっています。そして、たいまつが輝いています。
マタイ5章14節から16節を読んでみましょう。
マタイ5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
私たちは、たいまつを頂いております。聖書の中には、それがいろんな意味で、灯台として語られていたり、世界の光として語られていたり、みことばを足のともしびとして語られていたり、道の光として語られていたりします。
これは聖霊によって心に注がれる神の愛、アガペーを表していますね。神の愛、アガペーを持って隣り人を愛して光を輝かせる。このようにして、主の栄光を必ず現すことができます。
士師記の7章22節の前半では、
士師7:22 三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、【主】は、陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされた。・・・
ですから、勝利の鍵は、ギデオンと三百人にあったのではなくて、神様が勝たせてくださったのに違いありません。ギデオンと三百人は、戦っていないんです。
私たちは、儀式を守っているだけではなくて、知識を持っているだけではなくて、心が神の光によって輝いている事が必要です。
あなた方の光を、人々の前に輝かせなさい。土の器の中に宝を持っていると、パウロは言いました。その宝とはキリストですね。
私たちが、みことばをともしびとし、道の光として生活していること、それがともしびであります。
心が神の光によって輝いて、聖霊によって神の愛が注がれて、キリストの平安に満たされて、それが私たちの生活の中で活用されて、隣り人に現されていくなら、神様は必ず、私たちと共に働いてくださいます。共に戦って、祝福と勝利の栄光を現してくださいます。
ですから、毎日の小さなことにも、忍耐強く信仰を働かせていただきたいと思います。
最後に第二歴代誌の20章15節をお読みして、終わりたいと思います。
Ⅱ歴代20:15 彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。【主】はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
私たちはしばしば、自分の戦いとして思い悩みがちでありますけれども、「この戦いは、あなた方の戦いではなく、神の戦いであるから、気落ちしてはならない、恐れてはならない」と言っていますね。
神様は、今週も私たちと共に歩んでくださいます。私たちは、どこまで行っても、みことばと聖霊の証しをいただいて、力を頂いて歩ませていただきたいと思います。
弱いギデオンの内に神様が働かれることによって、強いギデオンになっていますけれども、ギデオンが強くなったのではなくて、弱さがそのまま残っている。そして彼は、戦わずして勝利を獲得しました。
今週の私たちの歩みも、主が共にいてくださることを切に願い、空の器の中に宝を持った生活を、今週もさせていただきたいと思います。
お祈り
恵みの深い天のお父様、イエス様のお力を頂いて感謝いたします。
御霊によって教えていただけるこの信仰の奥義を、私たち自身の生活を通して、体験させてくださり、証しをさせていただいて、神様が本当に働いてくださるその信仰を、私たちのものにしてください。
イエス様のご期待する器になれますように、助けてください。
この世の中は、ますます暗黒の中に進みつつあります。人々は絶望の中を進んでおりますので、憐れんでくださり、希望の光がイエス様にあることができるように助けてください。
また、私たちの身近な家族の者たちにも、あなたの恵みが豊かに及んでいきますように。私たちを通して、祈りを通して、光が照り輝くように助けてください。
尊いキリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明
<今週の活用聖句>
コリント人への手紙第二、4章7節
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」
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