音声+文書:信仰の列伝(31) 滅びの運命を祝福に変えた人 へブル人への手紙11章31節

フランス南部の町ニーム(Nîmes)の美術館にある作者不明の絵「Rahab and the Emissaries of Joshua(ラハブとヨシュアの特使)」17世紀頃の作品(Wikimedia Commonsより)


2017年3月12日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章31節
11:31 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。


はじめの祈り

「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」
恵みの深い天のお父様、恵みの中で一週間の旅路を過ごさせて頂き、また新たなる聖日を主とともに礼拝をささげられて、こうして恵みを頂けることを感謝いたします。
私たちも、この一週間、穏やかにあなたの恵みを受け、多くの方々にあなたの愛をお伝えできますように、証し人としてお用いください。
今日もみことばを祝してくださいますように。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


今日は「信仰の列伝」の31回目になりますが、「滅びの運命を祝福に変えた人」という題でお話しさせていただきます。

これはエリコの遊女、ラハブの話ですね。ラハブはエリコの人でありました。ですから異邦人であります。神との契約のない人で、おまけに遊女でもあって、イスラエル人の攻撃にあって滅びの運命にある人でした。

キリストからは遠く離れて、イスラエルの国からも除外されている、約束の契約のない人たちです。それによって望みもなく、神も知らない。そういう運命にあるのが、ラハブでありました。
そのラハブと家族は、エリコの住民にとって滅亡となる事件を通して、生活と運命が、一日にして一変してしまいました。
エリコの人にとっては繁栄が滅亡に変わり、ラハブにとっては滅亡が永遠のいのちに変わる、そういう全く逆転の大事件が起きました。滅びの運命が祝福に変えられてしまった。それまでの繁栄は滅びの運命に変わる。同じ聖書の出来事なのに、まったく逆転してしまう運命に遭遇してしまう。
私達がイエス様に出会うことは、私の人生と永遠の運命を一変してしまったわけです。

第二コリントの5章17節にありますように、
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

これだけでも大変な恵みでありますけれども、ラハブはエリコの滅亡から免れただけではなくて、後にラハブはサルモンと結婚してボアズが生まれ、このボアズがモアブの女ルツと結婚してオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデが生まれております。
このラハブは、私たちの救い主イエス様の系図に加えられる人となったのです。マタイの福音書の1章にその系図が出てまいりますが、そこに、ラハブの名前が載っています。

イエス様の系図の中には、ご存知のように、異邦人の女性が二人います。
その一人がエリコの遊女のラハブであります。もう一人は、モアブの女性のルツです。
この二人が主イエスの系図に加わっていることは、キリストの福音の特殊性というか普遍性を表しています。
福音の普遍性というのは、キリストの救いは、イスラエル民族のためだけではなくて、異邦人のためでもあり、全人類のすべての人のために備えられているものであり、与えられているものであり、罪人(つみびと)を救うために来てくださった救い主であられることを明らかに示しています。
福音書の時代の律法学者、パリサイ人の意識していた福音とは全然違う、ということですね。人間の伝統とか、哲学とか、宗教の歴史とかは、しばしば真理をゆがめてしまいます。

このラハブとルツの存在は、私たちの福音を理解させるのに、非常に重要な要素を持っていることが分かります。ですから、一人の人の信仰の働きが、非常に重要であるということを、心に留めさせていただいて、私たちもまた、同じ信仰を持って歩ませていただきたいと思います。

ラハブとその家族にとって、エリコの滅亡の時は、最高の救いの時となりました。この出来事から私たちは、賢く悟らなければなりません。
この世がますます暗黒に陥っていく時、主イエスに信頼して忠実に従っていく者には、主は光を与え、救いを与えてくださることを悟って、主を愛して、忠実に従いたいものです。その時、見かけだけの信仰の人は滅んでしまいますけれども、真実の信仰の人は救いに与(あずか)ります。そのように、必ず、私たちの信仰は、突然に試みられます。
ラハブのこの時は、突然に試みられました。こうしてラハブの運命は、イスラエルの攻撃に際して、エリコの滅亡の時に、仲間が滅んでいくその中で、素晴らしく急速に好転しました。こういう事が現実に起きたわけです。

私たちの運命も、イエス・キリストの十字架に出会うことによって、イエス様を信じて従うことを通して、突然に、急速に好転する、滅亡の運命から光の国へ、永遠の滅びから永遠のいのちに移されたわけです。こうしてキリストの奇跡が、今も行われております。聖書は繰り返し主張しておりますけれども、イエス・キリストの十字架を信じることによって、誰でも、永遠の滅びから永遠の祝福に移されることができます。

そこで、ラハブがどのようにして、救いに移されたのかをお話ししましょう。
この物語を記しているのは、ヨシュア記でありますけれども、まず、ヨシュア記の2章1節を読んでみたいと思います。

ヨシュア2:1 ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。

まず、ラハブはイスラエルの二人の斥候がエリコに侵入してきた時に、彼女はエリコの王に密告せず、穏やかに、快く、受け入れました。
ヘブル人への手紙の方では、「穏やかに受け入れた」と書いてあります。
怪しんで、警戒心を持って受け入れたのではなく、「穏やかに」受け入れたのです。私たちは隣り人と接する時、穏やかに快く受け入れるという姿勢が大切ですね。

それは、イスラエルがエジプトを脱出してから、紅海を涸らして渡り、ヨルダン川を涸らして渡り、数々の神のみわざを聞いて信じていたからですね。その信仰の確信が、エリコのラハブの、穏やかに快く受け入れる、という態度に現れてきています。ですから、これは知識や思想の問題ではなくて、ラハブの心の状態を表しています。

思想でいくら議論をしても、心の状態を隠すことはできません。議論を激しくするけれども、穏やかに快く受け入れない人は、たくさんいます。そういう人を、神様は喜ばれるわけではない。
全能の生ける神様がイスラエルと共にいるのでなければ、ユダヤ人たちがエジプトを出て、ここまで来ることはできないことばかりでありました。ですから、ラハブは、主を信じるに至っていました。主を信じることによって、心が穏やかになり、敵の侵入ではありますけれども快く受け入れたのです。

なぜ、イスラエルの二人の斥候がラハブの家にたどり着いたのかは、聖書は何も言っていません。神様が導いた、とも書いてありませんけれども、主はラハブの、主を信じて受け入れる信仰を見抜かれていたことは確かでありましょう。
エリコの中でも、ただラハブの一家族だけが選ばれております。この点を見ても、神様はラハブの信仰を見抜いておられたと思われます。真実に主を求め渇くものがあるなら、主は間違いなく、主に出会わせてくださいます。

第二歴代誌16章2節にこう書いてあります。

Ⅱ歴代 16:9 【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。・・・・」

主はエリコの住民の中に、一家族だけ神様を畏れて信じている家族を見落とすはずがありません。主はエリコの住民の中にラハブを見つけて、モアブ人の中にはルツを見つけられました。
主は今日も、ご自分と心を全く一つにする者を探しておられます。その人は必ず主の恵みを受けます。主に見つけていただくからです。主は、一人も見落とすお方ではありません。

ヨシュア記の2章15節を読んでみましょう。

ヨシ 2:15 そこで、ラハブは綱で彼らを窓からつり降ろした。彼女の家は城壁の中に建て込まれていて、彼女はその城壁の中に住んでいたからである。

ラハブの家が、「城壁の中に建て込まれていて」、と書いてあります。城壁の上に建てられたのではなくて、城壁の一部として建て込まれていた、ということですね。私達は城壁を小さな壁とか、フェンスのように考えがちですけれどもそうではありません。城壁は広くて、家が建てられ、馬車が通る道であった、と言われています。エリコの遺跡からは、そうなっています。

ですから、もしラハブに少しの迷いがあったり、肉の欲が残っていれば、二人の斥候をかくまっておいて、エリコの王様に密告することもできたはずでした。そうすることによって、手柄をたてることができた。それをしなかった理由は、ラハブ自身の告白によって分かります。

ヨシュア記の2章9節~10節をお読みしたいと思います。

ヨシュア2:9 その人たちに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。
2:10 あなたがたがエジプトから出て来られたとき、【主】があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。

「私たちは聞いているからです」、と言っています。聞いていたイスラエル人の情報は、ラハブも、他のエリコの人も同じでありました。聞いていることは同じなのに、受け止め方が全く反対であります。

日本人も、福音をどれだけ聞いているか分かりませんが、私たちもトラクトを配布したり、いろいろしていますけれども、聞いているけれども、受け止め方、信じ方が全く反対であります。
他のエリコの人達は、イスラエルに敵対しました。人が攻められている時、人は必ず自己防衛するか反撃するかであります。
しかし、ラハブだけは全く違う態度をとりました。他の大勢の人と全く違う行動をとるということは、信仰の確信と勇気がいることであります。
ラハブはただ一人、他のエリコの人とは反対の態度をとったわけです。なかなか勇気のいることですね。大勢の人が右を歩いているのに、一人だけ左を歩いていく。大勢の人が広い道を歩いているのに、一人だけ狭い道を歩く。それは非常に勇気のいることであります。

ラハブが、自分の滅亡の運命を変えるために第一にしたことは、それまで間接的に聞いていたこと、人々からうわさに聞いていたことを、神のみわざを自分に当てはめて信じて受け止めたことです。
神のみわざの話を、ただの話として聞く人は多いです。しかしラハブは、その神のみわざの証しの話を聞き洩らさず、深く心に留めておいたんですね
私たちの証しや話を通して、神様が人々の心にどれくらい働いてくださるか、これは非常に大事なことですけれども、神のみわざの話を心に深くとどめておくことが、神の導きの発端となったことは確かであります。そうですから、私たちは証しをしたり、いろいろな本を差し上げたりする時、それが心にとどまるように祈る必要があります。

ローマ10章17節を読んでみましょう。

ローマ 10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

信仰は聞くことから始まります。耳で聞いているだけではなくて、心に深く留まるようになれば幸いですね。

ヤコブの手紙1章25節も読んでみましょう。

ヤコブ 1:25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。

聞いてすぐに忘れる聞き手にならないで、実行する人になりなさい、と言っていますね。心にみことばを留めている人は、そういう人ですね。ですから、小さなことのようですけれども、最初はラハブも、噂話のように聞いていたかもしれません。しかしそのことを、自分に当てはめて、信じて受け留めることが大事なことでありました。

マタイの25章21節に、こういうみことばがあります。

マタイ25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

小さい事の信仰、噂に聞いていたようなことが、重大な祝福の結果につながっているということを悟らされます。ラハブもこのことを深く心に留めていたからこそ、神のみわざの話をただの噂として聞き流さなかったのです。イスラエルの二人の斥候が彼女のところに来た時、いよいよ噂に聞いていた主の戦いが始まると悟って、快く受け入れることができました。

話を聞いていたことは、ずいぶん昔かもしれません。モーセが紅海を渡った話は、少なくとも40数年は昔の話であります。ラハブはそのことも聞いていたわけですね。二人のイスラエル人の斥候が来た時、彼女はいよいよ神様の戦いがはじまるんだと、思ったわけです。そのことを悟ったので、穏やかに受け入れることができた。ですから、主のしるしのみわざを深く心に留めることは大事であります。

ルカ2章19節を読んでみましょう。

ルカ 2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。

マリヤも心に深く留めていた人ですね。みことばを聞いて、深く心に留める人は幸いであります。

次に、ラハブは、二人の斥候を、エリコの王の追手から隠してかくまっています。ヨシュア記の2章4~5節を読んでみましょう。

ヨシュア2:4 ところが、この女はそのふたりの人をかくまって、こう言った。「その人たちは私のところに来ました。しかし、私はその人たちがどこから来たのか知りませんでした。
2:5 その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。その人たちがどこへ行ったのか存じません。急いで彼らのあとを追ってごらんなさい。追いつけるでしょう。」

このラハブの言葉は嘘ですね。聖書は、ラハブが嘘をついたことを記しています。聖書は嘘を認めているわけではありません。よしとされているわけではありません。けれども事実を書いています。
しかし、ラハブがここで、エリコの住民と全く反対の態度を取ったことは、重大であります。もしもこの時、ラハブがエリコの人と同じ態度をとっていたら、同じように滅んでしまいました。私達はこの日本にいて、他のすべての人と同じような生活をしていたら、彼らと同じ運命をたどることを避けることはできません。

彼女は他のエリコの仲間たちから見れば、呪われることをしました。裏切ることをしました。私達は、他の人と反対の立場を取らなければならない時があります。その時、恐れてはなりません。
主の救いを受けるためには、十二年の長血の女の人のように、群衆の中から出て、一人でイエス様の前に出てこなければならないことがあります。ラハブにとって、それはエリコの住民の社会から孤立することや、迫害を受けることを意味していました。ですから、ラハブはモーセと同じように、エリコの楽しみよりも、主の救いを受け、主の民となることを選んだのです。

大抵の人がここで、選ぶべきものを間違えてしまいます。イエス様は、こう言っておられます。

マタイ 10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

誰を恐れないで、誰を恐れるか、を明確にイエス様は教えました。

箴言29章25節では、「人を恐れるとわなにかかる。しかし【主】に信頼する者は守られる。」と言っています。このことは私たちも守るべきですね。

次に、ラハブは主なる神様を信じることを告白して、自分と自分の家族の救いを求めております。ヨシュア記の2章11節を読んでみたいと思います。

ヨシュア2:11 私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、【主】は、上は天、下は地において神であられるからです。

当時の人々の神観というのは、今日の人々と同じかもしれませんけれども、各々の種族の守護神として、偶像礼拝を行っていました。非常に身近な小さな部族の守り神ですね、そういう宗教観、神観が多かったわけです。
これに対して、ラハブの告白に見られる信仰は、イスラエルの一部族の守護神としてではなくて、上は天、下は地において神であられる、全宇宙において唯一の神を信じています。エリコの遊女ラハブは、どのようにしてこの崇高な神観を持つようになったのでしょうか。
これは、人の知恵や学問によるものではありません。私達は、ナニナニ神学大学を卒業して、博士号をもって、すごい学問を修めて、立派な人のように見えるかもしれませんが、ラハブはそのようにして知ったわけではありません。
父なる神様が、ペテロに、主イエス様が生けるまことの神のみ子、キリスト、メシヤであることを教えてくださった、それと同じように、主なる神様はラハブにも教えてくださったわけであります。生けるまことの神を心に持つと、神を知る悟りを与えてくださいます。

第一ヨハネの4章13節~16節を読んでみましょう。ヨハネはこのことを詳しく証言しています。どのようにしたら私たちは、神を知ることができるのか。

Ⅰヨハネ4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

これを見ると明らかに、愛というのは、感情ではないですね。愛というのは、神ご自身のご人格であることが分かります。アガペがフィレオではないことが分かります。本質が違う、ということが分かります。

もう一つ読んでみましょう。ヨシュア記2章12節、13節

ヨシュア 2:12 どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、【主】にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。
2:13 私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」

ラハブは目の前の、そびえ立つエリコの城壁と町全体が、完全に滅亡することを確信しました。イエス様の時代の弟子たちも同じですけれども、エルサレムが完全に崩壊してしまうのを見たわけであります。そのことは紀元70年に実現しました。私達は、こういう歴史的なことをよく知っているわけであります。ラハブにこの信仰の悟りがあってこそ、大胆にエリコの王を恐れないで、ただ主なる神だけを信じて、自分と家族の救いを求めました。

使徒の働き16章31節で、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言っていますけれども、素晴らしい事ですね。
ラハブは旧約の人ですけれども、信じることによって、あなたもあなたの家族も救われます、と言われました。
かつてラハブのように、明確に、強く、自分と自分の家族の救いを求めた人がどのくらいいるでしょうか。彼女は、危険を冒しても、救いのために切なる願いを持って、二人の斥候をかくまいました。彼女は救いのための確かな証拠を求めています。

私たちにとって、キリストの救いの証拠は三つあります。それはもうご存知と思いますけれども、救いの約束のみことばと、主イエスの十字架の血潮と、聖霊の証しであります。

信じていると思っているだけではなくて、救いの約束のみことばを心にしっかりと握っていてください。救いの約束は、神との救いの契約ですから、根拠ですから、サタンが誘惑して疑いを持たせようとする時、私たちがそれを振り払うことができる根拠は、約束のみことばであります。

そしてまた、過去に信じた時だけではなくて、毎日、主イエスの十字架の血潮を仰いで頂きたいと思います。御子、主イエスの血だけが、私たちのすべての罪をきよめてくださるからです。毎日、いつもイエス様の血潮を仰いで頂きたい。

そして三つ目が、聖霊が「あなたは神の子どもとされています」という確信を与えてくださいますから、「アバ、父」と呼ぶ、子としてくださっている聖霊を信じてください。

二人の斥候たちは、ラハブの救いを保証するために、もう一つのことを要求しました。ヨシュア記の2章14節をお読みしましょう。

ヨシュア 2:14 その人たちは、彼女に言った。「あなたがたが、私たちのこのことをしゃべらなければ、私たちはいのちにかけて誓おう。【主】が私たちにこの地を与えてくださるとき、私たちはあなたに真実と誠実を尽くそう。」

べらべらしゃべらない、ということですね。信仰のない人に、分からない人に、私はこの斥候を二人泊めた、と言わないことですね。
救いも、きよめも、主の恵みは、契約によって与えられますから、主と信仰の契約を結んだら、その契約を真実と誠実を持って、守っていくことが大事であります。信じているということが、日本人にとっては契約であるというイメージが薄いようでありますが、教会に行っているとか、入っているとか、という言い方をする方がたくさんおられますけれども、信仰は契約であります。信仰の告白をして洗礼を受けたら、それで終わってしまう救いはありません。「信じる」と告白するだけで信仰を活用しない人は、言葉や口先だけで、その人の信仰は死んでしまっています。信仰は口で告白することを、生活で活用することで、実際に完結します。
いくつか聖書を読みたいと思います。

ヨハネの福音書8章11節
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

イエス様は、「信じます」と言うだけではなくて、その信仰を働かせる必要があることを教えましたね。ヨハネの黙示録2章10節後半、「・・・死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」
「忠実に信仰を活用しなさい」ということです。つまり、信仰は、一時的熱心では、救いの完成をすることはできません。人は、一時的に熱心になる時があります。しかし、真実と誠実な信仰は、天に至るまで、日々に更新されます。

その後、ラハブは。救いの確かな保証を受けました。ラハブの信仰は一時的な熱心な求めだけではありません。その後の信仰生活は、非常に大事であります。
ヨシュア記の2章18節から20節を読んでみたいと思います。

ヨシュア 2:18 私たちが、この地に入って来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。
2:19 あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。
2:20 だが、もしあなたが私たちのこのことをしゃべるなら、あなたが私たちに誓わせたあなたの誓いから私たちは解かれる。」

ラハブに与えられた、救いの確かな保証は、赤いひもを窓に結んでおき、その家の中に、家族全員がとどまっていることです。この赤いひもが、主イエスの血を表していることは、ご存知の通りです。
モーセの出エジプトの過越しの時には、門柱と鴨居に小羊の血を塗ることでありました。ラハブの時は、赤いひもを窓に結ぶことでありました。これらはどちらも、イエス・キリストの十字架の血を表しています。
これは、罪に対する神の怒りの裁きから救われる道は、キリストの十字架の血に逃げ込んで、頼る人だけであることを示しています。

小羊の血を塗ることも、赤い紐を結ぶことも、キリストの血にとどまっている時にだけ、神の怒りのさばきから救われる、新約のキリストの十字架の救いを示しています。これほどはっきりしていることはありません。
キリストの十字架の血の約束があるにも関わらず、キリストの血の贖(あがな)いを拒む人が、神の裁きを受けて滅びるのは、その人の責任であります。

21節でラハブは、斥候を送り出すとすぐに、赤いひもを窓に結び付けています。大抵の人は、まだいいじゃないか、とか、後でいい、とか、間近になって結べばいい、とか言います。
そう言って結んだつもりになっていて、信じたつもりになっていて、信仰がだんだんはっきりしなくなることが多いのです。信仰を後回しにしやすい。
主に従うことを後回しにすることは、サタンにつけこむすきを与えることになります。その結果、どうなってしまうでしょうか。

ヨシュア記の6章22節から25節を読んでみましょう。

ヨシュア6:22 ヨシュアはこの地を偵察したふたりの者に言った。「あなたがたがあの遊女に誓ったとおり、あの女の家に行って、その女とその女に属するすべての者を連れ出しなさい。」
6:23 斥候になったその若者たちは、行って、ラハブとその父、母、兄弟、そのほか彼女に属するすべての者を連れ出し、また、彼女の親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外にとどめておいた。
6:24 彼らは町とその中のすべてのものを火で焼いた。ただ銀、金、および青銅の器、鉄の器は、【主】の宮の宝物倉に納めた。
6:25 しかし、遊女ラハブとその父の家族と彼女に属するすべての者とは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブはイスラエルの中に住んだ。今日もそうである。これは、ヨシュアがエリコを偵察させるために遣わした使者たちを、ラハブがかくまったからである。

イスラエル人がエリコの城壁の周りを回っていた時、ラハブの家の窓から赤いひもが垂れ下がっているのが、良く見えたはずです。
あ、あの家がラハブの家なんだ、とイスラエルの人達は見えたと思います。その赤いひもは、イスラエル人の信仰を励ましたに違いありません。
信仰を鮮明にしている人の証しは、多くの信仰者を力付けています。

また、エリコの人の中にも、ラハブの家の赤いひもを見つけた人もいたでしょう。しかし彼らは、その意味を悟ることができませんでした。
第一コリント1章18節に有名なことばがあります。

Ⅰコリント1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

ですから、私たちの信仰は、神様が見てすぐに分かるように、鮮明でなければなりません。神様と、この世に調子を合わせる二心(ふたごころ)になっていては、滅びに巻き込まれてしまいます。

ラハブはエリコの陥落によって、すべてを失ったかに見えましたが、神の民の中に受け入れられることによって、新しい人生を始めました。失ったものとは比べものにならない、神の祝福を受けたのです。それは生活的なものだけではなく、メシヤの系図に加えられるという栄誉も受けました。
私たちも、主イエスを信じることによって、いのちの書にその名が記され、永遠の復活の栄誉を受けます。

パウロは、ピリピ3章14節で、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」と言いました。

第二テモテの4章8節でも、こう言っております。
「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、誰にでも授けてくださるのです。」

ヨハネの黙示録2章10節でも同じですね。
「・・・ 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」

ラハブが自分と自分の家族の滅びの運命、それも、目前まで近づいていた滅びの運命、それを永遠の救いと祝福に変えたのは、何だったのでしょうか。
それは非常に重要なことであります。それを最後にまとめて、私たちも活用させていただきたいと思います。

第一に、
彼女は神のみわざの話を聞いた。聞いて、信じて、神の民の斥候を受け入れることから始まりました。
しかも疑い半分ではなくて、心から穏やかに快く受け入れています。しかし、このことはエリコの王の怒りを招く危険なことでしたが、恐れませんでした。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストのことばによるのです。」
ラハブは聞きました。そして信じました。そしてそれを行動に移しました。
神のみことばを聞き続ける人、従い続ける人は、必ず、間違いなく、救いと祝福を受けます。
みことばを行なう生活をしていると、家族の会話にもみことばが出てくるでしょう。それは、家族の救いや祝福に繋がっていきます。
とにかく、信仰は聞くことから始まりますから、キリストのみことばを聞かせることが大事であります。聞いたら、深く心に留めておくことでしょう。だんだん、心に留まるようになるでしょう。それは、私たちの信仰が、誠実に忠実であることがはっきりしてくれば、聞く人の目が覚めてくるからです。

第二に、
ラハブは穏やかな心で斥候を受け入れました。エリコの王の追っ手からかくまい、真実と誠実な態度を取り続けました。
ラハブの信仰は、わざわいから逃れるためだけの、一時的なご都合主義のものではありません。わざわいだけ逃れて、利益だけを得るという、この世のご利益(りやく)宗教ではなかった。苦しい時の神頼みでもなかった。
ラハブは、神と斥候たちとの約束を堅く守りました。彼女の信仰は真実で誠実なものです。ですから、私たちも、隣り人を愛したり、助け合ったり、重荷を負い合うことを通して、神の恵みを分かち合うようになります。
この世で、口先だけの都合の良いことを無責任に言ったり、自分中心の態度を取ったり、冷淡な態度を取ったりすれば、神の恵みを失い、主の臨在の祝福を失ってしまいます。
ラハブは異邦人でありましたけれども、その信仰は真実で誠実なものでした。
このことは非常に重要なことですね。
今日、私たちの信仰も、ことばや口先だけのものにならないようにしていかなければなりません。

第三に、
ラハブは救いについて、最も確かな保証であるキリストの十字架の血を表す、赤い紐を窓に結び、その家から出なかったことです。
キリストの贖(あがな)いの血にとどまり続けました。キリストの血潮から離れなかった。キリストの血に何も加えておりません。

これらの三つのことが、彼女の恐るべき滅びの運命を、突然変えてしまったのです。これらのことは、難しいことではありません。誰でもが、今すぐできることです。
しかし、これをするには本当の信仰がなければできません。聖書の言葉を本当に信じている人は、これを行います。

クリスチャンは、信じている、とは言いますけれども、みことばに根ざしていないし、みことばを信じて、行なって、活用もしていない人が多いんです。本当に信じているかどうかは、そのあたりで分かるでしょう。
ヤコブは「聞いて、忘れてしまう人にならないように」と警告しました。
聞いて、信じて、行う人になるよう説明しています。
信じない人は、聞いても忘れてしまう人で、この世の人と同じ滅びの道を歩んでしまいます。
エリコの町で、神のみわざの噂を聞いて、信仰の選択をしたのは、ラハブだけでありました。みんな同じ神様の話を聞いています。

この日曜日の朝、日本中でも世界中でも、神のことばを聞いている人が何十億もいるでしょう。しかし、本当の信仰の選択をする人は、何人いるでしょうか。
エリコの町でラハブ以外に主につく者はいなかったんです。彼らは聞いていたのに信じませんでした。彼らは主に敵対し、エリコの城壁があるから大丈夫だと、城壁に頼っていました。自分の力に頼り、物の豊かさに頼る人は、必ず滅びます。

私の運命は、イエス様によって変えていただけるんですから、イエス様にお頼りしなければなりません。全ての人は、主イエスに拠らなければ、確実に滅びます。そういう運命にありますから、主イエス様を信じる信仰を持たなければなりません。
人はそれぞれ自分が思っていたような、期待したような理想的な人生を送れないことはたくさんあります。しかし、自分が置かれた状況や環境を呪って、自分の人生を嘆く人は愚かであります。それは自らを滅びの運命に陥れることですね。
私の滅びの運命は、イエス・キリストを信じることによって、永遠の救いと祝福に変えることができるからです。

最後に、第二コリントの5章17節を読んで終わりたいと思います。

Ⅱコリ 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

お祈り

恵みの深い天のお父様、私たちも滅びの運命の中にありましたけれども、呪いの中にありましたけれども、イエス・キリストの十字架の血潮を仰ぎ、あなたの約束のみことばをいただき、聖霊をいただくことを通して、「見よ、すべてが新しくなる」主の祝福の栄光に、救いに導き入れられたことを感謝いたします。
誰でも、滅びからいのちに移ることができます。このみことばの約束を、しっかり信じることができますように、十字架の血潮を仰ぐことができますように、聖霊のみわざを信じることができますように助けて下さい。
この一週間、私たちの証しや祈りをあなたがお用いくださって、主の栄光を現わすことができますように、顧みてください。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明


古代エリコがあったと言われるテル・エッ・スルタン(Tell Es-Sultan)の遺跡です。後ろに石積みの壁のように見えるのは城壁を支えていた保持壁で、手前の四角い部屋は倉庫のついた塔だったとのこと。

<今週の活用聖句>

ヨハネの手紙第一、1章7節
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421