聖書の探求(225) 士師記2章1~10節 主の使いの顕現とメッセージ、ヨシュアの死去当時のイスラエル

上の絵は、「Joshua’s Death(ヨシュアの死)」、Biblical illustrations by Jim Padgett, courtesy of Sweet Publishing(Wikimedia Commonsより)


2章の最初の部分の、主の使いの顕現とメッセージの後、士師の働きを記すための準備段階として、士師記時代のまとめが述べられています。

2:1~5、主の使いの顕現とメッセージ

主の使いは、ギルガル(転び)からボキム(嘆き、あるいは、泣く人を意味します。)に上って来て、神からのメッセージを語りました。

士師記2章1~6節は、ヨシュア記23章12,13節でヨシュアが警告した出来事よりも前のことです。ヨシュアはこの主の使いから神のメッセージを受け取って、ヨシュア記23章12,13節で民に警告を語ったのです。

ヨシ 23:12 しかし、もしもあなたがたが、もう一度堕落して、これらの国民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っている者たちと親しく交わり、彼らと互いに縁を結び、あなたがたが彼らの中に入って行き、彼らもあなたがたの中に入って来るなら、
23:13 あなたがたの神、【主】は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない。彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり、あなたがたのわき腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなり、あなたがたはついに、あなたがたの神、【主】があなたがたに与えたこの良い地から、滅びうせる。

主は、ここで、エジプトから連れ上って来て、先祖アブラハムたちに誓い、約束した契約を決して破らないことを宣言しています。その契約とは、民が主に忠実に従い続けるなら、祝福を受けること、しかし民が不信仰、不従順になり、主に反逆するなら、神の刑罰が下ることです。

士2:1 さて、【主】の使いがギルガルからボキムに上って来て言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。

2節からは、契約のうち神の刑罰を受ける原因となることの警告が語られています。

それは、カナンの地の偶像を拝んでいる住民と契約を結んではならないこと、婚姻の契約も、彼らの偶像礼拝の慣習にも倣わないことです。
さらに、彼らを追放した後、彼らの残していった偶像礼拝の祭壇を取り壊さなければならないと命じられていたのです。

士 2:2 あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。

「ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。」これは理由を尋ねたのではありません。イスラエルの民は、わざと故意に従わなかったのです。それは、カナン人が鉄の戦車を持っていると理由づけして、追い出そうとせず、苦役に使えばいいではないかという勝手な論理を立てて、異教社会と妥協していたのです。その結果、彼らは神に捨てられる者となってしまったのです。

3節で、主はもうイスラエルとともに戦わないと言っておられるのです。

士 2:3 それゆえわたしは言う。『わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。』」

「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。」とは、そういうことです。主はイスラエル人の戦いのために、力を現わしてくださらなくなるのです。

そればかりでなく、苦役に使っているからいいではないかと言っていた、わずかに残して同居させておいた異教の人々が、イスラエル人の生活の中に偶像を持ち込むようになり、やがて神の民が真の神なる主を捨てて、偶像礼拝をするようになり、神の刑罰を受けるようになるのです。そしてイスラエルの歴史的事実は、神のこの警告の通りになったのです。イスラエル人が自分たちの便利のために苦役に使っていたカナン人が、わなとなり、士師記の間だけでも、繰り返し、繰り返し、周囲の国々の襲撃を受け、何十年と嘆きの生活をしなければならなかったのです。結末は、それだけで止まらずに、アッシリヤとバビロン捕囚にまで行き着いてしまったのです。この最初の不信仰、不服従が、まさか、これほどのわざわいをもたらすとは考えなかったでしょうが、それは神を侮(あなど)っている人間の知恵の愚かさなのです。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けばその刈り取りもすることになります。
自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:7,8)

パウロは、次のように言っています。

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。
『わたしは彼らの間に住み、また歩む。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。
汚れたものに触れないようにせよ。
そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、
と全能の主が言われる。』」(コリント第二 6:14~18)

自分の好みと自分の知恵で選んだことは、自分でそのすべての責任をとらなければならないのです。

パウロは、「この世と調子を合わせてはいけません。」(ローマ12:2)と言いましたが、この世と妥協するなら、この世の神があなたの破滅の原因となるのです。

こうして、神に不服従になった民の間から神は去って行かれ、神はそれらの人々を捨てられてしまうのです。それは神が人を捨てたのではなく、人が神を捨てたからです。人が神を捨てても、すぐに、今日、明日にわざわいが襲って来ないでしょう。だから「何も変わらず、裕福だからいい。」と思うのです。しかし、わざわいは必ず来るのです。神が来させるからです。しかし、わざわいが来てから、あわてても、もう遅いのです。

忠告を受けても、警告を受けても、いろいろ言い訳を言って、従わない人がいます。しかし、その人が病気になると、医者を悪く言う話をよく聞きます。確かに、医者に問題がある場合もありますが、その前に、「酒はひかえておいたら、」とか、「タバコはやめたら、」「食事はきちんと採ったほうがいいよ。」という家族の者の忠告を聞き入れて、従っていれば、そういう苦しい病気にならなくてすんだのではないでしょうか。

わざわいが自分の身に及んできて、自らの罪深さを悔い改めるなら、まだ助かる道もありますが、自分の責任でわざわいに会って、他人を責めたり、ののしったり、悪く言う人に救いの道はありません。最も賢い人は、わざわいに会う前に、他人の忠告に耳を傾け、素直に受け入れて、それに従う人です。

「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。あなたがたはわたしのすペての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。なぜなら、彼らは知識を憎み、主を畏れることを選ばず、わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。それで、彼らは自分の行ないの実を食らい、自分のたくらみに飽きるであろう。わきまえのない者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」(箴言1:23~33)

「そのとき、あなたは言おう。『ああ、私は訓戒を憎み、私の心は叱責を侮った。私は私の教師の声に聞き従わず、私を教える者に耳を傾けなかった。私は、集会、会衆のただ中で、ほとんど最悪の状態であった。』と。」(箴言5:12~14)

「知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、金の耳輪、黄金の飾りのようだ。」(箴言25:12)

イスラエル人は、この主の使いの警告の言葉を聞いた時、声をあげて泣きました。彼らが泣いたので、その場所がボキム(嘆き、とか、泣く人、という意味)と呼ばれたのです。

士 2:4 【主】の使いがこれらのことばをイスラエル人全体に語ったとき、民は声をあげて泣いた。
2:5 それで、その場所の名をボキムと呼んだ。彼らはその場所で【主】にいけにえをささげた。

彼らは、その戒めを聞いて泣いたので、その後、真直ぐ、主の戒めを守り、従って歩むのかと思うと、その直後から、主の契約を破り、不信仰、不服従が延々と捕囚まで続くのです。人の涙は、人の真実性を必ずしも表わしていないのです。人はただ、その時の雰囲気や感情的衝動によって泣くのです。しかしそれは必ずしも、主の前に罪を悔い改めて、砕かれて、真実に歩むことを意味していないのです。そこは、ヨルダン川の西側のギルガルの近くでした。

2:6~10、ヨシュアの死去当時のイスラエルの状態(ヨシュア記24:31)

ヨシ 24:31 イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、【主】がイスラエルに行われたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、【主】に仕えていた。

士 2:6 ヨシュアが民を送り出したので、イスラエル人はそれぞれ地を自分の相続地として占領するために出て行った。
2:7 民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って【主】がイスラエルに行われたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、【主】に仕えた。

カナン征服時代のイスラエル人は、信仰と勇気を持っていました。彼らはモーセの時代のシナイの荒野をさ迷っていた父祖たちの不信仰と臆病からは解放されていました。彼らは、荒野において生まれた者たちで、最年長者でも四十才を越えておらず、荒野の旅においてモーセから信仰の訓練を受け、モーセの死後は、勇気あるヨシュアの指導を受けて、力を受けていたのです。

ヨシュアは若い時からいつもモーセのそばにいてモーセに従い、モーセが神と交わるその秘訣をさぐり取ろうとしていた人です。

彼は信仰によって紅海を渡ることも経験し、アマレクとの戦いでは祈りによって勝つことも経験しました(出エジプト記17章)。これらの経験は、モーセの死後、自分が民を導いていかなければならなくなった時、ヨルダン川を渡る時も、エリコの戦いの時も、役立ったでしょう。このヨシュアの信仰の戦いを見ていた若い集団のイスラエル人たちは、信仰の力を身につけていたのです。カナン入国をした当時のイスラエル人をただの集団と見てはいけません。年齢層は四十才を先頭にした若い熱気の集団であり、神の軍隊として備えられていた集団です。彼らが信仰の力と勇気とを持ったなら、神とともに戦い、カナン占領が出来たのも不思議ではありません。

ヨシュアは自分の信仰の戦いの姿を見せることによって、イスラエル人の模範となったのです。しかしそれはヨシュア自身が若い頃からモーセに従うことによって身につけたものでした。後継者を力ある働き人に育てたいなら、指導者自らが、主の真実なしもべとなっていなければなりません。

しかし信仰の指導者が死去してしまうと、その指導者から訓練を受けていた人が生き残っている間は、その群れはなおその影響を残していますが、次第に力を失っていきます。そして世代が交代すると、その信仰も失ってしまうことが多いのです。イスラエル人もヨシュアの死後、しばらくはその信仰の力を保っていましたが、間もなく不信仰になり、神を知らない民となり、カナンでの戦いを知らない者ばかりになり、偶像礼拝に急速に傾いていったのです。

しかしこのことは、神学校で教えれば分かることではありません。ひとり一人が真実に神に従い、神を求める心を本当に持っているかどうかにかかっているのです。

8節は、ヨシュア記24章29節の繰り返しで、ヨシュアが、「主のしもベ」という最高の称号で呼ばれ、百十歳で死んだことを言っています。

士 2:8 【主】のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。

9節は、ヨシュアが葬られた場所を記しています。それは彼の相続地の中にあったティムナテ・ヘレスです。その意味は「太陽の一部」で、ティムナテ・セラフと同じ意味です(ヨシュア記19:50、24:30)。

士 2:9 人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・ヘレスに葬った。

ガアシュ山はティムナテ・ヘレスの南にある丘です。

10節は、世代交代とともに、神の民の中から信仰が失われていく姿を描いています。

士 2:10 その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、【主】を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。

50年経つと、地上の人間の半分は入れ替わってしまうのです。ですから、たえず若い世代への信仰の継承が大事になります。信仰の継承は、子どもに聖書を買い与えたり、教会に連れて行ったり、洗礼を受けさせたりするだけでは、できません。ヨシュアのように真実に従う者が起きてきて、若い世代に力ある影響を与えるリーダーが育ってくることです。ヨシュアの次に現われた青年リーダーはサムエルです。サムエルのすばらしい信仰は彼の母ハンナから継承したものです。この点で、信仰のあつい、献身的な両親の影響は大きいものがあります。今日、華やかな過激な集会は行なわれていますが、地道な、信仰を育てる働きはあまり見かけませんから、危険です。

あ と が き

こうして旧約聖書の記事について書いていますと、その時代の人物が私の内によみがえってくるような経験をします。私も彼らと一緒に苦しみ、悩み、信仰の戦いをしている感覚になるのです。そこから信仰の警告を聞いたり、信仰の奥深さを教えられたりするのです。
彼らがその時代にあって、どんなに心を燃やして生きたのか。どんなにくやしい思いをしたのか。どんなに神に叫んだのか。どんなに不安だったのか。どんなに喜び、感謝したのかが、伝わってきます。
そして、今、この現代に生きる私も、小さい一人の信仰者でしかありませんけれど、彼らと同じように、自分に与えられた時代と、国と、状況の中にあって、心を尽くし、力を尽くして、主に仕え、主のために労したいと思うのです。

(まなべあきら 2002.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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