聖書の探求(224) 士師記1章22~36節 ヨセフの一族がベテルを打つ、占領できなかった町々
士師記時代のイスラエルの地図。今回の記事に関連した地名を茶色の文字にしています。
22~26節、ヨセフの一族がベテルを打つ
ヨシュアがアイを打った時、アイとベテルの間に伏兵を配置したことが記されています。そしてイスラエルの後を追って出なかった者は、アイとベテルに一人もないまでになったと(ヨシュア記8:17)記されていますが、イスラエルが打ったのはアイだけで、ベテルを打ったことは記されていません。
ヨシ 8:17 イスラエルのあとを追って出なかった者は、アイとベテルにひとりもないまでになった。彼らは町を明け放しのまま捨てておいて、イスラエルのあとを追った。
ここで、記録がそれまでのカナンの南部地域から、カナンの中央地域に移っています。
「ヨセフ一族」とは、ヤコブの十一番目の子ヨセフの子孫であるマナセとエフライムの部族のことです。やがて、このエフライムが人数と勢力ともに増大して、南のユダ族に対抗して、北のイスラエルを代表する部族へと成長していきます。
この二部族は山のとりでであるベテルに上って行きました。
士 1:22 ヨセフの一族もまた、ベテルに上って行った。【主】は彼らとともにおられた。
「主は彼らとともにおられた。」は、彼らに正しい信仰があったことを示しています。
彼らは、準備の段階から、勝利の保証をとっていたことを示しています。
信仰は、戦う前に、すでに確かな勝利をつかんでいるのです。
士 1:23 ヨセフの一族はベテルを探った。この町の名は以前はルズであった。
「探る」は、偵察したことを意味します。かつて、カデシュから偵察員を派遣した時の報告が不信仰な報告だったためイスラエルは四十年聞の荒野の放浪の末に滅亡したことがあり、アイを偵察した時も、敵の状況を安易に報告し、味方の中に罪があることを見抜けなかったために、敗北した苦い経験があります。偵察する時は、偵察員に選ぶ者の信仰の質を十分点検して、選ばなければなりません。偵察員の報告や発言は、民全体に大きな影響を与えるからです。
ベテルという地は二つあって、一つは、イスラエルの先祖ヤコブが、天からの梯子の夢を見た所で、元の地名はルズでした。ヨセフの一族が攻めた町の名前も「以前はルズ」(23節)だったと記されていますから、この町だったと思われます。ヤコブは、神との契約の時に、その名を「べテル(神の家)」と呼びました(創世記28:11~22)。それ故、このベテルは、イスラエル人にとって非常に意味深い土地だったのです。
この遺跡は発掘調査によって、この町が紀元前十三世紀に炎上していたことが明らかになりました。その遺跡は、エルサレムの北18kmの丘の頂上にあり、広さは12~16平方kmです。
上の写真は、アメリカのDaniel B. Sheppによって1894年に出版された「Holy land photographed(写真で見る聖地)」からの一枚「Bethel(ベテル)」(Wikimedia Commonsより)
ベテルと呼ばれている、もう一つのベテルはエルサレムの南西約10kmのシメオン族の地にあります(サムエル記第一 30:27)。
このベテルの占領は、ヨセフの一族にとって、最初の勝利でした。主がともにいてくだされば、だれでもこの勝利を経験出来るのです。
イスラエルの偵察隊は、ベテルから逃げて来た一人の住人を捕えて、彼らが攻め込むためのベテルの出入り口を教えてくれたら、彼と彼の氏族を救うことを約束した。
士 1:24 見張りの者は、ひとりの人がその町から出て来るのを見て、その者に言った。「この町の出入口を教えてくれないか。私たちは、あなたにまことを尽くすから。」
この無名の情報提供者は、エリコのラハブに似ております。ベテルの人から見れば、彼は仲間を裏切った反逆者と呼ばれるでしょうが、彼は自分と家族、親戚を救うために、神の側についた賢い人と言うぺきでしょう。日本のような異教社会では、クリスチャンになると、周りの人々から非難、攻撃されることが、しばしば起きますが、そのことで思い悩んではいけません。本当に家族や友人たちを助けることができるのは、イエス・キリストを心から信じているあなたしかいないのですから。あなたは、本当に重大な、そして賢明な選択をしたことを忘れてはなりません。
イスラエルはこの情報を入手することによって、一挙にベテルを攻め落としました。
士 1:25 彼が町の出入口を教えたので、彼らは剣の刃でこの町を打った。しかし、その者とその氏族の者全部は自由にしてやった。
主がともにいてくださることに甘んじて、自分のなすべきことを怠ってはなりません。入手できる知識や情報はしっかり自分のものにして、主の戦いに活用させていただきたいものです。
イスラエルは約束通り、情報提供者とその家族を助け、守り、自由にしました。彼とその一族はへテ人の地に移って行って一つの町を建て、その名もルズと呼びました。
士 1:26 そこで、その者はヘテ人の地に行って、一つの町を建て、その名をルズと呼んだ。これが今日までその名である。
このルズは現在、どこであるか分かりませんが、オロント川上流のかなたにある北シリヤのことではないかと考えられています。
長い間、ヘテ人についての聖書の中の記事は、架空の作り話だと思われてきました。しかし、考古学的発見によって、ヘテ人が歴史上存在していたことが証明され、彼らは紀元前1900年から1200年にわたって帝国を築き、その隆盛を極めました。ヘテの地の南の境界線は北パレスチナと接触していました。
27~36節、占領できなかった町々
27,28節は、ヨシュア記17章11~13節とほとんど同じ記事です。
ヨシ 17:11 またマナセには、イッサカルとアシェルの中に、ベテ・シェアンとそれに属する村落、イブレアムとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、エン・ドルの住民とそれに属する村落、タナクの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落があった。この第三番目は高地であった。
17:12 しかしマナセ族は、これらの町々を占領することができなかった。カナン人はこの土地に住みとおした。
17:13 イスラエル人は、強くなってから、カナン人に苦役を課したが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。
27節、ヨセフの長子のマナセ族は、ベテ・シェアン、タナク、ドル、イブレアム、メギドとその周辺の村落を占領せず、その住民を追い払うことをしませんでした。
士 1:27 マナセはベテ・シェアンとそれに属する村落、タナクとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、イブレアムの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落は占領しなかった。それで、カナン人はその土地に住みとおした。
1:28 イスラエルは、強くなってから、カナン人を苦役に服させたが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。
これらの町々は、エスドラエロン平原を、ヨルダン渓谷から地中海の岸まで、東西に一直線上に並んでいた一連の要塞であり、イスラエルの北部の諸部族と中部のカナンにいたヨセフの一族とを切り離すカナン人の強力な拠点をなしていたのです。この連続した要塞を寸断することは容易ではなかったかも知れませんが、22節のように主がともにいてくだされば出来たはずです。神の民が攻めてくると分かると、この世の勢力は連合して抵抗し、戦いを挑んでくるのです。
ベテ・シェアンは、紀元前3000年以前に建てられ、ラ・メス三世の治世(BC1198~1167年)までは、エジプトの守備隊よって占領されていました。
ベテ・シャンの遺跡で発掘されたエジプトの総督の住居跡、紀元前15世紀から12世紀頃のエジプト王朝のもの。〔参照:たけさんのイスラエル紀行(ベテ・シャンその2)〕
ヨセフスによると、この町は、後にデカポリス(十の町)(マタイ4:25)と呼ばれた十の町々のうちもっとも大きい町であったと言われています。
発掘されたローマ時代のベテ・シャンの遺跡、デカポリスと呼ばれた頃の町の様子が再現された。〔参照:たけさんのイスラエル紀行(ベテ・シャンその1)〕
この町は「ベテ・シャン」とも呼ばれて、城壁のある町でした(サムエル記第一 31:10)。この町はヨルダン川の西6km、ガリラヤ湖の南19kmの所にあり、今はベイサンと呼ばれています。
夕ナクは、放牧地を持っている町で(ヨシュア記21:25)、ヨシュアが占領した31人の王の中に、タナクの王も含まれています(ヨシュア記12:21)。タナクの遺跡は古代メギドの南東8kmの所にあり、今はテル・タアナクと呼ばれています。
ドルは、カイザリヤの北13kmの所にあるカナン人の町で、それはイッサカルの領地にありましたが、マナセ部族に属していました。その遺跡はエルブルジです。
イブレアムは、イッサカルの町にありましたが、マナセに与えられていました。その遺跡は現在、知られていません。
メギドは、「メギドン」とも呼ばれています(ゼカリヤ書12:11)。この語は、ヘブル語で「軍隊の本部」を意味します。メギドは地上で最も多くの人の血を飲んだ地と言うことができるでしょう。メギドはそれほどに、戦いの中心地となってきたのです。ヘブル語の「ハルマゲドン」(ヨハネの黙示録16:28)は、「メギドの戦い」という意味で、神の軍隊と悪魔の軍隊が最後の地上戦を行なう所と考えられています。しかし実際にはこの戦いは行なわれずに、神の激しい怒りが大バビロンに下り、消え失せてしまうのです。
メギドは紀元前3500年頃に始まり、イズレエルの平原にあり、初期の住民の多くの者たちは洞穴に住んでいました。しかし紀元前一二世紀の前半にはエジプトの支配に入り、その後、徹底的に破壊されてしまいました。
イスラエル人が勢力をつけて強くなってきても、カナン人を追放してしまうことをせず自分たちの苦役に使っていました。これは、彼ら自身の肉的な知恵から出たものです。主は完全に滅ぼしてしまうように命じられているのに、それに従わず、自分たちの都合のためにカナン人を使ったのです。
イスラエルのテル・メギドで発掘されたカナン時代の祭壇の遺跡。〔参照:たけさんのイスラエル紀行(メギド)〕
これと同じことを、しばしばクリスチャンは行なっています。自分中心の欲をある程度は押えつけて抑制し、人前では潔められた人の姿を見せておいて、自分の都合に合わせて、それを便利に使っているのです。しかしこれが残っていると、神の前で砕かれることができず、高慢が顔を出したり、食欲やこの世のものに未練がましく、しがみついて、この世の奴隷となっていきやすいのです。クリスチャンと言っている人に、こういう人を大勢見かけないでしょうか。
29節、エフライム族も同様です。エフライムはヨセフの二番目の子どもの子孫です。
士 1:29 エフライムはゲゼルの住民カナン人を追い払わなかった。それで、カナン人はゲゼルで彼らの中に住んだ。
29節は、ヨシュア記16章10節と同じ内容です。
ヨシ 16:10 彼らはゲゼルに住むカナン人を追い払わなかったので、カナン人はエフライムの中に住んでいた。今日もそうである。カナン人は苦役に服する奴隷となった。
ゲゼルは、ガゼルと二回呼ばれています(サムエル第二 5:25、歴代誌第一 14:16、新改訳聖書では、どちらも「ゲゼル」に変えられています)。ヘブル語で「ゲゼル」あるいは「ガゼル」は、「一片」あるいは「一部分」を意味しています。
ゲゼルの町は紀元前3000年頃に始まった古代のカナン人の町です。この町はエフライム族の領土の南西、エルサレムの北西約30kmにあります。この町は紀元前950年頃までイスラエルの支配下に入りませんでした(列王記第一 9:16,17)。
Ⅰ列王 9:16 ──エジプトの王パロは、かつて上って来て、ゲゼルを攻め取り、これを火で焼き、この町に住んでいたカナン人を殺し、ソロモンの妻である自分の娘に結婚の贈り物としてこれを与えていたので、
9:17 ソロモンは、このゲゼルを再建した・・・
30節、ゼプルンも、キテロン(ヨシュア記 19:15では「カタテ」と呼ばれている)とナハラル(ヘブル語では、ナハロルもナハラルと綴りますので、ナハロルという人もいます。)を追い払うのに失敗しています。
士 1:30 ゼブルンはキテロンの住民とナハラルの住民を追い払わなかった。それで、カナン人は彼らの中に住み、苦役に服した。
キテロンの意味は不明ですが、ナハラルは「牧場」という意味です。
ゼブルンも、カナン人を彼らの間に住まわせ、苦役に使っています。
31節、カナン人が紀元前六世紀まで独立して存続できたのは、フェニキヤ沿岸においてだけでした。
士 1:31 アシェルはアコの住民や、シドンの住民や、またマハレブ、アクジブ、ヘルバ、アフェク、レホブの住民を追い払わなかった。
その地域はアシェルの領土でしたが、彼らも、アコの住民、シドンやその近隣の住民を追い出すことができませんでした。
士 1:32 そして、アシェル人は、その土地に住むカナン人の中に住みついた。彼らを追い払わなかったからである。
アコは、ヘブル語で「熱砂」を意味します。新約時代にはトレマイと呼ばれ、パウロが訪れたことがありました(使徒の働き21:7)。この町は、ツロの南約40kmの所で、地中海に突き出ている細長い地に建てられた町で、港として使われていました。ナポレオンはこの町を攻撃し、1918年にはアレンビイによって占領され、今はアッカと呼ばれています。
シドンはへブル語で「漁場」の意味です。シドンはツロの北35kmの所にある海岸の町で、士師の時代には、ツロよりもはるかに栄えていました。しかしダビデの時代になると、ツロがシドンを凌ぐようになっていました。イエス様もこの町を訪れたことがあります(マタイ15:21、マルコ7:24,31)。パウロはローマへの旅の途中、シドンの港に立ち寄ったことがあります(使徒27:3)。
マハレブはへブル語で「アフラブ」とも呼びます。アフラブのへブル語の意味は「肥沃、豊かさ」です。この町はツロの北東約6kmの所にあります。
アクジブ(ヨシュア記19:29)は、海岸の町で、アクレの北14kmの所にあります。この町はギリシャ人やローマ人には、エクディッパと呼ばれていました。パレスチナ南部にも、アクジブと呼ばれるもう一つの町があります。(ヨシュア記15:44、ミカ書1:14)これはケジブ(創世記38:5)あるいはコゼバ(歴代誌第一 4:22)と同じ地であると思われています。
ヘルバの意味は「沃土」ですが、位置は不明になっています。
アフェクはへブル語のアフィクと同じで、海岸近くのアッカの南13kmの所と思われています。
もう一つのアフェクはシャロン平原のカナン人の首都の名前でもあります。このアフェクはキネレテの東の町で(列王記第一 20:26)、ペリシテ人がイスラエルと戦うために陣を敷いた所です(サムエル記第一 4:1)。後に、ペリシテ人が全軍を集結したイズレエルの泉のある所です(サムエル記第一 29:1)。
レホブは、アシェルの境界線近くのレビ人の町でした。ヨルダン川上流の渓谷の町ライシュのそばに、ベテ・レホブと呼ばれている町がありましたが(士師記18:28)、これは民数記13章21節にある「レボ・ハマテのレホブ」と同山であると思われ、パレスチナの北端の町とされていたようです。
33節、ナフタリ族も、ベテ・シェメシュとベテ・アナテの住民を追い払うことができず、この二つの異教の民に苦役を課しています。
士 1:33 ナフタリはベテ・シェメシュの住民やベテ・アナテの住民を追い払わなかった。そして、その土地に住むカナン人の中に住みついた。しかし、ベテ・シェメシュとベテ・アナテの住民は、彼らのために苦役に服した。
しかし、異教の民を苦役に使っているからいいというものではなくて、イスラエル人の間に残っていた、これらのわずかと思われた異教の民の偶像礼拝がイスラエル全体を偶像礼拝に陥れる原因となり、それが、アッシリヤとバビロン捕囚の原因となっていったのです。しかし、士師記の時代のイスラエル人は、この小さいことと見えていることが、捕囚という大悲劇を引き起こす原因になるとは全く考えてもみなかったのです。
このことは私たちも十分注意しなければなりません。今、自分中心の性質を残しておくこと、高慢をもてあそんでいること、少しばかりこの世と妥協していることが先に行ってどんな悲劇につながっているか、今、目に見えていなくても、先の実例を見て、賢く判断し、信仰を明確に、堅実にしていくことが大切ではありませんか。
ベテ・シェメシュは、「太陽の家」という意味で、太陽神の礼拝が行なわれていた聖所で、考古学者J・ガースタングによると、これは士師記4章6節の「ナフタリのケデシュ」と同一であると言っています。
ベテ・アナテは、ラス・シャムラ碑文によると、バアルの妻として記されているカナンの多産の女神アナテを礼拝していた聖所であるとされています。
34~36節は、エモリ人に圧迫されたダン族の記事が記されています。
ダン族は自分たちに割り当てられた領地を獲得するのに失敗したのです。
士 1:34 エモリ人はダン族を山地のほうに圧迫した。エモリ人は、彼らの谷に降りて来ることを許さなかった。
エモリ人は、アラビアの砂漠から侵入してきたセム族であり、紀元前2000年頃には、肥えたパレスチナ地方に到着し、紀元前1750年までには、シリヤからバビロンに至る主要な町々を支配するようになりました。
エモリ人はヘレス山と、アヤロン、シャアルビムに住み、戦争の好きな民で、ダン族は彼らによって、山地に追い上げられてしまいました。
士 1:35 こうして、エモリ人はハル・ヘレスと、アヤロンと、シャアルビムに住みとおした。しかし、ヨセフの一族が勢力を得るようになると、彼らは苦役に服した。
エモリ人と言う名の原語は、「山地の住民」という意味があります。彼らは聖書中に、アブラハムと同じくらい早くから記されており(創世記14:13、同15:16,21)、ノアの息子ハムの子カナンの子孫であると記されています(創世記10:15,16)。
へレス山の位置は現在、不明です。
アヤロンは、ゼブルンにもありましたが(士師記12:12)、ここではエルサレムの北西23kmにある今のヤロであると思われます。同名の地が幾つもありますので、特定するのが困難な場合もあります。
シャアルビムは、「シャアラビン」(ヨシュア記19:42)と呼ばれたこともありますが、その位置は不明です。
35節に記されているエモリ人の町々は、ヨセフの一族とユダ族との間を遮断していましたので、ヨセフの一部が勢力を得るようになってきた時、エモリ人は衰えさせられ、奴隷状態におかれて、苦役に使われるようになったのです。
36節は、エモリ人の国境を記していますが、現在、それを決定することはできません。
士 1:36 エモリ人の国境はアクラビムの坂から、セラを経て、上のほうに及んだ。
アクラビムは「さそり」という意味で、ヨシュア記15章3節では坂です。それはユダの砂漠と丘陵地帯にはさまれた死海の南の果ての斜面です。ここは創世記14章7節に記されている、エモリ人の住んでいた、ハツァツォン・タマルのあった地域です。
あ と が き
メッセージ・テープやこの聖書の探求、本などを通して、イエス様に出会う方々が起こされて、主に感謝しています。
先月、ローマ人への手紙の説教の全部のプリントが完成し、すでに何人かの方々から、お申し込みをいただきました。私は、後に続く人々のために聖書全体のメッセージを何らかの形で残しておきたいと努力してきました。説教集では、ルツ記が本として「愛の絆によって」で残されていますが、今回はローマ人への手紙をパソコンで完成しました。これらはメッセージを語るのに、真理からはずれる危険から守ってくれます。
もっと多くの信仰者が、至る所であかし説教をされるようになれば、主は祝してくださるでしょう。そのために、少しでもお役に立てば幸いです。
(まなべあきら 2002.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)
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