聖書の探求(226) 士師記2章11~23節 それに続く時代のイスラエルの背反

上の絵は、1908年にアメリカのCharles F. Horne and Julius A. Bewerによって出版された「The Bible and Its Story Taught by One Thousand Picture Lessons」の中の一枚「The worship of Ashtaroth(アシュタロテの礼拝)」(Wikimedia Commons、http://christianimagesource.com/book_of_judges_g183-book_of_judges_ashtaroth_p1107.html)


11~23節、それに続く時代の背反

この部分は、士師記全体の大意を簡明に記しています。

それにしても、イスラエルがこんなにも早く主を捨てて堕落したのは、驚くべきことです。信仰の背反は民族の衰退となって表われたのです。この衰退はカナンを占領した初代の人たち、すなわち、エジプトを脱出した時からの第二世の人々(第一世は、シナイの荒野を旅している間に、ヨシュアとカレブ以外全員死亡)の間にすでに始まっていました。

ヨルダン渡過、エリコの城壁の陥落の勝利、そしてベテ・ホロンで行なわれた神の力あるみわざを知っていた彼らが、このように速やかに、救い主であり、王である神を忘れ、ヨシュアの死の直前に神の前で厳かに誓った神との契約を無視し、またイスラエルの子孫が忘れないようにという意図で、主の聖所にある樫の木の下に建てた証しの石碑(ヨシュア記24:26,27)から目をそむけてしまうことは、驚くべきです。

ヨシュア 24:26 ヨシュアは、これらのことばを神の律法の書にしるし、大きな石を取って、【主】の聖所にある樫の木の下に、それを立てた。
24:27 そして、ヨシュアはすべての民に言った。「見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、【主】が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる。」

しかし、これと同じことが現代も起きているのです。あんなに信仰に熱心だった人が、「何でも、イエス様のためにしています。」と言っていた人が、「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」(ヨハネの黙示録22:11)と、□ぐせのように言っていた人が、今は主を捨て、信仰を捨てて、主に従っている人をのろい、自分の肉の欲のためだけに生きているのを見るではありませんか。「潔められました。」と言っていた人が、教会の中で争いの種となっているのです。

しかし、これが人間の実体なのです。人はこのように生まれながら、神に逆らって、自分中心に傾いていく性質を持っているのです。もし、このような人を牧師にしてみなさい。果たして、人々を天の御国に導くことができるでしょうか。

イスラエル民族の歴史は、堕落と回復との交互の連鎖の歴史です。これはキリスト教会の歴史においても同じです。この歴史を検証するだけでも、人間の性質は進化していないことが分かります。人間の性質が本当に変わるのは、イエス・キリストの恵みを本当に経験する時だけです。

私は「きよめられた」と自ら証言している人の内に、なお、高慢、ねたみ、反逆、不従順、不服従、不信仰の性質があるのを見てきました。私は欠点や弱点がなくなることを言っているのではありません。性質上の罪悪性があることを見てきたのです。

聖書の知識や神学上の知識を多く持っていても、あるいは感覚が高まるような経験をしていても、神秘的な経験をしていても、それだけではその人の霊魂の性質は何も変わっていないのです。そして、堕落と回復を繰り返しながら、キリストから遠ざかっていく人が多いのです。

士師記の中には、「こうして、イスラエル人は、主の目の前に悪を行ない、」が、七回も記されています(2:11、3:7,12、4:1、6:1、10:6、13:1)。

士師 13:1 イスラエルの人々がまた主の前に悪を行ったので、主は彼らを四十年の間ペリシテびとの手にわたされた。

イスラエル人は、
七度、神に反逆し、
七つの異教民族に、七度隷属し、
七度、主の救いを経験したのです。

人間の歴史において、神の無限の忍耐といつくしみが示されたことのほかに最も驚くべき事実は、人間の執拗な罪です。彼らが無視した神のあわれみと、彼らが破棄した神との契約は、高くそびえる彼らの不義の土台となってしまっているのです。それらは、彼らが信仰の従順を示していれば、恵みと祝福の基となるはずのものだったのですが。

信仰のあつい敬虔な両親のもとで育った子どもたちや、祈りときよい訓練の中で成人した子どもたちで、その家督の権(神の恵みを受け継ぐ権利)を無視し、軽視し、放棄した者はこの世のエサウとなってしまったのです。

イエス・キリストの十字架を信じて、救われ、キリスト者となった者が、不敬虔な人々と同盟を結び、彼らの仲間となるとき、そのことのために受ける神の裁きよりも悲惨なものはありません。「聖別」これこそ、私たちに対する神のみこころなのです。

「見よ。この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない。」(民数記23:9)

「去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。」(イザヤ書52:11)

「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(コリント第二 6:17,18)

[イスラエルと主との関係]

1、10節、新世代の出生。彼らは主をも、主のみわざをも知らなかった。

士 2:10 その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、【主】を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。

2、11~13節、偶像の神々に仕えるために、主を捨てた(背教)。

士 2:11 それで、イスラエル人は【主】の目の前に悪を行い、バアルに仕えた。
2:12 彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、【主】を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、【主】を怒らせた。
2:13 彼らが【主】を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、

3、14節、この背教に対して、主の怒りは燃え上がり、この民を略奪者(Shosim)の手に渡して、略奪させた。

士 2:14 【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。

4、15節、彼らは主の御手によるわざわいから逃げられなかった。主が誓われた通りの刑罰が彼らの上に下り、彼らは非常に苦しんだ。

士 2:15 彼らがどこへ出て行っても、【主】の手が彼らにわざわいをもたらした。【主】が告げ、【主】が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。

5、16節、それから主の恵みが現われ、さばきつかさを起こし、民を略奪者の手から救い出された。

士 2:16 そのとき、【主】はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。

6、17、19節、民は、再び逆戻りして、いっそう堕落して背教に陥った。

士 2:17 ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行い、それを拝み、彼らの先祖たちが【主】の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行わなかった。
2:18 【主】が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、【主】はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、【主】があわれまれたからである。
2:19 しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行いや、頑迷な生き方を捨てなかった。

7、20~22節、民が、神との契約を破り、主の御声に聞き従わなかったので、ヨシュアが死んだ時、まだ追放されずに残っていたカナン人を、主は追い払わずに、残しておいた。それによって、イスラエルの民が主の道を守って歩むか、どうか試みられた。

士 2:20 それで、【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、
2:21 わたしもまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。
2:22 彼らの先祖たちが【主】の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」

〔士師(さばきつかさ)の職分〕

1、神から選ばれた(召命)。

2、イスラエルの危機の時に、偶像を取り除いた(霊的指導者としての役割)。

3、外的異教の勢力との戦い(軍事的指導者としての役割)

4、民の統一(政治的指導者としての役割)

11節、イスラエル人は、ヨシュアがいなくなると、たちまち、主を捨てて、バアル(バリム)に仕えた。

士 2:11 それで、イスラエル人は【主】の目の前に悪を行い、バアルに仕えた。

バアルとは、「主人、所有者、持ち主、夫」を意味します。この文脈の中では、強い意味を示す複数形の「バアリム」が使われており、それは、「主権の所有者」あるいは「偉大な王」を意味します。これはバアリムがこの地域に規われて支配することを意味しています。

バアル信仰の特徴は多産でした。この魔術的で急速に流行した熱心は、バアルの超自然的な力によって、土地の生産能力が増したり、家畜が多産になると考えることにありました。

バアルは古代エジプトにおいて流行していたセム族の信仰の対象でした。それがやがてフェニキヤ人の守護神として受け入れられ、モアブの王バラクの時代の初期には、モアブにおいて拝まれており(民数記22:41)、ペリシテ人の間でも、エクロンの神、バアル・ゼブブ(「ハエの主人」「ハエの頭」)として知られており(列王記第二 1:2)、カルデヤにおいては、諸天の支配者として、礼拝されていました。このようにしてバアル宗教は広範囲に、それぞれの特徴をもって広がっていたのです。それは物質的豊かさをもたらす、多産を強調したからです。

このバアル礼拝には、神殿男娼など、忌まわしい儀式がつきまとっていました(列王記第一 14:24)。その他にも銀の鋳物で造った子牛の偶像にロづけさせたり(ホセア書13:2)、自分の子どもを全焼のいけにえとして火で焼いたり(エレミヤ書19:5)することでした。古代のこれらの偶像礼拝者たちのすべてにとって、バアルという語の根源的意味は、「太陽」を意味していたと言われていますが、それは有り得ることでしょう。

13節の「アシュタロテ」は、「アシェトロテ」の複数女性形です。

士師 2:13 彼らが【主】を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、
2:14 【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。

それは、当時、神として礼拝されていた、明るく輝いている金星の「アスタルテ」を指していると言われています。「アスタルテ」は、古代セム族の、愛と多産と母性の女神でした。この女神は、アブラハムの時代にはヨルダン川の東で(創世記14:5)礼拝されており、その後、シドン人、フェニキヤ人によって(列王記第一11:33)、さらに南部アラブ人によって、パレスチナ人によって(サムエル記第一 31:10)礼拝されていました。アッシリヤやバビロンにおいては、「イシュタル」として知られており、彼らにとっては戦争の女神でもあったのです。この偶像礼拝にも、宗教儀式として神殿売春が行なわれていました。ソロモンですら、心を奪うようなアシェタロテの魅力の誘惑の餌食となり、堕落していったのです(列王記第一 11:5)。

Ⅰ列王 11:5 ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。

エレミヤの時代のヘブル人は、このアシェタロテを「天の女王」と読んでいました(エレミヤ書7:18)。

エレ 7:18 子どもたちはたきぎを集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて『天の女王』のための供えのパン菓子を作り、わたしの怒りを引き起こすために、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いでいる。

ギリシャ人は「アフロディテ」、ローマ人は「ヴィーナス」と呼んでいました。

イスラエルがこれらの偶像礼拝に走った時、神の激しい怒りが燃え上がったのは、不思議ではありません。神は、それまでイスラエルの民を保護していた壁を取り除いてしまわれ、周囲の異教の国々からの略奪隊が、イスラエルを略奪するのを、なすがままにされてしまいました。主は、イスラエルの敵となられ(サムエル記第一 28:16)、イスラエル人が敵と戦うために出て行く度に、神の御手はイスラエル人に反対して働いておられます。神を忘れ、神に背反した人はすべて、神を敵にしてしまうことを覚悟しなければなりません。

「貞操のない人たち。世を愛することは、神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブの手紙4:4)

16節、ここに神の救出の第一周期目が記されています。この言葉は、今後、士師記の中に繰り返して出てくることになります。

士 2:16 そのとき、【主】はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。

「さばきつかさ」という語は、ヘブル語のショフェティム(「裁判する、治める、支配する」ことを意味する)から派生しています。さばきつかさは、ヨシュアの死からサムエルの時代までの、イスラエルにおける統治者のことです(使徒の働き13:19,20)。

「さばきつかさ」という語は、司法的なことを強調している言葉に見えますが、士師記の中では、むしろ、政治的、軍事的指導者、総督や戦士の性格が強く表わされています。彼らは絶対的な行政力を持つ軍事上のリーダーでした。

彼らがその職務につくのは、世襲でもなくまた、特別な部族のつかさが選抜されるというのでもなく、民衆の投票によって選ばれるというのでもありませんでした。彼らは、必要が起きる度に、神ご自身によって、様々な超自然的な方法によって選ばれました。

彼らの支配は、限られた期間、限られた地域においてでしたが、直接的神制政治を行ないました。イスラエルにおける真の王(支配者)は、神(ヤーウェ)でした。さばきつかさは、そのことを表わす一時的な神の代理人にすぎなかったのです。

さばきつかさは、新たな神の律法を制定したり、すでに存在している律法を変更したりすることは許されていませんでした。彼らは、イスラエルの民が、すでに与えられている律法を守り行なうように指導することが、彼らの任務でした。その職務は必要に応じて継続的に行なわれ、連続的、世襲的ではありませんでした。彼らは、異教諸国の圧制や略奪からイスラエルを釈放するために、非常時に、神の御手の中に握られている器として、神が起こされた非凡な人々であり、士師記の中にその名前が記されている人々の他に、その名前が記されていない「さばきつかさ」もいたに違いありません。

士師記の記しているイスラエルの歴史は、周期的であることは、すでに記してある通りです。それを簡単に、もう一度、記しておきますと、

1、偶像礼拝の罪と背教
2、異教の勢力の奴隷となること
3、悔い改めと救出の叫び
4、さばきつかさが起こされる
5、さばきつかさの活躍と釈放
6、さばきつかさの死
7、再び、堕落と異教の勢力の束縛と圧制

このような周期が繰り返されていることは、神が、神の民を容易には見捨ててしまわない、神の深いあわれみを示しています。しかし、私たちは、その神のあわれみに甘んじていてはいけないのです。

「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。
私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ書55:6,7)

17節、「ほかの神々を慕って淫行を行ない、」という表現は、旧約聖書中(特に士師記や預言書の中)に、イスラエルの偶像礼拝を警告、叱責するための言葉として、しばしば用いられています。

士 2:17 ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行い、それを拝み、彼らの先祖たちが【主】の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行わなかった。

確かに、カナンにおける偶像礼拝の儀式には、神殿男娼や神殿売春が行なわれていましたから、イスラエルが、それらの偶像礼拝に陥ったことは、事実上の淫行が普段に行なわれていたことを意味しているでしょう。

しかし、聖書の本質的意味では、神を愛に満ちた夫にたとえ、神の民をその妻にたとえています。これは新約聖書の「小羊の妻である花嫁」(ヨハネの黙示録21:9)に至って、その本質的姿をはっきりと見せています。

しかし、その民が主を捨てて、偶像(カナンの偶像だけでなく、自分の欲を神とし、富や思想、権力なども含まれます。)を拝むようになった時、神の民は主に対して不真実、不忠実な妻となり、神は「淫行を行なっている。」として怒りを燃やされるのです。実にホセア書は最初から最後まで、このことを書いている預言書です。しかしホセア書は、それでも、不忠実な妻が夫のもとに帰ってくるようにと、最後まで見捨てずに忍耐強く待ち続けている、あわれみ深い主の御姿を示しています。それは放蕩息子の帰りを待ちわびている父親の姿でもあります(ルカ15章)。

「彼女は恋人たちのあとを迫って行こう。しかし、彼らに追いつくことはない。
彼らを捜し求めよう。しかし、見つけ出すことはない。
彼女は言う。『私は行って、初めの夫に戻ろう。あの時は、今よりも私はしあわせだったから。』」(ホセア書2:7)

「わたしは、彼女がバアルに香をたき、耳輪や飾りを身につけて恋人たちを慕って行き、わたしを忘れてバアルに仕えた日々に報いる。-主の御告げ。-」(ホセア書2:13)

18節、「主があわれまれたからである。」

士 2:18 【主】が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、【主】はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、【主】があわれまれたからである。

イスラエルの民が、敵の圧迫の中で苦しみ、主に叫び求め、主に立ち返ろうとした時、神の民に対する取り扱い方は変わったのです。それは、敵の圧制の代わりに、神の釈放をもたらしたのです(箴言28:13)。

罪の解決は、自分の心の中で、もうすんだことにしておかないで、はっきりと神に対する態度を変える必要があります。そうでないと、罪は解決したはずだと思いつつも、神に対して晴れ晴れとした心で顔を向けることができないのです。

19節、しかしイスラエルの性質は変わっていませんでした。

士 2:19 しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行いや、頑迷な生き方を捨てなかった。

神のあわれみに対して終生変わらない真実な、忠実な態度を取り続けることをしませんでした。さばきつかさが死に、指導者がいなくなると、再び、逆戻りし、先の状態よりも、もっと堕落し、偶像礼拝に深く入り込み、その心の頑なな生き方を捨てなかったのです。

それ故、神も彼らを助けなかったのです。もし、民が忠実な態度を取り続けていたら、民に力がなくても、主は敵を完全に取り除いてくださったでしょう。私たちは自分に力があるか、どうかではなく、主に忠実であることこそ、神に求められていることなのです。忠実でありさえすれば、たとい弱くても、神は敵対者を取り除いてくださるのです。

22節は、私たちが終生変わらない信仰を忠実に守り通すかどうかを、試みておられることを示しています。

士 2:22 彼らの先祖たちが【主】の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」

「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしは、あなたにいのちの冠を与えよう。」(ヨハネの黙示録2:10)

どんな才能や賜物を持っているかよりも、生涯、忠実な信仰を守り通すことのほうが、どんなに大切でしょうか。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(テモテ第二 4:7,8)

あとがき

ご降誕の主を心より賛美申し上げます。
私たちの教会は十一月にネパールの、ポカラのヤンジャコット村に中古衣料をダンボール箱で二十数個送りました(バザーの残り物で申し訳なかったのですが)。私たちには売れ残りの中古衣料であっても、ヤンジャコット村の人々には宝物だと言われました。
振り返ってみて、私たちは、イエス様を、みことばを、そして心に与えられる恵みの経験をどれほど価値高い宝と値積もっているでしょうか。主は「天の御国は、畑に隠された宝のようです。」と言われ、「すばらしい値うちの真珠」であると言われました(マタイ13:44,46)。パウロは「私たちはこの宝を、土の器の中に入れているのです。」(コリント第二 4:7)と言いました。

(まなべあきら 2002.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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