聖書の探求(258,259) ルツ記3章 贖(あがな)い人、ナオミのすゝめ、ルツの実行、ボアズの感動と誓約
オランダの画家 Rembrandt van Rijn (1606–1669) による「Boaz pouring Six Measures of Barley into Ruth’s veil(大麦六杯を量ってルツの外套に注ぐボアズ)」(アムステルダム国立美術館蔵、Wikimedia Commonsより)
3章と4章は、「買い戻しの権利のある者」すなわち「贖(あがな)い人」が中心テーマです。
この「近親者で、買い戻しの権利のある者」をヘブル語で「ゴエル」(2章20節の解説を参考)と言います。この人は、他人に売られてしまっている畑を買い戻す権利を持っていました(レビ記25:25~31、47~55)。また、死んだ兄弟のやもめと結婚して、その家系を継ぐことが命じられていました(申命記25:5~10)。
ボアズは、この血筋の中では二番目の人でしたから、ヘブル語ではボアズはゴエルの次の人だったのです。
ゴエルの本来の意味は、「身受人」とか、「保護者、弁護者」ですが、ここでは元の語がガアル(gaal)の「贖(あがな)い人」の意味で使われています。
「私を贖(あがな)う方は生きておられ、」(ヨブ記19:25)
「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」(ヨハネ第一 2:1)
ここで、「贖(あがな)い人」について、まとめておきましょう。
旧約の律法によると、最近親者である贖い人は、自分の親戚の者が死んで、その遺族が零落した場合には、その産業を贖い、その未亡人をめとる権利と義務が課せられていました(レビ記25:25~31、47~55、申命記25:5~10)。
この権利は、一番近い近親者(血縁者)が持つものでしたから、贖い人と近親者は同じ意味で使われています。
また、この権利は、神の律法によるものですから、その人は確実に確保できる権利であるとともに、必ず果たさなければならない義務でもあったのです。
ルツ記が扱っている贖い人の義務については、申命記25章5,6節の規定に基づく義兄弟に関する婚姻の法令によっています。
申 25:5 兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。
25:6 そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。
これによって、ボアズ及び彼よりも近い近親者とルツとの間の取り決めが取り上げられているのです。
ルツは亡夫マフロンに対する義務に忠実でした。
ボアズは律法に対して忠実でした。
ボアズよりも近い近親者は、自分の利益を求めることにのみ熱心でした。彼はナオミの土地を買うだけなら、承諾したでしょうが、モアブの女ルツをめとって、妻としてしまったら、自分の産業を損なうからと言って、その権利を放棄したのです(4:6~8)。
ボアズだけが、人手に渡っていたエリメレクの地所を買い戻し、ルツの身を贖ったのです。ナオミも、ルツも、産業を売ったり、買い戻すことはできなかったのです。ルツは落ち穂を拾うことができるだけでした。彼女には、自分自身をも、亡夫の産業をも贖う(買い戻す)ことができなかったのです。
「有力者」ボアズ以外に、このことができる人はいないし、彼以外に、その意志を持つ人はいませんでした。これはボアズの敬虔で、あわれみ深い心の現われであり、死んだ者の名と、その産業を残すためでした(4:10)。このことは、私たちの近親者の贖い人、主イエス・キリストに似ています。主イエス・キリストは、私たちをご自身の十字架の死の代価によって、罪人だった私たちを買い戻し、私たちの失っていた御国を、その相続人として、再び贖って下さったのです。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものでないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一 6:19,20)
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」(ペテロ第一 1:3~5)
「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から購い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷も汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(ペテロ第一 1:18~19)
「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(エペソ2:12~13)
私たちは、信仰によって、不朽の、所有してもさびず、楽しんでも永遠に新鮮な満足を受けることができるのです。
「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19~21)
ルツ記の鍵は、近親者の贖い人です。これは私たちをキリストの十字架の死の代価を払って買い取って、キリストの花嫁とされたキリストのひな型です。
ルツ記の中には、贖い人と同じ意味を示す語(親類、身内、買い戻す人、親戚など)が三十回も使われています。
4章4~10節は、明らかに、キリストの贖いの教理を教える目的で書かれていることが分かります。4節だけでも、「買い戻す」という語が五回も記されています。
10節で、ボアズは、
「さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。死んだ者の名を、その身内の者たちの間から、また、その町の内から絶えさせないためです。」と宣言しています。
これは極めて、重要で綿密な模型です。主イエス・キリストは、人を贖う権利を得るために、人と同じくなられました。しかし、もし主が人間の堕落に関与し、人間の罪と一つになってしまったならば、贖い主となることはできません。主が罪人となってしまったならば、ご自分さえも贖うことができなくなってしまいます。そうなれば、まして他の人を贖うことなど出来るはずがありません。それ故、主は聖霊によって、乙女マリヤの胎を通して、神のご性質を持ちつつ、人の罪の性質を持たずに、私たちと同じ人になってくださったのです。
ボアズは、この真の神であり、人である、神・人なるキリストの型なのです。
ボアズとは「力量」という意味で、主イエスがご自身の血と権威と力とによって、「ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになる」(ヘブル7:25)ことを予表しています。
主イエスは、ご自分の血をもって、教会を買い戻しました(使徒20:28)。
主イエスは、教会を愛し、そのためにご自分を捨てられました。これは、「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:27)
3章は、ルツの信仰の安息(望み)を記しています。
1~5節、ナオミのすゝめ
1節、収穫が終わる頃、ナオミはルツのために、自分が思いめぐらし、主が計画してくださるであろうことを、ルツに話し始めました。
ルツ3:1 しゅうとめナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか。
ボアズが近親者の二番目の人であり、ルツを愛と親切をもって扱っていてくれるのなら、ボアズが贖い人となってくれる可能性もあるかも知れないと、それを知ろうとしています。
「娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか。」ということは、ルツの再婚を保証することを言っています。1章9節のナオミの祈りは、ルツに対しては、不思議な方法で道が開かれそうに思えたのです。
2~4節、ナオミの具体的な助言です。
ルツ 3:2 ところで、あなたが若い女たちといっしょにいた所のあのボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。
3:3 あなたはからだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行きなさい。しかし、あの方の食事が終わるまで、気づかれないようにしなさい。
3:4 あの方が寝るとき、その寝る所を見届けてから入って行き、その足のところをまくって、そこに寝なさい。あの方はあなたのすべきことを教えてくれましょう。」
「あのボアズは、私たちの親戚ではありませんか。」これはボアズがルツを買い戻す権利のある贖い人となる可能性を言っています。ルツがこれをどれくらい理解していたかは分かりません。しかしルツは、ナオミが言われた通りに従ったのです。
「十分理解し、納得できたら、信じます。」と言う人がいますが、キリストの贖いについて、十分に理解し、納得する日まで待っていたら、私たちはいつ信じる日が来るのでしょうか。イエス・キリストが救い主であることは真実ですから、先ず信じて受け入れることが大切です。信じることによって、体験として知るものが多いのです。主を信じることなしに、自分の知恵や哲学で救い主を理解することは不可能です。
「ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。」これは刈り入れの最後の日ということです。ルツにとっては、唯一の機会となるかも知れない時です。
ナオミは、「からだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとい」と、ルツに女性としての身だしなみを整えて行くように教えています。この「晴れ着」とは、化粧着のことで、通常は上着として着る四角の布のことです。この布は、以下に挙げてありますように、いろいろに使われています。
創世記9:23、セムとヤペテが裸の父ノアをおおった着物
出エジプト記12:34、エジプト脱出の時、こね鉢を包んだ着物
申命記22:17、処女の娘が着ている着物
士師記8:25、一枚の上着
サムエル記第一 21:9、ゴリヤテの剣が包んであった布
ナオミはルツに、慎み深く振舞うように細かく忠告しています。「あの方の食事が終わるまで、気づかれないようにしなさい。あの方が寝るとき、その寝る所を見届けてからはいって行き、その足の所をまくって、そこに寝なさい。」
これらの行為は、慎み深く、うやうやしく行なわないと、下劣で厚かましい女と間違われてしまいます。しかしルツがこの行為をすることは、言葉以上にボアズに訴える効果があったはずです。
「あの方はあなたのすべきことを教えてくれましょう。」と言っていますが、なすべきことは、すべてボアズがしてくれたのです。ルツはただ、それを待って受けるだけでした。私たちが主を求めるのも同じです。自分自身を主に明け渡したら、主のみわざを信じて受けるだけです。これが献身と信仰です。
5節、ルツはナオミに、「私におっしゃることはみないたします。」と言いました。
ルツ 3:5 ルツはしゅうとめに言った。「私におっしゃることはみないたします。」
ルツは教えられたことをみな、忠実に行なったのです。これが忠実な信仰です。自分の知恵で考えて、「これはこうして、ああしたら」と小細工をせず、教えられた通りにしたのです。私たちもみことばの真理を自分の知恵で解釈して行なわずに、主の意図しておられることを忠実に行なうことが大切なのです。
ルツはナオミに全面的に従っていったのです。
6~9節、ルツの実行
6節、「しゅうとめが命じたすべてのことをした。」
ルツ 3:6 こうして、彼女は打ち場に下って行って、しゅうとめが命じたすべてのことをした。
これはルツの信仰の忠実さ、誠実さを表わしています。彼女の信仰は1章16,17節の時と、少しも変わっていません。ナオミの信仰の教えに忠実に従っています。自分の知恵や考えを混入せずに、命じられたすべてのことに従ったのです。この単純なことが、彼女を恵みに導き続けたのです。単純でないこと、不純、不従順、不服従とは、自分の思いや考えが入ってしまっていることです。そこには何の恵みも伴ってきません。
7節、ボアズは、食事をした後、積み重ねてある麦の端に寝床を設けて、そこで寝ています。
ルツ 3:7 ボアズは飲み食いして、気持ちがよくなると、積み重ねてある麦の端に行って寝た。それで、彼女はこっそり行って、ボアズの足のところをまくって、そこに寝た。
ルツはナオミに命じられていた通り、気づかれないように、こっそりと、ボアズの足のところをまくって入り、そこに寝ています。夜中になって、ボアズはだれかが足もとに寝ていることに気づき、びっくりして起き上がり、ルツを見つけています。
ルツ 3:8 夜中になって、その人はびっくりして起き直った。なんと、ひとりの女が、自分の足のところに寝ているではないか。
9節、ボアズは「あなたはだれか。」と尋ねています。それはルツの顔が見えないほど、あたりが暗かったことを意味しています。
ルツ 3:9 彼は言った。「あなたはだれか。」彼女は答えた。「私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。」
ルツの答えは、「私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。」
この「おおう」は、贖う、買い戻すことを意味する行為です。「あなたのおおい」は直訳では、「翼」です。ルツは主がボアズに与えて下さっている恵みの翼の下に入りたいと願ったのです。
「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。」(詩篇17:8)
「神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。」(詩篇36:7)
「神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。」(詩篇57:1)
「私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。」(詩篇61:4)
「あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。」(詩篇63:7)
「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」(詩篇91:1,4)
ユダヤ人のタルグムは、このルツの行為を婚約の請求として認めています。
「わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。―神である主の御告げ。―そして、あなたはわたしのものとなった。」(エゼキエル書16:8)
10~18節、ボアズの感動と誓約
10節、ボアズはルツの行為をすぐに全部悟りました。
ルツ 3:10 すると、ボアズは言った。「娘さん。【主】があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。
「あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。」の「真実」は、ヘブル語のhesedh(ヘセド)で「神聖」を意味する語の一つです。
ルツがこれまでナオミに対して尽くして来た誠実さも非常に神聖なものでしたが、今ここに主の律法に従ってルツの夫の家系を神の民の中に残し、その相続財産を受け継ぐために、彼女のゴエル(贖い人)としてボアズに買い戻しを申し入れたことは、更に偉大な敬虔であると、ボアズは言ったのです。
「若い男たちのあとを追わなかったからです。」と言っているのは、ボアズがルツよりも相当年上であったことを示しています。ルツはまだ若く、若い女心からすれば、若い男に目を向けがちですが、ルツは女心に振り回されず、ナオミの家の再興を願い、神の家族として名実ともに受け入れられることを求めたのです。こうしてボアズはルツの高潔な信仰を認めたのです。
11節、「この町の人々はみな、」の「町」は、直訳では「門」です。
ルツ 3:11 さあ、娘さん。恐れてはいけません。あなたの望むことはみな、してあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っているからです。
門は町の人々がそこに集まり、公の取り決めをする公の議会であり、役所であり、裁判所でもあったのです。それ故、「この町の人々はみな」とは、町の門で取り決めをする、町の長老たちのことです。
「しっかりした女」の「しっかり」はヘブル語のハイル(hayil)で、この語はその後にくる語によって、意味が異なります。
男性がくれば、勇気という意味になり、「勇士」(ヨシュア記1:14)、国がくれば、「富」という意味になり(イザヤ書61:6)、女性が来れば、徳を意味します。「しっかりした妻」(箴言12:4)のようにです。ここではルツの敬虔な信仰と、堅実な、弁(わきま)えのある行動、そして落ち穂拾いに見られた忍耐強い誠実な働きを指していると思われます。
12節、「しかし、私よりももっと近い買い戻しの権利のある親類がおります。」
ルツ 3:12 ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類です。しかし、私よりももっと近い買い戻しの権利のある親類がおります。
ナオミは、そこまでは分からなかったのです。ここに一つの不安材料が出て来ました。もしその人が「贖う」と言えば、ルツはその人のものとなってしまうのですから、突然、心穏かではなくなったかも知れません。何事もそのままスンナリとは行かないものです。しかし、主が導き始めて下さっていることは主が必ず、成し遂げて下さいます。
13節、「主は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。」
ルツ 3:13 今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、けっこうです。その人に親類の役目を果たさせなさい。しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。【主】は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。」
ボアズは、ルツの不安を静めて、安心させています。ここに至って、ルツが他の人の畑に行かずに、ずっとボアズの畑で働いたことがどんなに大事なことだったか、悟らされます。
ボアズには確信があったように見られます。一番目の贖い人の性質を知っていたからだと思われます。ボアズは日を先に延ばさずに、朝になれば、すぐにこの問題を解決することを約束しました。
14節、「『打ち場にこの女の来たことが知られてはならない。』と思ったので」
ルツ 3:14 こうして、彼女は朝まで彼の足のところに寝たが、だれかれの見分けがつかないうちに起き上がった。彼は、「打ち場にこの女の来たことが知られてはならない」と思ったので、
ボアズはこの時まだ、法的に最も近い近親者ではなかったので、ルツがボアズにこっそりと買い戻しを訴えたことが、他の人に知られてはならないと思ったのです。当時の習慣としては、朝から日没までの間に、門の所で公に律法に訴えるべきだったのですが、ルツはそうしなかったので、ボアズはルツを守ったのです。そこで夜が明ける前、「だれかれの見分けがつかないうちに」ルツを帰らせたのです。
15節、「あなたの着ている外套」
ルツ 3:15 「あなたの着ている外套を持って来て、それをしっかりつかんでいなさい」と言い、彼女がそれをしっかりつかむうちに、大麦六杯を量って、それを彼女に負わせた。こうして彼は町へ行った。
この「外套」を「敷布」あるいは「エプロン」と言う人もいます。とにかく、ルツが外側に羽織っていたものです。
「大麦六杯を量っ」た時の、計量器が記されていません。もしこの枡がオメルの枡なら十三リットルくらいになります。「それを彼女に負わせた。」とありますから、手で下げないで、背負わなければならないほどだったのです。この大麦のみやげは、ボアズのナオミに対する返事だったのでしょう。ルツが今夜、打ち場に来たのは、ルツ一人の考えではなく、ナオミが勧めたのであることはボアズには、よく分かっていたのです。その返事が、この大麦六杯だったのです。
16~18節、ナオミは、ルツが帰ると、すぐに、「娘よ。どうでしたか。」と尋ねていますが、この六杯の大麦を見ると安心したのです。
ルツ 3:16 彼女がしゅうとめのところに行くと、しゅうとめは尋ねた。「娘よ。どうでしたか。」ルツは、その人が自分にしたことをみな、しゅうとめに告げて、 3:17 言った。「あなたのしゅうとめのところに素手で帰ってはならないと言って、あの方は、この大麦六杯を私に下さいました。」 3:18 しゅうとめは言った。「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい。あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ち着かないでしょうから。」
あとはすべて、ボアズに任せていればいいと確信して、「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい。あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ちつかないでしょうから。」と言っています。
主は、私たち、ひとり一人を愛してくださっていますから、主は私たちを救い、キリストの花嫁とし、天の御国に連れて行くまで、休むことをなさらないのです。
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネ5:17)
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」(ヘブル 10:37)
18節は、人を使って働かれる神の誠実さを示しています。主に全く信頼して、主に忠実に従う者に対しては、主もまた約束を忠実に果たさないではおられないお方です。これが主なる神「ヤーウェ」の意味の一つなのです。
ここには、信仰による安息の経験が満ちています。
「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、一人もいないようにしようではありませんか。」(ヘブル4:10,11)
この安息は、創世記1章31節から2章3節までの天地を創造された後の神の休みを思わせるものがあります。全き信仰の働きを果たした後には、神のみわざを待つ、神の安息を経験するのです。
あとがき
ルツ記も大詰めになってきました。この聖書の記事はただの物語ではなく、ルツという一人の異教の地に育った女性が、夫を失い、無一物の中で主に従い、ナオミに従っていった事実の記録です。
ここで私たちにとって大事なことは、ルツが信じて従って行った神は今も生きておられ、何と幸いなことに、今、私たちが信じている神様であることです。ですから、私たちが一途な信仰を持って、主に従う生活をして行くなら、困難な山坂を通っても、主は必ず豊かな恵みと祝福へと導いてくださいます。ルツのように、どこまでも諦めないで、失望しないで愛と信仰を持って主と周りの人に仕える生活を続けて行くなら、主は必ず、あなたの信仰に応えて、報いてくださいます(ヘブル10:35,36)。
(まなべあきら 2005.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)
「聖書の探求」の目次
まなべあきら著「愛の絆によって」のご紹介
B6判 107頁 638円(送料別)
地の塩港南キリスト教会出版部刊
ルツ記をもとに、ルツの信仰と、神様の愛と恵みが詳しく分かり易く書かれた本です。幸せは、偶然になれたり、なれなかったり、するものではありません。ルツは、自ら謹んで主を信じる信仰の道を選び続けました。ルツは、現代人が失っているしあわせのための心の条件をもっていました。本書は、それを具体的に拾い出して解き明かしています。是非、お読みください。
【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
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